第11話 叛旗翻る
大義名分は、時として最も強力な武器となる。それは、人の心を結束させ、不可能を可能にする力を与える。だが、その大義名分を掲げる者の覚悟と、そしてそれを実現するための具体的な力が伴わなければ、それは空虚な言葉の羅列に過ぎない。諸葛誕は、その両方を兼ね備えていた。
西暦二五七年五月(甘露二年)。
初夏の太陽が容赦なく照りつける寿春の練兵場に、諸葛誕は、集められた兵士と民衆の前に姿を現した。その顔には、夜を徹して戦略を練った疲労の色も見えたが、それ以上に、決然たる意志の光が宿っていた。その手には、洛陽の司馬昭から届けられた、彼を司空に任命するという皇帝の詔勅が、まるで不吉な護符のように握りしめられていた。
彼は、静まり返った群衆を前に、ゆっくりと、しかしその声に万感の思いを込めて語り始めた。その声は、拡声器などない時代にもかかわらず、練兵場の隅々にまで不思議なほど明瞭に届いた。それは、彼の魂そのものが発する響きであったのかもしれない。
「我が将兵、そして揚州の民よ! 聞いてほしい! 大将軍司馬昭より、この諸葛誕を司空に任じ、洛陽へ召還するとの詔勅が下された。これは、表向きは臣下に対する最大の栄誉であるが、その実、私を鳥籠に閉じ込め、牙を抜き、骨を抜き、そして最終的にはこの揚州から引き離し、彼らの意のままに操ろうとする魂胆である! 彼らは、私がこの揚州の地で、曹魏の忠臣として、民のために力を尽くしていることが許せないのだ! 彼らにとって、真の忠臣とは、己の意のままになる犬に過ぎぬのだ!」
諸葛誕の声は、次第に抑えていた感情の奔流が解き放たれるかのように、熱を帯びていった。その言葉には、積年の不満と、迫り来る危機への憤り、そして何よりも、曹魏への揺るぎない忠誠が込められていた。
「私は、曹魏の臣である! かの武祖・曹操公が、黄巾の賊を平らげ、官渡で袁紹の大軍を破り、赤壁で一度は苦杯を嘗めながらも、不屈の精神でこの広大な魏の国の礎を築かれた。その遺志を継がれた文帝、そして明帝と、歴代の皇帝陛下に私は誠心誠意お仕えしてきた。この命、この忠誠は、曹氏にこそ捧げられるべきものだ! 断じて、帝室を蔑ろにし、国を簒奪せんとする司馬一族の臣となるつもりはない! 彼らは、先帝の御恩をも忘れ、自らの野望のためにこの国を私物化しようとしているのだ!」
彼のこの演説は、後に「寿春の獅子吼」として語り継がれることになる。
彼の言葉は、聞く者の心の琴線を激しく揺さぶった。多くの兵士や民衆の目には、涙が浮かんでいた。彼らは、諸葛誕の言葉に、自分たちの抑圧された思いが代弁されたかのように感じていた。中には、司馬氏の圧政で家族や友人を失った者もおり、彼らの顔には怒りと悲しみが刻まれていた。
そして彼は、右手に持った詔勅を高く掲げ、集まった全ての者に見えるようにした。その羊皮紙は、司馬昭の傲慢さと欺瞞の象徴であった。
次の瞬間、彼はその詔勅を、まるで憎悪の対象であるかのように、力強く引き裂いた。破られた羊皮紙の切れ端が、風に乗ってひらひらと舞い落ちた。その行為は、後戻りのできない決別を、そして全面的な対決の意志を、何よりも雄弁に物語っていた。それは、静かな宣戦布告であった。
群衆から、息を呑む音と、それに続くどよめきが起こった。そして、そのどよめきは、やがて割れんばかりの歓声へと変わっていった。
「今こそ、奸臣司馬昭を討ち、帝室を輔翼し、曹魏の正道を取り戻す時である! 我が志に賛同する者は、この旗の下に集え! 我らと共に、この腐敗した流れを断ち切り、新たな歴史を築こうではないか! これは、我々自身の戦いであり、我々の子孫のための戦いでもあるのだ!」
その言葉と共に、寿春城の城頭高く、一枚の巨大な旗が翻った。その旗には、墨痕鮮やかに「誅討国賊司馬昭、匡輔曹室(国賊司馬昭を誅討し、曹室を匡輔す)」と大書されていた。その文字は、諸葛誕自身が、血を吐くような思いで書き上げたものであった。
