水
「久し振り、ヨウコ」
今日は、珍しく私が遅刻をする番だった。張り付いたワンピースの生地を剥がしながら席に着く。
「最近、忙しいの?」
「うん。バイト始めてね。もしかしたらこのまま、そこで働くことになるかも」
「へえ、良いとこなんだ」
「いやいや、一歩間違えたらブラック企業だよ」
「まあ、何にしても、良いことね。ミホが綺麗になるのを見られるのは」
「ヨウコ程じゃないよ」
ヨウコは益々綺麗になり、軽口を叩くまでに物腰も柔らかくなった。前も冗談自体は良く言ったものだが、どれも皮肉めいたもので、気分が良くなるものではなかった。
「で、誰なの相手は?」
結局、「チェシャ猫」での一件以来、彼女と話す機会がなかった。相楽カズサが経営するカフェ「lait」は、連日女性客で賑わっていて、平日も火•木以外は常に店に入っていた。
「一年の相原レン」
「やっぱ年下か〜」
「何がやっぱなのよ」
「ヨウコの手綱取れるのは、静かなタイプの年下位かなー、って前々から思ってたの」
「アンタ、東京湾に沈めるわよ」
「飛行機代かかるよ?」
「じゃ、シュンクシタカラ湖にしてあげる」
「ローカル過ぎっ! っていうかそっちの方が手間だよっ!」
どうやら、ヨウコは浮かれすぎで変な方向に走っている様だ。
「ほら、前にコーヒーの話したじゃない?」
「砂糖に飢えてるってやつ?」
「そう。それ……あたし間違ってたって気付いたのよ」
「根本から間違ってると私は今でも思ってるよ」
「アンタ、随分ズバズバもの言う様になったじゃない。不愉快だわ」
「うちのオーナーが五月蝿くてついつい」
「今度そのオーナーは殴りに行くとして、間違ってたのは砂糖よ。苦いなら、水を足せば良かったのよ」
「幼稚園児でも解るよね」
「アンタのこと嫌いになって良い?」
「ごめん、ごめん。調子乗り過ぎた」
「そう、彼は私の水。でもただの水じゃあなくて、軟水。私をまろやかにする軟水だったのよ」
「うん」
「彼ったら、ろくすっぽ話しもしないのよ。デートもまだだし」
「良いんじゃない? ヨウコはそういうスローペースな恋が必要だと思うよ」
「そうね。あたしはやっぱり急ぎ過ぎたのかしらね」
「違うよ。恋をする大人になるには一度子供にならなきゃいけないのよ。自分も、そして相手も」
「恋をしてない人に言われてもねえ。それに、何か立場逆転してない?」
「まあ、恋の話は置いといて、聞いてよお〜、この前なんか……」
その後は、互いの話をした。
私は、「lait」でのこと。カズサさんの悪口や、時折覗かせる天然具合。リュウさんの夢や裏の顔。そして、意気投合して友人になったお客さんのこと。
ヨウコは、相原君のこと。詩を謳う様に言葉を紡ぎ出していた。彼女はよく物に喩えるが、見かけではなく、その本質を見ようとしていた。そして、大学に行くことも決心したらしく、少しばかり私を驚かせた。
こんな当たり前の会話が、私達の間で交わされたことは、喜びと同時に悲しさも感じさせた。多分、ヨウコと私はこれ以降会うことはないと思う。二人とも、新しい自分を得た。
依存出来る人間を持つこと、それは良いことではない。私とヨウコは友達としての一生を終えた。別れのない人生などない。私達は、そのタイミングを自分達で決めただけのことだ。
「相原君と仲良くしなきゃ駄目だよヨウコ」
「解ってるわよ」
「ああ、あと、言い忘れてたけど、ストーカーとか気を付けてね。可愛いんだから」
「そうね。面倒事は御免だわ。ま、相原が守ってくれると思うけど」
「ノロケですかあ〜?」
「アンタは二人も王子様がいるんだから安心よね」
「別に恋愛感情はないよ」
「そうだろうと思った。あ、オーナー殴りに行くの忘れてた」
「頼むからお店には殴り込みに来ないでよ」
「まあ、私と相原君の結婚式にミホと一緒に呼んで、ブーケで殴りつけてやればいいか」
「結婚確定なんだ……」
「今更逃がす訳ないじゃない」
「程々にしてあげてね……」
私達ははにかみながら、互いの頬にキスをした。
「ホントは唇にしたかったんだけどね。ミホってば純情だから、ファーストキスは初恋の人と、とか考えてるんでしょ」
「……」
涙がキスの痕に触れ、熱を持つ。
「だから……、とっときなさい。初恋の人が現れるまで」
「うん……」
「じゃあね」
「うん……」
「もう、泣かないの。これ、あげるから」
差し出されたそれは、ヨウコのヘアコロン。
「これを使えば、男なんてイチコロよ」
「そう……かもね」
「と言うわけで、アンタも何か頂戴?」
そう言われて、私は鞄から、ラッピングされたネクタイピンを取り出した。
「せめてカフスにしてよ。いやらしいわね」
笑いながらヨウコはそれを受け取った。
「じゃあね」
「うん、さようなら」
私は、離れていくヨウコの後ろ姿をいつまでも眺めていた。




