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天空の浦島竹取秘話

作者: ここのすけ

 午後。山間の無人駅に一両編成の列車が着いた。降りて来たのはたった一人だった。

降りて来たのはピンクのアノラックジャンパーにベージュのズボン、運動靴姿の小学生か中学生位の女の子だった。女の子は暫く辺りを見回し歩きだした。

 山間に開けた田園の田舎道を遙か先に見える集落に向かっている。途中大きな製材工場の脇を通った。木を切る機械の音がしていた。女の子は工場の中を覗き込み又歩き出した。

 二十戸程の集落の中に小さな店屋があった。足を緩めて店先を見つめ又歩き出した。

集落を通り抜けると山が迫っていた。とぼとぼと女の子の歩みが遅くなってゆく。

 山の谷間に小さな畑がありその脇に細道が山裾を回る様に続いている。女の子は振り返って歩いて来た道を眺めた。遠くに無人の駅舎が見える。女の子は歩き出した。道は道とは言えない程の草に覆われていた。暫く何かを探る様に歩いて来た女の子が足を止めた。足元に古い小さな石柱が立っていた。その場所から山に向かって山道が登っていた。古い石積みの階段が十数段続きそこからは本当の山道だった。仰ぎ見た空は晴れていた。落葉樹が芽吹いて新緑の若葉が輝いて見えた。最近人が通った形跡もない、狭くて人一人がやっとの古い山道だった。そんな寂しい山道を女の子は俯きながら登って行った。倒木が行く手を遮り木の根が足をつまずかせた。一時間程登って来ただろうか。山道が二手に別れていた。一方は上へ一方は左斜め下へと続いている様だった。その分かれ道に太い丸太を削った道しるべが建っている。墨汁で書かれた文字は「親子地蔵はこの先」と矢印は左方向を示していた。

 女の子は左に折れた。不思議にその山道は広く幅は一メートル程あった。道を下って行くと竹林があった。道は竹林の中を下っていた。竹林を抜けると谷底だった。岩だらけの谷を僅かだが水が流れていた。道は谷の脇を登っていた。女の子はその道を重い足を引きずる様に登った。

 谷は行きずまり谷を隔てた対岸に岩の崖が出現した。見上げるような断崖絶壁だった。崖の上に松の木が生えていた。仏ガ嶽。今この名を知る者は少ない。

 女の子は谷底の岩を踏み越え断崖の下に至った。崖の下に古い大小の地蔵が立っていた。地蔵には赤い前掛けが着せてあった。誰かがお参りに来ている証拠だった。地蔵の後ろ、岩の割れ目から湧水が染み出ている。女の子はその染み出た水を両手の平で受けて二つの地蔵の頭に垂らした。湧水を地蔵に掛けると願いが叶うと言う言い伝えがあった。

 子宝縁結び地蔵。遠い昔この迷信を信じて遠方より善男善女がお参りしていた。信仰が途絶えたのは大地震の後、湧き出ていた水が枯れお参りする人も自然に途絶えていった。 今、少量ながら水は涌出ていた。


「今朝は冷えたな・・姫さん起きろ海が見えるかも知れない・・」浦部市郎は石油ストーブに火を点けヤカンに水を入れてストーブの上に乗せた。台所脇の居間にはまだ炬燵があった。膨らんだ炬燵布団が動いて妻の姫が這い出て来た。

 夫婦二人寝るのは炬燵だった。時刻は午前五時部屋の中はは薄暗く、今には豆電球が一つ灯っていた。妻の姫が台所に立ち朝飯の準備に掛かった。

 標高三百五十メートル山頂に近い限界集落に夫婦が帰って来て十年が経っていた。

 浦部市郎この集落を離れたのは十八の春だった。以来四十二年が過ぎ、一人になった老いた母親の介護のために夫婦で帰郷した。二人には子供が居なかった。帰郷して五年母親は身罷った。それから五年が過ぎ市郎は七十歳になっている。姫は二つ違いだった。

 市郎がこの集落を出た時は、集落には七世帯が暮らしていた。しかし市郎が帰郷した時は四世帯が集落を去り、帰郷後には一世帯が山を下りた。残っているのは隣に住む日雇い大工の

山岡耕作六十歳だけになっていた。山岡耕作は妻帯したことは無く独身のまま暮らしている。

 集落は廃屋だらけになっている。朽ち果てて原型をとどめない家もある。


 市郎は雨戸を開けた。外は明るくなっていた。「姫さん今日は海が見えるぞ。外に出て見よう」

妻に声を掛け市郎は門先に出た。

 眼下には白く凪いだ静かな海が広がり遠くの山々が島の様に浮かんで見えた。平素なら谷間に開けた盆地の田畑や幾つかの集落の家々も見える、見晴らしの良い山頂に近い傾斜地に市郎の家は建っていた。

 家々を飲み込み白い雲海は遙か彼方まで続いている。「ああ海よ・・凪の海・・」

 姫の目が潤んでいる。姫は北の小さな漁村の生まれだった。父母は小さな漁船で二人で漁をしていたが荒れた海で命を失った。姫の目には雲海と故郷の海が交差して見えていた。

「冷えるからもう家にはいれ・・」市郎は姫の心を察して促した。

遠くに霞む山のその向こう雲海の底にあるネオン煌めく竜宮から市郎は姫を伴い陸の孤島に帰って来た。玉手箱を開けなくても、市郎の頭髪は白く顔のしわも深くなっていた。

姫が初めてこの場所で雲海を見た時「わあ綺麗な雲海・・我が家はまるで天上の宮殿見たいですね・・」

と笑って言ったのは十年も前の話だった。

 市郎がタバコに火を点けて雲海に似た煙を噴出した。噴出した煙は古い平屋宮殿の軒先にまで上がって消えて行く。「市郎さん朝飯にしましょうよ・・」家の中から姫が呼んだ。

 浦部市郎は歓楽街を中心に酒類を卸販売する会社に勤めていた。初冬の夕刻営業に回っていた市郎は歩道に落ちている毛皮の肩掛けショールを拾った。辺りを見回しながら歩いているとキョロキョロと地面を探して歩いている白いワンピースの女に出会った。それが姫だった。

 二人の出会いは竜宮歓楽街の道端だった。


 岩戸邦夫が岩城町奥峰の集落を家族を連れて立ち退いたのは二十年前の事だった。出稼ぎで勤めていた土建会社に正式社員として雇われる事となり一人息子の政勝が高校を卒業するのを待って都会に出て住居構えた。もっとも借家ではあったが。息子の正勝は大手のスーパーマーケット会社に入社し惣菜部門で料理を覚えた。やがて同じ店で働く千鶴と知り合い結婚した。

 子供が生まれた。女の子だった。一家は五人になった。笑い声が絶えない幸せな一家だった。

 子供が小学一年生になった年に政勝はスーパーマーケットの会社を辞め自分の飲食店を持った。貸店舗を改造した食堂だった。近くに電気製品の大型工場もあり開店当初は物珍しさもあって工場の勤め人やら営業マンやらが昼食を取りにやって来て政勝と手伝いの千鶴はてんてこ舞いするほどだった。しかし夜になると繁華街と違って客足は途絶えた。それではと夜間はカラオケスナックに移行して、近くの住宅地からやってくるカラオケ愛好家達の憩いの場になり利益は確保できた。それから三年過ぎて岩戸家に災難が発生した。

政勝の父邦夫が工事現場の足場から落ちて大腿骨を折る重傷を負ってしまい、松葉杖が必要な身体障害者になって会社を辞める事になった。パートタイマーで働いていた母兼子は夫の面倒を見るため仕事に行けなくなった。

一家の災いは更に続いた。経済的不況で経営不振に落ち込んでいた大型電気工場の閉鎖が確定したのだ。一家に取っては泣きっ面に蜂の状況だった。

工場が閉鎖された。店に来る客は常連の営業マン位のもので経営は生きずまり借金を抱える羽目に落ちいってしまった。妻の千鶴は又パートタイマーの仕事に出る様になった。それから一年も経たず政勝は店を閉店した。昼間に借金取りが訪れる様になると政勝は家を空ける様になった。妻が稼いでくる僅かな金と父母の蓄えを持ち出しパチンコ店に入り浸っていた。

不幸はこれでもかとやって来た。政勝の母兼子が痴呆を発症したのだ。政勝の妻千鶴はパニック状態に落ちいってしまった。

政勝と千鶴夫婦の口論が毎日の様に続き激しさを増した。そして来るべきして其日はやって来た。小学校五年生になっていた娘綾香は学校から帰って来ると家の前にパトカーや警察の車が止まっており、家の中から血まみれの父親が両手錠で出て来るのを見てしまった。やがて救急車が到着し血だらけの祖父母と母親がタンカ運ばれて行くのを家から離れた場所で見ていた。