地鳴りのような、あるいは雷鳴のような歓声が練兵場を包み込み、寿春の空気を震わせた。民衆は諸葛誕の名を叫び、兵士たちは槍や剣を天に突き上げ、その熱狂は頂点に達した。彼らは、この老将の不屈の魂に、自らの運命を託すことを決意したのだ。
直ちに、淮南・淮北の諸軍、そして揚州管轄下の各郡県に向けて、諸葛誕の名で檄文が送られた。その檄文は、荀顗によって練り上げられ、司馬氏の非道を具体的に列挙し、曹魏再興の必要性を情熱的に訴え、諸葛誕の決起が天命に応じたものであることを天下に告げるものであった。それは、読む者の心を奮い立たせる力を持っていた。
多くの地方官や将兵が、この檄文に呼応し、あるいは諸葛誕の長年にわたる仁政に恩義を感じて、彼の旗の下に馳せ参じた。中には、かつて司馬氏に冷遇されていた者や、密かに曹氏への忠誠を抱き続けていた者もいた。義勇兵もまた、農具を武器に持ち替え、続々と寿春へと集結した。彼らの目には、希望の光が宿っていた。
死士たちは、この日のために準備してきた組織力を遺憾なく発揮した。彼らは、集まってきた兵士たちを部隊ごとに編成し、武器を配給し、食料を供給し、そして何よりも、彼らの士気を高め、諸葛誕への忠誠心を植え付けた。樊建は持ち前の統率力で新兵たちをまとめ、陳黙は各地からの情報を整理し、李信や小虎は部隊の先頭に立って規律を維持した。
瞬く間に、諸葛誕の軍勢は十数万に膨れ上がり、寿春は反司馬勢力の一大拠点と化した。その熱気は、かつて黄巾の乱が中原を席巻した時を彷彿とさせたが、その指導者の資質と組織力において、諸葛誕の軍は遥かにそれを凌駕していた。
この電撃的な決起の報は、間諜を通じて直ちに呉にも伝えられた。建業の宮殿でその報を受けた孫綝は、しばし沈黙した後、不敵な笑みを浮かべて言ったという。
「諸葛誕、ついに動いたか。面白い。これで中原は、しばらく退屈せずに済みそうだ。彼の覚悟、本物と見た。我が呉も、この好機を逃す手はない」
彼は、かねてからの密約通り、即座に文欽、唐咨、全懌、全端といった歴戦の将軍たちに数万の精兵を授け、諸葛誕救援の命を下した。呉軍の先鋒を任されたのは、若き勇将としてその名を轟かせていた文鴦であった。彼の胸中には、かつて父と共に司馬氏に敗れた屈辱を晴らすという、個人的な復讐心も燃え盛っていた。
一方、帝都洛陽の司馬昭は、諸葛誕の反乱の報に接し、激怒した。彼は、諸葛誕が大人しく召還に応じるものと高を括っていたのだ。
「諸葛公休め、わしがこれほどまでに寛大な処置を示したというのに、恩を仇で返しおったか! あの老いぼれ、まだ死に場所を探していたと見える! 断じて許さぬ! 奴の首を洛陽の市に晒し、天下への見せしめとしてくれるわ!」
彼は、その場で諸葛誕討伐の大軍の編成を命じ、自ら総大将として大軍を率い、寿春へと進発することを決定した。その兵力は、二十六万とも、あるいは三十万とも言われる、魏が動員しうる最大級のものであった。彼の顔には、怒りと共に、一抹の焦りも浮かんでいた。諸葛誕の決起は、彼にとって計算外の事態であり、その影響は計り知れなかった。
中原の地は、再び血で血を洗う戦乱の渦に巻き込まれようとしていた。歴史の歯車は、ここに大きく、そして激しくその回転を速めたのである。そして、その歯車の軋む音は、多くの人々の運命を、否応なく変えていくことになるのであった。
その夜、諸葛誕は自室で、一枚の古い手紙を読んでいた。それは、かつての盟友であり、司馬氏によって非業の死を遂げた夏侯玄からのものであった。その手紙には、若き日の二人が語り合った理想の国家像が綴られていた。
「公休よ、いつか、この国に真の正義が訪れる日を夢見ている…その日を、お前と共に迎えたいものだ」
諸葛誕は、そっと手紙を閉じ、窓の外の闇を見つめた。
「玄よ、お前の夢、この私が引き継いだ。必ずや…この戦乱を終わらせ、お前が望んだ世を築いてみせる。たとえ、この身がどうなろうともな」
彼の瞳には、燃えるような決意が宿っていた。それは、友への誓いであり、そして自らに課した宿命への覚悟でもあった。




