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「……ご無沙汰しております、バルブ伯爵」
「そんな他人行儀な。以前のようにユベールと呼んでくださって良いのですよ。それにしても、久し振りにお顔を見られて安心しました」
にこやかに微笑みながら話し掛けてきた男の言葉や態度には、わずかな圧が含まれていた。
10年以上前、私がまだ社交界に顔を出していた時分、彼と私の実家のルノー家は商売において多少のご縁があった。その為、彼は私とも顔見知りではあったのだが、当時伯爵家の嫡男として期待されていた彼は今や爵位を継ぎバルブ伯爵家のご当主となっている。一方の私は、現在一代限りの男爵位を授けられた騎士の妻という立場。たとえ顔見知りとはいえ、気安く話すことには抵抗があった。
それに。
「ご結婚、なさったそうですね」
「はい」
私が頷くとバルブ伯は柔和な笑みを浮かべ、祝福するかのように大きく両手を広げた。だがその口から出たのは、仕草から連想するものとは程遠いものだった。
「おめでとうございます。しかし、どのような経緯で? 貴女のような女性を妻に選ぶ男が存在したとは……いやはや驚きですよ。慈善事業の一環でしょうか? それとも、あの一件をセシル・ベルトラン殿はご存じないとか? 彼は確か、平民の出でしたよね。10年も前の貴女の過去を知らなくても無理はない。あの件を隠して弱みを握った彼に結婚を強要した、という噂は――」
爽やかな笑みを浮かべながら、彼は畳み掛けるようにこちらの傷を抉るようなことを言ってくる。でも、そんなことで傷付いてなんかやるものか。おなかに力を入れて堪え、笑顔を浮かべたままやり過ごそうとしていたその時、私の目の前にマントが翻った。
まるで私を守るかのように立ったその背中を、呆気に取られて見上げる。
「お初にお目にかかります。私、王立第四騎士団副団長、セシル・ベルトランと申します。我が妻が貴方様になにか失礼を致しましたか」
セシルの声は低く抑えられているが、明らかに普段よりも冷たかった。バルブ伯は目を細め、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「私はユベール・バルブ。彼女のご実家とは古くから付き合いがあってね。少々、昔話に花を咲かせていたところなんだよ」
「昔話……なるほど、そういうことだったのですね。お邪魔をしてしまったなら申し訳ありません」
セシルはそう言って頭を下げるが、その仕草に形式的なもの以上のなにかは感じられない。背中から見ている私には彼の表情はわからないのだけれども、声からしても愛想良く言っているとは思えなかった。ただ、視線はまっすぐ対峙している相手に向けられているようで、バルブ伯は少々気圧されたような表情を浮かべる。
「ところで、ぜひセシル殿のお耳に入れたい話があるのだけどね」
いかにも親切そうな顔をしたバルブ伯は、内緒話をするように声をひそめる。それはまるで、誰にも聞かれてはいけない話をするかのようだ。一歩近付いて来ようとした男を、セシルは手で制する。
「――妻の過去でしたら、すべて了承しております。私と妻の関係についてもご心配には及びません。お気遣いの必要はありません」
きっぱりと言い切ったセシルに、バルブ伯はわずかに眉をひそめたが、すぐにまた作り笑いを浮かべる。セシルはなおもなにか言ってこようとしている伯爵を流すように私の腰に手を回し、支えるような姿勢を取るともう一度だけ形式的な礼をして別れの挨拶を述べるとその場を離れた。
「良いの? あんな態度取って」
私は小声でセシルに尋ねる。真正面を向いたままの彼は、こちらを見ることなく同じく小声で答える。
「彼とは今後親密に関わることなどないでしょうから。どうでもいいです」
「どうでもいいって……ちょっとセシル」
私を庇うようにバルブ伯との間に立ち、毅然とした態度で言葉を返したあの様子。あれを見ていた人々の視線が、今もちらちらと私たちの背中に注がれているのを感じる。明らかに妻を庇った様子の彼の態度は注視されているようだ。
「このままじゃ、まるであなたが愛妻家のような噂が立つかもしれないけど?」
「……愛妻家」
ピクっとセシルの眉がわずかに動く。
「別に、構いませんよ」
「その方が、良い寄ってくるご令嬢も少なくなるかも、って? 甘いわよ。女の執着って、それくらいじゃ消えないものよ。むしろ、私から奪ってやるくらいの心積もりで来るかもしれないわ」
セシルがふっと口元を緩める。笑った? と驚いて横顔を見つめると、彼は珍しく私の方へ視線を向けてきた。
「私は、あの方々にはまったく興味がありません。無駄な努力をするだけになるかと」
「若い子に言い寄られたら、あなただってもしかしたら」
「ありません。そんなことは、絶対に」
セシルはいやにきっぱりと言い切る。いつになく強い語調は、冗談に聞こえない。まるで切り捨てるかのような否定に少し驚いてしまった。
今も、彼は私の腰に手を回しているように見せかけているだけで、実際にはドレスにもほとんど触れていない。それどころか、結婚してから一度だって彼に触れられたことはないのだ。
「まあ、私に触りたいと思うような奇特な男の人なんて、いるわけがないわよね……」
その言葉が自分の口から洩れたことに、私は気付いていなかった。
帰りの馬車の中でもセシルはこちらを見ることはなく、会話もない。それはいつものことだったから、私はなにも思わなかった。