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第9話 大将軍の油断

人間は、自らが信じたいと願うものを、しばしば現実として受け入れてしまう傾向がある。特に、その情報が自らの権威を肯定し、自尊心を満たすものであれば、なおさらその誘惑に抗うことは難しい。権力の頂点に立つ者ほど、この罠に陥りやすいのかもしれない。なぜなら、彼らの周囲には、耳に心地よい言葉を囁く者たちが集まりやすいからだ。

大将軍司馬昭もまた、その人間的弱さから完全に自由ではなかった。彼は、父・司馬懿、兄・司馬師が築き上げた権力の塔を、さらに高く、そして盤石なものにしようと野心を燃やしていた。しかし、その過程で、彼はあまりにも多くの敵を作り、そしてあまりにも多くの血を流しすぎていた。その心の奥底には、常に不安と猜疑心が渦巻いていた。

諸葛誕は、この権力者の深層心理を、まるで熟練の漁師が魚の習性を知り尽くしているかのように、巧みに利用した。彼は、司馬昭への恭順の意を、これまで以上に芝居がかって示すようになり、豪華絢爛な貢物と共に、大将軍の武威と仁徳を、およそ考えうる限りの美辞麗句で称賛する書簡を、定期的に洛陽へ送り続けた。その書簡は、荀顗の助言のもと、司馬昭が最も好むであろう言葉を選び、彼の自尊心をくすぐるように巧妙に練り上げられていた。

「諸葛公休も、ついに我が威光に完全に屈したか。あるいは、長年の辺境暮らしで、かつての気骨も磨り減ってしまったのであろうな。あの男も、もはや牙を抜かれた老獅子か」

司馬昭は、諸葛誕からの丁重な書簡を読むたびに、そう思いたかった。彼の心の奥底には、諸葛誕への漠然とした不安が燻っていたが、それを打ち消すように、楽観的な解釈を選んでいた。彼は、自らが天下の趨勢を完全に掌握していると信じたかったのだ。

彼の周囲には、依然として諸葛誕の忠誠を疑う慎重な声も存在した。特に、腹心である賈充は、その冷徹な目で状況を分析し、繰り返し警鐘を鳴らしていた。

「殿、諸葛誕は古狐にございます。その言葉を鵜呑みにするのは危険かと。むしろ、彼がこれほどまでに下手に出るのは、何か裏がある兆候やもしれません。彼の瞳の奥には、いまだ消えぬ野心の光が見え隠れしております。あるいは、それは我らを油断させるための、巧妙な罠ではございませんか」

賈充は、諸葛誕から送られてくる貢物の中に、巧妙に隠された暗号や、呉との接触を示す微かな痕跡がないか、部下に徹底的に調べさせていた。

しかし、司馬昭のもう一方の側近である鍾会らは、賈充とは異なる意見を述べた。

「賈充殿は心配性ですな。公休も既に老境に入り、もはや天下への野心など抱く気力も失せたのでしょう。かつての盟友であった夏侯玄や毌丘倹の末路を見れば、彼とて賢明な判断を下すはず。ここは、彼の忠誠を受け入れ、懐柔策を続けるべきです。彼を司空の位に叙し、洛陽に召還すれば、彼も満足し、我らの忠実な駒となるでしょう」

鍾会らは、諸葛誕が巧妙に流した偽情報、あるいは彼らがそう信じたいと願った情報に、知らず知らずのうちに踊らされていたのである。彼らは、司馬昭の歓心を買うことで、自らの地位をより強固なものにしようという思惑も持っていた。

その偽情報の中には、諸葛誕が重い病に倒れ、揚州の統治もままならない状態である、といったものまであった。死士たちは、司馬昭の息のかかった、しかし買収が容易な下級役人や商人を利用し、これらの情報を洛陽の司馬昭の耳に届くように、巧妙にリークした。ある死士は、わざと捕縛され、拷問の末に「諸葛誕は病で余命いくばくもない」と偽りの情報を漏らし、その後、隙を見て脱走するという危険な任務さえこなした。

諸葛誕は、かつて自分を陥れようとした政敵が用いた讒言の手法すら逆用し、司馬昭の油断と慢心を誘ったのである。彼は、自らを「病める獅子」に見せかけることで、敵の警戒心を解こうとしていた。その一方で、彼は水面下で着々と蜂起の準備を進め、その爪を研ぎ澄ましていた。

しかし、その忠臣の仮面、あるいは病人の仮面の下で、諸葛誕の瞳は冷静に、そして鋭く、決起の最適な時機を見据えていた。彼は、司馬昭からの次の一手を、まるで熟練の棋士が相手の応手を待つように、静かに待っていた。それは、おそらく、彼を中央に呼び戻して実権を奪うか、あるいはさらに高い地位を与えて完全に懐柔しようとするものであろう。いずれにせよ、それが最後の引き金となり、彼が反旗を翻す大義名分となるはずであった。

ある日、諸葛誕は、死士の訓練場を視察した後、リーダーの一人である樊建を自室に呼んだ。樊建は、最近の諸葛誕の「弱気」な態度に、内心不満を抱いていた。

「樊建、近頃、洛陽から妙な噂が流れてきている。私が病で余命いくばくもない、とな。お前はどう思う? お前たち死士も、この老いぼれの病人に従うのは不安であろうな」

諸葛誕は、わざと弱々しい声で尋ねた。

樊建は、豪放な笑みを浮かべて答えた。その瞳には、主君への絶対的な信頼が宿っていた。

「殿、それは連中が殿を恐れている証拠でございましょう。本当に殿が弱っていると思えば、とっくに攻め込んできているはず。むしろ、我々にとっては好都合。奴らが油断している間に、我々は爪を研いでおけばよいのです。殿が病であろうとなかろうと、我ら死士は、殿の命に従うのみ。殿の采配に、一点の疑いもございません!」

彼の言葉には、粗野ながらも本質を突いた洞察と、揺るぎない忠誠があった。

「うむ、お前の言う通りかもしれんな。お前のような男がいてくれて、心強い」

諸葛誕は頷いた。彼の顔には、一瞬、安堵の色が浮かんだ。部下の信頼こそが、彼の最大の支えであった。

「だが、油断は禁物だ。敵は、いつ何時、我々の仮面を剥ぎ取りに来るやも知れぬ。常に備えよ。そして、我が意図を正確に理解し、行動せよ。お前たちの血気は頼もしいが、それを無駄死にさせるわけにはいかぬのだ」

その言葉には、来るべき嵐を予感させる静かな緊張感が漂っていた。

歴史の舞台は、クライマックスに向けて、静かに、しかし確実に進行していた。そして、その舞台の上で踊る役者たちは、それぞれが自らの役割を演じているつもりであったが、その脚本を書いているのは、一体誰であったのだろうか。あるいは、脚本など存在せず、全てはアドリブの連続であったのかもしれない。確かなことは、諸葛誕が、自らの手でその脚本に大きな変更を加えようとしていたことだけであった。彼の瞳の奥には、揺るぎない決意と、曹魏の未来への責任感が燃えていた。そして、司馬昭の油断こそが、彼にとって最大の好機となるはずであった。

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