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第5話 洛陽の使者

権力者は、常に自らの足元を揺るがす影に怯えるものである。その影が実体を持たぬ幻影であっても、あるいは遠く離れた辺境から伸びてくる微かなものであっても、一度気になり始めれば、夜の安眠さえ妨げる。それは、人間という種の宿痾なのかもしれない。大将軍司馬昭とて、その例外ではなかった。揚州における諸葛誕の異常なまでの静謐は、かえって彼の猜疑心を刺激した。彼にとって、諸葛誕は常に潜在的な脅威であり、その動向から目を離すことはできなかった。

「あの諸葛公休が、これほど大人しくしているのは不自然極まりない。何か良からぬことを企んでいるのではないか。あるいは、我らを油断させるための芝居か」

司馬昭の腹心であり、陰謀と諜報の達人として知られる賈充は、そう進言した。賈充の言葉は、常に司馬昭の心の琴線に巧みに触れるものであった。彼は、司馬昭の不安を煽り、自らの影響力を強化しようとする計算も働かせていた。

やがて、秋も終わりに近づいた頃、中央から監察御史かんさつぎょしと称する使者が寿春に派遣されてきた。その長は、名を陳騫ちんけんといい、表向きは地方行政の公正さを視察し、民情を皇帝に報告するという職務であった。しかし、その真の目的が諸葛誕の動静を探り、不穏な動きがあればその証拠を掴み、可能であれば彼を洛陽に召還する口実を見つけることにあったのは、諸葛誕にとって、そしておそらく寿春の事情に通じる誰の目にも明らかであった。陳騫は、かつて諸葛誕とも面識があり、互いにその腹の内を知り尽くした、油断ならぬ相手であった。彼の鋭い眼光は、人の心の奥底まで見透かすかのようだった。

諸葛誕は、この使者一行を、礼を尽くして丁重に、しかし細心の注意を払って歓待した。寿春の城門では文武の官僚たちが出迎え、都督府では盛大な宴が催された。宴席には、揚州で獲れたばかりの新鮮な魚介類や、丹精込めて作られた山海の珍味が並び、美しい妓女たちの歌舞が披露された。その華やかさは、あたかも諸葛誕が司馬昭への忠誠を疑う余地なく示しているかのようであった。

酒が注がれ、談笑の声が飛び交う。しかし、その華やかな宴の裏では、諸葛誕の死士たちが目に見えぬ熾烈な攻防を繰り広げていた。荀顗の指揮のもと、陳騫の従者たち一人ひとりに、周到に選ばれた死士が接触を図った。ある者は酒や金品で、ある者は甘い言葉や将来の地位をちらつかせて、彼らの懐柔を試みた。一部の者はそれに乗り、陳騫の行動や発言、さらには彼が洛陽で誰と密談を重ねていたかといった貴重な情報を密かに流してきた。また、偽情報を掴ませて陳騫の判断を誤らせようとする動きもあった。それは、まさに水面下で行われる、音なき戦争であった。

諸葛誕自身は、宴席や公式の会談において、監察御史陳騫の鋭い尋問に対し、老練な政治家らしく、のらりくらりとかわし続けた。彼は、揚州の安定と繁栄を誇らしげに語り、大将軍司馬昭への変わらぬ忠誠を繰り返し誓った。その言葉に嘘はない、と彼はその態度で示そうとした。彼の表情は穏やかで、声には自信が満ちていた。

「公休殿」

ある時、酒が進んだ宴席で、陳騫が不意に低い声で諸葛誕に語りかけた。周囲の喧騒が一瞬遠のいたかのように感じられた。

「近頃、洛陽では、公休殿が揚州で強大な兵力を蓄え、呉と密通しているのではないか、という良からぬ噂が流れております。無論、私はそのようなことは信じておりませぬが…大将軍閣下も、少々ご心配なされているご様子。この陳騫、公休殿の潔白を証明する材料を持ち帰りたいと考えております」

