絵葉書が二枚
学生が夏休みを満喫しているのに、俺だけ働くのは、どうにも割に合わない。
毎年のことだが、そう思う。
実際には、夏休み中の課題をこなしたり、卒論に取り組んだり、バイトを集中的に入れたり、就職活動したり、と色々忙しく、例えば理加の元旦那みたいに旅行三昧な学生は少数派らしい。
現にこの間も、課題をこなすために泊まりがけで熱海へ行かされていたし。ちなみに俺も運転手役に駆り出された。
理加は、俺が猫だった時の飼い主で、現在は碰上大学理学部心霊学科の助教授として、人間になった俺の上司になっている。俺は助手である。
夏休みに働くのは理加も一緒である。だから内心はともかく、俺はちゃんと働いているぞ。
再婚した理加と会えるのは、職場関係だけだからな。
俺は今、理加が独身のころ住んでいたマンションに、絹子叔母と同居している。
絹子叔母は元から人間だ。理加の叔母である。
マンションの管理人と並行してお茶とお花、もしかしたら踊りか着付けも、の師匠をしていたが、高齢で引退し、年金暮らしだ。
一応、俺が扶養していることになっていたんだっけか。
人間の制度は、よくわからん。
そういう面倒臭いことは、理加の旦那の成瀬に任せている。奴は弁護士で、俺の戸籍も作ってくれた。戸籍は、要するに俺が人間として日本に住んでいる、という証明みたいなものらしい。この説明も、成瀬の受け売りだ。
俺が理加の飼い猫だったことを、未だに理解しないのが玉に瑕だが、根はいい奴なんだろう。
「それでね、電話をしてみたけど、通じないの。昔の連絡先だけど、住所が一緒で固定電話だったら、大丈夫と思ったのに」
絹子叔母は、おっとりと話を続ける。
夕食の席である。
夏休み中は授業がなく、学生がいない分、定時で帰りやすい。そこで、一緒に食事をする機会も増える。
俺は、絹子叔母が作ってくれた和食を食べながら、彼女の話を聞いていた。
華道を教えていた弟子が、久々に絵葉書をよこしたのだという。
名を庵桐知里子という。
都内に住む主婦で先生になれる免状まで取ったのが、夫の趣味の関係で箱根に家を買ったとかで、引っ越したのを機に、通うのが大変で辞めた。しばらく賀状のやり取りをしていたものの、いつしか途絶えていた。
魚の煮付けを飲み込みつつ、件の絵葉書を見せてもらう。
山に囲まれた湖の辺りに、鳥居が立つ、絵みたいな風景だった。
「ここどこ?」
裏返した住所には、箱根の文字がある。
「芦ノ湖。その鳥居は箱根神社と言ってね」
と嬉々として神社の由来を語り出す。一千年以上前からある古い神社だそうだ。聞きたいのはそこじゃなくて、と思いつつ、食べながら聞き流す。
「ここから遠いの?」
きりの良さそうなところで、聞いてみる。
「新幹線で行けば、割とすぐ着くわよ」
鷹揚に答える絹子叔母に、さらに尋ねると、神奈川県の端っこで静岡県との境にあるらしかった。
箱根に新幹線の駅がある訳じゃないし、ここまで何回か乗り換えが必要である。結構遠い。
丸一日潰れると思えば、週一は面倒だ。月一なら通えなくもなさそうだが、家の事情もあったのだろう。
「電話も、最近ではスマホだけの家が増えているみたいだよ」
電話が通じなかった件について、思いついたことを告げると、絹子叔母が、信じられない、という顔をした。
理加ぐらいの年代でも、大分前から固定電話は、職場の内線電話ぐらいしか触らない。
そのお弟子が何歳か知らないが、俺からしたら、絹子叔母と大して変わらないだろう。すると、固定電話は家にあって当たり前の世代である。
昔から置いてあるものをわざわざ取り外す、というのは確かに考えにくい。しかし、それぞれ事情もある。
「急ぎの用じゃなさそうなら、手紙を出せばいいんじゃない?」
「そうね。そうするわ」
絹子叔母は、連絡手段が定まって、やっと落ち着いたようだった。
俺が猫から人間になった当初から、本能的に事情を理解している風なのに、ともすると年上のような扱いをされるので困惑する。猫人生を加えれば年上だけれど、人間並の経験や知識を期待されても、無理である。
