ヤクザ者
ベリーグッド商会は本日も慌ただしい。そこら中で人を呼ぶ声だったり怒号だったりが飛び交っている。
特に目立つのが女性の威勢のいい声。遠くまでその甲高い声は響き渡る。逆に男の声はどこか控えめな感じを含んでいる。
世俗とは一線を画す、女性中心の女性上位の一種独特なかしましさが場を支配している。
そんな商会の門をくぐると、幅員5メートルほどのオレンジ色の石畳が5階建ての大きな西洋館へと誘うように敷設されている。その両サイドには植栽やら花壇やらが絢爛に設えてある。西洋館を正面にその左側に目を向けると、花壇の奥に小さな池がある。透き通った水面の中にカラフルな十数匹の魚が元気に泳ぎ回っているのが見える。
その先には数十本の木立、それらを背景に小さな小屋があって、夜間には幽玄にライトアップされるその中庭を見ながら、しっぽりとひと時を過ごせるような趣向が凝らされている。
燦々と輝く陽光を吸収して、瑞々しさを増すその庭には5,6人の男女がいる。植栽の剪定をしたり、物を運んだり、掃き掃除をしたり、忙しそうに走り回っている。
時刻は午後3時。
現在は営業準備の真っ最中。
この庭のみならず、本館である前方の西洋館、大浴場のある別館、もしくは従業員の寝泊まりする宿舎の中においても、同様のえらい騒ぎである。
客相手をする嬢たちも、ちょうどこの頃に動き始める。化粧をしたり髪を結ったりといった商売準備を下女にやらせるのだが、各々が好みやら気分やらによって事細かに指図をするので、いよいよその甲高い声は留まることを知らない。
ザントはそんなけたたましさの最中、今日はというと、大浴場の風呂掃除に駆り出されせっせと洗い場をたわしでこすり上げていた。
巨大なレジャー型スーパー銭湯よろしく、娯楽性と機能面を兼ね備えたこの浴場は、女郎屋内にあるだけあって男女混浴となっている。
中央に巨大な浴槽がドカンと幅を取っていて、その周囲に大小いくつもの湯舟が、季節によって色とりどりの色彩を放ちつつ、湯治の効能だのなんだのを主張している。
その浴槽一つ一つの湯を抜いて、ピカピカになるまで磨き上げるだけでも半日はかかる作業なのであるが、数日に一回はそれ配置換えだ、と商会の主人がやたらと動きを付け加えたがるので、その際の応接不暇ぶりといったら目も当てられない。
ザントは小休止と庭先に腰を下ろして煙草を吹かす。
ぼんやりとしていると、いつもにも増してやけに騒々しい事に気が付く。
気になって様子を見に行くと、そこは表門で、10人ほどの体格のいい男連中が何やら大声で喚き散らしているようだ。
「お客様、困ります」
と、身を低くして対応しているのは番頭さんだ。
「主人を出せ! さもなければ、どうなるかわからんぞ!」
先頭の20代程の一際ガタイのよい2m声の男が凄む。番頭さんは恐縮して、留守の旨を伝えるが、その男は彼の言葉を無視し、ボディビルダーかというほどに発達した左腕で彼をむんずと掴むと、ずんずんと本館のほうに進んでいった。
彼らは強引に扉を開き中に入る。と、間が悪いことに、商会の主人がフロントで金感情をしている最中で、ばったりと出くわしてしまう。
「貴様、うそをついたな!」
いよいよ真っ青になった番頭さんは、顔面にきつい一発を食らうとそのまま気を失ってしまう。そしてぼろ雑巾か何かのように、外へ放り投げられてしまう。
ザントは彼を地面にたたきつけられる前にキャッチする。顔を覗き込むと、ああ無残、鼻はぺちゃんこにつぶれてしまっている。
「おう、貴様、ジョナサンだな」
「はあ、さようでございますが。当商会に何か御用で?」
ジョナサンと呼ばれた男、ベリーグッド商会の老主人はとぼけ面で尋ねる。灰色の総髪を束ねたその先っちょを肩甲骨の辺りまで伸ばした60歳ほどの小柄な男である。一見年相応の好々爺然とした印象を抱かせるが、観察眼の優れる者から見れば、目の奥に宿る不気味な光、真意を悟らせない語り口など、その老獪さに慄然とさせられるだろう。
「ここに、ソンという女郎がいるな?」
「へえ、おりますが」
「尋常に引き渡せばよし、さもなければ問答無用で探し出す」
「は、はあ。えっと彼女が何か粗相でも?」
「フン、貴様に答えるぎりはない。さあ、女を出せ!」
と、すごむ大男の手下が、ジョナサンの胸ぐらを掴み頸を絞め上げる。
さすがにまずい、とザントはそれを制止する。
