人間の敵は人間
川を渡るとホテルへ行けるのだが、橋のたもとに人力車が止まっていた。観光地で時折見かけるものだ。
別荘地は、観光地でもあることが多い。
「あれ乗る?」
目ざとく理加が尋ねる。
「いや、いい」
この人混みの中を走るのは、恥ずかしい。それにあれは二人乗りだ。一人余ってしまう。となると、俺だけ乗れないことになる。それも、嫌だ。
商店街へ踏み込む。まず食事を取ろうと意見が一致して、土産屋なんかは横目で通り過ぎるのだが、蜂蜜屋とか饅頭屋とか、食べ物系の店があると、つい気を惹かれてしまう。大分腹が減っている。
途中、人混みが過ぎて動かない店があった。食堂である。期待して並びかけたが、列はない。
よく見れば、店を取り囲む形で人がいる。
「何かしら」
「あ、岩動」
「ロケか。連休中に?」
法被を来た人に誘導され、店の中から岩動心陽が出てきた。
学科の三年生で、学費を稼ぐためにバイトしまくっている。ルギっちという名前で、モデルもしていた筈だ。
撮られても問題ないくらい、霊力は低いとか。それに、自分でも抑える訓練をしている、と聞いたことがある。合格したのはぎりぎり、と言われたそうだ。
その手のバイトを続けたいのか、能力を高めようという意欲は見られないけど、勉学に不熱心という訳ではなく、きちんと授業にも出ている。
「お味は、どうでしたか?」
岩動にマイクが向けられたのを見て、理加がさりげなく移動を始めた。
彼女の前には、肩に担ぐ大型カメラや、巨大な猫じゃらしに似たマイクを持った奴がいる。少し離れた場所に、プラカードを持った奴がいた。
番組名と思しき下に、注意書きがあった。
『生中継中。ご協力ありがとうございます』
生中継だと? ヤバい。
「はい‥‥生きくらげ蕎麦が、とっても美味しかったです」
一瞬目が合って、岩動の息が止まったみたいに見えた。
俺は見なかった振りをして、なるべく急いで通り越した。
理加や俺がカメラに映ると、高確率で心霊動画になる。しかも生中継である。何が起こるかわからない。責任も取れない。
「生キクラゲって、珍しいわねえ」
絹子叔母が、岩動の言葉に反応した。今にも引き返しそうだ。
「叔母さん。もう少し先に、湯葉料理の有名なお店があるの。そこへ行ってみようよ」
理加が提案する。声に焦りがあった。
「湯葉も、いいわねえ」
幸い、絹子叔母の興味を引けて、俺たちは湯葉料理の方へ行った。裏通りに構えた店舗で、先ほどの店から少し距離もあった。生中継なら、ここまで来ることはあるまい、と安心する。根拠はないが。
有名というのは、本当らしかった。店の前に列がある。順番が来てみると、店内が広く、結果として、さほど待たずに食べられた。
湯葉は、豆腐と同じ材料で出来ているのに、まるきり別の食べ物だった。作りたての豆腐が、美味かった。
駐車場へ戻る通り道で、再び商店街へ来た。今のところ、岩動やカメラは見当たらない。既に引き上げたのだろう。
行きに見られなかった分、絹子叔母に合わせて、ゆっくり店を巡った。腹ごなしも兼ねている。
道の両端に並ぶ店を全部見るには、一旦駅まで下って、道路を渡って戻らねばならない。
面倒ではあるが、絹子叔母の体力が許せば、俺と理加は付き合うつもりだった。
「あ、知里子さん」
ある店を出たところで突然、絹子叔母が道路へ飛び出そうとした。俺と理加が両側から腕を押さえる。手に提げた干物と蒲鉾と温泉まんじゅうが、互いにぶつかって揺れた。
紫と緑を基調とした派手な柄のバスが、目の前を通り過ぎていった。危ないところだった。
商店街の間を通る道は、幅の狭いわりに、交通量が多い。さほどのスピードには見えなくとも、当たれば怪我は間違いない。元気に見えても、絹子叔母は高齢者なのだ。
「叔母さん、急にどうしたの?」
「今、知里子さんがいた」
