黃旺邦について
禍津泡は、強い想念に誘発される。
これは祓えるものである。
そうなると、良からぬことを考える者も出る。
四年前の、黃旺邦の長がそうだった。
他邦の協力のもとマガを人工的に生じさせ、これを利用した。
人心の掌握や、特殊な武具の作成、兵に実戦経験を積ませる場としての活用に成功したが――
今では、悲惨な失敗の例として、この黃旺邦の名は残る。
無数に発生させたマガの群が、連結し一つの巨大な泡となり邦を覆ったのだ。
内部にいる人間の悲鳴は、二つ離れた邦まで響いた。
黃旺邦は、四年後の現在も禍津泡に覆われている。
黃旺邦の姫である黃旺サラは、飯を食う最中に悲鳴の唱和を聞いた。
見窄らしい小屋から箸すら投げ捨て飛び出し見れば、空が異様な色彩をしていた。
清々しい青ではなく、しゃぼん玉の表面にも似た万色の変化である。
空気が、違う。
粘りつくような、ひりつくような、常とは異なる「害意」があった。
十とすこしの年ではあるが、サラにもこれが取り返しがつかない異常であるとわかる。
なにせ、巨大な鬼が垣根を越えて、むんずと彼女を捕らえたのだから。
禍津泡は、すべてを同時に変えた。
邦の鉾にして盾と誇る兵団は、その大半が妖異と化した。禍津泡を利用して強化された兵団は、誰よりも禍津泡に近かった。
黄旺邦の長は呆然とする間にも斬り捨てられ、唖然とした顔のまま地を転がった。
蓋をされた鬱憤がそこかしこで暴発し、妖異という形で無関係の人々を酷く傷つけ、新たな想念を作り出した。
なるほどなあ――とサラは頷いた。
マガを利用したつもりが、その実、マガに呑まれていた。
とはいえ、邦の中枢が真っ先に崩壊するのはできすぎではある。誰かの差し金なのか。
妖異が粘つく笑みを浮かべ、サラを押し倒し、大口を開けて齧り付こうとしているのを認識しながらも、そう考えた。
――なら、ここでのんきに寝てる場合じゃないなー。
思い、口内で咀嚼中だった白米を妖異へと吹き付けた。
古来、米は魔を祓うとされる。
本来は炊く前の生米がそうだが、禍津泡の中、「地獄」が形作る場であれば、常より強い効果をもたらした。
眼球に直撃を受けた妖異は、甲高い悲鳴を上げて飛び退いた。
地面に転がり、顔をかきむしり、塗炭の苦しみから逃れようとする。
サラは悠々と身を起こし、お手玉を拾い上げた。
昨日、ここで遊んでいた子が忘れたものだろう、ちいさな布袋には小豆が入れられている。
これもまた、魔除けの効果があるとされる。
布を歯で引きちぎり、中身の小豆をつかむと妖異へ投げた。
小豆が白熱する鉄片であるかのように、ジュウ、とめり込む。
先程の妖異の声が情けない悲鳴であるとしたら、今回上がるのは喉奥からの断末魔だった。
容赦なく、二度三度と投げる。
妖異が穴だらけとなり、動かなくなるのを確かめると頷いた。
これは、人の手で倒せる。
彼女は息をおおきく吸い込み、叫んだ。
「ねー、みんなー、こんなのに負けたらだめー!」
気の抜けた声であった。
しかし、甲高い声は遠くまで響いた。
「がつんと一発やっちゃおー。塩でも米でも小豆でも大豆でも、手近な魔除けがぜんぶ効く。よっわい相手なんだから、蹴散らしちゃえ!」
言い終えると小屋へと戻り、服を着直した。この邦に古来より伝わるものである。白を基調とした上に、さまざまな漢字が黒く刻まれている。
特攻服――あるいはトップクと呼ばれる装束を、素肌の上に羽織り宣言する。
「あたしが、先頭をいくよ」
禍津泡の中に、人の勢力が作られた瞬間だった。
四年の後、黄旺サラは巨大な禍津泡から抜け出て歩いた。
着ているのは男子学生服である、詰襟のそれはいわゆる学ランとも呼ばれていた。
出立にあたって皆が仕立てたものである。
「まー、しかたないかなぁ……」
完全にではないが納得していた。
出奔の決断は、サラ自身がしたのだから。
禍津泡での生活は、当然のことながらさまざまな困難が待ち構えた。
まず、集団脱出が不可能であった。
かつて禍津泡を倒すことができぬとされたのは、行き来が困難であるためだ。今のサラのように専用のものを纏う必要があった。
日々は、文字通り地獄だった。
助けなど来ない、助かる術などありはしない。その中で、サラは誰よりも戦い、絶望する者を勇気づけ、ときに叱り、人々の中心となった。
中には邦長の娘ということで非難するものもいたが、呑気な笑顔を浮かべる彼女と話をするうちに、いつの間にかほだされた。
彼女自身にその気はなかったが、そのあり方はマガの発生と拡大を効果的に抑えた。
そう、上手く推移していた。人々が生活を行える水準にまで行き着いた。
それが実のところ、なによりも問題だった。
「んんー?」
黃旺邦よりほど近い、蒼留原を進みながら、彼女は争う声を聞いた。
人間の、おそらく男と女の声だろう、痴話喧嘩とも違う、切迫した会話があった。