と、その手下から一直線に飛んでくる握り拳。ザントは半身に躱すと、反射的に体の泳いだその男の下あごを右手で打ち抜いてしまう。うめき声すら立てず崩れ去る手下の男。
「おっと、すまん、今のは正当防衛だぞ」
ザントは、両手を広げて謝罪するが、一行はすでに腰の剣を抜きザントにその切っ先を向けていた。
「ゲホゲホ、わ、分かりました。ソンを呼んできましょう。だからあなた、店先でそんな物騒なもの出さないでください」
と、慌ててジョナサンがいうと、大男は手下に剣をおさめさせる。
ザントは指示されるがまま、ソンを探しに行く。彼女は宿舎の化粧部屋で、女中に髪を整えさせていた。ザントは不審がる彼女を引っ張り出して、いざお客さんの前に押し出してみると、見る見るうちに真っ青になってガタガタと震えだしてしまった。
「ソン、探したぜ……」
大男は狼のように血走った目で、ソンを睨みつける。
「ジャ、ジャンガ……。ど、どうしてここが……」
と、ソンは声を絞り出す。
ジャンガと呼ばれた大男は答えずに、
「若頭のカタキだ! 思い知れ!」
激高のままに右腕を大きく振りかぶり、彼女に拳固を振り下ろす。ソンは絶叫と共に目を瞑るが、そこはザント、さすがに思うようにはさせず彼女を後ろに引っ張り、事なきを得る。
怒り心頭に発するジャンガ。真っ赤に染まった眼光をザントに浴びせかけるが、全く怯まない彼を見て少し平静さを取り戻す。
ザントは、チラリと主人のジョナサンを流し見た。
彼は無表情のままに、ただ目だけを凝然と見開いて二人を見ていた。ザントと目が合うと微笑して目を細め、合図を送る。
得心したザントは、
「ジャンガさんとやら、一体どうしたんだ? 彼女はうちの大事な商品だ、暴力沙汰は困るぜ?」
「………………」
「見たところ、ずいぶんと怨恨の類がありそうだが。勝手に商品価値落とされても困るからな。別にオレはそこの爺のように、訳を話せとは言わないが……。残念ながら、ここの治安を維持するのが仕事だったりするもんでね。これ以上やりたいってなら、委細、外でゆっくり伺おうじゃありませんの」
というと、ザントは悠々とジャンガの隣を通り過ぎ、その後方に固まる数人の手下の真ん中へ。
ジャンガは慌てて振り向いた。その顔面が驚愕に染まっていた。
彼はのうのうと戯言を宣うザントの鼻っ面に、先ほどの小男と同様の手痛い拳固を一発喰らわして、減らず口を黙らせてやるつもりだったからだ。
それなのに、身体が思い通りに動かないどころか、微動だに出来なかったのだ。
拳を握りしめたその瞬間、全身に冷水を浴びせかけられたかのように、ササーっと体温が引いてしまった。そして背中からは大量の脂汗がにじみ出てきた。彼の身体はまるでお地蔵様のように硬直して動かなかった。
初めての経験であった。
生まれながらに体格に恵まれ、また幼少期から鍛錬に鍛錬を重ねた彼の身体は、ダイヤモンドのように強靭で、ミサイルのように破壊的である。並大抵の刃物や銃器など、彼の肉体の前にはまるで紙っぺらのように、あまりにも心もとない。
彼自身、その肉体でまさに一騎当千の人生を歩んできたのだし、その自尊心たるや相当のものがあった。
それが今この瞬間、たった一刹那の間に、全てが瓦解してしまったように感じたのであった。
ザントは悠々と庭へ出ていった。
ジャンガは脳が沸騰するのを感じた。全ての理性が消え去ってしまい、ただこの耐えがたい屈辱と羞恥のみが全身を支配した。本能のままに彼に躍りかかった。
すると奴は、それをまたもぬるりと交わして、顔面に嘲笑を浮かべながら、
「おいおい、ジャンガさんよ。なんだよ、そのへにゃちょこパンチはよ。あんた、ずいぶんと力自慢のようだけど、そんなんじゃまさに力の持ち腐れだよな」
ザントはヘラヘラしながら軽く舌を出すと、そのまま門外へ走っていく。
ジャンガは怒りのあまり目の前が真っ白になる。ここまでの屈辱はこれまで歩んできた20年の人生の中で初めての事であった。彼はキングベアのような咆哮と共に、ザントを追いかける。
「あ、ちょ、ちょっと、お頭!」
と、一部始終を呆然と見ていた手下連中も一斉に我に返る。しばらくまごついているようだったが、やがて雑踏へと消えた二人を追いかけて走り出す。
その場に残ったのは、仕事をほっぽり出した野次馬連中、腰を抜かしてがくがくと震え続けるソン、そして未だニタニタと気色の悪い笑みをたたえるジョナサン……。
「さあ、お前たち、いつまでそこで手を遊ばせている? 早く持ち場へ戻らないか!」