家には黄色いテープが巻かれて入口には制服の警察官が立っている。その警察官の元へランボセルを背負い涙ぐんだ女の子が近寄って来た。

「おいおいお嬢さん。何処に行くの・・」警察官が尋ねると女の子は黙って後ろの家を指さした。

「えっ・・君はこの家の子供なのか・・」再び尋ねると女の子はコクリと頷いた。

「これは大変だ・・早く保護してやらなければ・・」警察官は家の中に居る上司に連絡した。


「姫さん。竹の子の朝りに行くよ。着いて来るかい・・」市郎が地下足袋を履き背負い籠を担いで姫に声を掛けた。「あっはいはい。行きますよ。耕作さんが買って来てくれた柏餅をお地蔵様に御居供えしなくては・・」姫は何時も隣の日雇い大工、山岡耕作に町に出たついでに買い物を頼んでいる。

「そうか・・それじゃあ用意して着いてこいよ・・」姫がもんぺ姿になり半紙に包んだ柏餅を市郎が背負った籠に入れた。市郎は鎌を籠に、鍬を手に持って家を出た。その後を姫が着いてゆく。家の直ぐ裏の尾根伝いに足場の悪い山道を下って行く。暫く下ると道が右手に二つに別れた。二人は別れた右の山道を下った。竹林の中の道に踏み入ると二人は落ち葉の積もった地面を踏みしめ竹の子を探した。三本の竹の子を掘り出して籠に入れ、籠の中の半紙の包みを取り出した。籠と鍬鎌を竹林の道端に残し姫が紙包みを持って市郎と二人竹林を下った。下った先は岩がごろつく谷の底でその脇を道が登っている。

 二人が登って行くと左手対岸に岩の壁が見えて来た。「あれは何だ・・」先を行く市郎が指さした。指先は岩壁の下を指し示していた。ピンク色の何かが見えた。市郎の足が早まった。

 ほとんど水の流れのない谷の岩を踏んで市郎は対岸に渡ると親子地蔵の元に急いだ。

「人だ・・人が倒れている・・女の子だ・・」後ろも見ないで地蔵の前に駆け寄った。

ピンクのジャンパーを着た女の子が横向きに斃れていた。

「おいしっかりしろ・・」抱きかかえて女の子の頬を軽く叩いた。女の子に意識はなくぐったりとしている。市郎は手首の脈を見た。弱いが脈はあった。後ろから駆け付けた姫は手に持った神包みを地蔵に供えると女の子の顔を覗き込んだ。

「こんな小さな女の子が何故こんな場所に来ているの・・この子大丈夫ですか・・」

「大丈夫じゃない。昨夜からこの場所に居たのだろう。低体温症になって居る様だ・・直ぐに連れて帰らなくては・・」

そう言うと市郎はぐったりとした女の子を背負った。姫がお地蔵さまに手を合わせ後から着いて来た。谷をまたぎ竹林を登った。姫が置いていた竹の子が入った背負い籠と鎌と鍬を持って市郎の後を追った。

 家に辿り着くと市郎は「姫さん急いで電気毛布を出してくれ。それからタライとバケツにお湯を入れてくれ・・」と姫に頼み、姫が押し入れからでして来た電気毛布のコンセントを差し込んだ。市郎が電気毛布で女の子を包み姫が灯油ストーブに火を点けストーブ上のヤカンをガスコンロに掛けて火を点けた。お湯が沸くまで夫婦はそれぞれ女の子の手足を撫でさすった。

 湯が沸くとタライとバケツに少し熱めの湯を入れて女の子の手足を温めた。昼が来て飯を食べる事も忘れて夫婦は看病を続けていた。

 午後の三時頃になって女の子がやって目を開けた。「気が付いたか・・」女の子は自分を見下ろす老人夫婦の顔を見上げた。喉が乾いているのか口を少し開け舌で唇を舐めた。

「姫さん白湯を・・」市郎が姫を見ると、姫は既に立って白湯を茶碗に入れて持って来た。

 市郎は女の子を抱え起こして白湯の茶碗を女の子の口元に運んだ。女の子はごくごくと喉を鳴らして茶碗の白湯を飲み干した。女の子の口が小さく開け閉めを繰り返した。そこに声は無かった。それを見ていた市郎は持っている茶碗を姫に差し出し「もう一杯・・」とお代わりを頼んだ。二杯目の白湯も女の子は飲み干した。青白かった顔の色も赤みを帯びて来ていた。

「もう大丈夫だ・・やれやれだな・・」笑顔になって市郎は姫の顔を見た。

「よかったよかった・・きっとお地蔵様が守ってくれたに違いない・・」姫も笑顔だった。

「姫さん腹が減ったよ。何か食べさせてくれないか・・それにこの子にも何か食べる物をやってくれないか・・」「そうだね・・お地蔵様にお供えした柏餅ならあるけどね・・」

「食べるか食べないか判らないが与えて見てくれ。それから牛乳も温めてな・・」

「ハイハイそうしましょう。私達は茶漬けでいいですか・・昨日の竹の子が残っていますよ」

「ああそれでいい・・梅干しと目刺しがあればもっといい・・」

「ハイハイ私もそれが良いです。すぐに支度しますから・・」

 毛布にくるまり寝ていた女の子が半身を起こした。

「・・・何と呼べば良いのかな・・娘さん此方に来て炬燵にあたりなさい」姫が炬燵板の上に盆に乗せた柏餅とコップに入れた温めた牛乳を置いた。

 女の子は炬燵ににじり寄り足を入れて牛乳のコップを手に取り口に運んだ。柏餅の柏の葉を取り除き餅も直ぐに食べつくした。

 市郎と姫は炬燵で竹の子の煮物と目刺しでお茶漬けを掻き込んでいた。それを見つめる女の子の喉が動いた。それを見た市郎が「お前も食べるか・・」と声を掛けると女の子は小さく頷いた。「姫さん。柏餅一つでは足りなかった様だ。この子にも茶漬けをやってくれ。それから卵焼きもな」「はいはい只今作りましょう・・」姫が炬燵から立ち上がった。


 女の子が遅い昼飯を食べ終えると市郎は尋ねた。

「娘さん何処から来たんだい・・それから名前も教えてくれないかな・・でないと娘さんあんたをなんと呼べば良いのか分からない・・」しかし女の子は俯いて無言だった。

「これは困った・・何か言ってくれないと御爺さん達はどうすれば良いか分からないよ」

 市郎の顔を見上げた女の子が口元を指指した。

「なんだ・・口が聞けないとでも言うのかい・・」女の子が又小さく頷いた。

 市郎と姫はあっけにとられ顔を見合わせた。

「市郎さん。もしかしたらこの子の捜索願いが出て居るかもしれないわよ。早く山城町の警察署に確認してもらいましょうよ」

「そうだな・・誘拐犯にでも疑われたら迷惑だからな電話をして見るか・・」

 年寄り夫婦の会話を女の子は見つめていた。

 市郎は携帯電話をもって家の外に出た。山城警察署の電話番号が判らず110番に電話を掛けた。電話受けした警察官に小学生位の女の子を保護した状況を逐一説明し山城警察署の電話番号を尋ねた。市郎が山城警察署に電話を掛けるまでもなく、警察署から市郎の携帯電話に先に掛かって来た。今現在小学生の捜索願いは出ておらず県本部に照会中であると伝えて来た。

更に保護している少女について保護者が確認できるまでそちらで保護して貰えないだろうかと依頼してきた。これに対し市郎はやぶさかではないと回答した。

 家に入った市郎は姫にまだ捜索願いが出されておらず保護者を確認できなかったと伝えた。

「それにしても昨日俺は家の下の畑に一日中いたが、つづら折りの車道を歩いて登って来た者はいなかった。だとすると女の子は地蔵参道の荒れた道を登って来た事になる。あんな子供が何故あの道なき道を知って居たのか。口の聞けないあの子に説明しろとはとてもじゃないが言えないな」「そうよね。でも不思議よね。お地蔵さまがあの子を呼び寄せた様な気がする」

「なんのために・・お地蔵様を祀っているのは俺達夫婦と隣の耕作位のものだろう。まさか俺達に巡り合わそうと連れて来たとでも・・そんな馬鹿な・・おとぎ話ではあるまいに」

 市郎は一笑に付した。しかし姫の思いは違っていた。若い頃流産で子を失いその後子に恵まれる事はなかった。ー子供が欲しいーそれは姫の生涯の夢だった。その事は口に出さずとも市郎には痛い程分かっていた。

「何日面倒を見る事になるか分からないが姫さん世話を掛けるが頼むよ」

「市郎さんあんたに頼まれなくても最初からそのつもりよ。口を聞いてくれないのは寂しいけれど死んだ我が子と思って面倒を見ますよ」

 姫は寂しい笑顔でそう答えた。

 一週間が過ぎても警察から何の知らせもなかった。仕方なく市郎はたまにしか乗る事のない納屋の軒下に止めてある四輪駆動の軽自動車に乗り町に降りた。保護している女の子の肌着や衣服を買うためだった。

 大型スーパーマーケットの衣料品コーナーで姫に指示されたメモを片手に迷いながら買い物に努めた。買い物の後警察署に立ち寄りその後の経過を尋ねたが吉報は得られなかった。

