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第7話 憂国の灯

圧政は、必ず反作用を生む。それは、物理の法則であると同時に、人間の歴史においても繰り返し証明されてきた真理である。問題は、その反作用がいつ、どのような形で顕在化し、そしてどれほどの破壊力を持つかである。そして、その反作用を、いかにして自らの力へと転換させるか、それが指導者の力量を問う試金石となる。

司馬氏の専横的な権力掌握は、魏帝国の各地で、水面下に沈んでいた不満の声を、徐々にではあるが確実に増幅させていた。特に、かつて曹氏の恩寵を受け、その治世の下で栄達を享受した旧臣の子弟たちや、司馬一族の台頭によって不当に冷遇され、あるいは弾圧された者たちにとって、揚州の諸葛誕の存在は、暗闇の中に灯る密かな希望の灯となりつつあった。彼らは、息を潜め、その灯がより大きく燃え上がる時を、あるいはその灯に導かれて自らも立ち上がる時を、複雑な思いで待っていた。

死士たちは、その活動範囲を揚州のみならず、隣接する豫州、徐州、そして遠くは青州や冀州にまで広げ、これらの潜在的な反司馬勢力との接触を極秘裏に試みていた。彼らは、旅の僧侶に扮し、あるいは薬売りの行商人として各地を巡り、慎重に、そして粘り強く、諸葛誕の意図と決意を伝え、来るべき決起の際の協力を求めた。それは、まさに綱渡りのような危険な任務であった。

その任務は、危険と隣り合わせであった。司馬氏の間諜網は全国に張り巡らされており、一度でも正体が露見すれば、捕縛され、拷問の末に処刑されることは免れない。死士の一人、かつて夏侯玄の家に仕えていた陳黙は、旧知の者を頼って豫州に潜入した。彼は、かつて夏侯玄の側近であったが、高平陵の変以降、官を辞して郷里に隠棲していた老賢人と密会することに成功した。老賢人は、最初こそ陳黙の言葉を疑い、司馬氏の罠ではないかと警戒心を解かなかった。しかし、陳黙が持参した夏侯玄の遺品(それは夏侯玄が愛用していた筆であった)と、諸葛誕の悲壮な覚悟、そして何よりも陳黙自身の誠実な瞳に心を動かされ、ついに涙ながらに協力を約束した。

「夏侯公の無念、今こそ晴らす時が来たか…諸葛公によろしく伝えてくれ。この老骨、微力ながらお力になろう。だが、公休殿も、決して焦ることなく、万全の策を練られるよう、くれぐれも伝えてほしい。二度と同じ過ちを繰り返してはならぬ」

その言葉は、陳黙の胸を熱くすると同時に、その責任の重さを改めて感じさせた。

またある死士、名を張遼(かつての猛将とは同名の別人)といい、元は徐州の小豪族の出であったが、司馬氏によって先祖伝来の領地を不当に削られ、不満を募らせていた男は、同じような境遇の地方豪族を訪ねた。その豪族は、諸葛誕からの親書と、ささやかながらも誠意のこもった贈り物(それは金銀財宝ではなく、彼の亡父が好きだったという古い兵法書であった)を受け取り、諸葛誕が決起の狼煙を上げた際には、必ずや兵を率いて呼応することを固く約束させた。

「諸葛公の義挙、見過ごすわけにはいくまい。我が一族郎党、全てを賭けてお味方いたす! だが、我ら地方の力だけでは、司馬の大軍には抗えぬ。呉との連携、そして何よりも帝都の動きが肝要となろう」

彼の言葉は、地方勢力の期待と不安を代弁していた。

そして、何よりも重要な動きが、帝都洛陽で、水面下で静かに、しかし確実に進行しつつあった。

若き皇帝曹髦は、表向き司馬昭の意のままに動く傀儡に過ぎなかったが、その聡明な瞳の奥には、曹氏再興への熱い、そして悲壮なまでの思いを秘めていた。彼は、詩文や絵画に才能を発揮し、一見すると政治には無関心な文弱の君主を装っていたが、それは彼の本心を隠すための巧妙な擬態であり、司馬氏の監視の目を欺くための苦心惨憺たる努力の賜物であった。夜ごと、彼は先祖の霊廟に詣で、自らの無力さを嘆き、いつか必ずやこの屈辱を晴らすと誓っていた。

曹髦は、ごく僅かな腹心中の腹心、例えば侍中の王沈や散騎常侍の王経といった者たちを通じて、諸葛誕の揚州における不穏な動きを密かに察知していた。そして、彼らを通じて、間接的ながらも支援の意志を伝えようと試みていた。王沈らは、当初、皇帝のその危険な考えに反対したが、曹髦の内に秘めた尋常ならざる覚悟と、諸葛誕の蜂起が成功した場合の曹氏復権の可能性に、徐々に心を動かされ始めていた。

それは、例えば、諸葛誕が提出した上奏文に対して、異例とも言える温情ある返答を与えたり、あるいは、揚州への物資の輸送(それは表向き、呉への備えとされていた)を黙認したりといった形で行われた。これらは、司馬昭の目を欺きながら行われる、極めて危険な駆け引きであった。もしこれが露見すれば、曹髦自身の命運も尽きることは確実であった。彼の行動は、絶望的な状況下で、か細い蜘蛛の糸を手繰り寄せるようなものであった。

皇帝からの密かな支援は、諸葛誕にとって、何物にも代えがたい大義名分と、そして精神的な支柱を与える可能性を秘めていた。

「天子様も、我々の挙を是としておられる」

その事実は、諸葛誕に従う者たちの士気を大いに高めるであろう。そして、諸葛誕自身にとっても、その孤独な戦いに一条の光を投げかけるものであった。

「人心は水のようなものだ。一箇所に留まることなく、常に流れ動き、低いところへと集まろうとする。その流れをいかにして自らの側に引き込み、大きな河とするか。それが、事を成す者の務めである。そして、その流れを作るのは、大義という名の源泉なのだ」

諸葛誕は常々そう語っていた。彼が揚州で蒔いた種は、今、魏帝国の各地で、人知れず、しかし力強く芽吹き始めていた。それは、やがて司馬氏の足元を揺るがす、巨大な地殻変動の前触れであったのかもしれない。

死士の一人、荀顗は、各地の協力者からの報告をまとめ、諸葛誕に言った。その声には、いつもの冷静さに加え、微かな興奮が混じっていた。

「殿、火種は全国に散らばっております。民衆の不満、旧臣たちの怨嗟、そして何よりも、天子様の内に秘めたるご決意。あとは、殿がいつ、どこで最初の火を放つか、でございます。その火は、燎原の炎となり、中原を焼き尽くすか、あるいは、我らを焼き尽くすか…それは、天命のみが知るところでしょう」

その言葉に、諸葛誕は静かに頷いた。彼の心は、既に定まっていた。だが、その決断の重さに、彼の肩はわずかに震えているようにも見えた。彼は、多くの人々の運命を、その双肩に背負っていることを、痛いほど自覚していた。

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