第八話 三次川の戦い・本戦 壱
さあ、開戦です!
「というわけで、全軍待機になった」
「……は?」
舞耶が大口を開けて聞き返す。
軍議に出る前に、嫌だ、絶対出るもんか、あんな連中といたらバカが伝染る、会議なんてもうこりごりなんだ、とあれだけ駄々をこねていた三郎が、るんるんとして戻ってきたと思ったら、初めに放った言葉がこれである。
「つまり、我が軍は戦に加わるなと?」
「そーそー、そういうことだねー」
「ハア!? なぜそのように喜んでおられるのですか!?」
すると、三郎が口を尖らせて言った。
「ええ、だってもう仕事したくないし。今日の戦で十分戦ったじゃん。向こうから戦うなって言ってんだから、もうこっちには戦う理由なんてないしー」
「戦わなきゃ恩賞も頂けないのですよ!?」
「んー。金は減っても構わないけど、仕事が増えるのはヤダ!」
この甲斐性なしがあああああ!! と舞耶は敵陣にまで響き渡ろうかという大声で罵倒した。
今日の戦で、昔の聡明で凛々しい三郎お兄様が戻ってきたかと淡い希望を抱いたのに、とんだ勘違いであった。というか、そんな希望を持った自分が恥ずかしい。
「というわけで、私はもう寝るよー。たっぷり働いたから疲れちゃった」
この男、まったく堪えてない。ただ、なにも考えていないわけではなかった。
……この陣形、両軍の配置、それに地形、やっぱあの戦いに似てるよなあ。
だから、あそこでああして、この時にこうして、それでそうなってるだろうから、そこからはアレンジしてこっちにこうして、そのままああすれば勝てると思うんだけどな。
まあ、そこまでしなくても負けることはないだろう。勝つかどうかはわかんないけど。
それにこれ以上働くのはもうゴメンだからな。働くなって言ってんのは向こうだしな、うん。
それでも――、と三郎は思い直した。
陣屋の中に入ろうとした直前、舞耶を振り返って告げた。
「あ、そうだ。火は夜も落とさないようにね、それから足軽たちは軽装にしておくように皆に伝えて」
「ハア? 何故に……」
また何か変なこと言い出した、と舞耶は困惑した。
だが、三郎はまた頬を右手でかきながら言っているのである。
「まあ、戦わないにしても、準備するに越したことはないからさ」
――翌日、午前二時。
最も闇が深い時間、川の朝霧が立ち始めた闇の中、それは唐突に始まった。
「殿! 嘉納殿!!」
嘉納頼高は伝令の悲痛な叫びに眠りを妨げられた。
「何事だ、うるさい……」
「殿、敵が……敵襲にございます!!」
「なんだと!?」
拓馬軍の先鋒が、突如南斗軍の第一陣に襲いかかったのである。
南斗軍とて夜襲を警戒していないわけではなかった。ちゃんと交代で見張りを立ててはいたのである。
しかし、三郎が緒戦で勝ったことで敵の戦意を挫いたこと、大軍同士での闇討ちは同士討ちの危険性が高いこと、そういった油断――特に首脳陣の――から警戒が弛んでいたのである。
そして、いわゆる丑三つ時と呼ばれる午前二時、それは最も人間の眠気を誘う時間。
油断と眠気という弱みをさらけ出した南斗軍へ、拓馬軍は一挙に押し寄せたのだ。
「ええい、なにをしておる! 夜襲には警戒せよとあれほど言っていたではないか!! 皆を叩き起こせ! 迎え撃つのだ!!」
申し上げます、と次の伝令が駆け込んでくる。
「第一陣、すでに敗退した模様です! それにつられて、第二陣から逃亡者が!」
「なにいいいいいいいいい!?」
「……様、起きてください、三郎様!!」
三郎はまどろみの中、天使のような声を聞いた。さぞかし美人に違いない。
薄く目を開けてみると、黒髪の乙女が寄り添っている。きれいだ。
「しかし、胸が残念だなあ」
まな板のような絶壁を手で擦る。弾力の欠片もない。
いや、実際は甲冑を撫でているのだが、寝ぼけ眼の三郎は気づいていない。
「これで胸さえ大きければなにも言うことないんだがなあ」
「どさくさに紛れて、なにをしておいでですか! この、恥知らず!!」
バチッ、と三郎の両頬が悲鳴を上げた。何者かに思いっきりビンタされたのだ。
「あいた! ……なんだ、舞耶か。どうりで」手応えがなかったはずだ。
「なんだではありませぬ! まったく、眠ってるときでさえ、ふざけてるのですから! ……寝顔はあんなにかわいいのに」
「え、なんだって?」
「なんでもありませぬ!! あ、て、敵襲です! お味方が、敵の攻撃を受けております!」
慌てた様子の舞耶だったが、一方の三郎はやけに落ち着いていた。
「あー、やっぱりかー」
「やっぱりって……」
「うん、まあ予想はしてたんだけどね、どうせ困るのは南斗のバカどもだし、いっかーって思って忠告しなかったんだ。あと、働きたくなかったしな!」
「ハア、あの?」
「まあけど、負けてもらっちゃあ困るからな、戦況はどうだい?」
「ハッ、第一陣が破られ、第二陣は潰走、現在は第三陣が戦っておりますが……」
その時、伝令が駆け込んでくる。
「申し上げます! 第三陣に続き、第四陣も敗走!」
三郎は舞耶と見合わせた。沈痛な面持ちになる舞耶に、三郎は明るく声をかけた。
舞耶の暗い顔なんて見たくなかった。
「心配するな、策は考えてある」
「本当ですか?」
「だけど、働きたくないから今は静観!」
そう言って三郎はまた眠りだしてしまった。
舞耶と伝令は互いに見合わせて、ため息をついた。