 山の上の家では口を聞かぬ娘を相手に姫は楽しそうに日々を送っている。口を聞かなくても老夫婦の家庭には春が来たようだった。

 家のすぐ下にある畑に姫と女の子の姿があった。

「竹子姫そちらから順番に抜いて来てちょうだい・・抜いたらその場に寝かせて置いてね」

姫が女の子に話しかけている。物言わぬ女の子にだ。女の子に玉ねぎを抜かせているのだ。

「姫さん。竹子姫とは誰の事だい・・」少し離れた隣の家から出て来た大工の山岡耕作が歩いてやってきた。 

「こうちゃん誰って決まっているじゃない。この子の事だよ。おいとか娘何て呼べないでしょう」耕作は山城町の建築会社に日雇いで勤めている。仕事の少なくなる冬場には鉄砲を担いで猟師になる。六十過ぎてもまだ独身だった。無精ひげの腹の突き出た男は山男だった。耕作は畑の側に腰を下ろし竹子姫を笑顔で見ている。

「姫さんこんな風景が見られるなんて夢にも思わなかったよ」

「私だって考えた事もなかったよ・・でも夢は夢よ。この子は直ぐに去って行く身だからね」

「まだ何の連絡もないのか・・いったい保護者は何をしているのか・・」

「そうよね・・市郎さんも警察に何度も問い合わせているのだけれどね」

 女の子が玉ねぎを一通り抜き終えて、同じ様に玉ねぎを抜いている姫の元にやって来た。

 女の子が姫の肩を叩いて手を口に持って行き飲む振りをした。

「ああ竹子姫喉が渇いたのか。冷蔵庫に冷たい麦茶があるから・・こうちゃんもどうだい・・」

 姫は女の子と耕作を連れて家に帰った。

「今日は市郎さんの姿が見えないし・・そうか車が無かったな。買い物かい・・」

 工作が玄関の上がり框に腰かけて言った。

「食料品の買い出しよ。いつもなら私が着いてゆくのだけれど・・この子がいるだろう」

姫は笑って竹子姫を見た。女の子が冷蔵庫からヤカンを取り出し冷えた番茶をコップ三個に注ぎ入れた。「竹子姫か・・ありがとう」耕作が礼を言ってコップを受け取った。

 市郎は昼になる前に買い物から帰って来た。車を止めると女の子が荷物を受け取りに家の中から出て来た。「竹子姫これを運んでくれ・・重いぞ」市郎が段ボール箱に入った食料品を提げて手渡した。竹子姫は夫婦二人でつけた仮の呼び名だった。

 段ボール箱を開けて食材を取り出していた姫がプラスチック容器に入った物を取り出した。

「市郎さんこのお饅頭二個しか入っていないわよ。三個入りはなかったの・・」

「ああそれは俺達が食べる饅頭ではないよ。竹子姫を無事に我が家に送り届けてくれたお礼のお供え物だよ。遅くなったがお参りしなくてはと思い買って来た」

「ああ市郎さん私もその事を忘れるところだった。お昼を食べたら竹子姫を連れてお参りしましょう。竹子姫が口を聞けるように願掛けをしなくては・・」

 側で女の子が二人の会話を聞いていた。

 其日の午後三人は竹林を下り仏ガ嶽のお地蔵様に詣でた。三人がそれぞれに手を合わせお礼と願い事を胸の内で祈った。


 竹子姫が市郎の家に来て三週間が過ぎようとしていた日の午後、突然竹子姫の身元判明との知らせが警察よりもたらされた。

電話口の警察官が竹子姫と思われる捜索願いが他府県の警察にもたらされ、当県の警察本部に連絡があった事を伝えて来た。

更に警察官は「浦部家で保護されている少女が捜索願いの少女に酷似していたため、捜索願いを出している育児院にその旨を伝えました。育児院ではすぐにでも子供の確認に伺いたいとの意向です。捜索願いの内容は、名前は岩戸彩香年齢十三歳中学一年生親はなく引き取って保護してくれる親族が見つからないため公立の育児院に入所させている子供で三週間前突然施設から姿を消し探していたと言う捜索願いでした。その子の特徴として小柄で痩せており一見小学生位にしか見えない。失踪時ピンク色のジャンパーを着ていた。最大の特徴は少女は口が聞けないと言うものでした。つきましては育児院のほうから浦部さんの電話番号を教えて頂きたいとの申し出がありました。お伝えしてもよろしいですか」と電話の向こうから尋ねて来た。

「お伝えして直ぐに電話を掛けてくる様に」市郎は電話を切った。

全てが竹子姫に一致していた。ー親のない育児院施設の子供かー

側で聞き耳を立てている姫に「竹子姫の出所が判ったよ・・」と寂しい笑みを返した。

暫くたって育児院から電話が掛かって来た。「明日迎えにお伺いしたい」と女の声が伝えて来た。「明日ですか・・今までどうしていたのですか・・直ぐに捜索願いを出したのですか・・」

電話の向こうで弁解する女の甲高い声が携帯電話が伝えて来る。

「分かりました。明日ですね・・」市郎が携帯電話の通話を切った。

「ふーっ」市郎の吐息が通話の声を物語っていた。苛立ち寂しさ怒り。市郎の心の内が姫には解り過ぎるほど分かっていた。姫が竹子姫の手を握り締めていた。


 翌日の午後。ツズラ折の坂道を登ってくる黒いタクシーが藪の隙間から垣間見えた。

 タクシーが家の下の畑の横に止まった。車道から家に上がる坂道の下でタクシーから降りて来たのは白髪頭で金縁の眼鏡を掛けチョビ髭を蓄えた男と黒いワンピースにこれも金縁眼鏡の中年の女だった。女の手に風呂敷包みがあった。二人は坂道を上がり家の前までやって来た。

 市郎は家の前で客を出迎えた。作業着姿のままだった。

「浦部さんのお宅でしょうか・・」初老の男が頭を下げ女も頭を下げた。

「浦部市郎です。何も言う事はないですが一つ尋ねたい事があります」

「ああ私は育児院の園長で村井と申します・・」男はポケットから名刺を取り出し、女も担当の木本ですとハンドバックから名刺を取り出し二人共に名刺を市郎に手渡した。

「浦部さん質問とは・・」「ここで答えていただかねば家に入ってもらうのも、女の子に会ってもらうのもお断りします・・」「それは質問次第ですが・・」金縁眼鏡を持ち上げて園長は市郎の口元を見た。「あの子の親は何処に居るのですか・・健在なのか・・あの子が何故育児院に入所しなければならなかったのか経緯を教えて欲しい・・」

「分かりました。もう少し家から離れてお話しましょう。重要な話ですから・・」

「ではこちらで・・」市郎は二人を納屋の影に誘った。

「お話ししますよ。あの子が当院に来たのは二年前の事です。言いにくい事ですがあの子の父親は妻と両親を殺害した尊属殺人犯なのです。今はまだ公判中でまだ判決は降りていませんが近い内に死刑の判決が降りるでしょう。あの子が口を聞けなくなったのは、その時受けたショックが原因と診断されています。病名は心因性失声症と聞き及んでいます。家族誰一人彼女を見てやる事が出来なくなり、母親の身内も世間の目を気にして引き取りを拒否した様です。

そう言う訳で当院に連れて来られた訳です。しかし今回の出奔は理解し難い事でした。何か辛い事があったのかも知れません。でもあの通り何も話さない子供ですから・・」

「もう一つ聞こうと思った事があるのですが・・今は止めておきましょう・・」

 市郎は二人を家の中に招いた。居間には姫が竹子姫こと岩戸彩香の側に寄り沿っていた。   

育児院の二人は姫に頭を下げ持って来た包みを手渡し礼を述べた。姫は二人にお茶を出した。

「浦部さん大変お世話になりました・・それでは彩香ちゃん帰ろうか・・」

姫の横から離れない彩香に園長が声を掛けた。

「さあ帰りましょう。彩香ちゃん・・」眼鏡の木本女史が手を伸ばした。

彩香は姫の背に隠れる様に身を避けた。市郎は側に寄り「彩香ちゃん又遊びにおいで」

と声を掛けた。彩香は大きく首を横に振り姫の腰に手を回した。

「彩香・・帰るのよ・・困らせないで・・」甲高い声で木本女史が立って彩香に迫った。

神経質そうな顔の眼鏡の奥に冷たい怒りの炎が燃えていた。

「いやよ・・帰りたくない・・」彩香の叫び声だった。育児院の二人も市郎と姫の夫婦も驚きを隠せずお互いの顔を見合わせた。皆初めて彩香の声を聞いたのだ。

「彩香ちゃん。あなた声が‥もう一度お婆さんに声を聴かせて・・」

姫の目に涙が溢れた。「お婆さん彩香帰りたくない・・返さないで・・」

彩香の目にも涙が溢れていた。市郎は育児院の木本女史に目を向けた。木本女史がハンドバックから取り出したハンカチで眼鏡をはずして目を拭っているではないか。

ー俺の勘違い・・思い過ごしだったか・・ー涙を拭った木本女史の目は穏やかで優しい笑みを含んでいる様に見えた。「よかったね・・彩香ちゃん・・先生も安心したわ・・本当に・・」

