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長距離走のネクローシス ⑤

挿絵(By みてみん)

 近付けた顔を一気に離し振り向くと、首を小さく横に振って寂しそうに僕を見つめている。

 柔らかい唇の感触を知らぬまま、意識を失った男子に初めての唇を捧げる僕を不憫に思ったのだろうか? それとも……?

 

 その言葉に何かを察したのか、顔を曇らせた雫がギュッとウーちゃんを胸に抱きしめた。


「ウーちゃん……それ、どういう意味?」


「…………だピ」


 急にトーンダウンしてボソボソと呟いたが、余りに小さ過ぎる声で聞き取れない。


「ごめん、何て言ったんだ?」


「…………リだピ」


 今度は美桜が、ウーちゃんに顔を近付けて聞き返す。


「えっ? 全然聞こえないわよ。まさかアンタまでこんな時になぞなぞ出す気? それとも……何か知ってるなら話しなさいよ」


 諦めの表情とは斯くなるものか。

 ウーちゃんは全てを悟ったような目を美桜から逸らすと、吐いて捨てるように呟いた。


「もうムリだ……助からないっピ」


「どういう事よ、助からないって……」


「君たち細胞……ましてや精子は、より強く、速く、遠く……過酷な受精を成し遂げなくてはならないっピ。優秀な遺伝子だけを遺す為、他より優れないものは淘汰される……そういう事だっピ」


「それって……」


 頭では早々に理解したものの、敢えて口に出す事をはばかった。


「そう、それが自然の摂理だっピ。代わりは幾らでも生まれて来る……自ら再生する生命力、受精するに足る適応力がなければ不適合と認識され壊死していくっピ。それが弱い細胞に残された末路なんだっピ」


 その言葉の意味を既に理解しているのか、それとも受け入れられないでいるのか、下を向いたまま雫は顔を上げようとしない。


 すると向こうから豆粒ほどの黒点が近付いて来るかと思えば、みるみると大きくなる。それは凄い勢いで走ってくるチョップの姿だった。

 あっと言う間に、三人の前で急停止すると砂埃を巻き上げた。


「どうした、お前たち? 何があった?」


「先生、彼が大変なんです。さっき迄なぞなぞ出すくらい元気があったのに……」


「だから、なぞなぞでも何でもないって美桜、あれは……」


 そう言いかけて止めた。

 朦朧とする意識の中、必死に走って一位になった幻覚でも見ていたのか? 

 いや、きっとそうじゃ無い。

 だとすると、今にも自分の命が尽きそうなあの場面で、何故わざわざ彼はなぞなぞを僕たちに出題する必要があったんだろう?

 それとも何か伝えようとしたのだろうか?

 そんな解せない疑問が、頭に纏わりついて離れなかった。


 チョップは口から泡を吐き、白目を剥いて力無く横たわる生徒の姿を確認すると、片手でそっとその瞼を閉じさせた。

 それから深く息を吸ったのち、片膝を突いて両腕で優しく抱き上げると胸の位置で止めた。


「コイツは俺が連れて帰る。お前たちは、このままマラソンを続けろ!」


「彼、死んじゃうんですか? どうか、助けてあげてください」


 美桜の問いに、チョップは黙ったまま首だけを横に振った。


「先生っ! もしかして私たちの中から、こうなる生徒が出ると……最初から知って……」


「聞こえなかったのか? 美桜、マラソンの続きを走るんだ」


「出来ません! こんなこと続けて、他にも……」


 チョップは生徒を抱えた手に一層力を込めると、更に大きな溜息をひとつ漏らす。


「フーッ……! 本当にイカ臭い奴らだ。可愛い教え子がひとりでも欠けて、悲しまない教師が何処にいる? 本来なら全員揃って卒業させてやりたいのが親心ってヤツだが、残念だがそうもいかない。もう一度聞く! お前たち精子の生存意義は何だ?」


「わ、私たちの生存意義は、卵子と受精して……人間になること……」


 力無く俯いたままボソボソと呟くように答える。


「そうだ美桜っ。その為には過酷な条件に耐えうる優秀な細胞でなくてはならない。そうで無い者は――」


 先程から下を向いたままの雫が、こぶしをギュッと握り締めその続きを答えた。


「自然の摂理によって、淘汰される……」


「俺の役目は少しでも卵子に辿り着く可能性を高める為、少しでも長く生きていける為……お前たちを卒業までにみっちり鍛え上げる事だ。わかったらコイツの屍を越えてサッサと走れ! お前たちは生命を継ぐ者だろっ!」


    ◇◇◇


 その日、珍しく降り出した雨は放課後まで続いた。


「ねぇ、瞬……何か、なぞなぞ出してよ」


 帰り道、沈黙を嫌った美桜の言葉に、僕は答える事なく濡れながら歩いた。

 話した事も無いクラスメイトの壊死。

 僕にとっては衝撃的で悲しい出来事だったが、DNAからすれば百も承知なのだろう……不思議と涙は出て来なかった。

 いや、本当は泣いていたのかも知れない。

 頬を伝う季節外れの冷たい雨が、それを気付かせなかった……。


 印象に残っているのは、灰のように消えて逝く骸を抱きかかえ、彼の最期を看取ったチョップの姿はいつになく荘厳だったこと。

 その日だけは、何故かチョップが担任である事が誇らしく思えた。


 【ネクローシス】ギリシャ語の死を語源とする、僕たち精子である細胞の壊死を表す言葉。

 DNAに刻まれた生存する意義と、彼が最期に遺したなぞなぞのような言葉の真意。

 僕たちがそれを知るのは、まだまだ先の事だった。

はじめまして、瞬と同じクラスの美桜です。

なんだか精子の物語って聞いてドン引きしてるんじゃない?

そういう貴方だって最初は私たちと同じ精子だったんだからね?

引いてる場合じゃないわよ。


と言うことで、これからの私たちの活躍に期待してね。


えっ! ブックマークもしてくれるの? 嬉しい、ありがとう。

評価もしてくていいわよ。もちろん★5よね?

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