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第18話 洛陽への道

正義の旗の下に進む軍隊は、しばしば敵の抵抗を最小限に抑え、民衆の歓迎を受けることができる。だが、その「正義」が、普遍的かつ絶対的なものであるとは限らない。それは、時代や立場によって、その色合いを変える相対的な概念である。しかし、この時の諸葛誕にとって、そして彼に従う多くの人々にとって、彼の掲げる「匡輔曹室、誅討国賊」の旗は、疑いようのない正義の象徴であり、長年の圧政からの解放を意味するものであった。

彼は、寿春を反司馬勢力の確固たる拠点として確立すると、ついに魏帝国の首都・洛陽の奪還を目指し、西征の軍を発した。その進軍の号令は、秋も深まり、冬の気配が近づく頃、西暦二五七年の十月に下された。彼の軍勢は、寿春の戦いで勇名を馳せた呉からの援軍の一部(文鴦らが引き続き同行し、その武勇は諸葛誕軍の大きな力となっていた)と、各地で彼の義挙に呼応して馳せ参じた諸侯の兵を加えて、総勢二十万を超える大軍へと膨れ上がっていた。その軍容は整い、士気は天を衝くばかりであった。「洛陽へ! 帝を救い、奸臣を討つ!」その声が、進軍する兵士たちの間から絶え間なく上がっていた。彼らの多くは、司馬氏の圧政に苦しんできた民であり、諸葛誕の軍に加わることで、自らの手で未来を切り開こうとしていた。洛陽への進軍に際し、新たに諸葛誕の義挙に賛同して加わる者の中から、死士に匹敵する覚悟を持つ者が現れ、彼らは荀顗や既存の死士たちによって見出され、訓練を受け、戦力として組み込まれていった。

その進軍は、まさに破竹の勢いであった。諸葛誕は、軍事行動に先立ち、死士の中でも特に弁舌に長け、交渉能力に優れた者たち、例えば荀顗の薫陶を受けた若き死士・陳平(かつての漢の名軍師とは同名の別人)らを、先行して通過する予定の城や郡に派遣し、降伏勧告と説得工作を行わせていた。彼らは、諸葛誕の武威と仁徳を説き、司馬昭の敗北と司馬一族の内紛を伝え、抵抗の無益さを訴えた。そして、降伏すれば生命と財産は保証し、民衆には危害を加えないことを約束した。

多くの都市の太守や県令は、司馬昭の敗北の報と、諸葛誕軍の圧倒的な威勢に恐れをなし、また、曹氏への旧恩や司馬氏への反感から、戦わずして城門を開き、諸葛誕軍を迎え入れた。彼らは、諸葛誕の到来を、圧政からの解放と見なしたのである。中には、密かに諸葛誕に通じていた者もおり、彼らは城内で呼応し、司馬氏派の役人を捕縛して諸葛誕軍を迎え入れた。

一部、頑強に抵抗を試みた司馬氏派の拠点もあったが、それらもまた、諸葛誕軍の猛攻と、内部からの死士たちの工作(例えば、城内の不満分子を扇動して内応させる、水源に毒を流すと脅すなど)、そして周辺地域からの圧力によって、あるいは短期間で陥落させられ、あるいは指揮官が捕縛されたり逃亡したりして、瓦解していった。諸葛誕は、無益な殺生を好まず、降伏した兵士には寛大な処置を示し、希望者には帰郷を許した。

諸葛誕は、占領した地域において、厳正な軍紀を敷き、兵士たちによる民衆からの略奪や暴行を固く禁じた。違反者は、身分を問わず厳罰に処せられた。死士の一部は、軍監として各部隊に配属され、軍紀の維持に努めた。

「我らは義軍である。民を苦しめる者は、たとえ我が兵であっても許さぬ。我らが目指すは、民が安心して暮らせる世の再建である」

彼の言葉は徹底され、民衆は安堵した。彼は、自らを「帝室を輔翼し、天下に安寧をもたらすための義軍」と称し、その行動によってそれを示そうとした。彼の目的は、単なる軍事的な勝利による領土の拡大ではなく、人心の掌握と、司馬氏によって歪められた魏帝国の新たな秩序の確立にあった。そのため、彼は占領地の民政にも細心の注意を払い、有能な人材を登用して統治を安定させ、民衆の負担を軽減する政策を打ち出した。荀顗は、この民政再建においても重要な役割を果たし、各地に派遣されてその手腕を発揮した。

進軍の途中、かつて諸葛誕と親交のあった旧友や、司馬氏の専横によって官位を追われ、不遇をかこっていた多くの名士たちが、彼の義挙の噂を聞きつけて、その陣営に続々と馳せ参じた。彼らの中には、かつて「竹林の七賢」と称された阮籍や嵆康といった清談家たち(彼らは司馬氏の偽善的な支配を嫌い、諸葛誕の行動に真の「義」を見出した)や、あるいは法制度に明るい実務官僚、さらには優れた軍略家も含まれていた。

例えば、かつて夏侯玄の側近であったが、政変後に隠棲していた老練な戦略家・崔琰(同名の先人とは別人)は、諸葛誕の幕下に加わり、その的確な助言で軍の進路や兵站計画に大きく貢献した。また、法に明るい元尚書の盧毓の子・盧欽は、占領地の法整備と行政組織の再編に尽力した。

彼らは、諸葛誕の幕僚として、軍事、内政、外交の各方面で彼を支えることになり、その陣営はさながら才能の宝庫の様相を呈し始めた。それは、かつて漢の高祖・劉邦が、蕭何、張良、韓信といった英傑たちを得て関中を目指し、天下統一を成し遂げた故事を彷彿とさせる光景であった。諸葛誕は、彼らの意見に謙虚に耳を傾け、その才能を存分に発揮できる場を提供した。

洛陽への道は、諸葛誕にとって、栄光への道であると同時に、無数の困難と誘惑が待ち受ける、長く険しい道でもあった。彼は、自らの勝利に驕ることなく、常に慎重さと警戒心を失わなかった。数ヶ月に及ぶ破竹の進軍の末、洛陽の城壁が見える距離にまで迫った時、彼の心には一抹の不安がよぎった。あまりにも都合が良すぎるのではないか、と。

「真の戦いは、洛陽に入ってから始まるのだ。司馬一族の残党、そして彼らに与する者たちの抵抗は、まだ続くだろう。そして、帝都を制した後の国の舵取りこそが、我々の真価を問われる。権力は人を腐敗させる。我々は、決して第二の司馬氏となってはならぬ」

彼は側近にそう語ったという。その言葉は、彼の冷静な現実認識と、将来への深い洞察、そして自らへの戒めを示していた。彼の目は、洛陽の先に広がる、曹魏再興という険しい道のりを見据えていた。そして、その道のりには、予期せぬ罠が潜んでいるかもしれないことを、彼は心のどこかで感じていた。

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