木本女史の声が震えていた。ー俺はとんでもない浅はかな思い違いをしてしていた様だー

 市郎は教師の虐めを考えていたのだ。その思いは目の前で消滅した。

「姫さん・・お地蔵様は願いを聞き届けて下さったよ・・」姫が何度も頷いて見せた。

「園長さん・・もう一つ尋ねたい事が有ると言った事を改めてお尋ねしますよ。いいですか」

驚いている園長は首を縦に振って「どうぞ。言って下さい・・」と了解を示した。

「それは里親と養子縁組の事です。私達夫婦をこの子の親にしていただけませんか」

「それは又急なお話ですね・・短い時間でしたがこの子がこれ程お二人を慕っているのは大事に世話をしてくれた証でしょう。善処してみる事にしましょう。無理に連れ帰って又出て行かれては我々も困りますからね。一度当院をお尋ねください。書類を用意してお待ちしますよ」

 園長は逸郎に頷いて見せた。

「それでは彩香は結果が出るまで我が家でお預かりして良いのですね・・」

「そうしてください。そうして下されば我々の肩の荷が下ります。お電話を差し上げますのでその時はハンコと戸籍謄本を持ってきてください」

「分かりました。物わかりの良い園長さんで助かりました。改めてお礼を申しあげます」

「いえいえ恵まれない子供達を預かる私達に取って、一人でも子供が幸せになってくれれば

それが一番なのです。私の方からもお礼を申しあげます」

 市郎は床に手を着いて頭を下げた。それに合わせて姫も頭を下げていた。

 育児院の二人が家を出るとタクシーが向きを変え待っていた。

 

 浦部家に本当の春がやってきた。

「竹子姫じゃなかった・・彩香ちゃん。御爺さんに教えてくれるかな。あの親子地蔵さんを知って居て、あそこに行ったのかい」市郎は一番の関心事を彩香に尋ねた。

「うん知ってて言ったの。私のお爺ちゃん・・もう死んじゃったけど・・そのお爺ちゃんに連れられて小学校の三年生の春休みに一度だけ行った事があったの」

「お爺ちゃんに連れられて行ったと・・お爺ちゃんは彩香ちゃんに何と言って連れて行ったんだ」

「何でもお爺ちゃんの生まれ故郷に連れて行くと言って・・それから願い事を適えてくれるお地蔵様があるからお参りしようって・・」

「お爺ちゃんの生まれ故郷だと・・お爺ちゃんの名前は何と言う・・」

「私のお爺ちゃんの名前は岩戸邦夫って言う名前よ」

「岩戸邦夫だと・・」市郎が天井を仰いだ。

「市郎さん何か思い当たる事が・・」側にいる姫が市郎の顔を見た。

「うん・・思い出した。思い出したよ・邦夫さんを・・俺の二級先輩だった。この北峰集落の人だったよ・・そうか彩香ちゃんはあの邦夫さんの孫だったのか・・」

ーあの邦夫さんが息子に殺された・・孫娘を俺に預けたのかー

 市郎は何度も頷き彩香の顔を見て「そうかそうか・・」と再び頷いた

「市郎さん・・その邦夫さんとやらは何時頃この里を離れたの・・」姫が尋ねた。

「そうだな・・もう五十年にはなるかな。俺が高校生の頃だったからな・・遠い昔だよ」

「そんなに昔なの・・何歳になっても故郷は忘れられないものなのね」。

 姫の脳裏には北の海が蘇っていた。

「彩香ちゃんは何故育児院を出て、お地蔵様の処に来たんだ・・」

「・・私・・口が聞けなくて・・友達や先生方に思いを伝えられなくて・・辛くて・・悲しくて・・そんな時願いを聞いてくれると言うお地蔵様の事を思い出したの・・」

「それであのお地蔵様の所に行ったのか・・あの山道を通って・・」「うん山道を登ったよ」

 彩香は屈託のない笑顔で答えた。


「行ってきまーす・・」自転車にまたがり彩香が家を出てツズラ折の坂道を下って行く。

「気をつけてなー・・」姫婆さんがが上から大きな声で叫んだ。毎朝の事だった。

 養女となった彩香は遠い山城町の中学校に自転車通学をしている。

 一年で彩香の身長は伸び体つきも女らしくなっている。片道四キロの登下校の距離八キロ、

帰りの自転車を押して登る坂道は彩香の足腰を鍛え健康な体造りに役立った。

 彩香が休みの日には、姫は彩香を連れて必ず親子地蔵に御参りしている。地蔵の前で手を合わす姿は親子地蔵そのものに見えた。


「お婆さん中学最後の運動会よ、一度見に来てよ」三年生になった彩香が姫婆さんに言った。去年の今頃姫が言った言葉を彩香は覚えていた。「市郎さん。私達子供が通う学校にはとんと縁がなかったわね。でも今は違うよね。運動会なんて一度も見に行かなかった。一度は見て見たいね」 そんな養祖父母の会話だった。

 地球温暖化のせいで運動会開催は春になっていた。


 日曜日山城中学校の校庭に市郎と姫の姿があった。来賓席の横に一般観客席が設けられていた。青いビニールシートが敷かれ後ろに何脚かの折りたたみ椅子が置いてある。子供ずれの父兄が何組か席を取っていた。市郎と姫はその場から離れて校庭隅の桜の木の根元に腰を下ろした。音楽が鳴り子供達が校庭に集まり競技が始まった。

 市郎の手に運動会のプログラムあった。競技は四種類だけ。各学年が四組に分けられ赤青緑黄色に色分けされている。一競技につき勝敗順に四点から一点が与えられ学年別と色別に総得点で優勝を着そう事になっていた。総合すると全十二競技になる。

 日曜日とあって近所からの観客が増えていった。

 最初の競技は玉入れ競技だった。四本の竹籠のついたポールが立てられ一年生から競技が始まった。

 二三年生は楕円コースを囲む様に座っていた。三年生の中に彩香はいた。黄色い鉢巻きで長い髪を後ろで束ねて結んでいる。

「市郎さん。あそこに竹子姫がいますよ・・」姫が指さした先に後ろの方に座っている彩香がいた。「ああ・・見えたよ。楽しそうに笑っている・・」目を細めて市郎が頷いた。

「早くあの子が出る競技が見たいわ・・」歓声が沸く一年生の玉入れに姫が目をやった。

 競技終了の笛が鳴り籠に入った赤と白の玉が一つ二つと数えられ歓声が沸く。

 二年生玉入れも終わり三年生の番になった。

「市郎さん竹子姫が出て来たよ。黄色の鉢巻きの組よ・・ほらあそこに・・」姫が指さした。

 競技開始の笛と共に生徒達は一斉に足元の玉を拾い籠に向かって投げ入れている。

 彩香を見ると上から落ちて来る赤い球を拾い集めて男の子に手渡している。背の高い男の子が投げ上げる球は籠の中に落ちて溜まっていく。

「市郎さんあの男の子・・鈴屋の息子よね・・竹子姫が渡した球を上手に籠に入れているわ」

「ああ、あの子は野球部のピッチャーをしているらしいからな・・名前は確か鈴谷勇也だった」」

 競技が終了した。四組の籠に入った玉が数えられた。彩香の組は二番だったが一年生二年生

の順位を合わせれば最下位だった。それでも彩香達の顔は笑っていた。

「市郎さんビリなのにあの子笑っているよ・・」「ああ楽しんでいるんだよ・・順位なんて関係ないのさ」市郎も楽しそうだった。

次の競技が進んでいた。綱引き競技は三年生に移っている。彩香と鈴谷勇也の三年生は初戦に負け三四位を決める戦いに挑んでいた。

「よいしょ・・よいしょ・・」市郎が子供達と声を合わせて見えない綱を引いている。

「市郎さん・・市郎がそんに力んでも何の足しにもならないわよ」姫が笑って言った。

笛が鳴り黄色組から歓声が上がった。「勝った・・」市郎が足を踏み鳴らした。

 彩香達が引き上げて行く。緑組と黄組の最下位争いが続いている。

 昼休憩になり生徒達が教室に戻って行った。市郎と姫の老夫婦は桜の木の下で弁当を広げた。

 姫が梅干し入りの海苔巻きむすびを市郎の手に乗せ、卵焼きを箸でつまんで市郎の口に運んだ。市郎は口を開けて卵焼きを口に銜えた。

「いいですね・・羨ましい光景です・・」見上げると太った壮年の男が見下ろしていた。

「いや失礼・・私も三年生の親でして・・早めに昼を食べて見にきたのです。知っていますか。

あの黄組は学年の三つのクラスで抽選で選ばれた子供の集まりだそうです。とは言っていますがほとんどは運動音痴の者を追い出した寄せ集めだそうですよ。中には少数運動の出来る子供も混じってはいますけどね・・ビリ確定の組と言う事です。我が子もその組の中の一人です。

