返事の声*
町会長が、警官に連れられてやってきた。
「そうそう、庵桐さん。奥さんは華道なんかもしてらして、町会の活動にもご協力いただいていたんですがねえ」
近所の婆さんと同じような年代の町会長は、警官たちに挨拶がてら、庵桐家について語り出した。
「ご主人の方は、奥さんが入院されてから、とんとお見かけしませんで。町会費は引き落としで毎年払ってもらっているので、特にこちらから訪ねたりもしていませんでした。で、こちらの方たちは、鍵屋さんか何か?」
「ああ、いや」
流れるように俺たちの身元を問われ、警官が言い淀む。
「私たちは、碰上大学理学部の者です。本日は、庵桐知里子さんの縁の方からご依頼により、お宅調査に上がりましたところ、警察のご協力を得られることになりまして」
律が笑顔で立板に水の如く、一気に喋り倒した。微妙に嘘ではない程度に話を変えている。
警官たちが初めて聞いたような顔をしたのも、道理である。
「ほう。碰上大学の方ですか。これはご苦労様です」
素早く町会長が反応した。こちらは、好意的だった。
警官は、沈黙を守ることにしたようだ。俺たちの、公文書偽造&自動車泥棒&空き巣か強盗疑惑は、確定じゃないからな。事実無根だし。
「先に説明があったかと存じますが、こちらのお宅で異常が発生していると思われます。応答もなく、他のご家族と連絡も取れないので、町会長さんに、お立ち合いを、お願いします」
俺たちにはぞんざいな警官が、町会長には丁寧にお願いした。
鷹揚に頷く町会長。周囲を飛び回る、ハエの意味には、気付いていない。
「では、参りましょう」
鍵を持った警官と町会長が先に立つ。外で待たされるかとも思ったが、俺たちを挟んで後ろに警官が二人回った。
一人は外で待機するようだ。外で待たせたら、そいつを倒して逃げると思われたのかもしれない。
俺たちを全面的に信用した訳じゃないぞ、と無言の圧力である。
理由はともかく、家に入れるのは好都合だった。
玄関の鍵穴に、例の鍵が差し込まれる。ガチャリと開く音と共に、鄭と律が揃ってマスクをつけた。
「おまっ」
お前らだけ何でマスクをつけるんだ、裏切り者、と口を開きかけ、すぐに止めた。
開いた扉から、黒い霧が唸りを上げて飛び出した。警官と俺たちは、一斉にしゃがみ込む。町会長も。
ハエだった。コロコロと丸太りした虹色に光る粒が、俺たちにぶつかりながら舞い狂う。その数は、割れ窓から出た比じゃなかった。
ぶおんぶおん、とひとしきり暴走族のように唸った後、広い空へと飛び去った。
「な、ゲホッ。何ですか、これ?」
鼻と口を片手で覆い、他方を扇代わりにひらひらさせつつ、町会長が立ち上がった。
まだハエはそこここにいるが、先ほどの衝撃に比べたら、いないも同然だった。
それよりも、異臭である。町会長が口を開くなり咳き込んだのも、そのせいだ。
なまものが腐った臭い、発酵した臭い、刺激臭が入り混じった毒々しい気体が、俺たちの鼻に入り込んできた。閉め切った家の中の空気は、外気に触れ拡散されてなお、周囲よりなま暖かいように感じられた。
鄭がマスクを俺に手渡すので、目顔で礼をして装着する。警官たちがもの欲しそうな視線を送るが、彼が追加を取り出す気配はない。予備にしたって、日帰り旅行に、そんなに持ち歩かないだろう。
「これから、それを確認するのです」
勇敢にも、先頭の警官が足を踏み出した。町会長は、身をそらせた。
「え、私もですか? この奥へ?」
と顔を向けた先は、両側の扉を閉め切った状態の、薄暗い廊下であった。
臭いは奥からやってくる。床が、やたらてらてらしているのが、不気味である。
暗さに慣れた目には、ハエの死骸が水玉模様ばりに落ちているのがわかる。踏まずに前進できたら、大したものだ。生きたハエも、まだまだ潜んでいそうだった。
「ご協力いただければ、大変助かるのですが」
警官が少しの表情と声音の変化で圧力をかけたが、町会長には通じなかった。
