一話︎︎ 誅罰(1)
【与太話】
︎︎罪なき随身よ
︎︎余を纏へ
︎︎汝を匿へ
︎︎共に世界を調和たらしめよう︎︎
【与太物語】
︎︎明日に生きる価値を見いだせませんでした。
︎︎私は底なし沼のような人生を、もがいては溺れ、もがかなくとも沈んでいく──そんな生涯を送ってきました。頼まれたことも、頼まれていないことも成し遂げ、世間の鬱憤や憎悪を諫め、受け止め、そして赦し。人々にこの上ない愛情を振りまいてきました。
︎︎私は皆の笑顔が好きでした。老人の命幾許もない優しい笑顔。成人の強く美しい笑顔。子供の無邪気で純情な笑顔。それらを目にするたびに、自然とやるせない仕事から解放され、日々の疲れが無に還るような気持ちになるのです。
︎︎私が十五歳になった時、小さな神社の雑用係から抜擢され、とある神社の巫女に拝命されました。それも、その神社は昔から祀られている由緒正しき神社でした。巫女である私は、いわゆる高潔でなければなりませんでした。外界は負の感情や穢れで満ちているからという理由で、境内から出ることも許されませんでした。──あの惨劇の儀式の折でさえ社殿を離れず、そこから一歩も出ることができませんでした。それでも、私はそんな苦悩に苛まれず、ここまで懸命に生きてこられました。皆の笑顔が──好きだったからです。
︎︎けれど、ある時を境にその笑顔を辟易するようになりました。
︎︎巫女に任命されて数ヶ月後、外国との戦争が終わりました。ここは森の中の田舎町。たとえ敵に見つかっても、比較的無害な老人や女性が多かったので、被害を受けることはありませんでした。そのせいかは定かではありませんが、とある海外文化が流れてきました。『異形学』という思想でした。金髪で赤い目をした人間は悪魔であると。山羊や狼、蛇などは悪魔の化身だと。人々はそんな迷信を信じるようになりました。──しかし、それは後になって“誰かのでっち上げ”と判明した思想だったのです。
︎︎そして、太陽が沈みかける頃、私が仕える神社の門へ村人たちが何かを引きずりながら近づいてきました。彼らが囲んでいたのは、得体の知れない少女でした。彼女は金髪で赤眼という美貌をそなえながら、左足と右手を失っていて、最初は病気か事故に遭ったのかと考えを巡らせました。
「巫女よ」ある老人が猫なで声を出し、私の前に歩み出しました。「こやつは悪魔だ。火を焚いてくれないか」
︎︎その老人は血まみれの斧を持ち、笑っているのか憤っているのかも分からない表情でこちらを見ました。
︎︎私は青ざめました。その少女は傷だらけだったのです。非力ながらも抵抗したであろう擦過傷、大勢から蹂躙されたのか、赤い血や黒ずんだ血を幾度も吹き出しながら、ただ無言で私に助けを求めるようにこちらを見ていました。
︎︎さらに不気味だったのが、その少女を見ている村人たちは誰ひとり泣いていなかったことです。むしろ笑っていました。親の仇を討ったかのように、毒を飲んで狂ったかのように、ただ笑っていたのです。
︎︎これに感極まって、怒鳴りつけました。
「皆のもの、よく聞け。こんなことは異国の風習だ。他所の思想をこの聖域に持ち込んでくれるな」
︎︎村人たちがすっと静まり返ると、先ほどの老人がまるで子供をあやすように頷きながら再び口を開きました。
「巫女様。巫女様──どうか気を確かにしてください。こやつは生涯、人に喜ばれることをしませんでした。ましてや他人の作物を盗んでは食べ、盗んでは売り、幾度も悪事を働いてきたのです。確かに私どもは異形学とやらを信じてはおりませんでした。しかし、次々と犯罪を犯す人物はみな金髪で赤眼だったのです。だからこうして聖域の地へ誘い、清めようとしているのです。どうか、ご理解いただけますようお願い申し上げます」
︎︎貫禄のあるその笑顔はどこか憎めませんでした。戦場を駆け抜けたしかつめらしい骨格は、私の父と同様に妙な説得力がありました。それでも諭されまいと首を振ってみせました。
「気が確かでないのは貴方たちの方だ。たとえ喜ばれることをしなくても、悪事を働いたとしても、人は皆平等なのだ。……貴方たちはその気に食わない態度を罰するために正当化しているようにしか思えない。だから頼む。その少女を殺さないでおくれ」
老人は相変わらず飄々とした態度でこちらをじっと見ていまた。
「おい、巫女。貴様、悪魔の肩を持つと言っておるのか?」
仏頂面の村人が吐き捨てるように言いました。
