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第19話 天子の剣

追い詰められた鼠が猫を噛むように、最も無力に見える存在が、時に最も大胆かつ予測不可能な行動をとることがある。歴史は、そのような逆転劇に満ちている。そして、その行動は、しばしば深い絶望と、最後の希望とが複雑に絡み合った末に生まれるものである。

諸葛誕率いる反乱軍、いや、この時点ではもはや「義軍」と呼ぶべき大軍勢が、洛陽の間近にまで迫る中、帝都では若き皇帝曹髦が、その短い生涯における最大の、そして最後の賭けに出ようとしていた。彼は、司馬昭の寿春での惨敗と、諸葛誕の破竹の西進を、長年待ち望んでいた、自らの手で曹氏の失われた権威を取り戻すための千載一遇の好機と捉えたのである。それは、彼にとって、ただ座して新たな支配者を待つのではなく、自らが歴史の主体となるための、唯一の道であった。

曹髦は、かねてより腹心として信頼していた数名の側近、すなわち侍中の王沈、尚書僕射の王経、散騎常侍の王業といった者たちと、連日連夜、宮中の奥深くで密議を重ね、クーデターの詳細な計画を練り上げていた。彼は、その聡明な頭脳で、諸葛誕の蜂起を単なる好機ではなく、自らが主導権を握るための最後の布石と捉えていた。彼は数ヶ月前から、王沈、王経、王業といった側近たちに対し、司馬氏打倒後の国家構想や、諸葛誕との連携の必要性を繰り返し説き、彼らの忠誠心を試すかのように、少しずつ計画の核心を漏らしていた。

王沈らは、当初、皇帝のその危険な考えに驚愕し、司馬氏の報復を恐れて逡巡した。「陛下、それはあまりにも無謀にございます! 万が一失敗すれば、我々のみならず、曹氏の血筋そのものが…」彼らは、保身と忠誠の間で激しく揺れ動いた。しかし、曹髦の内に秘めた尋常ならざる覚悟と、理路整然とした説得、諸葛誕軍の快進撃という外圧、そして何よりも、このまま傀儡として朽ち果てることへの恐怖が、彼らを徐々に曹髦の側に引き寄せていった。曹髦は、彼らに、成功した暁の栄誉を約束する一方で、失敗した場合の連帯責任をも示唆し、巧みに彼らを自らの計画に巻き込んでいった。決起の直前、曹髦は彼らに血判状への署名を求めたという。それは、後戻りできない覚悟を共有させるための、非情なる一手であった。

そして、諸葛誕軍が洛陽近郊の黄河の渡し場に到達したとの極秘の報(それは、諸葛誕側から密かに送られた合図でもあった)を受けるや、ついにその計画を決行に移すことを決断した。

「今を逃せば、二度とこのような機会は訪れまい。朕は、もはや司馬氏の傀儡として生き恥を晒すつもりはない! たとえこの身が滅ぶとも、曹氏の皇帝として、最後の意地を見せてくれる! 諸君らも、朕と共に死ぬ覚悟はできているな?」

その夜、曹髦は覚悟を決めた表情で側近たちに告げた。その瞳には、悲壮な光が宿っていたが、同時に、長年の屈辱から解放されるかのような、ある種の晴れやかささえ感じられた。

翌日の早朝、夜明け前の薄闇の中、曹髦は、自ら甲冑を身にまとい、剣を手に取り、宮殿の警護にあたっていた数百の宿衛兵と、信頼できる宦官たちを率いて、突如として宮殿から打って出た。その宿衛兵たちは、曹髦が密かに選抜し、恩賞や地位を約束して懐柔してきた者たちであった。その際、彼は集まった兵士たちに向かって、「大将軍司馬昭、不臣の極みなり! その弟司馬伷もまた、兄に倣って国政を壟断せんとしている! 朕、今こそ天子の権威をもって、自らこれを討つ! 朕に続く者は、富貴を約束しよう! 疑う者は、この場で斬り捨てる! 朕の剣は、飾りではないぞ!」と、涙ながらに、しかし力強く宣言した。その姿は、文弱の君主という仮面を脱ぎ捨てた、曹氏の血を引く者の誇りに満ちていた。

その標的は、司馬昭が許昌へ敗走した後、洛陽の留守を預かり、事実上の最高権力者となっていた司馬昭の弟、安東将軍司馬伷の邸宅であった。

この皇帝による、あまりにも予想外かつ大胆不敵な行動は、洛陽の司馬氏派の官僚や将兵たちに、大混乱と動揺を引き起こした。彼らは、まさか皇帝自らが武器を取って決起するとは夢にも思っておらず、対応が完全に後手に回った。

