第2話 魂の盟約
人間を動かすものは何か。それは古来より哲学者たちが問い続け、未だ明確な答えが見出されていない命題である。金銭か、恐怖か、あるいは崇高なる理想か。それとも、それら全てが複雑に絡み合った、名状しがたい情念の複合体なのであろうか。諸葛誕は、その答えを、己の言葉と行動で示そうとしていた。
数日後、秋晴れの空の下、諸葛誕が寿春城内の練兵場に集めたのは、揚州の侠客たち、かつて曹氏に恩顧を受けた家の者たち、そして彼の施しによって日々の糧を得、あるいは家族の窮状を救われた数千の男たちであった。彼らの服装は様々だ。粗末な麻布の服をまとった農民もいれば、僅かに光沢の残る絹の衣服を身に着けた元役人もいた。その瞳には、期待と不安、いくばくかの打算、そしてごく僅かながらも、この老将への興味と、ある種の熱意のようなものが混じり合って揺らめいていた。練兵場の周囲には、諸葛誕配下の兵士たちが槍を手に整然と並び、一種異様な緊張感が漂っていた。
「諸君らが、私が誰であるかを知ってここに立っていることは承知している」
諸葛誕の声は、ことさらに張り上げられたものではなかった。しかし、彼の声には、人の心に染み入るような不思議な浸透力があった。それは、戦場で兵士を鼓舞するような勇壮な響きとは異なり、むしろ静かな夜に友と語り合うような、それでいて聞く者の背筋を伸ばさせるような、独特の調子を持っていた。
「私は、揚州都督、諸葛誕。そして、諸君らも薄々感じているであろうが、いずれ司馬氏に滅ぼされるであろう身だ。何故か? 私が曹魏の旧臣であり、彼らがそれを許さぬからだ。大将軍司馬昭は、私に司空の位を授けると、鄭重な使者を寄越したが、それは甘い蜜であり、同時に私を試すための罠でもあるのだ。私一人が栄達し、この揚州の民を見捨てよというのか! 諸君らの顔を、どうして忘れられようか!」
男たちの間に、さざ波のような動揺が走った。司空。それは三公の一つであり、臣下としては最高位に近い栄職である。それを蹴るというのか。この男は正気なのか、それとも我々を破滅への道連れにしようとしているのか。一部の者は、諸葛誕の言葉の裏にある危険な香りを嗅ぎ取り、顔色を変えた。しかし、彼の瞳に宿る、絶望と紙一重の覚悟が、次第に彼らの心を捉え始めていた。隣の者と顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う者もいた。
「私は司空にはならぬ!」
諸葛誕は、そこで初めて言葉を強めた。その声は練兵場の隅々にまで響き渡り、ざわめきを一瞬にして鎮めた。
「私は曹魏の臣である! 武祖・曹操公が黄巾の乱を平定し、官渡で袁紹を破り、赤壁で一度は挫折しながらも、この広大な魏の礎を築かれた。その遺志を継がれた文帝、そして明帝の御代、私は何を学んだか! それは、民あっての国、義あっての臣という、万古不易の理であった! この命、この忠誠は、曹氏にこそ捧げられるべきものだ! 断じて、己の保身のために魂を売る司馬氏の臣ではない!」
彼の言葉は熱を帯び、聞く者の心を揺さぶった。その言葉の端々には、曹氏への深い恩義と、司馬氏の専横に対する抑えきれない怒りが込められていた。それは、彼自身の魂の叫びでもあった。
「考えてもみよ!」
諸葛誕は、集まった男たち一人ひとりの顔を見渡すようにしながら続けた。
「司馬一族とは何か? 彼らは、我らが生まれ育ったこの曹魏という大地に、後から流れ込んできた水に過ぎぬ。しかもその水は、今や我らが大切に守ってきた器から溢れ出し、我らを溺れさせ、この国そのものを飲み込もうとしているのだ! そのような濁った水が、諸君らに飲めるか! 我らが祖先が血と汗で築き上げたこの国を、やすやすと明け渡して良いものか!」
「否! 飲めるものか!」
どこからか、しゃがれた声が上がった。日焼けした顔に深い皺を刻んだ老農であった。彼は、かつて戦乱で家族を失い、諸葛誕の施しで孫を育てていた。彼の声に呼応するように、あちこちから同意の声が上がり始めた。初めはためらっていた者たちも、次第に周囲の熱気に引きずられるように声を上げ始めた。