これは失礼しました。ごゆっくり食べてください」太った男は来賓席の方へ歩いて行った。

「聞いたか・・黄組は最下位が決定している組だそうだ・・」

「いいじゃないですか市郎さん。まだ最下位と決まった分けではありませんよ」

「そうは言ってもな・・」市郎はむすびを頬張った。

 二人が何やかやと話して弁当を食べていると二人を見つけて彩香が駆けて来た。

「お腹空いた・・」二人の側に座り込み弁当の焼きちくわを一切れ口に入れた。

「どうしたの・・給食を食べて来たのでしょう・・」姫が笑って尋ねた。

「給食だけでは足りなかった・・力仕事の後だもの・・」彩香はむすびに手を出した。

「しっかりお食べ・・黄組がビリにならない様に頑張りなさい」姫が弁当を彩香の前に押し出した。「次は障害物リレーだな。勝てとは言わないが負けるなよ」むすびを頬張る彩香眺めて市郎笑顔で言った。

「あれ・・竹子姫は出ないらしいよ・・ほら・・黄組の応援席にいるわよ」

「あれ・・本当だ・・どうなっているんだ・・」

市郎と姫ががっかりしているとスピーカーからマイクの声が流れて来た。

「只今からの徒競走は各学年で抽選で選ばれた選手のみが出場します。ただし一度選ばれた選手は一度だけの出場になります。これは足が速かろうが遅かろうが出来るだけ全員が出場するために定められたルールです。悪しからずご了承願います。」

「何だ。そうだったのか。納得したよ」市郎が頷いている。引き続きマイクの声が流れた。

「各学年で抽選に漏れた生徒はプログラムに乗っていませんが学校の周囲を二キロ走る中距離マラソンに出場します。上位十人までは二十点から三点を加算します。応援をしてください」

 学生達から歓声が上がった。

 競技が開始された。「竹子姫はいったいどの種目に出るのかな・・」姫が一人で呟いた。

 障害物競走リレーの黄組を応援していた市郎が突然倒れこんだ。驚いて助起こした姫が近くにいる人に助けを求めた。

 来賓席にいた医師が駆けつけて来た。診察した医師は救急車を依頼した。

 校庭の入口にサイレンを鳴らして救急車が停車し救急隊員がタンカをを持って医師の居る場所に駆け付けた。市郎がタンカに乗せられ校庭から運び出されて行く。

 何事かと応援席の子供達が立ち上がって見ていた。「あれはまさか・・お爺さん・・」彩香は救急車の元へ走って行った。市郎が救急車に運び込まれ姫も付き添って同乗しようとしていた。

「お婆さん・・」彩香が叫んで走って来た。「お爺さんは大丈夫だから・・」姫は救急車のドアが閉まる前に校庭を指さし手を振った。運動会に戻れと言ったのだ。彩香は立ち止まり救急車が出て行くのを見送った。

 病院の診察室で横たわり市郎は点滴を受けていた。

「軽い熱中症です。心配する事はありません。今日は五月には珍しく二十五度を超えていますからね。お年寄りは気を付けないといけませんね」医師が付き添いの姫に説明していた。

 鎮静剤でも打たれたのか市郎は眠っていた。。

 病室に移された市郎がベッドの上で右腕を天井に向け差し上げた。左腕には点滴の管が差し込まれている。「あうう・・あううう・・・」市郎が声にならない声で何かを掴もうとしている。

「市郎さん。どうしたのですか。大丈夫ですか・・」姫が市郎の上げた手を掴んで下ろした。

 市郎が目を開けた。ボンヤリとした目が姫を見上げている。

「市郎さん。目が覚めた・・夢でも見たの・・」姫に声を掛けられ市郎の目の焦点が定まって来た。「あっ姫さん・・夢を見ていた・・竹子姫が誰かに連れて行かれる夢だった・・」

「馬鹿だね・・彩香は今運動家の最中じゃないの・・水分を取らないで見ていたから・・」

「俺は熱中症に掛かったのか・・彩香は俺が運ばれた事を・・」

「ああ知って居ますよ・・救急車まで駆けてきましたからね・・」

「それは不味い・・それは不味い・・折角最後の運動会なのに水を差してしまったか・・」

「今悔やんでも後の祭りですよ・・どうしているかな竹子姫・・」

 二人が話していると病室のドアがノックされた。彩香が入って来た。

「お婆さん。お爺さんは大丈夫なの・・」心配そうに尋ねた。

「お爺さんは元気だぞ・・」市郎がむっくりと起き上がり彩香に笑顔を見せた。腕には点滴の管が繋がったままだった。

「お婆さん。お爺さんはどんな病気だったの・・」

「彩香心配いらないよ。軽い熱中症だったみたいよ・・貴女まだ運動会終わっていないでしょう。来たら駄目じゃない。早く学校に戻りなさい・・」

「そうだ。彩香学校に戻ってくれ。お前の最後の運動会を台無しにしたくはないんだよ。お爺さんはこの通り元気だ。あと一二時間したら帰らせて貰えるらしいから早く行け・・」

「でも・・」「学校に届けて来たの・・それとも黙って抜け出して来たの・・」

「先生に許可をもらって来たから問題はないよ・・」

「まだ運動会は続いているのだろう。彩香の出番はどうなったんだ・・」

「ああリレーは他の子に変わって貰ったから・・後は最後の二キロ走が残っていたけど・・」

「その最後の二キロ走に出なくちゃあ・・最後を飾って見せてよ・・」

 姫が懇願するように言った。「彩香早く帰って頑張れ・・」

 市郎が病室の入口に顎を振った。「じゃあ・・行ってくる。待っててね・・」

 彩香は急いで病室を出て行った。

「やれやれ彩香には一生今日の事を言われそうだな・・」

「無事に最後の競技を終えるといいのに・・」

「彩香の走る姿なんか家に来てから見た事がなかったのに残念だった・・」

 市郎は白い雲が浮かぶ青空の窓の外を見上げた。


 校庭では最後の徒競走。二キロマラソンがスタートを待っていた。校庭に駆け込み最後に彩香がスタートラインの最後尾に並んだ。総勢八十人に及ぶ大人数の最後尾だ。

 スタートの笛が鳴った。中学校周辺の道路を走る二キロのコースに大勢が一斉に走り出した。

 彩香は最後にスタートした。「彩香頑張れ・・最下位はお前に掛かっているぞ・・」

 大きな声援が聞こえた。鈴谷勇也の声だった。ーまだ最下位のままなのかー彩香の足に力が入った。大きな声援に送られて全員校庭を走り出て行った。町外れにある学校周辺には田畑もあった。道端には応援の父兄の姿もあり声援を送っている。

校外に出た彩香は大きなコンパスで前を行く生徒達を次々に抜いてゆく。二キロも走る事は彩香に取って初めての経験だった。走るペースなんて考えもしなかった。順位なんかも考える余裕はなかった。ただガムシャラに前を目指して走った。一キロ程走ると先頭の集団が見えて来た。ニ十人程の集団が、いやその前に三人程の男子が走っている。鉢巻きの色は青と赤、その後ろに緑の鉢巻きが追っている。

ーあの三人は何よ・・まさか最後の点数稼ぎのために残していた三人・・卑怯よ許さない・・」

 彩香はピッチを上げた。少しも苦しさを感じない。足も腿も上がっている。毎日通うツズラ折の急な坂道を自転車を押して登っている成果が走りに出ていた。ー行くわよ・・ー前を行く二十人程を立て続けに追い抜き彩香は一気に三人に迫った。後五百メートル。緑の鉢巻きを抜いた。「あっ奥峰の姫か・・」彩香に追い抜かれた男の子が苦しい息の下で呟いた。奥峰の姫は風の様に駆け抜け前の二人の後ろに着いた。

 後三百メートル。違う足音に気が付いた二人が振り返った。「あっ奥峰の・・」二人の横を風が通り過ぎた。

「あっ・・」と二人は前を見た。風の様に彩香が奥峰の姫の背中が、差を広げて遠ざかって行く。

 彩香は校庭に走り込んでテープを切った。続いて緑、青赤の順でゴールテープを切っている。

「やったぞ。彩香・・」興奮した鈴谷勇也が駆け寄って来た。彩香は息も切らさず白い歯を見せて笑った。「これでビリは免れた・・後の七人の点数次第では何番になるか分からないぞ」

 次々とゴールテープは切られて行く。

「驚いた。十位以内に彩香を含めて四人だ。・・これで何点になるんだ・・」

 勇也が頭を巡らせている。「勇也君ビリでなければいいのでしょう」彩香に言われて「はあまあ・・」とあやふやの返答をして掲示板の点数表を見に行った。彩香は髪を結んでいた黄色の鉢巻きを返して応援席に戻って来た。黄組の一年生から三年生まで歓声で出迎えてくれた。