という声が何処からともなく響いて。
ひと時の劇場は終わり、女郎屋はいつものせわしない世界へと戻っていくのであった。
雑踏を颯爽と飛び越えて、王都の門をも潜り抜けたザントは、田畑の並ぶ田園風景を横目にようやく足を止める。
送れる事十数秒、般若の形相のジャンガが追いつき、二人はようやくまともに相対する。
「逃げ足だけの卑怯者め! 覚悟は良いか! 命はないぞ!」
「ははは、いやいや御見それしたよ。オレの足についてくるなんて、なかなかできるゴリラだな」
「き、貴様!」
と、ジャンガは身を乗り出しかけるが、ふと思いとどまって、獰猛な犬歯をむき出しにして、
「……その手は食わんぞ。貴様のような輩の手口は知っている。先ほどは思わず我を失ってしまったがな」
と、ジャンガは大きく息を吐く。先ほどまでの暴力性はやや鳴りを潜め、代わりに蛇のような静かなるどう猛さが、彼の心臓からふつふつと沸き出てくるのをザントは見た。
「ほう」
と、思わず驚嘆する。なんだこいつ、意外とできるようだ、と。
「貴様、名は?」
「……オレか? ザントだ」
「そうか、ザント。貴様の手口は知っている。不埒な手段で敵を挑発をし、冷静さを欠いたところで隙をついて倒せれば吉、無理でもその自慢の逃げ足で何とか逃げおおせる。どうせそんな腹積もりなんだろうが」
「うーん、まあ、そんなものなのかな?」
「ふん、貴様の作戦はもう通じんぞ。さあ、どうする。ここからは純粋に武力の勝負だ。この俺を愚弄した罪、我が極北伝拳にて断罪してくれよう」
ザッ、と砂嵐が舞った。大地がグオンと縦に揺れ、ジャンガの身体が空へと舞う。数瞬遅れて発生する衝撃波。彼の起こした反重力運動による烈風である。
ザントはおお、と歓声を上げる。ぼんやりと佇立する中央に、空中で反転したジャンガの巨大な拳が叩き込まれる。
ドン、と鈍い音とともに抉られる大地。半径数メートルのクレーターが出来上がる。
いつの間にか身を躱したザントは、
「ゲッ! 何ちゅうフィジカルおばけ」
と一人ごちるが、次の瞬間にはその強烈過酷なフィジカルが目の前をかすめる。ひぃ、と声にならない声を飲み込みつつ、ザントは羽毛のようにひらひらと舞い続ける。一発でも食らったらただでは済まない。
もはや流星群のようだ。たった数秒の間に、先ほどまでののどかな田園風景がここまで変り果てるものか。
ザントはいよいよ腰のブロードソードに手を伸ばす。
ジャンガの連撃の合間に一撃を加えてみるが、ガキン、という鈍い音がするだけであった。彼の鋼鉄の身体にはまるでダメージがないようだった。
「うーん、これは」
と、ザントは初めてしかめっ面になり、トンと跳躍し10メートルほどの距離を取る。
「はー、やるねお兄さん」
「貴様もここまでかわし続けるとはな。正直驚いたぞ。……よかろう、こうなったら、見せてやらんこともない。俺の必殺の一撃をな!」
「よし、のった! オレも見せてやるよ、手の内を。……お兄さんならきっと死なんだろ」
「ほざけ!」
勝負は一瞬であった。
王都へ届こうかという巨大な咆哮を上げるジャンガ。彼を中心にして空気が歪む。彼の身体からは湯気が立ち上り始め、肌の色がだんだんと漆黒に変化し始める。
「見よ! 我が黒剛の拳を!」
全霊の一歩をいざ踏み出さん。その刹那、ジャンガの横を何か鋭いものが通り過ぎた。瞬間的に感じる……、先般、あの女郎屋で感じたのとまったく同じ……。
これは強烈な悪寒だ。彼の自尊心を粉々に打ちのめした本能的な恐怖だ……。
ジャンガはここに至りようやく気が付いた。
それがザントから発せられる殺気であったことに。
それはあまりにも自然で温かく包み込まれるような殺気。身体に、脳髄に、魂に染みわたる……、ああ決して叶わぬ、そう細胞一つ一つに刻み込まれるような殺気……。
ああ、そうか。
そういうことだったのかぁ。と、妙な納得と共に、鮮烈な光が脳髄に閃いて。
彼はつんのめったまま、顔面から大地へ。
左肩から右わき腹へにかけて、袈裟懸けに迸る煮えたぎる快感をこれでもかというほどに自覚をしながら、ああこれは反則だ、こんなにやさしくやっつけられるなんて……。役者があまりにも違いすぎる。
ジャンガはそのまま倒れ伏し動かなくなった。
たった今、二人に追い付いたジャンガの手下たちが、絶対の信頼を置く上司の崩れ落ちる様を、まるで夢でも見ているかのように口をあんぐりと開けて眺めていた。