第三十六話 いつかの君
何度目だろうか、三郎はまた夢の中にいた。
打ち合わせのあとらしく、会社の廊下を例の後輩と並んで歩いていた。
後輩が目を伏せながら言う。
「先輩、すみません、先輩まで怒られてしまって。私のせいなのに」
「いいのいいの、私なんて普段から怒られっぱなしだからね」
「でも……」
「上の連中の言うことをそのまま真に受けちゃダメだよ、アイツら現場の状況を考慮せずに要求だけ一方的に押し付けてくるんだから。まあ、言わんとするところはわかるけどさ、理解してもらうための努力をしないのはアイツらの怠慢だよ」
後輩が顔を上げる。
「……先輩はやっぱり優しいですね」
「そうかな、偏屈なだけだよ」
「それは、そうかもですね!」
笑った後輩だが、突然足がもつれて壁に手をついた。
「大丈夫かい?」
「……はい、大丈夫です。こう見えても私、根性ありますから」
作り笑いをする後輩。
……だが、思えばこのときには……!
「最近、上から仕事押し付けられてただろう? ちゃんと、休まないと」
「ホントに、大丈夫です。それに、私、あのとき言いましたよね。『先輩の分まで仕事取ってきちゃいます』って」
三郎は何も言えなかった。手伝うよ、なんて言葉は気休めにしかならないことはわかっていた。それに、三郎自身も仕事を抱えて、とても他人の手助けをする余裕はなかったのである。
……いや、それでも!
「そうだ、先輩。これから外回りなんですけど、何時になるかわからないので、先に帰ってください」
……ダメだ、行っちゃダメだ!
「それじゃあ、行ってきます。先輩、また、明日」
「行くな、行ったら君は――!!」
「ちょっと、大丈夫かい?」
三郎は目を覚ました。
「どうしたんだい、うなされて?」
揺れる視界の中で、黒髪の乙女が見えている。美しい姫だ。
「……ん、舞耶か?」
……前世の夢か。やれやれ、仕事のしすぎだ、最近忙しかったからなあ。
そう思っていると、不意に両目を何かで覆われる。もっちりぬくぬくたぷんたぷん……
「ぬおおおおおおおおおっぱいいいいいい!!」
きゃん、と言って三郎に馬乗りになっている人物がいたずらっぽく身を起こす。もちろんそれは、
「京、お前かあああああああああああ!!」
「ホラホラ、朝っぱらから大声出さないの」
人差し指を三郎の口に当ててくる。
ああもうそのエロいのやめろよ!
一体どうしてこんなことになってるんだ? 確か岐崎湊から館に帰ってきて、疲れたからって先に寝て、変な夢見て、起きたら誰かが馬乗りになってて……
「って、なにしてんだ!?」
「なにって、夜這いだよ。あ、朝だから朝這い?」
「どっちも違う!!」
ふふふ、と口元に手を当てて京が笑う。
京は白衣の上に紫根染の上衣を羽織っている。そして普段は三つ編みに結っている髪を下ろしていた。本人の色っぽさを上品な優雅さが包み、さらに妖艶に映し出していた。どこからどう見てもどこかの姫の姿であった。
「……そんな格好もできるんだな」
「アタシも大戸家の姫だった時代があったからね、まあその名残さ」
「似合ってるじゃないか」
「お、嬉しいこと言ってくれるねえ」
「ああ、普段からそうやって慎ましくしていればいいのに」
「それは余計。さて、それじゃあ、早速……」
三郎の股間を右手で弄ろうとする。
「おわっ、やめっ、なんでっ!?」
「なんでって、身体で払ってくれる約束だろう?」
まさか本気だったのか!?
「そういや、『行くな!』だなんて、大きな声出してたけどさあ」
げっ、聞かれてたのか!
「一体、どこのお転婆娘のことなんだろうねえ」
顔をニヤけさせて舌なめずりする様は、獲物を前にした肉食獣のようである。
「お転婆娘って、誰のこ――ひえっ!」
骨盤に近い皮の薄い部分を撫でられて思わず悲鳴を上げる。
「またまた、はぐらかしちゃって。想い人だろ、アンタの?」
「想い人って、あれはでまか――おふうっ!?」
今度は胸元に手を入れられる。ひんやりとした感触に電流が走った。
「ああもう、じれったいねえ。舞耶姫だろ、夢にまで見ちゃってさ」
京が起き上がって心底楽しそうに身体をくねらせる。
だが、一方の三郎は、あー、と間抜けな声を出した。
「あら、違うのかい? 一途なのかと思ったら、浮気者だったんだねえ」
「いや、あれはそういうんじゃ」
「で、どこの誰だい、そのお相手は?」
んー、と三郎はしばらく考えた。
過去と言うべきか、それとも未来と言うべきか。いや、いずれにせよ、
「この世にはいない人だよ」
京が目をパチクリさせる。長いまつげがパチパチと音を立てたように感じた。
そして、へえ、とつぶやきながら倒れ込んでくる。
「アンタ、罪作りな男だよ」
「だから、そういうんじゃ!」
と言った三郎だが、ふと思い直した。
「……いや、そうかもしれないな」
息を吐いた三郎であったが、そこへ不意に鼻を摘まれる。
「ホラ、また別のこと考えてる」
「おひ、みやこ!」
「アタシだってさ、誰とでもこんなことするわけじゃないんだから」
え? と、三郎は思わず顔を上げた。
すると、京が三郎の肩に顔を乗せてきた。
「ちょっとは、アタシのことも見てくれたっていいじゃない」
京が耳元でささやく。密着した身体を通して互いの鼓動を感じる。三郎の心臓がにわかに高鳴りだした。あと、股間が妙に熱い!
「ねえ……」
京は身体をずらして、脚を絡ませてくる。膝頭を擦りながら上へと移動させ、腿がついに三郎の股間へと迫る!
その時だ、
「いつまで寝ているのですか、三郎様!!」
舞耶が怒気をほとばしらせながら障子を開け放つ。
そうして、目があった瞬間、その場にいた全員が凍る。
三郎の身体に京がまとわりつき、それはもう傍から見たら行為に及んでるとしか思えず、というか実際その直前であったわけで。
しばらく眺めていた舞耶が、ボンッと顔を蒸発させる。
あ、死んだわ。
「ちぇっ、あともうひと押しだったのに」
京が舌を出す。
「ええええええええええええ、おまあああああああああ、演技いいいいいいいい!?」
「さあてね?」
ああ、もうコイツ嫌いだああああああああ!!
途端、障子がガタガタと震えだした。それだけではない、柱までもがミシミシと音を立て始めた。
「舞耶、違う、これは!」
「ええ、違う?」
「お前は黙ってろおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
バキッと派手な音を上げて障子が真っ二つに割れる。
「このっ、不埒者どもがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
八咫の館を怒声が揺るがした。