三章 俺はもう変わりたくない!
炎天下の日差しが、俺を焼き殺そうとしている。
俺の感性とは合わないらしく、蝉の奏でるオーケストラも非常に不愉快だ。
そんな、八月下旬の土曜日。
天気は遠慮して欲しいほどに快晴。俺の心は大雨。
『やべ~よな。地球温暖化は深刻だ~』って今の俺、いや、毎夏の俺が思っているのは、どうでも良い事で。
『やべ~って。地球温暖化は嘘だったんだ』なんて毎冬の俺が必ず思うことも、どうでも良い事で。
大事なのは『なんか、俺、総理大臣になるために演説しているんですけど~』って事なんだ。
多分、これで理解できる人はいないだろう。俺自身、なんでだよ! って叫びたいんだ。
順を追って説明するかな。
現在、日本の与党は、衆議院も参議院も日本夢見党だ。略して夢見党。
その夢見党は、三年前の夏、三十年の悲願を経てついに与党になった。
そして、彼らの政策はあまり良いものではなかった。
例えば、高校までの授業料は無料にする。国公立なら大学だって無料にする。と言う法律を作ったのは彼らだ。
その内容が悪いんじゃない。
夢見党の連中は、金の事を全く考えちゃいないんだ。
最初の半年は、国民優先政治。夢見がちな絵空事政治は、評判が良かった。
だけど、金が無いんだよ!
次第に元与党に責められ、マスコミにも責められ、最後には国民にも責められた。
最初から諦めているのと、希望を見せてから諦めさせるのでは、同じ結果でも、人々に与える影響は大きく違う。
ドラマとかでも聞いたことあるだろ?
「お父さんの馬鹿! 日曜日に遊んでくれるって言ったのに、何で仕事なのよ!」ってな。
そんな、夢見党が行った起死回生のための作戦。
それが総理大臣を十五歳以上の立候補者から国民総選挙で選んじゃうか~。と言う物だった。その選挙を実現するために、法律だけじゃなく、憲法まで変えやがった。
意味がわからない。
でも、それだって、どうでも良い。
正直、選挙権も無い俺には、政治の世界なんて創作物語の世界と等しかった。
そのはずだった!
でも、俺は総理大臣選挙に立候補してしまった!
しかも、結構、当選するかもしれない危機だ!
わかるだろう?
俺が「なんでだよ」って叫びたい気持ちが。
更に詳しい説明をするためには、一ヶ月ほど時間を遡る必要がある……。
暑さなんか関係ない。幸せ一杯、夢一杯。蝉の美しい声を聞きながら、夏を実感し、彼らの短い成人期が幸せである事を祈らずにいられない。多分、全国の高校生がそんな気持ちだろう。
そんな、夏休みに入ってすぐ、七月下旬の土曜日だった。
部長は『俺と大川が付き合っていなかった』事を、概ね信じて、微妙に疑っていた。そこで、部長と佳代ちゃんを対面させるために、ダブルデートを企画したのだ。
俺たちは県の中心街の駅で合流した。やっぱり佳代ちゃんは大人びた洋服を来ていても大和撫子で、部長はキザっぽい半そでポロシャツを着ていて爽やかだった。
だけど、大川はボーイッシュじゃないスカート姿だった。部長の前だからか?
佳代ちゃんと大川は、なにやら女性の会話をしている。
「ねぇ。佳代ちゃん。今度、お弁当の作り方を教えてよっ!」
「ゴメンなさい。私もお料理が苦手なんですよ」
みたいな。
佳代ちゃんが料理が苦手なのは意外なのだけど、なんか彼女の料理は恐ろしい物でも納得出来る気もする。
女性陣二人が会話を楽しんでいるスキに聞いてみたら、部長は佳代ちゃんを知らなかった。バドミントンの大会で何度か会っているはずなのに……。
こんな可憐な女性を見逃すなんて、部長は人生の楽しみ方を知らないバドミントン馬鹿だ。
そして、俺たちはカラオケで遊ぶ事になる。
部長は爽やかな青春ドラマの主題歌を主に歌っていて、部長特有の心地よい声も爽やかで、薄黒く焼けた肌から見える歯も白くて、目を瞑って歌う様は部長以外だったら鳥肌が立つほど寒い光景なんだけど不自然じゃなくて、それでも、スゲー音痴だった。
どのぐらい音痴かと言うと、その異常さに、佳代ちゃんはもちろん、大川も俺も、その事実をなかったことにしたぐらいだった。いや、何故か褒めてしまった。
大川は『犬のおまわりさん』を歌ってくれなかった。俺が「いいじゃん。歌ってよ~」としつこく迫ると、一瞬だけ鬼の表情を見せた。
その大川が何を歌ったと言うと、『頑張ろうぜ!』とか、『俺たちは何でも出来る!』とかがメッセージと思われる歌ばかりだった。大川らしい、前向きな歌が多かった。
それは、どうでも良い。
大事なのは、佳代ちゃんの歌を、俺は初めて聞いたと言う事だ。
佳代ちゃんは、Jポップばかり歌っていて、その全てがラブソングだった。
音に色は無いはずなのに、佳代ちゃんの澄んだ歌声は、無色透明の美しさがあった。澄み切っていた。無色透明なら結局見えないじゃん! って話は受け付けない。俺にはその美しさが見えたね。これだけは譲れない。
もちろん、佳代ちゃんがラブソングを歌うたびに、俺は歌詞と自分を重ねて照れていたのだが、それは置いとこう。
その俺は、ロックばかりを歌っていた。ロックと言うと、『ラブ アンド ピース』と言うイメージが強いのは何故だろう。
俺に言わせれば、ロックとは『レット イット ビー』だね。伝説的ロックバンド、ビートルズだって歌っているだろう? 自然体な俺で良いのさ!
