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第6話 呉との密約

同盟とは、しばしば国家の存亡を賭けたギャンブルである。そして、そのテーブルに着く者たちは、友情や信頼といった甘美な言葉の裏に、冷徹な計算と剥き出しの国益を隠し持っている。歴史上、純粋な善意だけで結ばれた同盟が、どれほど存在したというのだろうか。諸葛誕が次に打った手は、まさにそのような、危険と隣り合わせの賭けであった。長江を隔てた南方の隣国、孫権が建国した呉との連携。それは、まさに諸刃の剣であった。

呉は、建国以来、魏の最大の脅威であり続け、両国は淮水流域や荊州を巡って、血で血を洗う戦いを幾度となく繰り返してきた。その呉の力を借りることは、魏の臣として、そして曹氏恩顧の将として、許されざる背信行為と見なされる危険性が極めて高かった。それは、彼の名誉と、そして彼に従う者たちの未来を賭けた、壮大なギャンブルであった。もし失敗すれば、彼は裏切り者の汚名を着せられ、その名は歴史の闇に葬り去られるだろう。

だが、司馬氏という巨大な城壁を打倒するためには、そのような些事に拘泥している余裕は諸葛誕にはなかった。

「正道を踏むためには、時には茨の道も歩まねばならぬ。たとえそれが、一時的に泥にまみれることであってもだ。後世の評価など、今は知ったことではない。我らが為すべきは、目の前の国難を乗り越えることだ」

彼は側近にそう漏らしたという。その言葉には、大義のためには非難をも甘受するという、悲壮な覚悟が込められていた。

選りすぐりの死士数名が、密使として呉の都・建業へと派遣された。彼らは、商人に扮し、あるいは使節団の従者に紛れ込み、厳重な国境警備を突破して長江を渡った。そのリーダーは、かつて弁舌の才で名を馳せ、今は諸葛誕の腹心となっている荀顗であった。彼の冷静沈着な判断力と、巧みな交渉術、そして何よりも主君への絶対的な忠誠心が期待されての抜擢であった。彼の懐には、諸葛誕直筆の親書と、呉の権力者たちの心を動かすための「切り札」が隠されていた。

彼らの使命は、単なる軍事的な救援要請ではなかった。彼らが携えていたのは、対司馬氏共同戦線の構築、そして、もし事が成功した暁には、淮南の戦略的要衝である合肥新城を含む一部地域を呉に割譲するという、衝撃的な密約の提案であった。これは、諸葛誕にとって断腸の思いであり、苦渋の決断であったが、呉という大国を動かすには、相応の代償が必要であると判断したのである。彼は、この密約が魏の土地を切り売りする行為であるという自覚に、夜ごと苛まれていた。

当時の呉は、皇帝孫亮がまだ若く、実権は皇族であり丞相の地位にあった孫綝そんちんが握っていた。孫綝は、兄の孫峻から権力を引き継いだ野心家であり、魏の内乱に乗じて北伐の機会を虎視眈々と窺っていた。しかし、彼は同時に猜疑心が強く、権謀術数に長けた人物でもあった。その冷徹な目は、常に自らの権力基盤を脅かすものを探していた。

諸葛誕からの思いがけない申し出に対し、彼は容易には首を縦に振らなかった。

「諸葛誕は魏の重臣中の重臣。その彼が、にわかに我が国に助けを求めてくるとは、にわかには信じ難い。これは、我らを欺き、司馬昭と共に挟撃しようとする巧妙な罠やもしれぬ。あるいは、彼の窮状を利用し、より大きな譲歩を引き出す好機か…」

孫綝の周囲には、そのような慎重論を唱える者、あるいはこれを機に魏の内乱を長引かせ、両者を疲弊させようと画策する者も少なくなかった。呉の宮廷は、利害と猜疑心の迷宮であった。

交渉は困難を極めた。建業の宮殿では、連日、呉の重臣たちと荀顗ら魏の密使との間で、丁々発止のやり取りが繰り広げられた。荀顗は、時には卑屈なまでに下手に出て相手の油断を誘い、時には毅然とした態度で諸葛誕の覚悟を示し、巧みに交渉を進めた。

