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第10話 決断の詔

歴史の転換点とは、しばしば予期せぬ形で、しかし必然性を伴って訪れる。それは、長く続いた干天の後の最初の雨粒であったり、あるいは、静かに燃え続けていた導火線の最後の数センチであったりする。そして、その瞬間、個人の決断が、国家の、いや、時代の運命を左右することになる。

西暦二五七年、初夏の頃。緑が深まり、蝉の声が聞こえ始めた寿春の都督府に、帝都洛陽の司馬昭から、皇帝の詔勅が届けられた。使者は、司馬昭の腹心の一人であり、その表情は尊大で、諸葛誕を見下すかのような態度であった。詔勅到着から数日のうちに、その内容は諸葛誕の腹心たちにも伝えられた。その内容は、諸葛誕を三公の一つである司空しくうに任命し、同時に洛陽へ召還するというものであった。詔勅の文面は丁重であったが、その行間には、有無を言わせぬ威圧感が漂っていた。

これは、諸葛誕にとって、そして司馬昭にとっても、最後通牒に等しい、極めて重い意味を持つものであった。諸葛誕がこの詔勅に従い、洛陽へ赴けば、彼は名誉ある地位を与えられると同時に、揚州における軍事指揮権を事実上剥奪され、司馬氏の厳重な監視下に置かれることになるであろう。それは、彼の野望の終焉を意味し、彼が育て上げた死士たちもまた、その存在意義を失い、解体されるか、あるいは司馬氏の駒として利用されることになる。それは、飼い殺しに等しい、緩やかな死を意味していた。

一方、彼がこの詔勅を拒否すれば、それは皇帝の命に対する公然たる反逆を意味し、司馬昭に彼を討伐する絶好の口実を与えることになる。司馬昭は、おそらくこの反応を期待し、既に討伐軍の準備を進めているに違いなかった。

もはや、選択の余地は、ほとんど残されていなかった。

あるいは、諸葛誕はずっと以前から、この道を選び、この瞬間を待ち望んでいたのかもしれない。いや、待ち望んでいたというよりは、避けられない運命として覚悟していたと言うべきか。

寿春の都督府、その最も奥まった一室に、諸葛誕の腹心中の腹心である死士たちの幹部数名が集められた。樊建の荒々しいが頼もしい顔、荀顗の冷静沈着な顔、そして李信の寡黙だが意志の強い顔、陳黙の知的な顔、小虎の若々しいが覚悟を決めた顔。部屋には、蝋燭の揺らめく光が彼らの顔に陰影を作り出し、重苦しい沈黙が漂っていた。外では、夏の嵐の前触れのように、風が不気味な音を立てていた。

諸葛誕は、玉座のような椅子に深く腰掛け、静かに詔勅の内容を読み上げた。その声には、感情の起伏はほとんど感じられなかったが、その場の空気は、まるで張り詰めた弓弦のように緊張していた。彼の指は、詔勅を持つ手に力が入りすぎて白くなっていた。

詔勅を読み終えた諸葛誕は、それを傍らの机に置き、集まった者たちの顔を一人ずつ見渡した。樊建の顔には抑えきれない闘志が、荀顗の顔には冷静な分析の色が、李信の顔には静かな怒りが、陳黙の顔には状況の重さを理解した上での覚悟が、そして小虎の顔には、恐怖を押し殺したような期待と不安が入り混じった表情が浮かんでいた。彼らは、この瞬間が来ることを予感し、それぞれのやり方で心の準備をしてきたのだ。

そして、諸葛誕は、ただ一言、静かに、しかし万感の思いを込めて告げた。

「時は、来た」

その言葉は、長く張り詰めていた何かが、ついに解き放たれた瞬間を意味していた。死士たちの目には、恐怖の色は微塵もなかった。むしろ、ある種の宗教的な高揚感にも似た光が宿っていた。彼らは、この日のために過酷な訓練に耐え、この日のために精神を研ぎ澄ませ、そしてこの日のために生きてきたのだ。彼らにとって、諸葛誕の言葉は、進軍ラッパの最初の高らかな響きにも等しかった。樊建は思わず拳を握りしめ、荀顗は静かに頷いた。

呉との連絡は、既に最終段階に入っていた。荀顗が呉の孫綝と交わした密約に基づき、援軍派遣の準備は着々と進められており、その先鋒部隊はいつでも長江を渡れる態勢にあった。

魏国内の協力者たち、すなわち司馬氏に不満を抱く皇族の一員や、かつての曹氏恩顧の旧臣の子弟たちからも、諸葛誕が決起の狼煙を上げた際には、必ずや各地で呼応するとの確約が得られていた。それは、死士たちが命がけで築き上げた、見えざる同盟網であった。

寿春城内の兵糧と武器も、長期の籠城戦に十分に耐えうる量が、細心の注意を払って確保されていた。外堀も内堀も、既に固く守りを整えていた。諸葛誕は、この日のために、何年も前から周到に準備を進めてきたのだ。

「賽は投げられた(Alea iacta est)」

かつて共和政ローマの英雄ユリウス・カエサルは、ルビコン川を渡る際に言ったという。それは、後戻りのできない決断の象徴として、後世に語り継がれている。

だが、諸葛誕は、運命の賽を投げるのではなく、自らの手で運命の女神の喉元を掴み、それを引き寄せようとしていた。彼の心にあったのは、一か八かの賭けに挑む者のスリルではなく、むしろ、自らの信念と、そして彼を信じる者たちの未来のために、避けられぬ戦いに臨む者の、悲壮なまでの決意であった。彼の背後には、彼に命を預けた数千の死士たちと、そして風前の灯火となりつつある曹魏の未来が、重くのしかかっていたのである。彼は、この決断が、どれほど多くの血を流し、どれほど多くの悲劇を生む可能性があるかを、痛いほど理解していた。

その夜、諸葛誕は一人、星空を見上げていた。彼の脳裏には、様々な思いが去来していた。若き日の理想、政争の苦渋、亡き友たちの顔、そしてこれから始まるであろう血腥い戦い。彼は、遠く洛陽にいるであろう皇帝曹髦の、孤独な姿を思った。

彼は、傍らに控えていた側近の一人、蒋班に静かに語りかけた。その声は、いつになく穏やかであった。

「蒋班よ、明日より、我々は修羅の道を行くことになる。多くの血が流れ、多くの命が失われるであろう。この寿春の地も、戦火に焼かれるやもしれぬ。それでも、私はこの道を選ばねばならぬ。なぜなら、それこそが、私が生きる意味だからだ。曹魏の臣として、この国を奸臣の手から取り戻す。それが、私に課せられた使命なのだ。そして、お前たちのような忠実な部下がいるからこそ、私はこの道を進むことができる」

蒋班は、ただ黙って主君の言葉に耳を傾けていた。彼は、この老将の心の奥底にある、孤独と、そして鋼のような意志、さらには部下への深い情愛を感じ取っていた。彼は、静かに頭を下げ、短く、しかし力強く答えた。

「殿の行かれるところ、どこまでもお供いたします」

歴史の歯車が、今、まさに大きく回転を始めようとしていた。使者が寿春を発ってから十日後、その音は、まだ誰の耳にも届いていなかったが、その衝撃は、やがて天下を揺るがすことになるだろう。そして、その中心には、諸葛誕という一人の男の、不屈の決意があった。

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