司馬伷自身も、皇帝の突然の襲撃の報に接し、狼狽し、効果的な抵抗を組織することができなかった。彼は、前夜の酒宴の酔いも覚めやらぬまま、寝巻き姿で叩き起こされたという。彼は、わずかな手勢と共に邸宅から逃れようとしたが、曹髦率いる宿衛兵の一部に行く手を阻まれ、激しい戦闘の末に捕縛された。その際、王経が自ら剣を振るって司馬伷の護衛を数人斬り倒し、皇帝への忠誠を示したという。

曹髦は、一部の司馬氏派の兵士による散発的な抵抗を排除しつつ、主要な官庁や武器庫を次々と制圧していった。そして、彼は直ちに諸葛誕に使者を派遣し、「朕は、宮中の奸臣を排し、親政を開始した。卿は、速やかに入京し、朕を輔弼し、共にこの国の再建に尽力せよ」との、皇帝の権威に満ちた勅命を伝えた。その使者は、諸葛誕軍の先鋒と既に連絡を取り合っていた。

一方、許昌で必死に軍の再編を進め、洛陽奪還の機会を窺っていた司馬昭は、洛陽でのクーデターと、弟司馬伷の失脚、そして何よりも皇帝曹髦による親政宣言の報に接し、愕然とした。

「あの孺子こわっぱめが、このわしに弓を引くとは…許せん、断じて許せん! あの者たちを、もっと早く始末しておくべきだった! 油断した…完全に油断していたわ…」

彼は怒りに震えたが、時すでに遅かった。さらに、諸葛誕の大軍が、黄河を渡り、洛陽へと無抵抗で進軍しているとの報が追い打ちをかける。彼は、ついに万策尽きたことを悟り、天を仰いで長嘆息したという。彼の周囲には、もはや彼に忠誠を誓う者はほとんど残っていなかった。

司馬昭は、僅かな手勢と共に、一族の故郷である河内郡へと逃亡を図ったが、その道中、諸葛誕が派遣した死士の精鋭追撃隊(李信が率いていた)によって捕捉され、激しい抵抗も空しく捕縛された。かつて天下の権勢をその手に握りかけ、曹魏の皇帝すら意のままに操った男の、あまりにもあっけない、そして惨めな終焉であった。捕らえられた際、彼は「諸葛公休…見事なり…だが、お前もいずれ、この権力の重みに…押し潰される日が来るやもしれぬぞ…」と力なく呟いたという。死士たちは、主君の仇敵を捕らえた喜びと、長き戦いの終わりを予感し、雄叫びを上げた。その首は、丁重に扱われ、洛陽の曹髦のもとへ送られることとなる。

諸葛誕は、皇帝曹髦からの勅命を受け、大軍を率いて洛陽へと無血入城を果たした。洛陽の民衆は、彼を司馬氏の圧政からの解放者として、熱狂的に道端で迎え、歓声を上げた。城門には「歓迎諸葛太傅匡輔聖室」の旗が掲げられ、曹魏の都は、久方ぶりに真の主を取り戻したかのように、祝祭的な雰囲気に包まれた。

諸葛誕は、宮殿で曹髦に拝謁し、その忠誠を誓った。

「陛下、この諸葛誕、陛下の御ために馳せ参じました。これよりは、陛下の股肱となり、曹魏の再興に身命を賭す所存にございます。陛下の御勇断、天下万民の知るところとなりましょう」

曹髦もまた、諸葛誕の手を取り、涙ながらにその功績を称えた。その瞳には、達成感と安堵、そして諸葛誕への深い信頼が浮かんでいた。

「太傅、よくぞ参られた! 卿の忠義、朕は生涯忘れぬ。共に、新たな魏を築こうぞ! これで、朕もようやく真の天子となれたのだ」

その瞬間、二人の間には、君臣を超えた熱い絆が生まれたかのように見えた。しかし、歴史の女神は、しばしば皮肉な微笑を浮かべるものである。この華々しい凱旋の裏で、新たな権力闘争の種が、既に蒔かれ始めていたことを、この時の諸葛誕は、まだ気付いていなかったのかもしれない。あるいは、気付いていながらも、今はただ、この勝利の美酒に酔いしれたいと思っていたのかもしれない。彼の心には、一抹の不安がよぎっていた。あまりにも若く、そしてあまりにも大胆なこの皇帝と、果たして真に協調していけるのだろうか、と。

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