絹子叔母の視線を辿る。特に変わったことはない。
俺は庵桐知里子の顔を知らない。もしそこに彼女がいたとしても、人混みから見分けられないだろう。
ただ、絹子叔母の声に反応して、立ち止まるような人は、いなかった。行動から推して、反対側の道にいたか、歩いていたかしたのである。聞こえず立ち去ったとしても不思議はない。
「退院したのかな。もう一回、お家へ行ってみる?」
絹子叔母の様子を見て、理加が尋ねる。運転するのは俺である。だが、一も二もなく賛成した。
そこからは寄り道せず、まっすぐ駐車場まで下り、また車で坂を上った。
先に干物を買ってもらっておいて、良かった。車の中に、魚の匂いが漂う。人間の鼻には、生臭い。保冷剤をつけてもらったが、早く帰った方が良さそうである。
近所の婆さんも知らなかったのだ。退院したばかりに違いない。病み上がりの相手に、長居は無用である。
行ってみると、今度は駐車場に、車があった。先ほどは、買い出しにでも行っていたのか。
「帰ってきたんだわ」
絹子叔母の声が弾む。
それは喜ばしいことだったが、俺の駐車場がなくなってしまった。住宅街で、時間貸しの駐車場は見当たらない。
俺は仕方なく、車を路上へ停めた。こんな山間である。他の通行車両も、違反切符を切る警察も、来ないことを祈る。
車を停めるなり、絹子叔母が自分でドアを開けて降りてしまった。
「危ない」
理加が後を追う。幸い、車は全く通らない。先ほど会った婆さんに見られたら気まずいが、その姿もない。
「お袋なら、とっくに死んでいますよ」
車を出た俺の耳に、男の声が飛び込んできた。
急いで敷地へ足を踏み入れると、車庫の前で、理加と中年の男が向き合っていた。
間に立つ絹子叔母が、おろおろしている。
「でも、私たちはお母様からお便りをいただいて。ね、叔母さん?」
理加も困惑の体である。絹子叔母に同意を求めた。
「え、ええ。さっきも下で見かけたの。これが、その葉書」
「見せてください」
男はひったくるように、葉書を取り上げた。大涌谷の方だ。
俺は家を見た。呼ばれた気がした。
理加も見た。
「冗談じゃない。これ、消印がないじゃないですか」
俺たちは、男の声に顔を向けた。男は顔を青くして怒っていた。手に持った絵葉書を振り回す。それでは、消印がないかどうか、見えない。
絹子叔母が、記憶を確かめるように、目顔で俺に問いかける。
俺だって、以前に見た時のことなんて、覚えちゃいなかった。
「近頃、怪しい奴がうろついているって、注意が回っているんだ。あんたたち、そうやって人の家を家探ししているんじゃないのか?」
男は自分の言葉に興奮し、顔に血を上せてきた。心霊学の調査で、事情を知らない人とぶつかると、よくある反応である。今回は、そういう話じゃなかった筈なのだが。
「いえ、私は怪しい者ではなく、碰上大学の‥‥」
名乗ろうとする理加を、男は絵葉書で切り付けるように遮った。
「今すぐ立ち去れ。警察呼ぶぞ」
ぷち、と理加の堪忍袋の尾が切れる音がした。ような気がした。学生を前にする仕事では忍耐強いが、今はプライベートだからな。
「呼んでもらっても、一向に構いませんよ」
理加は、意味ありげに家の方を見ながら、冷ややかに言い放った。
「何だと?!」
男の顔が、また青くなる。そんなに赤くなったり青くなったりして、今にも倒れるんじゃないか、と他人事ながら、俺は心配になった。
「理加さん、帰りましょう」
今にも殴りかかりそうな男の拳が、絹子叔母の声で、ぴたりと止まった。
その隙に理加は、絹子叔母の言葉に従った。俺も素早く後に続く。
男は疑い深く、敷地の外まで追ってきた。拳は下ろしていた。無言である。
そして、俺たちが車を出し、苦労して方向転換した後、帰る道を下り始めるまで、じっと見つめていた。
絹子叔母宛の絵葉書が、その手に握られたままだった。