「いやいやいや、とんでもない。この家がお留守で、しかもこんな状態とは知りませんでした。警察の方が開けて中を確認なさるのは当然のことです。開けるところは確認しました。これ以上は、無理です。うぷっ。ペッペッ」
長広舌を振るううちに、ハエが触れたらしい。横を向いて唾を吐く。俺たちが避けたのを見て、わざとらしく両手を合わせた。
「おお。碰上大学の先生方がおられるではありませんか。後は専門の方にお任せしますよ。私はこれで」
退散にかかった。俺たちは、先生じゃないんだが。
「でしたら、家の外でお待ちください。事情聴取させてもらいます」
素早く先頭の警官が声を掛け、俺たちの後ろにいた警官がさりげなく退路を絶った。連携プレイである。
「事情聴取?」
町会長の顔が不安に陰る。
「今そこで聞き取らせます。後でお呼び出しすると、時間がかかりますので」
笑みを浮かべる警官。口はほとんど閉じている。
町会長は、逮捕されたみたいな暗い顔で、警官に付き添われてパトカーへ乗った。そこには待機中の警官がいる。
送り届けた警官がすぐに戻り、先の警官と二人で先頭に立った。背後にも警官がいる。俺たちも一緒に行くらしい。
都合は良いのだが、どことなく逮捕連行中の感がある。
警官たちが土足で上がり込んだので、俺たちも倣った。靴が、ぬるりとした物を踏みつける。
靴下でなくて、本当に良かった。靴でもできれば踏みたくない。死骸の体液で、滑りそうだ。
「窓が割れた部屋はどこだ?」
「あの襖でしょう」
普通の家の間取りである。警官たちは数歩で奥まで辿り着いた。異臭がだんだん濃くなる。
問題の襖は建て付けが悪く、閉め切った端と柱の間に上から斜めの隙間が空いていた。下の方はきっちり閉まっている。
ほの白い地に、ぽちぽちと黒い水玉模様がついていたのが、パッと飛び立った。暗がりにもシミだらけなのが見てとれた。
「庵桐さん。入りますよ」
警官が呼ばわる。
「は〜い」
微かな女の声がした。ぎょっとしたのは、警官たちである。見合わせた横顔が強張っている。
聞こえたのだ。
稀に、条件が重なると、能力を持たない者でも、霊の存在を感知する時がある。今がまさに、その場合らしかった。
警官たちは、強張った顔のまま、俺たちを見た。
「先に、入りましょうか」
俺は提案してみた。警官の顔に迷いが浮かぶ。しかし、一瞬だった。
「民間人を盾にはできない。我々が先に立つ。危ないと思ったら、外に出てくれ」
やっと、信用してくれた。聞いたからな。
その上で、彼らの職業的倫理観には敬意を表する。
実は警官たちの後から入った方が、俺たちの仕事はやりやすい。
可能ならば、後ろの一人も前に出したいほどだ。今のやりとりの間に、律と鄭の準備もできただろう。
「じゃあ、入ります」
警官の一人が、襖の引き手に手をかけ、勢いよく横へ滑らせた。
うわん。
待ち構えていたような、ハエの大群が飛び出した。警官たちが反射で姿勢を低くする脇を、無理やりすり抜ける。律と鄭が後に続く。
「待てっ、ぶぺっ」
「ごほっおえっ」
制止する警官たちの口に、容赦なくハエが飛び込む。
部屋の中もまた、ハエの群れで黒く霞んでいた。刺激臭で何故か目がしばしばする。
真ん中に介護用ベッドがあり、その脇に二人、白っぽい人影が浮かび上がる。
「अन्धकारात् प्रकाशं प्रति अस्य व्यक्तिं नयतु ।」※
「丟掉你在這個世界上的遺憾」※※
俺は部屋を突っ切り、カーテンと窓を開け放った。
季節にそぐわない、ひどく眩い光が、一気に部屋の隅々まで押し寄せた。
ハエが大挙して、広い空へと飛び去っていく。
「君っ、勝手なことをっ。現場がっ」
ようやくハエの群れから解放された警官たちが部屋へ踏み込んだ時には、律も鄭も何事もなかったかのように、ベッドの前に立っていた。
白い影は、もう跡形もない。
ベッドの上には、ほとんど骨ばかりの遺体が、元は服だったらしい汚れた布を着て、横たわっていた。
※ サンスクリット語 この人を暗闇から光へ導く の意。
※※ 中国語 この世に対する未練を捨てよ といった意味。