 二キロマラソン八十人が全員完走し運動会競技は全て終了した。

 競技点数が体育教師により発表され黄組は彩香の健闘により二位に躍進した。一位は赤組で大差は覆す事は出来なかった。同じクラスで青組に残りマラソンに出場していたサッカー部の佐藤実が声を掛けて来た。「浦部お前本当に早いな・・驚き桃の木山椒の木だよ。高校に言ったら女子サッカー部に入れよ・・おまえならエースになれるよ」と面目なさそうな顔で言った。

「あーそれはないと思うよ。こんなに走ったのは今日が初めてだから・・今後はないよ・・」

彩香は笑って答えた。


 彩香は病院に帰って来た。病室に入ると人差し指を突き出し「お爺さんお婆さんマラソン一番になったよ・・褒めてよね」と市郎が起き上がったベッドに腰を下ろした。

市郎爺さんと姫婆さんの顔が笑顔になった。


 彩香は高校生になっている。岩城町の公立高校に進学し山奥の遠隔地と言う理由でバイク通学を許されていた。白いヘルメットを被って原付スクーターに跨り軽快に坂道を下ってゆく。

 彩香は高校生になると一皮も二皮もむけて女らしく美しい女学生に変身していた。中学生時代から奥峰の姫と呼ばれる位その清楚な美しさは群を抜いていたが高校生になってからは同級生は元より上級生達からも噂され憧れの存在になっていた。

 彩香の原付スクーターが自転車をこぐ学生に追い着き後ろに着いた。「オハヨー・・」後ろから彩香が声を掛けた。「おっ・・オハヨー・・」後ろも振り向かず鈴谷勇也が挨拶を送って来た。

 毎朝のお決まりの光景だった。二人はそのまま岩城高校の正門を潜った。歩いて通学してくる上級生の目が二人の姿を羨まし気に見ていた。

 朝何時もの様に通学路をスクーターバイクで学校に向かっていると勇也の自転車が見当たらない。ー・・勇也がいない・・ーバイクを走らせていると前を行くオートバイに追い着いた。

「遅いぞ・・」振り向いたのは勇也だった。

「勇也君どうしたの・・バイク通学を許して貰ったの・・」

「ああ練習で遅くなるから監督に頼んで許可をもらったのさ。これで毎朝お前に追いかけられないで済みそうだ」勇也が笑い声を上げた。


 日曜日の朝。彩香が白いスポーツウエアー姿で祖母の姫と洗濯物を干していると山裾から一・二・一・二と元気な掛け声が登って来る事に気が付いた。

「あれ・・お婆さん。誰か大勢で登って来るよ・・」彩香が門先から下方を見た。藪の切れ目から白いユニホーム姿が次々に登って来るのが見えた。登って来るに従い掛け声は小さくなり聞こえなくなった。急な坂道に息を切らせ声も気なくなったのだろう。

「お婆さん。あれは私の通う野球部員達よ。何をしに来るの・・」

「何をしにってお前に会いに来るに決まっているだろう。この前はサッカー部って子が十人位来たじゃないか・・お前は本当に人気者になっているから心配だよ」

「人気者だなんて私は何もしていないわよ・・男子が何故か私の家に来たがるの・・」

「それが人気があるって証拠じゃない・・今日は大人数だよ。此れじゃあ冷蔵庫の麦茶が足らないよ」「麦茶なんて必要ないわよ。私が招いた客じゃないから。放って置けばいいのよ」

「そうかい・・それじゃあ私は知らないよ・・」姫は洗濯物を干し終わると家の中に入って行った。最初に浦部家に辿り着いたのは鈴谷勇也だった。勇也はゼッケンの着いていない白いユニホーム姿だった。苦しそうな息の下で「すまない・・僕が案内して邪魔しに来た・・これは命令で・・」それだけ喋ると勇也は地べたに仰向けに大の字になって倒れ込んだ。口が酸欠の鯉の様にパクパクと動いている。家の下付近から「もうだめだ・・死にそうだ・・足が・・」などと苦しそうな声が聞こえて来た。

 最初に門先に辿り着いたのは三年生だった。「着いたぞ・・」苦しい息の下で叫んで倒れ込んだ。やっと起き上がった勇也が立ち上がり「もう少しです・・頑張って・・」と手を振って励ましている。次々と門先に三年生部員五人が転がり込んだ。皆大きな息をしている。

 続いて二年生部員七人が転がり込んできてブッ倒れた。遅れて一年生部員が地面に手を突きながら上がって来た。五人が黒いナップザックを背負っていた。

「先輩・・ここが目的地ですね・・」一年生部員がナップザックを背中から下ろして座り込みブッ倒れた。「おい・・水をくれ・・」三年生が黒いナップザックに手を伸ばした。

 勇也がナップザックの口次々に開いて一リットルのスポーツドリンクのペットボトルを取り出し紙コップと共に三年生に手渡した。車座になって座った三年生がペットボトルを開け紙コップに注いで飲み始めた。「お前達も早く飲めよ・・」主将と思われる勇也の次に登って来た大柄な若者が下級生に言った。

 その様子を縁側に腰かけ市郎爺さんが目を細めて眺めている。

「またまた今回は大人数で押しかけて来たな・・でも今回は飲料水持参ときた。感心なことだ」

 やって来たのは隣の山岡耕作だった。

「耕作さん。まあ良いではないか・・家に入ってビールでも飲まないか」市郎は耕作を誘って家の中に入った。「勇也お前もちょっと来い・・」顔見知りで店の客でもある耕作に呼ばれて勇也が土間に入って来て土間の敷居に座った。

「勇也お前達は、この山奥の奥峰に何の魅力が有って走って来る。大体の予想は着くがな」

「それは・・その・・先輩達が奥峰に行きたいと・・」

「それでお前が案内して連れて来たと、その上飲み物まで持参とは・・誰かに言われて飲み物を持ってきたのか」

「はい・・それも主将がサッカー部の人に聞いて・・奥峰では水が貴重だと・・」

「そうかこの前来たサッカー部の奴から聞いて来たのか・・奥峰では山水を煮沸して飲み水にしている。この前来たサッカー部の連中はこの家と俺の家の飲み水を飲み干してくれたからな。

それはよい・・先輩達の目的は何だ・・これも練習の一環とでも言ったか・・」

「・・それは・・」勇也は門先を気にしながら言った。

「・・先輩達が奥峰の姫に会いたいと・・」すると側の居間にいた姫が口を挟んだ。

「姫とは私の事かいな。私に会いたいと・・」勇也が唖然として姫婆さんの顔を見た。

「姫さん婆さんに会いに来る高校生は居ないだろう。こいつらの言う姫とは竹子姫の事だよ」

 姫が声を上げて笑った。「そんな事は判っているよ。ただからかっただけだよ」

「お婆さんの名前は姫なのですか・・では竹子姫とは誰の事ですか・・」

「それはお前達が知らなくて良い我が家内の事だよ」

 居間の奥に居る彩香がくすくすと笑っている。「彩香さん・・彩香さん・・」誰かが外で彩香を呼んでいる。彩香がツッカケ草履を履いて土間から出て行った。

「彩香さん・・ここは何かで見た天空の城のようだ。遠くに霞む山々、盆地の向こうの家も霞んで見えるよ・・」「天空の城・・」彩香の笑い声が聞こえて来た。

「お前達有するに彩香に会いに来たのだろう。サッカー部の連中と同類と言うことか・・」

耕作があきれた様に言うと勇也は恥ずかしげもなくこう告げた。

「はいサッカー部だけでなく野球部全員が奥峰の姫のフアンなもので・・」

「お前達野球部は色気付いた馬鹿ばかりか。そんな事だから春の地区大会で一回戦コールド負けなんかをするんだよ。こんな所に遊びに来ないでもっと練習しろ・・」

「小父さん・・それは主将に言って下さい。僕達一年生は皆補欠ですから・・」

「そうか・・お前はまだ一年生だったな。秋までにレギラーになれ」

「皆に満足したなら帰れと爺様が言っていると主将に伝えろ」

 耕作に発破を掛けられ勇也は門先に出て行った。

 間もなくして高校野球部員達は山を下りて行った。彩香が皆を門先から見送っていた。


 地方では名の知れた土木建築会社の会長宅で娘の七回忌法要が執り行われていた。住職の読経が終わり墓参りを済ませた天野会長が専務の星嶋保を呼んだ。昼食会の席だった。

天野剛七十八歳総白髪をオールバックに髭を蓄えた気難しそうな男だった。

「星嶋君まだ見つからないのかね・・随分と待たせるじゃないか・・」

「はい・・申し訳ありません。育児院に預けられた事迄は分かりました。もう少しお待ち下さい。

今度こそ吉報をお届け出来ると思います」

星嶋は長年天野会長の下で働いて来た番頭的存在だった。歳も会長と変わらない年齢だろう。

その天野専務が少々猫背の腰を曲げて報告していた。

「そうか・・もう七年だよ・・千鶴が結婚を嫌い家を飛び出してもう二十年になる。あの親不孝娘ももうこの世にはいない・・星嶋君私は会社の対面ばかりを気にしていた・・この歳になって初めて自分の間違いに気が付いたよ・・」