「滅相もない。ただ、たとえ悪魔だとしても、人となりを忘れてはいけないのが、人として理性を与えられた生物のあり方ではないのか。そんな根も葉もない嘘を真に受けて、心は痛まないのか」
「では、お前はなぜそこにいる?」
「……なんだと」
「お前も、その“根も葉もない嘘”に浸っている者の一人ではないか。戦争の最中でも、お前はこの神社に引き篭もり、ましてや何も生産していない。そんなもの、観客なき舞台で、道化がひとりおどけているのと同じではないのか?」
村人らがそれに賛同するかのように頷いていた。
「心得よ。そなたは巫女だ。その身分である以上、たとえ汚れ仕事であっても責務を全うせねばならぬ。今が辛くとも、これからの礎になってほしいのだ」
「そんなもの、知ったことじゃない。私が殺されようとも、決してそんなことはしない。貴方たちは──道を踏み外しているのだぞ?」
「まだ言うか」
村長らしき人物が笑っているのか憤っているか分からない表情で呟くと、同時に大声をあげる。突然の怒声に体がビクッと仰け反った。
「では、これから神社をすべて焼き払おう。境内にある木々や石垣をすべて崩し落とそうじゃないか! 働かないやつはおしなべて塵だ! こいつは境内から出られない。すべてを焼き払い、野垂れ死にさせろ!」
︎︎息を呑んだ。いつも参拝してきた村人たちがそばにいるのに、誰ひとり彼を咎めようとしない。私にとってこの神社は、何ものにも代え難い大切な場所だった。当時、父が生きていて家もまだあった頃、朝一番にここへ来ては神社の床下にひっそり隠れたり、石段を意味もなく昇り降りして、一人でけんけんぱをしながら遊んでいた。なぜ一人だったのかは覚えていないが、この神社は私の人生そのものだったのだ。
「何を考えている──神様に恩を仇で返すつもりか!?」
「──そんなもの、最初から授かってなどいない」
村人たちの視線が神社に向くと、次々とあらゆるものを打ち壊した。注連縄に吊らされている紙垂を無理に手繰り寄せて引き裂き、拝殿を支えている柱を切り落とそうとする輩も現れた。
︎︎気がつけば、目の筋肉が強ばって眼球があちらこちらに彷徨い、足元をガクガクと震わせている自分がいた。
︎︎怖い──怖い。あの人らの笑顔が──酷く、怖い。心臓の鼓動が高まり、呼吸が荒くなる。
︎︎──巫女である私は高潔でなければならない。それは、いついかなる時も冷静であり、決して取り乱してはならない。もし、この神社が打ち壊され、私が死んだら、その後はどうなる? きっと他の神社で執り行われ、被害が広がるだろう。あるいは、私のように抵抗した巫女がいれば逆鱗に触れて殺されるかもしれない。だから自分を犠牲にしてでも周りを助けなければならない……そう思った。
「わかりました。もう、こんなことをやめてください。私は巫女。誰一人も悲しませてはならない。だから……お願いです。こんなことはやめて……」
「分かれば良いのだ」見下すように吐き捨てられる。やはり怒っているのか喜んでいるのか分からなかった。
この晩、普段なら就寝している深夜の折に、私はただひとり泣き叫んでいた。目の前にあるのは、生きたまま焼かれて炭と骨だけが残された、かつて少女だった何かだった。ある書物には「悪魔となった人間は生きたまま燃やさなければならない」と書かれているらしい。村人たちはそう口々に言っていた。私は高潔な巫女なのだから、悪魔を葬る役目は私が果たさなければならない──村長にそう命じられたのだ。この人生で初めて、人を恨んだかもしれない。だが結局、私が身を犠牲にして少女を燃やしたのは、賢明な判断だったかもしれない。
︎︎あの少女を殺める際、喉元を潰され、ろくに声が発せなかったらしい。それでも彼女は必死に、そこから血を吹き出しながらも助けを求めていた。今助けても出血多量で手遅れなのにもかかわらず、彼女は目で訴えかけていた。
私はそんな視線を見て見ぬふりをし、足首に油を染み込ませた布を巻きつけて火を点けた。炎の渦の真ん中で苦悶する彼女の顔に、妙な既視感があった。先週、いや、毎日のように神社に参拝してくる少女がいた。名は知らないが、とにかく優しい子だった。ある時は野生の猫や犬を数多く引き連れて、私に見せびらかしていた。そいつらに枝を遠くに投げては誰が先に取ってくるかを競わせるような、そんな馬鹿げたことをしていた。その少女の顔は今日焼かれた彼女の顔と酷似していた。今となっては確かめようがないが、もしかすると、彼女が喉から絞り出していた声は助けを求めるものではなかったかもしれない。
執筆初心者です