蒼留原にて
用賀邦を出奔してからも、黒峰十束は鍛錬を続けた。拳闘士としての鍛錬である。
そうして、驚きと無念を同時に味わうことになる。
あらゆる突きが、蹴りが、理想の動作で行えた。
幾千、幾万と続けてようやく一度できるかという最高を成し得た。
十束の努力の成果ではない。
着ている制服、その力だ。
禍津泡に近しい性質を持つこれは、かつての持ち主の動作をトレースさせた。
用賀邦高祖、最初の禍津泡制覇者の力だ。
それは奇妙な追手たちを追い返すことにも役立った。
「狼蛾……」
十束は幼馴染に言う。
蒼留原の只中で、制服のスカートがめくれないよう抑えながら。
「このまま見過ごしてはくれないか」
「無理を言うな」
野太い返答であった。
鍛えられた体躯で、決して逃さぬと十束を見据える。
「邦を抜け出そうとするお前を引き戻すのが、友としてのおれの役目だ」
「だったら手に構えてるその写真機はなんだよぉ!」
十束の渾身の叫びであった。
そう、狼蛾は一瞬のシャッターチャンスも逃すまいと構えていた。
巨体にあっては、写真機はとてもちいさく見える。
「十束」
「なに」
「おれには夢があった……」
「どんな」
男臭い、渋い笑顔の自嘲を浮かべた。
「かわいいフリルのついた服を着てみたい、という夢だ」
「うん、わかった、狼蛾ちょっと黙ろうか」
「似合わなくとも構わないと考えていた、だが、だが、おれの理想の姿が、否、それ以上が目の前にあるのだ。焦がれ憧れていたもの以上だ、求めずにはいられない……!」
「まじで黙れ」
「お前が、お前が悪いんだ、そのかわいさは罪だ、素直にこの罰を受け入れろ十束ッ!」
狼蛾が撮影し、十束はしゃがみ込み顔を撮られぬよう避けた。
フィルムカメラが連続撮影できぬことが救いだが、いつまでも躱し続けられるかは怪しい。
「なんで皆揃いも揃って撮ろうとするんだ……」
写真撮影をしようとするのは、実は狼蛾だけではなく追手すべてがそうだった。
刀や符や棍棒の代わりに、誰も彼もが写真機を携える。
「十束」
「なんだ」
狼蛾は立ち止まり、この上なく真剣に言う。
「おれ以外のやつに、決して撮られるな、やつらは違う。おれのようにお前に惚れ込み、その姿を余さず撮り、室内に並べて貼って一緒に寝たいという純粋がない」
「いまのどこに純粋があった!?」
「伝わってくれまいか、この危機感」
「狼蛾が危険だってことはよく伝わったよ!」
言いながら十束は蹴りを振り抜く、それは閃光のように過ぎ去り、写真機を見事に粉砕した。
ついでにスカートその他もろもろも見事なギリギリを見せた。
狼蛾は壊されたものなど一顧だにせず、視線をまったく逸らさず、符を出し即座に物質化させた、当然のように写真機である。
フィルムを巻き、撮影を続行する。
「その体躯で符術士なの、いつ見ても卑怯!」
「その身体で拳闘士であることは、いつもおれを興奮させる!」
「そうかなあ」
「昔から!? 狼蛾って昔からそうだったの?!」
「おれがどれほどお前のようになりたかったか、きっと知るまい」
「がんばれー」
「それを言うなら拳士なのに体重も筋肉も足りない俺の方が――って誰ェ!?」
いつの間にか会話に割り込んでいるものがいた。
二人の争う姿をあぐらをかいて観戦してた。
黃旺サラである。
ほにゃほにゃと笑いながら手を振る。
野原だというのに、試合観戦のようなくつろぎっぷりだ。
これって本当に人間か、と十束は疑った。
十束が道を間違えぬよう、女は排除しなければと狼蛾は決意した。
「これってケンカ?」
二人の観察の硬直に割り込むような問いだった。
これに答える義理など無い。だが気づけば――
「追われて逃げてる」
「愛の試練だ」
「特に狼蛾から逃げている」
「愛を試されている」
二人はそう答えていた。
サラはなるほどと頷き、人差し指を立てた。
「戦って勝って、自分だけのものにしたいんだ?」
「それは違――」
「その通りだッ」
狼蛾が感動したように打ち震えた。
目を見開いた様子は天啓を得たかのようで、握り締めた写真機がめきりと音を立てた。
「そうか、そうだ、おれは十束が欲しかったのだ、ありとあらゆる意味で所有したかったのだ。個人撮影会を開催したかったのだ……!」
「そこの人、狼蛾がなんか覚醒したんだけど、どうしてくれるの」
「あたしサラって名前ー。あと、もともとの原因ってたぶん君だよね」
否定できなかった。
邦にいた頃から、やけに組手をしたがるなとは思っていた。
「もひとつ質問ー。マガについて、どう思ってんの?」
「無論、倒すべき敵だ」
狼蛾は即答した。
「俺も――」
同じ意見だと言いかけて、考える。
いま着ている衣服も禍津泡の一種である。
好きに脱げぬことは迷惑ではあるが、理想とする動きができることは素晴らしい。
だが、加減というものを知らない。十束自身の願いをまるで見ない。
「いや、マガは、人の話を聞かない馬鹿だ」
断言する。
人の想念を元にしているのに、今の十束の想いを汲み取らぬ馬鹿者であると。
サラは目をまん丸にし、
「プッ――あはははははっ!!」
すぐに大笑いした。
思わず二人足を止めて見てしまうほど、それは開けっぴろげで、心からの笑いであった。
腹を抱えた長い笑いのあと、合間のようにようやく。
「あたしも、くふふっ、同じ意見かなー?」
「そんなに受けること言ったか……?」
「うん、決めたよ」
目尻の涙を指で拭きながら。
「十束だっけ、君、あたしのにする」
とても優しい笑みで言った。
「あア゛ッ!?」
狼蛾が即座にブチ切れた。