その目は笑っていたが、奥には鋭い光が宿っていた。それは、友人のふりをした尋問官の目であった。

諸葛誕は、杯を置き、穏やかな笑みを浮かべて答えた。その笑みは、長年政争の駆け引きを生き抜いてきた者だけが浮かべられる、深みのあるものであった。

「陳騫殿、それは全くの濡れ衣でございますな。私が揚州で兵を養っておりますのは、ひとえに呉の侵攻に備えるため。そして、大将軍閣下のご威光をこの地に知らしめるためでございます。呉との密通など、天地神明に誓ってありえませぬ。むしろ、そのような噂を流す者がいることこそ、大将軍閣下への忠誠を揺るがそうとする不届き者の仕業ではございませんか?」

彼は、巧みに話題をすり替え、逆に陳騫の立場を問うかのような口ぶりであった。

「ほう、それは心強いお言葉。流石は公休殿、揺るぎがございませぬな」

陳騫は頷いたが、その表情からは真意を読み取ることは難しかった。彼は内心、諸葛誕の老獪さに舌を巻いていた。

「では、公休殿は、かつて毌丘倹や文欽がこの揚州で反乱を起こした際、朝廷の側に立って彼らを討伐された。その忠節、見事なものでした。もし、今、再びそのような不心得者がこの魏国内に出現した場合、いかに対処されるおつもりか。例えば、それが…皇族の一員であったとしても、あるいは、かつての盟友であったとしても、ですかな?」

これは明らかに、司馬氏に不満を抱いていると噂される曹氏一族の者たちや、諸葛誕自身の過去の交友関係を念頭に置いた、巧妙な鎌掛けであった。

諸葛誕は、一瞬目を伏せて何かを考えた後、静かに、しかしはっきりとした口調で答えた。その声には、一片の迷いも感じられなかった。

「陳騫殿、私は魏の臣であります。たとえ相手が誰であろうとも、朝廷に弓引く不逞の輩が現れれば、この諸葛誕、命に代えてもこれを討伐する所存。それは、かつての友であろうと、あるいは私が恩義を感じる方であろうと、変わりはございません。この揚州の安寧こそが、大将軍閣下への私の変わらぬ忠節の証であると、ご理解いただきたい。そして、その忠節を疑うような行いは、この私にとって最大の侮辱でございます」

彼の瞳は、陳騫の目を真っ直ぐに見据えていた。その言葉の裏には、「これ以上の詮索は無用」という強い意志が込められていた。

結局、陳騫率いる監察御史の一行は、数日間の滞在の後、明確な反逆の証拠を掴むことなく洛陽へと帰還した。しかし、彼らが持ち帰った報告書には、「諸葛誕、表向き従順にして恭謙なる態度を崩さず。されど、その瞳の奥に宿る光は底知れず、容易に測り難し。城内の兵士の練度は高く、民衆の支持も厚い模様。呉との接触の噂も絶えず、引き続き厳重な監視を要す。彼の忠誠は、嵐の前の静けさかもしれぬ」と記されていたという。

司馬昭は、この報告を読み、眉間の皺をさらに深くしたと言われる。「やはり、あの老狐は油断ならぬか…」

狐と狸の化かし合いは、まだ始まったばかりであった。

そして、諸葛誕の周囲には、陳騫のような司馬昭の目だけでなく、呉からの目も光り始めていることを、彼はまだ知らなかった。あるいは、知っていて気付かぬ振りをしていたのかもしれないが。この丁々発止のやり取りは、死士の一人であり、陳騫の従者に紛れ込んでいた陳黙によって、逐一諸葛誕に報告されていた。その報告書には、陳騫が寿春滞在中、密かに呉の商人と思しき人物と接触していた可能性が示唆されていた。それは、新たな不確定要素の出現を意味していた。諸葛誕は、その報告を読み、しばし瞑目した。戦いは、見えぬところでも既に始まっていていたのだ。そして、その複雑な情報戦の中で、彼は次の一手を慎重に、しかし大胆に打たねばならなかった。

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