俺の人生は闇の中
俺の名はカズキ生まれてすぐに親が育てられずに祖父母の元に送られる。そこから不幸と幸福のサイクルは続いていく。最初の不幸は入園時初めて親と会い弟と会う。とても子供を二人育てられるような人ではなかった。またすぐに不幸はやってくる。小学校入学でいじめに会う。太っている事で豚や無視等あったが6年間はすぐに過ぎていった。中学校では見返す為に陸上に入る。最後までやっても最高4位までであった。高校に入るまでに元の豚に戻っていた。高校ではいじめはなかったがそれほど楽しくもなかった。初めての拝島にある鉄工所に職業に就く。いじめにあうし一年と10ヶ月ほどで経営が傾き一斉に解雇された。その頃には、ストレスが貯まって来ていた。介護学校への入学学校生活は楽しくなっていた。そして、二回目の昭島での老健への就職一年は普通にいじめはなかったが新しい新人が入ってくると変わったし新しい新人がセクハラしてくると訴えたようで自分何もして無いのに、上司は耳も貸さずに向こうの意見だけを聴く。ストレスで爆発しそうになる。そして、もういてもしょうがないから、次の職場を決めて、その日に辞めてやった。また不幸は続く次に決めた西立川の老健はブラックに近い会社で残業は二時間は当たり前で二年続かずストレスで辞める。三回目の就職昭島の小さなT病院に就職して一年で看護婦のおばさんからいじめ受けて行けなくなり三階へ移動またいじめを受けて今度は会社自体に行けなくなる。そして働く事が出来なくなり解離性障害とうつ病で生活保護になる。まだ不幸は続くまだ若いから仕事出来るのだからとO市役所の職員から精神科の先生から診断書で働けないと告知があったのに若いのだから働けと圧力をかけてきた。それによりまたストレスが貯まった。二年目担当者が変わった。これで良くなると思っていただが、今度はT駅から実家に戻る為Tバスの中で急発進した衝撃でバス中間のステップに下半身をぶつけた。それから1ヶ月ほぼ動けない状態が続く。慰謝料の話しが9月にあった。O市役所からは転居先をT駅の近くで病院の近くへとの事で探す事になったが見つけて来たら今度は引っ越しの段階で引っ越し費用は出せない家賃も出せないとO市役所から言われる。なんとか半分は払う事が出来たがもう半分をどうするか?と思っていると弁護士から慰謝料を12月半ばまでに入れると連絡ありT市役所に言うと収入になると言われてそのお金を使う事出来なて生活保護費の半分で少しずつ払って行く事になる。この後来年がどうなるのか誰もわからない