第十話 三次川の戦い・本戦 参
「皆の者、戻ったぞ! どうなっている!?」
満久は自陣に駆け戻るなり辺りに叫んだ。
三郎との会談で腸は煮えくり返っている。
「敵の攻撃が凄まじく、このままでは持ちませぬ!」
「なんとか、耐えろ!! じきに援軍が来る!!」
そうだ、そのために恥を忍んで、怒りに耐えて、あの穀潰しで厚顔無恥の軟弱者に会ってきたというのに。
「殿! 援軍が来ました!」
「おお、来たか! どっちからだ?」
八咫軍は全軍の右翼後方に控えていた。援軍があるとするなら、右手からである。
「は、それが、後からです!!」
「なに!? まさか、動いたのか? あの、『鬼秀勝』が!?」
南斗軍、第八陣。
その中央に鎮座するのは、引き締まって鍛え上げられた肉体に、他人を威圧する眼光を携え、太い眉と生え揃えた口ひげを有する、歴戦の将である。
南斗秀勝、南斗家先代当主の弟であり現当主の叔父である。同時に『鬼』と称される、南斗軍最強の勇将である。
「……大した策もなしに、ことを構えるからこうなるのだ。まったく嘆かわしい」
秀勝は微動だにせずに言い放った。野太い声が周囲を圧する。
「他の連中は儂が動くのは気に食わぬようだが、ここに至っては文句はあるまい」
殿、と側近が跪く。そのきびきびとした動作は、この軍の規律の高さを物語っている。
「全軍、用意整っております。――下知を」
「ウム。全軍、突撃!! あの鎌瀬の若造に泡を吹かせてやれ!!」
応! 応! 応! と三度の雄叫びが上がり、そして怒涛の黒い塊が戦場に躍り出る。
三郎が軍を前進させていると、途中で伝令が告げてきた。
「第八陣が突進して第七陣に割って入りました! そのまま、敵を押し返しつつあります!」
へえ、と三郎は感嘆を上げた。なんだ、まともなやつもいるじゃないか。
「第八陣は、誰だっけ?」
「南斗秀勝殿の軍にございます!」
「ああ、あの口ひげのオッサンか」
三郎は思い出した。軍議の場で三郎の意見に頷いていた強面の将である。
あのときは誰だか思い出せなかったが、ようやく合点がいった。
多少の分別はあるのかと思っていたが、まさかあの『鬼秀勝』であったとは。
「これなら、うまくいきそうだ」
「三郎様、いかが致しますか?」
背後の舞耶が訊いてくる。三郎は舞耶と同じ馬に乗っていた。なにせ、馬にも乗れないのである。
何度か乗ろうと試みはしたが、鐙は踏み外すわ、鞍から転げ落ちるわ、馬には拒絶されるわで、教育係だった舞耶もさすがにさじを投げたのである。
で、今は特注の鞍の上で馬首に捕まりながら、舞耶の操る馬に乗せてもらっていたのである。
「うん、予定通り、我々も戦場に参加しよう」
「では、第八陣に加勢するのですね?」
「あんなところに行ってみろ、混乱に巻き込まれてバラバラになるだけさ」
「?? 今、予定通りと……?」
「そう、予定通り、川を渡って、敵の中央に突撃だ」
「敵の中央!? それでは少数の我々では包囲されてしまいます! 昨日の敵とはわけが違うのですよ!?」
「大丈夫、そこは計算してる。好機は必ず来る」
鎌瀬満久は混乱の渦中にあった。
前からは敵に、後からは味方であるはずの第八陣に挟まれ、どうにも動けないでいた。
いや、どちらかと言えば、後方から突進してきた第八陣に追い払われて散り散りになり、そのまま第八陣が敵を押し返したのである。
「皆の者! どこへ行った!?」
戦場の只中で、満久は悲痛な叫びを上げた。
これだから秀勝の脳筋に頼りたくなかったのだ、と満久は心の中で悪態をつく。
南斗秀勝は『鬼』とも呼ばれるほどの戦上手である。本人の武勇もさることながら、その鍛え上げられた秀勝軍は皆忠誠心に厚く精強にして勇猛果敢、突進の凄まじさは天下一と恐れられている。
だが、戦場において単独行動が目立ち、命令違反さえ辞さないところがあった。
要は、一匹狼気質なのである。
満久や、豚の頼高がいくら懐柔しようと試みても、断られるばかりか逆に「この奸臣めが!」と怒鳴りつけられる始末。当主の叔父ということもあり、露骨に嫌がらせをするわけにもいかず、手を焼いていたのである。
だから、南斗軍最強とも言われているのに、第八陣に追いやられていたのだ。
「これはこれは、若くして一軍の将となられた鎌瀬殿ではござらんか」
満久は地響きのような声を聞いた。振り返ると、槍を携えた豪傑が馬上から見下ろしている。
「秀勝……殿……!」
「せっかく貴軍を救けに参ったのに、何処かへ消えてしまったようだな」
「それは、貴軍が!!」
「ガハハ、安心なされい! 儂の軍だけで敵を討ち果たしてくれよう、その特等席から存分にご覧あれ!!」
秀勝は戦場全体に届き渡る大声を響かせた。
「この南斗秀勝、『鬼』の名が偽りか否か、ここに確かめて進ぜよう!! 者共、かかれいーッ!!」
満久はその場にへたりこんだ。戦場において、敵う相手ではなかったのだ。
「クソッ……、クソッ……、クソッ……!!」
なにゆえ己がこのような仕打ちを受けねばならないのか、主を放って家臣共はいったいどこへ行ったのか、秀勝の戦バカは味方に向かってなんという仕打ちをするのか、頼高にはあれだけ賄賂を送っていたというのに、なぜ救けないのか!!
満久は心中で使えない味方への罵詈雑言を重ねていた。
その中でも、最たるものは、
「八咫の穀潰しがああああああああああああああ!!」
わざわざ救けろと直接命じたにも関わらず、一向に現れない三郎である。
もっとも、三郎が言われたのは「遊軍としての責任を果たせ」、つまりは全軍崩壊の危機を防ぐことであり、満久個人を救出しろとは命令されていない。
だが、満久本人はこの違いを認識していない。むしろ、全軍が崩壊しようが、自分さえ生きていればそれでいいと本気で思っているのだから。
「八咫め、絶対に許さん! この戦が終わってみろ、必ずや、貴様を絶望の淵に叩き込んでくれる!!」
その時、満久の前に敵兵が踊り出る。
「ヒイッ、来るな! 来るなああああああ!!」
満久は脇目も振らず、逆方向へと走り出した。