第四十三話 明洲原の戦い 参
またも遅れてしまい申し訳ないです!
明洲原の戦い、今回で終結です!
「やはり、そっちだったか」
三郎は長政の行動の意図に確信を得た。
「そっち、とはなんです、三郎様?」
背後の舞耶が聞いてくる。
「つまり、やっこさんの狙いは、ここで勝つことじゃない。不甲斐なく逃げて見せることだったんだ」
三郎は、敵の反撃ポイントがこの明洲原であることは見抜いていたが、果たしてここで総攻撃をかけてくるのかは怪しく思っていた。
敵の戦略構想が、南斗軍を自領内に深く誘い込み、補給線を断った上で一斉に反転攻勢に出ることであろうと、予測をしていた。それは、敵が自領の防御施設を破却していたことからも自明であろう。
あとは、その反転攻勢がいつ来るかということであるが、この明洲原は海岸にも近く、大戸水軍との連携もまだ生きている。だからこそ、嘉納頼高は腰抜けにも海側へと逃走したのだから。そして、岐洲城も未だ健在であり、南斗軍の補給線は機能しているのである。
であるなら、ここでの反撃は戦略構想から外れたものであり、そのような行いをわざわざ自領の防御施設を破却までしたあの敵が、取るのだろうかと疑念を抱いていたのだ。
なぜ敵は、補給線が機能している南斗軍に対し、三千という寡兵でわざわざ戦端を開いたのか。
ここで普通ならば思考停止に陥ってしまう。なぜなら、戦は勝つためにするはずだという、先入観が思考を惑わせてしまうからだ。
戦には、戦略に則った、戦術目標がある。戦術とは一つの戦場における兵の運用法で、一方の戦略は複数の戦場を含めた長期的な運用のことである。戦略がシナリオであるなら、戦術は個々の演出・演技に相当する。戦術はあくまで戦略に則ったものでなければならず、戦略が主であり、戦術が従である。
最終的な勝利を得るために、捨て試合を作ることがあるように、戦略を実現するためには、戦術として敗北することも選択肢に成り得るのだ。
ここで長政の戦略に立ち返るなら、戦略の第一段階は、南斗軍を自領内に深く誘い込むことであった。そのためには、南斗軍に警戒を弛めて、のこのこと本拠の側までやって来てもらう必要がある。
つまり、南斗軍には油断をしてもらわなければならない。
そう、この明洲原の戦いにおける長政の戦術目標とは、「拓馬軍は戦っても不甲斐なく撤退するような弱兵である」という油断を、南斗軍に印象付けることだったのである。
「逃げて見せる……って、そんな! 敵は勝っていたではありませんか!」
「ああ、敵がそれに目が眩むような奴だったら、苦労はしなかったんだけどね」
三郎は頭を掻いた。
「あれは、徹底した合理的思考の持ち主だ。今までの相手とはまるで違う、厄介な相手だよ」
だからこそ、と三郎は思う。
「敵を逃がすな。軍隊は撤退時が最も隙きが大きくなる。攻め立てろ!」
八咫軍は後退する長政軍の後背を急襲した。
長政軍が規律を持って撤退していたとは言え、八咫軍の攻勢は苛烈を極め、長政軍の最後尾は次々と討ち取られていった。
長政に側近が駆け寄る。
「殿に敵軍が食らいついております!」
「ほう、敵とはどの敵か」
「八咫にございます!」
「であろうな」
長政は断定するように言った。この戦場において、長政の鮮やかな撤兵に追いつける軍など、八咫以外には有り得なかった。
「いかが致しますか?」
「なにがだ」
長政は眉をひそめた。
「は、いえ、このままでは、殿が壊滅してしまいます!」
「捨て置け」
「は?」
「捨て置け」
側近が身をこわばらせる。
長政の背後に阿修羅のような鬼神の姿を見たのであった。
長政は馬を駆けさせた。もはや、この問答に意味はなかった。
「すべては手筈通りだ」
そう、八咫。俺は手を抜かん。貴様のような奴を相手に、手を抜くはずがなかろう。
長政はちらりと、見やった。その視線の先は、明洲原の北、その台地である。
八咫軍は長政軍の殿を突破した。
撤退する長政軍の本隊は、さらに先を行っている。
「三郎様、このままでは敵を取り逃がしてしまいます、急ぎましょう!」
「いや、ちょっと待ってくれ」
「三郎様!?」
舞耶が叫んだが、三郎はそれを制して思考を研ぎ澄ませた。
……本当に、敵の戦術目標は南斗軍を油断させることだけか?