「会長・・そんな事はありません・・会長は千鶴さんの幸せを願って・・」

「もういい・・昔の話だ。政略結婚を推し進めようとした私が馬鹿だっただけの話だ。では頼んだよ星嶋専務・・」

 天野家の大広間には息子天野昇の妻富江やその家族親族が集まっていた。息子の昇は難病にかかり病院暮らしとなっている。天野家を実質切り盛りし義父天野剛を補佐しているのは富江だった。


 奥峰の姫彩香は高校二年生になっている。彩香は何時もの様に部活動にも入らず原付スクーターに跨り学校を出た。郊外のまばらな民家を過ぎた辺りで後方から爆音を響かせ追い着いて来た集団に行きてを遮られた。オートバイに乗っているのは同年代の暴走族風の若者五人だった。それを目撃した者がいた。怪我で部活動を休み帰宅中の野球部員だった。

ー姫さんが危ない早く知らせなくてはー部員は携帯電話でグランドで球拾いでもしているだろう野球部の三年生女性マネージャー山田明美に知らせた。電話を受けた山田明美は大声で皆に知らせた。「姫が襲われているー姫が危険だ・・」口々に叫んである者はバットを掴み部員達は思い思いの方向に走り出した。

 勇也はバイクを止めている学校の自転車置き場に走った。十数人が自転車置き場に殺到した。跨ったバイクは五台、後部に一人づつ乗せて発進して行った。その後もサッカー部の部員数人もバイクに跨り発進して行った。校庭を走って飛び出した部員達を追い抜きバイクの集団は姫の通学路にばく進した。ものの二三分で前方に数台のバイクが止まり若者に取り囲まれている白いヘルメットの彩香が見えた。ビーッビーッパッパッパッークラクションを鳴らして若者達の周りに部員達のバイクが停止した。

 彩香は落ちこぼれの暴走族風の取り囲まれバイクを降りた。五人の若者の内、頭を金髪に染め耳たぶに穴を開けピアスを付けている大柄な男が声を掛けて来た。

「お前が奥峰の姫か・・」頭から足先まで男は舐める様に眺めた。「私はそんな呼び名の人は知らないわ」

「知らなくていい・・噂通りだな。気に入った俺と付き合わないか・・」男の手が肩に伸び顔が近くに来た。ーどうしよう・・逃げられない・・ー彩香がそう思った時クラクションの音が聞こえて来た。若者達が音が迫って来る方向を見た。彩香に迫っていた男が離れた。

「おいやばいぞ・・大勢でやってくる・・」目の前に次々と八台のバイクが急停止しバットを持った野球部員達が降りて来て暴走族風の男達を取り囲んだ。十六人いた。

「まだ来るぞ・・」一人が言うと「帰ろう・・」もう一人がピアスの男の袖を引いた。

 二三十人はいるだろう。野球部のユニホーム、サッカー部のユニホーム姿柔道着姿が走って来る。「おいお前黒沼じゃないか・・親父は確か町会議員だったよな」野球部の主将になっている永瀬健司が言うと「俺は違う・・」とバイクに跨った。「違うならいいが我が校の姫に手を出せば全校の男子を相手にする事になる。覚えて置け・・俺の親父は刑事だからな・・」

永瀬の追い打ちの言葉に声もなく落ちこぼれの若者達はバイクに乗り爆音を響かせ走り去った。

「姫大丈夫・・」三年生部員が尋ねると皆口ぐちに無事を口にした。「皆ありがとう。助かった」

彩香が皆に頭を下げて感謝を伝えた。駆け付けた学生達がぞろぞろと戻って行く。

「主将。主将はあの黒沼って男を知っていたのですか・・」勇也が尋ねた。

「ああ知って居た。岩城中学校ではなく隣の北中学校の同級生だ。あいつは可哀そうな奴なんだ。両親共に高学歴でね。勉強勉強の日々が両親に対する反発を呼び、あいつは自ら落ちこぼれの道を選んだ・・」

「そうだったのですね・・そんな家庭もあるとは聞いた事があります。でも今のままでは・・」

「あいつも何時か目が覚めるだろう・・幼い頃の無邪気な姿に戻って欲しいよ・・」

 永瀬首相が歩き出し、振り返って「鈴谷お前姫を送ってやってくれ。お前の家の方向だろう」

と言ってくれた。勇也が口に出来ずにいた思いだった。

「ハイ。送ります」すぐに大きな声で返事を返すと永瀬は笑って部員達の列に加わった。

「彩香送って行くよ・・」勇也がバイクに跨った。

「勇也君練習はいいの・・一人で帰れるよ」「だから前から言っていたんだよ。一人で帰ると危ないってな・・」勇也に言われて彩香は小さく頷いた。

「彩香お前野球部のマネージャーをやらないか。今は三年生の山田明美先輩がマネージャーをしているけど後釜を探しているんだ。三年生は受験の用意で忙しくなるからな」

「マネージャーって私野球の事なんて何もしらない無理よ・・」

「大丈夫だよ山田先輩が教えてくれるよ。それに僕も・・」「考えて見るわ・・私・・」

 彩香がスクーターバイクに乗った。二人のバイクが走り始めた。


 一週間後放課後校庭の野球部の練習場に彩香の姿があった。ホームベースの後ろで先輩の山田明美と、こぼれ球を拾い歩めていた。其日から彩香は一人で帰る事がなくなった。何時も勇也が側に居た。


「いったい今大会の山城高校はどうなっているんだ。出ると負けの山城野球部が変身か・・」

対戦相手のベンチから声が漏れていた。

 秋の地区予選二回戦が地区最大の市民グランドで始まっていた。山城高校野球部ベンチには、山城高校国語教師杉田先生が監督として座っていた。杉田は少年野球の経験があるが子供の頃は補欠で試合に出た事がない。そんな監督だった。

「すずたにー死んでも送れー死ぬなよー」「・・・・・・」

「おい今・・山城のベンチから聞こえたのは耳の錯覚か・・」

 相手チームが沈黙した。「おーいすずたにー死んでも送れー死ぬなよー」

 相手チームから笑い声が起こった。

「おーい。奥峰の姫さんよー死んでもいいか死なない方がいいのかはっきり言えよー」

また相手チームのベンチからどっと笑い声が起こった。山城ベンチでも監督の杉田先生が思わず吹き出していた。

「彩香ちゃんーおくれよーだけでいいのよ。死んでもは余計よ・・」先輩マネージャーの山田明美がアドバイスしている。バッターボックスには勇也が八番ライトで入っていた。回は五回三対四で山城高校はリードされていた。ワンアウト七番バッターがフォアボールを選び一塁ベースに居た。勇也がバントの構えからバットを引いて振った。ボテボテのゴロが三塁側に転がった。

 勇也が一塁ベースを駆け抜けた。「セーフ」塁審が宣言した。

「やったー鈴谷ーナイスバッテングー」彩香の黄色い声がグランドに響いた」

「・・・・あれがナイスバッテングだと・・」一塁ベース上では勇也がガッツポーズを決めていた。「奥峰の姫は本当に野球を知って居るのか・・」相手チームベンチでは首を傾げていた。

ーカーンー打球がセンター前に抜けた。二塁走者が本塁に滑り込んだ。「セーフ」山城高校が同点に追いついた。打ったのは投手で九番バッターの永瀬主将だった。

「永瀬さん素敵よー」叫んだのは山田明美マネージャーだった。

「おいおい山城ベンチには女が二人いるぞ。ルール違反だろう」相手チームベンチから苦情が出そうだった。「いいじゃないか。こうして奥峰の姫の顔が拝めるんだから・・」相手チームの主将だった。「でもあの奥峰の姫がベンチに入ってから山城が勝ち始めたと噂されているよ」

「あの姫には男を奮い立たせる神通力があるのかも・・」

 その次の一番バッターでまたまたアクシデントが起こった。ピッチャーが投じた一球目がワンバウンドしてキャッチャが後逸しランナーが進塁。二塁三塁となった。

「打って転がせ・・マネジャー伝えてくれ」監督の杉田先生が二人のマネージャーに指示した。

「一番撃ち殺せー」黄色い声が相手チームのベンチを総立ちにさせた。審判が待ったを支持し、相手チームの監督も出て来た。杉田先生が呼ばれた。

審判相手監督杉田先生三人が寄って話し合いが行われている。何やら杉田先生がぺこぺこと頭を下げて説明している。審判と相手チーム監督が腹を抱えて笑い出した。杉田先生の説明はこうだった。「すみません。私は一番バッターに打って転がせとマネージャーに伝えさせ様としたのですが、素人のマネージャーが聞き間違えたらしくあんな言葉を送ってしまったのです。私が間違っても撃ち殺せなんて指示はしません」

「打って転がせが撃ち殺せですか・・」そこで笑いが爆発した。

 あいてチームの監督がベンチに帰るとベンチに笑い声が沸き起こった。

 試合が再会され一番バッターが打席に戻った。「打てー」今度はまともな黄色い声が聞こえた。

ーカツーンー当たりそこないのフライが三塁後方にふらふらと上がりレフトの前にポトリと落ちた。「いい当たりーやったーホームラン」黄色い声が聞こえた。「どこがホームランだ・・」

