第15話 逆転の鬨
戦場の女神は、しばしば大胆不敵な者に微笑む。だが、その微笑みが永続するとは限らない。しかし、この時の女神は、明らかに諸葛誕と、そして彼の死士たちの勇気に味方していた。あるいは、それは女神の微笑みではなく、絶望的な状況下で放たれた捨て身の一撃が、必然的にもたらした戦局の転換だったのかもしれない。
樊建率いる死士たちによる決死の本陣奇襲は、司馬昭の心胆を寒からしめ、その冷静沈着な判断力を著しく奪った。彼は、自らの命が脅かされたという恐怖と、屈辱感に苛まれ、冷静な戦況分析ができなくなっていた。彼の指揮系統には明らかな混乱が生じ、前線の部隊への命令伝達にも遅滞が生じ始めた。加えて、呉軍の主力部隊による執拗かつ猛烈な攻撃と、城内から呼応して出撃してきた諸葛誕軍の挟撃により、司馬軍はかつてないほどの圧迫を受け、その戦線は各所で悲鳴を上げ始めていた。
焦燥に駆られた司馬昭は、冷静さを欠いたまま、無理な総攻撃を前線部隊に命じた。「何としても寿春を陥とせ! 退く者は斬る!」その命令は、恐怖に駆られた独裁者のヒステリックな叫びにも似ていた。しかし、それは士気の低下した兵士たちを無謀な突撃に駆り立てるだけであり、連合軍の巧妙な罠や伏兵にかかり、徒に損害を増やす結果に終わった。兵士たちの間には、「大将軍は我々を見殺しにするつもりか」「この戦、勝てる見込みはあるのか」という不満の声が公然と囁かれるようになり、逃亡兵が続出し始めた。規律は乱れ、組織的な抵抗は困難になりつつあった。司馬昭の側近たちも、その無謀な命令を諌める勇気はなく、ただ彼の顔色を窺うばかりであった。
この千載一遇の好機を、百戦錬磨の諸葛誕が見逃すはずはなかった。彼は、樊建たちの犠牲によってもたらされたこの状況を、必ずや勝利に繋げねばならないと固く決意していた。
「今ぞ! 全軍、総攻撃! 敵は混乱し、士気は地に落ちている! この機を逃せば、二度と勝利はないと思え! 樊建たちの魂に報いるのだ! 我らの不屈の魂を、天下に示せ!」
彼は、自ら将旗を押し立てて城門から出撃し、全軍に総攻撃を命令した。その声は、城内に響き渡り、兵士たちの最後の闘志を奮い立たせた。彼の目には、勝利への確信と、部下たちへの信頼が燃えていた。
寿春の城門が大きく開かれ、諸葛誕軍が、そして呼応した呉軍が、まるで堰を切った濁流のように、混乱する司馬軍に襲いかかった。その勢いは、まさに山を崩し、海を覆すかのようであった。城内からは、文欽率いる呉の精鋭と、諸葛誕麾下の生き残った死士たちが先陣を切って突撃し、敵陣に楔を打ち込んだ。度重なる出撃と防衛戦で、当初数百名を数えた死士も、その数を半減させていたが、彼らの闘志は衰えていなかった。
呉の若き勇将・文鴦は、この乱戦の中で、再びその超人的な武勇を発揮した。彼は、父・文欽の部隊とは別行動をとり、少数の騎兵を率いて敵陣の最も手薄な箇所に突入し、縦横無尽に駆け巡り、行く先々で敵兵を薙ぎ倒し、その勇名は敵味方の双方に轟き渡った。彼の槍は稲妻のように閃き、馬蹄は大地を震わせた。ある記録によれば、彼は単騎で敵陣に七度突入し、七度生還したという。その姿は、まさに戦神のようであり、彼が現れるところ、司馬軍の兵士たちは恐怖に駆られて逃げ惑った。彼の存在は、連合軍の士気を著しく高め、司馬軍の戦意を完全に打ち砕いた。
諸葛誕自身も、老齢にもかかわらず、馬上で剣を振るい、兵士たちの先頭に立って奮戦した。その姿は、絶望的な状況から一転して勝利を掴み取ろうとする者たちの、まさに生ける象徴であった。「続け! 曹魏の未来は、我らの手にある! 臆するな! 勝利は目前だ!」彼の叫びは、兵士たちに最後の力を与えた。彼の周りには、李信や小虎といった死士たちが固く守りを固め、彼に危害が及ぶことを許さなかった。
ついに、司馬軍の戦線は、各所で完全に崩壊を始めた。ある部隊は指揮官を見失って右往左往し、ある部隊は武器を捨てて我先にと逃走を開始し、またある部隊はパニックの中で同士討ちを始めるという、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図が現出した。泥濘と化した戦場には、おびただしい数の死体が転がり、血の川が流れていた。
司馬昭は、本陣からその惨状を目の当たりにし、もはや戦線の維持は不可能であり、全軍の壊滅も時間の問題であると判断した。彼の顔面は蒼白となり、かつての尊大な態度は見る影もなかった。彼は、断腸の思いで全軍に退却を命じた。しかし、それはもはや組織的な退却ではなく、統制を失った無様な敗走と呼ぶべきものであった。
「退け! 全軍退却だ! 許昌へ退く!」
その命令は、敗軍の将の悲痛な叫びであった。
彼は、おびただしい数の将兵と、莫大な量の兵糧、兵器、そして何よりも軍旗や軍用文書といった、軍の威信に関わるものを戦場に放棄し、僅かな手勢と共に、許昌方面へと命からがら逃げ帰ったのである。その背中には、かつての覇者の面影は微塵もなかった。彼は、この屈辱的な敗北を、生涯忘れることはないだろう。
寿春の包囲は完全に解かれ、城内外には、地鳴りのような歓喜の声と、勝利を祝う鬨の声が響き渡った。それは、諸葛誕と彼の忠勇なる死士たち、そして呉からの頼もしき援軍が、三位一体となって勝ち取った、奇跡的とも言える輝かしい勝利であった。兵士たちは抱き合い、涙を流して喜び、民衆は諸葛誕の名を称え、神に感謝を捧げた。
「諸葛公、万歳! 我らの勝利だ! 曹魏万歳!」
その声は、寿春の空にいつまでもこだましていた。
この寿春の戦いにおける勝利は、単に一つの戦いに勝ったという以上の、遥かに大きな歴史的意義を持っていた。それは、長らく絶対的な権勢を誇ってきた司馬氏の権威を、根底から大きく揺るがし、天下の形勢を一変させる可能性を秘めた、歴史の転換点となる出来事であった。諸葛誕の名は、この日、中原に轟き渡り、新たな時代の到来を予感させたのである。
勝利の喧騒の中、諸葛誕は一人、戦死した樊建ら死士たちの亡骸が集められた場所を訪れた。彼は、一人ひとりの顔を見つめ、静かに手を合わせた。その顔には、勝利の喜びよりも、深い悲しみと、そして彼らの死に対する責任感が色濃く浮かんでいた。
「お前たちの死は、決して無駄にはせぬ…必ずや、この国に光を取り戻す。お前たちの魂と共に、私は戦い続ける。安らかに眠ってくれ」
彼の目には、悲しみと共に、より一層強固になった決意の光が宿っていた。その光は、曹魏の未来を照らす希望の灯となるのだろうか。それとも、さらなる戦乱を呼び覚ます業火となるのだろうか。それは、まだ誰にも分からなかった。