「そうだ! 我らは、曹氏の天下に生きてきたのだ!」
「司馬の犬になど、誰がなるものか!」
諸葛誕は、その反応を確かめるように頷き、叫んだ。
「我らは曹魏の土で育ち、曹魏の水を飲んで今日まで生きてきた! 我らの祖先もまた、この曹魏の大地で汗を流し、時には血を流してこの国を守ってきたのだ! 我らの忠誠は、曹氏にこそ捧げられるべきであり、司馬氏のような簒奪者に捧げるものではない! 彼らは、我々を真綿で首を絞めるように、ゆっくりと、しかし確実に追い詰めている。夏侯玄殿が、毌丘倹殿が、文欽殿が、何故死なねばならなかったのか! それは彼らが曹魏の忠臣であったからだ! 今、立ち上がらねば、我々の子孫は、司馬氏の奴隷として生きることになるのだぞ!」
練兵場は、興奮のるつぼと化した。男たちの顔は紅潮し、拳を握りしめている。恐怖は消え去り、代わりに怒りと使命感が彼らの心を支配し始めていた。
「諸葛公のおっしゃる通りだ!」
「司馬の犬にはなるものか!」
「曹魏万歳!」
そのような声が、四方八方から湧き起こった。
諸葛誕は、その熱狂を静かに見守っていた。そして、頃合いを見計らって、再び口を開いた。その声は、先程までの激しい調子とは打って変わって、むしろ悲痛な響きを帯びていた。彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。それは、決して弱さから来るものではなく、共に死地へ赴く者たちへの深い情愛と、自らの覚悟の重さから滲み出たものであった。
「頼む。諸君らの命を、この老いぼれの私にくれ。この絶望的な戦いに、私と共に身を投じてくれ。私と共に戦い、そして、私と共に死んでくれ。金や地位のためではない。我らが愛するこの曹魏の大地に、我らの血潮を染み込ませ、後世に我らの意地と、真の忠義とは何かを示そうではないか! 私は、諸君らを決して見捨てぬ。諸君らの家族のことは、この私が責任を持って守る。だから、安心して、この私に命を預けてほしい」
雷鳴のような応諾の声が、寿春の空にこだました。
「諾!」
「諾!」
「諸葛公のためならば、この命、惜しくはありません! 家族のことも、お任せいたします!」
それは、単なる感情的な高ぶりだけではなかった。諸葛誕の言葉、その態度、そして彼が醸し出す悲壮な覚悟と、家族への配慮を約束する言葉が、男たちの心の奥底にある何かを揺り動かしたのだ。この瞬間、彼らは単なる烏合の衆ではなく、諸葛誕のために死ぬことを誓った「士」となったのである。その誓いは、後に「寿春の盟約」として語り継がれることになるが、それは血と涙によって彩られる長く険しい道のりの、ほんの始まりに過ぎなかった。
その夜、諸葛誕の側近の一人、焦伯が彼の私室を訪れた。焦伯は、長年諸葛誕の書記官を務め、その知謀と冷静な判断力を信頼されていた。
「殿、今日の演説、見事なものでございました。あれほどの熱狂を引き出すとは…しかし、殿。彼らが本当に最後まで殿に従うでしょうか? 熱狂は、時に移ろいやすいものでございます」
諸葛誕は、窓の外の闇を見つめながら、静かに答えた。
「焦伯よ、お前の言う通りだ。人の心は移ろいやすいものだ。今日の誓いが、明日には忘れ去られるかもしれぬ。だが、私は信じる。彼らの心の奥底にある、真の忠義を。そして、その忠義を繋ぎ止めるのは、言葉だけではない。我々の行動そのものなのだ。彼らに示した覚悟、そして彼らの家族を守るという約束、それを違えぬ限り、彼らは我々を見捨てまい。それに…人は、己が信じたいものを信じる生き物でもある。彼らは、私と共に戦うことで、自らの生きる意味を見出そうとしているのかもしれん」
彼の瞳には、深い決意と、そして未来への一条の光を見据えるような、確かな意志が宿っているように見えた。これが、後に「死士」と呼ばれる者たちの、魂の契約の瞬間であった。そして、その契約は、金銭でも地位でもなく、信頼と義によって結ばれた、最も強固な絆となるはずであった。