約束は大事です
「兄様、どういうおつもりですか」
シルビア・オルフェは怒りも露わに兄に詰め寄る。
対する兄、クリストファー・オルフェは涼しい顔でそれを受け止めていた。
「確か、数日前に神子様がご降臨されたのですよね」
「あぁ」
「この国の王族は神子様と婚姻を結ぶ義務がありましたよね」
「あぁ」
「それは王太子であることが慣習でしたよね」
「あぁ、その通りだ」
「でしたらなぜ、私の婚約が破棄されないのですか」
納得がいかないと彼女は声を張り上げる。
クリストファーはうるさいと言わんばかりに耳を手で押さえた。
「シルビア、淑女は大きな声を出さないものだよ。折角王太子妃教育まで受けたというのに、全然実になってないじゃないか」
「今はそんな話をしている場合じゃありませんわ。可笑しいではありませんか。神子様が居られるのになぜ、私が未だに殿下の婚約者なのですか」
「神子様はこちらの世界に来られてまだ日も浅い。色々考慮しなければならないことも多いのだろう」
「ですが、約束が違います。私は、一時的な婚約であるのならと了承したのです。先見様により神子様が御降臨されることは公然の事実でしたから」
「陛下も約束を違えるつもりなどないよ。もうしばらくだけだ。だから落ち着きなさい」
「これ以上落ち着いていられるとお思いですか? 私が学園でなんと言われているか、兄様はご存じないのですか」
「……噂は聞いているよ」
「神子様と殿下の恋路を邪魔する悪女ですって。私がいつ殿下をお慕いしていると言いました。一度もありませんわ。むしろ、あの方には幼少から苛立ちと不愉快さしか感じたことはありませんわ」
そのことをよく知っているクリストファーは、大きなため息を吐いた。
元々、無理があることだったのだ。
家格的にはシルビアと王太子は釣り合っていた。
だが、相性が最悪だ。
シルビアが我慢してきたからこそ表立って問題がないともいえる。
「もしも、約束を違えることがあれば私はこの家を出ていきますわ」
「………善処するよ」
彼女は決めたことを決して変えない。
言い出したら聞かない妹の気性を知っている兄は陛下や殿下がこれ以上妹の地雷を踏まないことを祈るばかりだった。
だが、それも無駄な祈りとなってしまう。
神子様御降臨より早2カ月。
華やかな王国の雰囲気とは異なり、オルフェ公爵家―――特に妹令嬢であるシルビアの機嫌は周りを凍り付かせるほど底冷えしていた。
「シルビア様、気分転換に乗馬などなされてはいかがでしょう」
「珍しい異国の茶菓子がございます。いかがですか」
数名の侍女たちがシルビアの機嫌を取ろうと必死に話題を振る。
だが、彼女がそれに答えることはない。
美しい顔は不機嫌そうに眉を寄せ、つり上がった目は凄味を増している。
「シルビア、入るよ」
天の助けとでもいうべきか、クリストファーがやって来た。
「折角の美人が台無しだよ」
「………兄様、私、よく耐えたほうだと思いますの」
口を閉ざしていた彼女が静かに語りだす。
「この2カ月の間、いわれのない罪から殿下やその周りの殿方に何度も詰め寄られましたわ。私の言葉には耳も貸さず、各々言いたい放題……真と嘘の判断すら取れない愚か者に馬鹿にされても耐えてきました。でも、もう我慢も限界です」
彼女の目に真っ赤な炎が揺らめく。
「約束も果たされませんし、私はこの国を出ていくことに致します」
「国を出てどうやって暮らしていくつもりだい」
シルビアは生粋の貴族だ。
貴族としての教養と知識はあっても、庶民として暮らせはしまい。
「御心配いりませんわ。もしもの時の為に庶民の生活は体験済みです。給仕の仕事でも、医院の手伝いでもなんでも熟せますわ」
「いつの間に…」
「兄様が領地の視察に行ってらっしゃる時ですわ」
誇らしげに胸を張る妹にクリストファーは頭を抱える。
これでは生活に馴染めず泣き帰るなどありえなさそうだ。
「婚約者に逃げられたとなればこちらの非を訴えてきそうだ」
「それは違いますわ。先に約定を破り、オルフェ公爵家を袖にしたのは陛下であり、殿下であり、王家ですわ。もしも彼らがこちらを責めるのならばその時は公爵家の誇りを見せつけなければなりません」
「そんな簡単なことじゃないんだ。僕たちはあくまでも臣下なのだから」
「何を悩む必要があるのですか。そもそも、このような愚かな王族に仕えていても意味などありませんわ。いっそのこと独立してしまえばいいのよ」
「………シルビア」
壮大過ぎる妹の発言に彼は泣きたくなる。
妹は決して愚かではない。つまり、彼女は心の底からそれが成しえると確信しているのだ。
どうしてこのような子に育ってしまったのか。
父と母を早くに亡くしてしまったのが原因だろうか。
「一先ず、私は国を出ます。兄様も決心がつきましたら連絡してください。私は兄様が正しい選択をしてくださると信じています」
そう言い残し彼女はわずか半時で国を捨て、出て行ってしまった。
ひとり残されたクリストファーは、誰も居ない私室で深いため息を吐き出した。
その後、世界に新たな国ができたとか、いないとか……。
END