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「え?」
想いも寄らぬ仕草に、思わず腰を浮かせそうになる。
彼は騎士だ。そのような姿勢を簡単に取るものではないことは、私も知っているし、誰だってその意味を十分に理解しているはず。それなのに、彼は今私の前でまるで祈るような姿勢で跪いていた。
「レディ・ミア」
「は、はい?」
彼は、右手を胸に当て、真摯としか表現のしようがない顔をする。
「私が愛しているのは……貴方です」
聞き間違いかしら、と反応が遅れる。きょときょと目を瞬かせ、この部屋に他に誰かいた? と周囲を見回した私に、セシルは真剣な顔で訴えてきた。
「私が騎士になったのも、死に物狂いで功績を上げ続けてきたのも、全部貴方の側にいられるようになるためだったのです」
「……??」
彼の言っていることが理解できず、また首を傾げる。そんな私に、彼は少し眉を下げて困ったような空気を醸し出す。
――ん? んん? 今、セシルはなんて言った?
混乱して言葉を返せずにいると、彼は小さく笑むかのように唇の端を持ち上げた。
「お慕いしております、レディ・ミア」
「ごめんなさい、私、寝ぼけているわけではないと思うんだけど……聞き間違えよね。セシルが私のことが好きだなんて」
――なんて都合のいい聞き間違えをするのかしらね、この耳は。
「うふふっ、そんなわけないわよね? ふふ、嫌だわ、もう私ったら」
まるで現実感がない。これは、あまりにセシルに冷たい態度を取られ続けて辛くなった結果、自分に都合の良い夢でも見ているのかもしれない。そんなことを思いながら、自分の耳をぐいっと引っ張る。
――痛い。
夢でないのなら、今聞こえたものは事実だということになってしまう。そんなわけはないのよ、と戸惑いを隠すように頬に手を当てて微笑む。しかしセシルは、そんな私にさらに訴える。
「聞き間違えではありません。私が好きな女性は、マイレディ、貴方だけなのです。他の女性がいくら誘惑してこようと、目を奪われるはずがありません。私には貴方しかいないのですから」
「待って、セシル。だってあなた、今まで私に触れようともしてこなかったじゃない。目も合わないし、会話だってちゃんとしたことなかったわ。あれは、私を汚らわしいと思っていたからではなかったの?」
「違います」
間髪入れず彼はきっぱりと言い切る。
「汚れているのは、私の方です。貴方の隣を得るために自らの手を血で汚すことを選んだ私が、多くの命を奪ってきたこの手で愛しい貴方に触れるなんて……そんなこと、出来るはずがありません」
彼は真剣な顔でなおも訴えてくる。私は、彼の言葉を咀嚼しようとしていっぱいいっぱいになっていた。
「例え触れることを貴方が許してくださったとしても――私が、レディ・ミア、貴方に触れたいと思う時、それは明らかな色欲混じりになってしまうでしょう。この浅ましい欲は、隠そうとしたところで隠しきれるとは思えません。そんな不埒な想いを抱えて貴方の前に立つなんて、烏滸がましいと言うしかないではないですか。ですから私は、その視界に入ることすらいけないことだと思っていました」
「……はい?」
聞き間違いにしても、これはひどい。いや、これはきっと夢。夢だから、はちゃめちゃなことになっているのだ。
顔に出さないようにしつつ必死に自分に言い聞かせていると、セシルは真っ直ぐに私の目を見てきた。
「美しい貴方を汚すなんて、私には出来ません。少しでも触れたら貴方を穢しかねないこの手で、貴方に触れることは許されないのです。どんなに触れたくとも許されない、と自分を律しているのです。ご理解いただけないでしょうか」
ご理解、できない。
セシルがなにを言っているのかわからない。引き攣った笑みを浮かべた私は、大きく息を吸いこんで、背筋を伸ばす。
「……あの、私たち、夫婦よね?」
「はい。書面上では、私は間違いなく貴方の夫となっています」
「えっと、夫婦だけど、欲絡みで触れられないとか、それ本気で言ってるの?」
――というか、今の言葉はまるで、セシルが私とそういうことをしたいと思っているみたいじゃない!
あまりにも突拍子のない言葉に、目の前がグラつく。
「はい。本気です」
――なんてこと。
ド真面目な顔で彼が言っていることを理解した私は、くらりとソファに倒れ込んだ。
セシルは私を『清らか』だの『汚せない』だとの言ってきた。それは、今まで私が受けてきた評価とは真逆のものだった。
――清らかすぎて、汚してしまいそうで触れられない、だなんて。
「つまりあなた、こういう言い方はどうかと思うけど、私を神聖視しすぎて触れられない、とか、そういうことを言っているわけ?」
「…………っ」
ちらりと見れば、彼は視線を外してほのかに頬を染めていた。今まで、私の前では鉄仮面のごとく無表情をほぼ貫いていたセシルがほんのり赤くなっている。こんな顔は初めて見た。可愛い顔も出来るんじゃない、と妙な感動を覚える。
私のことなど使い勝手のいい駒とでも考えているのだろうと予想していた我が旦那さまは、蓋を開けてみれば、私を利用しようとしている・書類上の夫婦と言うだけで本当は嫌悪感を抱いている、なんていうことは一切なく、それどころかなにやら拗らせた挙句、触れることはおろか近付くことも喋ることすらままならない……そういう状態に陥っているようだった。
あまりにも予想外の展開に、私は頭を抱える。
セシル、と名前を呼べば「はい」と返って来る。その声は、今までの冷淡さはなんだったの? と問いたくなるほどにとろけていた。
――いやいやいや、なに伝えられて良かったみたいな顔してるのよ。
一人だけスッキリしたような態度を取られてもこちらは納得できない。
「あなた、それ本気で言っているの?」
「私が、冗談を言っているように見えますか?」
残念ながら、本気にしか見えない。そもそも、冗談で騎士が跪くなんてことをして良いはずがない。
「……とりあえず、跪かれても困るから! 話を続けるなら、隣に座ってもらえるかしら」
しかし、そんな私の要求をすぐには受け入れられなかったのか、彼は立ち上がったもののその場から動こうとしない。
「セシル」
「そのソファの大きさでは、身体が触れてしまいそうで……今も言った通り、私が貴方に触れるわけには……」
なにやらごちゃごちゃ言っているセシルを軽く睨んで、自分の隣、空いている座面をトントンと叩く。
「いいから座りなさい」
8歳年下の旦那さまに命じれば、ぴくっ、と肩を震わせた彼はおとなしく隣に座ってくる。しかし、本気で触れてはいけないと思っているようで、必死に私とは反対側の肘置きに身体を押し付けていたのだった。