やっこさんは、この戦場に私がいることを気付いているはずだ。最初の一撃を受け止めたのが、なによりの証拠だ。
であれば。この追撃も折り込み済みじゃないのか?
三郎は周囲を見渡した。目を凝らして、なるべく遠くを見るように。
そして、北の台地に何かが蠢くのを見た。
「ダメだ! 全軍後退!」
「三郎様?」
「これは罠だ、追ってはいけない! 後退するんだ!」
長政軍は追撃を振り切って明洲原からの離脱に成功した。
いや、正確には、八咫軍が追撃を打ち切って、双方ともに撤退したのだが。
「惜しいことだ」
長政は不敵に笑って呟いた。
「実に惜しい。ここで死ねたほうが、楽であったというのに」
長政は、五百の伏兵を台地の上に忍ばせていたのである。伏兵には、自軍が撤退する際に追いすがった敵兵がいれば、その側背を突くように指示を出していたのだ。
八咫軍があのまま追撃していれば、伏兵と引き返した本隊によって包囲され、殲滅されていただろう。
「命をつないだつもりであろうが、八咫、ここでさらばだ。もう会うこともあるまい」
長政は戦場を一瞥し、馬首を返した。
もはや、長居は無用である。先頭を切って馬を走らせた。行きと同様に明陽川沿いのルートであった。
そこへ、土手からひょっこりと何か小さなものが顔を出した。
「何奴」
長政が寄ると、それは幼い子供であった。この辺りの領民なのだろう、親とはぐれたか、あるいは戦見物にでも来ていたか。
長政は下馬して自ら子供に寄っていった。
「お主、どこの者だ」
子供は気圧されて言葉が出ない。足に力が入らないのか、尻もちをつき、失禁していた。
「お主、名はなんだ」
子供が口を震わせて言おうとする。何度か試みたあと、ようやく声になった。
「ま、孫七郎」
「そうか。孫七郎」
孫七郎は呼ばれて長政を見上げた。許されたのかと思ったのだ。
だが、孫七郎は長政の目を見て絶望する。その目は、無機質にこちらを捉えていた。少なくとも人間を見る目ではなかった。
「この無能が」
次の瞬間、孫七郎の首と胴体は斬り離された。
長政は何の感慨もなく、隊列へと戻っていった。
その様子を見ていた長政の家臣たちは、背筋の凍る思いであった。
長政の行いはまったくもって正しい。軍事行動は最高機密なのだ。行軍途中を見られては、進軍ルートや部隊の編成が敵方に漏れる危険性があった。そのため、行軍を目撃された場合は斬り捨てる決まりとなっていたのである。たとえ、見られた相手が年端も行かぬ子供であっても。
だが、それを躊躇なくやってのける長政には、敬意を超えて畏怖の念を抱かざるを得なかった。
「やれやれ、やっこさんも、私と同じことを考えていたんだな」
三郎は悠然と撤退する長政軍を見送りながら呟いた。
「同じこと、ですか?」
舞耶が不思議がって尋ねる。
ああ、と三郎は頷いて、明洲原の東の方を見やった。
舞耶が釣られて目を向けると、そこに一団の軍勢が姿を現したのである。
「あれは……!」
その旗印は、丸に三つ扇。由緒正しき南斗家の家紋である。
「あれは、先鋒の南斗秀勝殿ですか!?」
「ああ、私が呼んでいたんだ」
「ええ、そんな、いつの間に……!」
「うん、明陽川を渡る前にね」
三郎は、開戦前に秀勝へ使いを出して、応援を請うていたのだ。
もし、長政が勝機に乗じて南斗軍を壊滅させようとするなら、長政は後退する南斗軍を深く追わなければならない。その時に、戦場外から現れた秀勝の先鋒隊が長政軍の後背を突けば、長政軍を逆に包囲することができ、長政本人も討ち取れた可能性はあった。
「まあ、やっこさんはそんな甘くはなかったからね、秀勝殿には無駄足を踏ませてしまった」
あとで、秀勝殿には詫びを入れないとな。
三郎はあの豪放な笑い声とともに、また背中を叩かれるのではないかと、頭を掻きながら空想した。
「三郎様、それで、同じこと、というのは……?」
「ああ、つまり。お互い、相手を討ち取ることを考えていたんだ」
長政の戦術目標は、初めから二つあったのである。
一つは、南斗軍に油断を植え付けること。
そしてもう一つは、三郎を討ち取ることであったのだ。
一方の三郎も、この戦においては二つの戦術目標を定めていた。
一つは、全軍の崩壊を防ぐこと。
そして、やはりもう一つは、長政を討ち取ることであった。
なんとまあ、と三郎はしみじみと言った。