その後、大学構内にある桜ヶ池の怪異関係で、俺は忙しくなった。せっかく学生がいなくてのんびり仕事できると思ったのに、全く夏休みのうまみがない。
箱根の元弟子のことは、完全に忘れていた。
だから、事態が落ち着いて久々に夕食を一緒に食べた時、絹子叔母が話し出しても、すぐにはピンと来なかった。
「知里子さんがね、今度の連休に、遊びにいらっしゃいって誘ってくれたの」
「えっと、誰だっけ?」
卵をたらふく抱えたししゃもに頭からかぶりつきながら、俺は思い出そうとしたが、全然出てこない。
「庵桐知里子さん。華道の方のお弟子さん。箱根に住んでいる」
「ああ、思い出した」
と俺は言ったけど、ほぼ全部の情報を教えてもらっている。
電話が通じないから、手紙出せば、と言ったことは、自力で思い出した。
「手紙出したの?」
出したに決まっている。問題は解決したのだろうか。
「そう。そうしたら、返事が来て、ね」
またもや絵葉書を差し出される。電話じゃないのか。何てのんびりしたやり取りだ。
絹子叔母らしい感はあるけれども、相手も相手である。年寄り同士、暇の潰し方で気が合ったのだろうか。
今度の絵葉書は、石ころがあちこち散らばる荒地から、白っぽい煙が数箇所、もくもくと立っている。
死人も鬼も見えないが、どことなく地獄を連想させる景色だった。絵ではない。写真である。
裏を返すと住所は同じ。
「これも箱根なの?」
「これは、大涌谷ね」
またも嬉々として、黒い茹で卵なんかの話を始める絹子叔母。行きたいのだろうな。
絹子叔母は昔から、習い事のお弟子さんに呼ばれてあちこち旅行していた。近年は遠出した記憶がない。先生を引退して、呼ばれることも減ったようだ。年金暮らしだし。
彼女は年齢の割に元気な方だと思うのだが、隣県とはいえ、ほぼ静岡である。行くとしたら、誰か付き添った方が安心だった。
理加に相談しよう。
絹子叔母に葉書を一枚借りて、研究室へ行った。
理加は、パソコンと睨めっこして何かの申請書を作っていたけど、俺の話をすぐに聞いてくれた。
二人の子を持つ母である理加に、今更仕事と俺とどっちが大事、などと聞く気はないが、元飼い猫としては嬉しい姿勢だ。
「箱根‥‥湯本か。微妙だわ。でも、自動車の方がいいか」
「行ってくれるの?」
「そりゃあ行くわよ。理斗が運転するんでしょ?」
「俺が? 新幹線じゃなくて?」
首都高の運転は緊張する。
行き先を見落とさないよう、目を皿のようにして探しても、標識が多すぎて、あれ、どの標識を見ればいいんだっけ、と思うことがある。
迷っている暇はない。計画的に車線を変更していかないと、間に合わない。
皆、結構なスピードで走っていて、躊躇えば、あっという間に通り過ぎる。
そして一歩間違うと、たちまち予想外の場所へ降ろされ、車と人と自転車やバイクまで大量にうろちょろする道を延々と巡り、元のルートへ戻るまでに大幅な時間ロスを覚悟しなければならない。
うわ、考えただけで毛が逆立つ。
「こないだだって、熱海まで行ったでしょ。ルートは途中まで同じよ。電車は乗り換えで結構歩くからね。自動車で行った方が楽だって。二時間見ておけば、大丈夫」
それは乗る側の話である。
でも、理加と一緒に出かけるのは嬉しい。そこで俺たちは、出かける日時を打ち合わせした。
「へええ。息子夫婦と同居して解約したのかもね。うちも、ほとんど使わないもの」
電話の話をすると、理加もほぼ俺と同じ見解だった。
「そういうのんびりしたやりとりも、たまにはいいんじゃない。それにしてもこれ、何か臭うんだよね。硫黄の匂いでもつけているのかしら、大涌谷だけに」
理加が、絵葉書をひらひらさせて言った。写真にある煙は、火山活動の名残りだという。
那須の殺生石で見た煙と同じようなものだ。あそこは理加にも縁がある。
取り憑いている、と言っても友好的に、だが、その妖怪と出会った地なのである。その類似に惹かれたのかも。