相手ベンチの監督が岩城高校のベンチを見て納得した。相手チームのベンチにいる選手達がずっこけて笑っている。

三塁走者がホームプレートを踏んだ。

「彩香ちゃん今の・・いい当たりじゃないんですけど・・それにホームランでもないよ」

「先輩・・だって三塁からホームに走って帰って来たじゃないですか・・」

「・・確かに・・ホームベースには走って帰って来た・・ああそう言う意味か・・彩香ちゃんの言うホームランの意味が分かったわ。ああ驚いた・・」先輩の山田明美が旨を押さえて苦笑した。

 監督の杉田先生も舌を向いて笑いをこらえていた。

 試合は五対四で山城高校が勝ち上がった。しかし準準決勝で山城高校野球部は破れて秋の地区大会を終えた。山田明美マネージャー最後の試合だった。


 彩香は高校三年生になっている。山城高校野球部マネージャーに勝利の女神奥峰の姫と呼ばれる女子高校生がいると県下の高校野球チームに噂は広がっていた。

 その噂に違わず山城高校野球部は春秋の地区大会を勝ちねき県大会に出場。強豪私立高校野球部相手に善戦し惜しくも敗れた。山城高校野球部のベンチはマスコミの望遠レンズ狙われ、地方紙に写真が載ると芸能プロダクションからの問い合わせが殺到した。それ程彩香の美貌はかけ離れていた。わざわざ奥峰の家を訪ねて来た芸能関係者もいた。そんな輩を市郎は丁寧に追い払った。彩香も自分には関係ない事と色も見せなかった。


 育児院に黒色の高級乗用車が止まった。車から降りて来たのは天野工業の専務星嶋と女社長代理の富江、その後から会長の天野剛が降り立った。

 院内応接室に三人を招き入れた院長の村井は彩香の母親千鶴の載った戸籍謄本と昔撮った

家族写真を提示され折れて彩香の養女になった経緯を話し居住先を告げた。

 天野会長が去ると院長は市郎に電話を入れた。

 奥峰の家で電話を受けた市郎は青天の霹靂だった。ー何を今更親族身内などと・・ー

 彩香が学校から帰って来た。「只今ー」と居間に入るとふさぎ込んだ祖父と祖母がいた。

「どうしたの・・何かあったの・・」心配気に彩香は尋ねた。

「此処に座って・・」姫婆さんに言われて彩香は腰を下ろし「どうしたの・・」と再度尋ねた。

「お前の母方の親族が名乗り出て来た。近い内にお前を迎えに来たいと言って来た・・」

 市郎が天井を仰いで深い溜息をついた。

「何よそれ・・私の家族はお爺さんとお婆さんだけよ。私が一人になった時誰も助けてくれなかった。その人が本当の身内かどうか信じられないよ・・私何処にも行かないからね」

 彩香が立って行こうとした。「待ちなさい彩香・・貴方の本当の御爺様ですよ。それにお母さんのお兄さん迄いると分かったの。お家は大きな土木建築会社を経営している裕福な家らしいよ・それでも行きたくないと・・」

「・・お婆さん・・お婆さんは私がこの家に居ることが嫌なの・・」

「何を言っているのよ。そんな訳がないじゃない・・私は彩香を手放したくないよ・・」

「なら断ってよ・・お爺さん私は行きたくないからね・・いいわね・・」

 彩香は涙ぐんでいた。「ああ分かったよ彩香。迎えに来たら断ってやるさ」

 市郎の言葉にやっと笑顔を取り戻した彩香は「お婆さん。お腹空いた」と甘える様に言った。


 奥峰の家の下に道一杯の黒色の高級乗用車が止まったのは十五夜の夜を迎える午後の事だった。其日天野家から連絡を受けた浦部家では彩香は学校を休ませていた。

 門先の坂道を年寄りの男性二人と中年の女一人が上がって来た。

「こんな山奥までようこそ起こし頂きました」姫が頭を下げて三人を出迎えた。

 白髪をオールバックになでつけた髭の男が後ろを振り返り大きく深呼吸を繰り返した。

「空気が美味い・・何と言う景色だ。気に入った・・」顔を戻し姫に笑いかけた。

「不便この上ない山頂の二軒だけしか残っていない奥峰の何処が気にいりましたか・・私にはお世辞にしか聞こえませんでしたが・・」

 市郎は男の顏を見つめ「彩香の養祖父の浦部市郎です」と頭を下げた。

「これは申し遅れました。彩香の母方の祖父天野剛です。以後お見知りおき下さい」

挨拶する天野会長と客の二人を市郎は家の中に案内した。

 居間に案内された三人は部屋の隅に畏まって座っている女の子を見て驚きの声を上げた。「

「噂には聞いて来たが・・本当に美しい娘さんだ・・」目を見開いて専務の星嶋が言った。

「本当に・・奥峰の姫と聞いて参りましたが・・美しかったお母様以上です・・」

 息子の嫁で会社の社長代理を務める富江が溜息をついた。

「おおお前が千鶴の娘の彩香か・・千鶴に良く似ておる・・彩香お爺さんだよ・・」

 側に近寄ろうとした祖父に「私のお爺さんは此処に居る市郎お爺さんだけです」ときっぱりと天野会長を拒否して見せた。

「ああ・・なんて事を・・」居間に腰を下ろした市郎に天野会長は顔を向けた。

「天野さん。貴方は何も解ってないらしい。あの忌まわしい事件からもう八年の歳月が過ぎた事を何と考えているのですか。その期間貴方方は何をしていた。本当に孫の事を考えた事があったのか。幼い孫の辛く悲しい胸の内を察してやる事があったのか・・」

 今度は市郎が天野会長の顔を見つめた。その蔑むような眼に接した天野会長は言葉をうしなった。「浦部さん。貴方の言い分はごもっともです。しかし当時彩香さんの存在は判っていなかったのです。会長は世間の目を気にしながらも、娘の千鶴さんは元より亡くなられた義理の祖父母の葬式を執り行い墓は天野家の墓地に作りました。余り会長を責めないでください」

 見かねた専務の星嶋が口を挟んだ。

「止めろ。星嶋君。浦部さんの言う通りだ。私はあの時天野家と会社の対面を気にしていた。孫の事など頭になかった。年月が経つ内千鶴の子供の事が気になった。そして孫の彩香が育児院に預けられ此方の浦部家に養女として迎えられていると知った。私はとんでもない間違いをしていた事に気が付いた。血の繋がった本来なら目の中に入れても痛くない孫を見捨てて暮らしていた。私は鬼の様な人間だったと。浦部のご夫婦。改めてお礼を申し上げる。彩香には私が生きている限り償うつもりだ」

天野剛が白髪頭を深々と下げた。

「天野さん分かっているなら何も言う事は無い。後は彩香に聞いてくれ」

 市郎がうつむく姫の手を握った。

「彩香さん。小母さんはお母さんのお兄さんの嫁なの。小父さんは今病気で来られなかったけど彩香さんに会いたがっているのよ。小母さんと帰ってちょうだい。お願いよ」

富江が彩香を見つめて言った。彩香は大人たちの会話を黙って聞いていた。

「彩香さん。お母さんのお墓にお参りしてください。立派なお墓が建てられていますよ」

専務の星嶋が彩香の袖を引くように言った。

「彩香お前の考えを言ってもいいんだよ」姫が彩香に話しかけた。

「お婆さん・・私・・」「何だい・・遠慮しないで言ったらいいのよ・・」

「私・・帰ってもいいのかな・・」彩香の目が潤んでいた。

「いいんだよ・・お前がそう決めたなら・・血の繋がったお爺さんの家に行った方が幸せに暮らせるだろうよ」

 市郎が俯き膝に目を落として聞いていた。

「浦部さんご夫妻。恩にきます。彩香が判ってくれたので連れて帰ります。お礼は日を改めまして・・」天野会長は専務の星嶋と息子の嫁を促して腰を上げた。

「彩香さん参りましょう・・」富江が彩香の腕を取って立ち上がらせた。天野の三人が彩香を連れて家を出て下の道に止まっている車に降りて行く。待っていた運転手が車を降りて待っていた。市郎と姫は門先に立って車に乗り込む彩香を見送っていた。

姫の目から止めどなく涙が流れている。二人を見上げた彩香が車に乗った。車が静かに走り出し最初のカーブを曲がった。

カーブを曲がったところで車が止まった。「‥何故止まったの・・」姫が市郎の顔を見た。

「見ろよ・・」市郎の目が下方に向けられている。姫は下を見た。彩香が駆け戻って来た。

「お爺さんお婆さん・・私行きたくない・・」泣いて彩香が姫に抱き着いた。

 止まっていた車が静かに動き出し急坂道を下って行った。

 陽が落ちて深海の様な暗闇に大きな十五夜の満月が天空の竜宮を正面から明るく照らし出した。竹子姫が帰る月への道はまだ現れてはいなかった。


          ー完ー


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