「厄介な敵だよ、やっこさんは」
こうして、明洲原の戦いは、開戦からおよそ三時間後の午後四時頃に終結した。
戦闘に参加したのは、南斗家七千五百(八咫軍含む)、拓馬家三千。
参加した兵数に比べて、双方の損失は百ずつと、戦闘による被害は少なかった。
事実だけを見れば、劣勢の拓馬家が小競り合いを仕掛けて、なんの戦果もなく撤退したことになる。
だが、その事実を、誰がどのように解釈するかは、また別の問題であった。
その夜、南斗軍は能代城にて野営していた。能代城は拓馬家が本拠の瀬野城の支城として築城した、小規模の城である。
もっとも、長政の手によって防御施設は破却されていたため、もはや城跡と言っていい有様だった。
八咫軍は城の北部に出張った小さな出丸を与えられた。そこに、板屋根と陣幕で覆った急造の小屋をこしらえ、三郎はその中でようやく安息の時を得ていた。
「三郎様」
と、幕の向こう側から声がかかる。
「ん……、なんだい?」
三郎は寝ぼけながら答えた。居眠りをしていたのである。
「起こしましたか?」
そう言いながら、美しい姫武将が入ってくる。舞耶だった。
「いや、いい」
と言いつつも、三郎は目を押さえた。
……いやあ、過重労働だな、これは。やっぱ、仕事なんてするもんじゃないよ。
んー、と一つ伸びをした三郎に、舞耶が声をかける。
「あの、お疲れでしたら、あとにしますが」
どうも、今朝からしおらしい。
「舞耶、またなにか怒ってるのか? 言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってくれよ」
「ああ、いえ。その、見てしまったものですから」
見た? なんのことだ?
「……今朝、三郎様を起こしに行った時、絵図を何枚も描いて、そのまま机に突っ伏しておられるのを」
あー、と三郎はようやく合点がいった。
「あれは、戦の策を講じておられたのですよね」
そう、三郎は昨夜、徹夜で今回の戦について策を練っていたのであった。それも、今日の戦だけではない、その後の戦闘まで包括した、八咫軍を含めた南斗軍が生き残るための、戦略についてだった。
……いつの間にか寝落ちしちゃってたから、片付けてもう一度寝たんだけどな。そうか、その前に舞耶が来ていたんだな。
「三郎様は、いつもあのように、準備なさっていたのですね」
舞耶が目を伏せながら言う。
三郎は笑って答えた。
「私は、もう後悔したくないからね」
ちらりと、夢に出てきた前世の後輩を思い出す。
……そうだ、私は、もう二度と。
ふと、舞耶を見ると、恐縮しきったように顔を伏せている。
三郎はその頭に、
「てい!」
チョップをかました。
「な、三郎様!」
舞耶が声を張り上げる。
三郎はニッコリと笑った。
「そうそう、舞耶はそれでいいんだよ。準備するのは当然さ、こんなところで死にたくないからね。なにせ、私はまだまだ研究し足りないんだからな!」
舞耶が呆気に取られている。
「だから、昨日言ったように、舞耶も準備すればいい。まあ、私から見れば、舞耶は十分に準備してると思うけどね」
舞耶が頬を染める。
「そんな、某はまだまだにございます。もっと鍛えねば、甲斐性無しで引きこもりの主人を守れませぬから!」
そう言って、舞耶が微笑んだ。
……ああ、久しぶりだな。
三郎は、目の前の姫武将と、記憶の彼方にある幼い姫の姿が重なった。まだ、男勝りでじゃじゃ馬娘だった、あの頃の舞耶であった。
「で、用件はなんだい?」
「あ、はい。これから軍議が始まるとのことで、招集が来ております」
「やれやれ、そんなのしたって無駄なのになあ」
あーあ、と大きくため息を吐く。
「仕方がない、行ってやるか」
「はい!」
何故か舞耶が嬉しそうに言う。
「舞耶、何が嬉しいんだ?」
「いえ、なんでもありませぬ」
ニコニコしている。三郎にはとんと理由がわからない。
「じゃあ、行ってくるよ」
「あ、三郎様!」
立ち上がった三郎を、舞耶が呼び止める。
「なんだい?」
「その、お気をつけて。行ってらっしゃいませ」
深々とお辞儀する舞耶。
「うん、あとのことは頼んだ」
「はい!」
顔を上げた舞耶は、やはり嬉しそうだった。
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