荀顗は、孫綝の側近たちに対し、冷静に、しかし力強く説いた。

「司馬昭が魏の国権を完全に掌握すれば、その次なる野望の矛先が、我が呉に向けられることは自明の理でございます。諸葛誕公の蜂起は、司馬氏の力を内側から削ぐものであり、それは呉にとっても、またとない好機となりうるはず。この機を逃せば、いずれ呉は単独で強大な司馬氏と対峙せねばならなくなりますぞ。その時、諸葛誕公のような内応者がおらずして、呉はいかにして魏と戦うおつもりか」

彼の言葉は、呉の重臣たちの心に、少なからぬ動揺を与えた。荀顗は、諸葛誕の決意の固さ、そして司馬氏の専横がいかに魏国内で反発を招いているかを、具体的な例(司馬一族内部の不協和音や、各地の潜在的な反司馬勢力の存在など、死士たちが集めた情報)を挙げて説明し、呉が手を結ぶことの利を粘り強く説いた。

そして、交渉の行方を左右する、ある出来事が起こった。孫綝が、魏の密使たちの力量と、諸葛誕の背後にある力の真偽を確かめるため、宮廷で武術の御前試合を催したのである。荀顗の護衛として同行していた死士の一人、樊建がその試合に名乗りを上げ、呉の宮廷が誇る並み居る武勇の士たちを次々と打ち破った。その圧倒的な武勇は、呉の君臣に強い印象を与え、諸葛誕の背後にある力の大きさを間接的に示す結果となった。樊建の一撃は重く、その動きは獣のように俊敏であった。呉の武者たちは、彼の殺気に気圧され、本来の力を発揮できぬまま敗れ去った。これは、荀顗が仕掛けた計算された「見せる力」であった。

孫綝は、樊建の戦いぶりを見ながら、傍らにいた将軍の一人に呟いたという。

「あの男の目、あれは死を恐れぬ者の目だ。そして、あの荀顗とかいう男の弁舌、ただ者ではない。諸葛誕は、本気で事を起こすつもりらしいな。そして、彼の背後には、我々が思う以上の力が潜んでいるやもしれぬ」

この一言が、呉の内部での議論の流れを大きく変えるきっかけとなった。合肥割譲という餌も魅力的であったが、それ以上に、諸葛誕の蜂起が成功する可能性、そしてそれに乗じることで得られる戦略的利益が、孫綝の野心を刺激したのである。

最終的に、呉は諸葛誕への支援を決定する。それは、かつて魏から亡命してきた歴戦の将軍である文欽と、その息子で若き勇将として名高い文鴦、そして唐咨、全懌、全端といった将軍たちに数万の兵を預け、援軍として派遣するというものであった。また、兵糧や武器の援助も約束された。ただし、孫綝は、この援軍派遣が呉にとって最大の利益をもたらすよう、細心の注意を払うことを将軍たちに命じた。それは、諸葛誕を助けるというよりも、魏の混乱に乗じて漁夫の利を得ようとする、彼の冷徹な計算の表れでもあった。

長江に、魏の、そしておそらくは呉の命運をも左右する、見えざる橋が架けられようとしていた。しかし、その橋は、いつ崩れ落ちるとも知れぬ、危険な吊り橋でもあった。

荀顗は、建業を離れる際、孫綝に深々と頭を下げた。

「呉王のご英断、諸葛公に代わり、心より感謝申し上げます。この恩義、必ずや…」

孫綝は、その言葉を遮るように言った。その顔には、計算高い笑みが浮かんでいた。

「荀顗殿、礼には及ばぬ。我らは、互いの利のために手を結ぶ。それ以上でも、それ以下でもない。肝心なのは、そちらが約束を違えぬことだ。そして、我らがこの同盟から最大の果実を得られるよう、そちらも尽力していただきたい。さもなくば、この同盟、いつ破綻するとも限らぬぞ」

その言葉は、同盟の脆さと、呉の現実的な計算を如実に物語っていた。荀顗は、その言葉の重みを噛み締め、静かに再び頭を下げた。使命の第一歩は成功したが、本当の戦いはこれからであった。そして、この同盟が、諸葛誕にとって真の力となるか、あるいは新たな災厄の種となるかは、まだ誰にも予測できなかった。


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