用賀邦について
黒峰十束は危機にあった。
禍津泡によるものではなく、人の手による危機だった。
十束が生まれた用賀邦は、元より禍津泡を征するためにあり、代々その研鑽を続けた。
禍津泡とはマガとも呼ばれ、想念により誘発される異界である。
邦長より最奥の間へ来るよう命じられたときも、十束はこのマガに抗するための徒手訓練をしていた。
汗を拭いて身奇麗にし、可能な限り急ぎ来た少年に渡されたのは、しかし、
「当代では、おまえしかおらぬ、これを着るのだ」
ただの衣服であった。
「これは、一体どのようなものでしょうか」
当然の疑問であったが、邦長は説明せぬまま立ち去り、部屋には困惑した十束と畳まれた衣服だけが残された。
仕方無しに服を広げて確認してみるが。
「うん?」
なにか、違和感がある。
言語化できない、根本的な違和である。
とはいえ断る理由もない、慣れない衣服と下着を苦労して着付けるが、再び首を傾げた。
「これは、女子の衣装なのでは……?」
ブレザータイプの女子校制服とスカートであった。校則準拠である。
無論、そのような名の衣服であることを十束は知らない。
黒峰十束は男子である。
たしかに背は低く、骨は細く、髪も肩まで伸びているが、間違いなく男子である。
シャツもブレザーも無理なく収まり、タイが可憐に揺らめいているが、男子である。
筋肉が付かないことが最近の悩みだ。
だがその姿は、機会を見計らい障子を開けた邦長が、思わず「おお……」と感嘆するほどであった。
「邦長、これは」
「十束、お前はこれより三年間、これを着続けなければならない」
「は?」
「卒業までの短い期間しかそれを着れぬことを残念に思うが、これも定めと受け入れてくれ」
「なに言ってるんですか」
卒業って何ですか。ついにボケましたか、とまで言うのは踏み留まる。
「我らが始祖、用賀邦の始まりとなる高祖様の来歴は知っているな」
「誰も知らぬ遠い場所から流れ着いたと聞いています」
「そうだ、お前が着ているそれは、高祖様の故郷の衣服だ」
どこからともなく突然現れた、言葉も常識も知らぬその女子は、しかし、史上初めて禍津泡を征した者だった。
「高祖様は、この地にて禍津泡を倒し、その機構を解明し、そして故郷に戻る旅に出られた」
この制服だけが残されたのだという。
数々のマガを共に打ち倒したそれは、マガを征するのに有益な武具と化していた。
「この邦では15、6となる者の内、もっともふさわしい者がこれを着る」
「俺は、この衣服を着たものを見たことがありませんが」
「適した者が、長くいなかったのだ。お前の同輩である狼蛾がこれを着る姿を見たいか」
十束よりふた回りは大きい偉丈夫の名である。胸板の太さも相応にある。
着ればはち切れること請け合いだ。
「であれば、俺も着れなくなるのではありませんか」
十束もまた、成長すればあのような体躯になるに違いない。
そういう希望と夢がある。
「無用な心配だ」
「どうしてでしょうか」
「その制服は、禍津泡に近しい性質を持つ」
意味が分からず十束は首をかしげる。髪の毛がサラサラと流れた。
「それを着る限り、制服がお前をふさわしい形にする」
マガは想念に誘発され形作られる。
女子高生という想念が、この制服には座している。
そう、制服が女子高生を作るのだ。
「呪われてはいませんか」
「祝福である」
十束はそっと脱ごうとしたが、なぜかできない。
「一度それを着たからには、三年間脱げることはない」
「やはり呪いの衣服なのでは」
「高祖様の制服だ、そのようなことはない」
「それと、なぜ写真機を構えているのですか」
「無論、その姿を撮影し、この邦すべてのものに、否、あまねく全ての人々に知らせるためである」
素早い動作で写真撮影をしようとした邦長に、十束は上段回し蹴りを食らわせた。しばらくは気絶させる会心の手応えがあった。ぐずぐずしてはいられない、できるだけ遠くへ逃げなければ。
少年は確信していた。このままここにいれば、写真集が作られることになる。