だけど、最近、俺自身の変化が嬉しいのも事実だった。
カラオケルームに、係員からの『あと五分ですよ』コールが届いた時の事だ。
学習しない俺はデート費用を男二人で割り勘しようとして、いつも通りの佳代ちゃんが。
「え? それは困りますよ……。もしかして、ついに結婚の決意を固めてくれたんですね!」
とか、スッゲー嬉しそうに聞いてくるんだけど。
部長と大川はそれを笑わなかった。寧ろ、無言で俺と佳代ちゃんを見つめる二人の視線には、尊敬と憧れが見えた気がする。
多数決の理論により、俺は自分の常識を疑いかけた。
多分、こいつらが変人なはずだ。俺は自分に言い聞かせる。
結局、カラオケはみんなで割り勘する事になった。
それから、少し遅いランチを食べるため、俺たちはファミリーレストランに向かったんだ。
ウェイトレスさんに案内されたのは四人掛けのテーブルで、俺と佳代ちゃんが並んで座り、向かいに部長と大川が座る。
部長がキザっぽく魚介のスープスパゲティを食べた事も、大川がコテコテのステーキ定食を食べた事もどうでも良い事だ。
佳代ちゃんが、可愛らしい茄子とトマトのドリアを食べていたのに、やっぱり大和撫子だったのは、今回は大事じゃない。別に、『ドリア』がイタリア料理じゃなくて、日本発祥みたいだからと言う事も大事じゃない。考えてみれば、米を使うんだから、日本で生まれた料理でも不思議では無いよな~、なんて事もどうだってよい。
大事なのは……。
隣の席に座った、二十代の男性五人グループの声が大きかったんだ。
そいつらは、夢見党の話をしていた。
俺は夢見党が嫌いだった。
だから、ポツリと一言。デート中だというのに、愚痴ってしまった。
それが全ての原因だったと思う……。
「夢見党は駄目だよな。もっと、出来る事を言えよ」
と俺が言うと、紙のナプキンで口を拭いてから、部長は冗談を乗せた口調で。
「夢見党が気に入らないなら、お前が変えてやれよ! ほら、総理大臣選挙あるだろ? あれ、今日まで申し込み出来るんじゃなかったか?」
とか言って、それを聞いた大川は油たっぷりのステーキで、化粧っけの無い顔に、ナチュラルグロスを塗りたくりながら、
「良いね~! 選挙には、体力も必要だよっ! 私がコーチしえてあげるよ~!」
とか透明な竹刀を地面に叩きつけながら、いろんな意味で恐ろしい事を言うのだけど、それも冗談だった。
佳代ちゃんはやっぱりスローな食事をしていて、俺たちの食事スピードの三分の一だったんだけど、それはどうでも良い事で。
神様に祈るように、胸の前で指を組み合わせて。
「素晴らしいです! あなたらしい発想ですね!」
とか言って来るんだけど、佳代ちゃんだけは冗談を言ってなかった。
と言うか、俺が今日までに得た経験則から言わせて貰うと、佳代ちゃんは冗談を言った事が無い。
更に言わせてもらうと、佳代ちゃんは『あなたらしい』とか言ってたけど、俺は総理大臣選挙について、何も発言はしていない。
不穏な空気を感じた俺は。
「いや。流石に無理だよ~」
と柔らかく拒絶の意思を伝えた。
それを汲み取ってくれた佳代ちゃんは、驚愕と謝罪の表情で。
「ゴメンなさい。私ったら駄目ですね」
そして、佳代ちゃんは謝罪を続ける。
「立候補するには、『供託金』が必要なんですよね。高校生に支払える額ではなさそうです……」だってさ。
違うよ。佳代ちゃん、問題なのはそこじゃないんだ。
ちなみに、供託金って言うのは、『議員選挙』とか、『知事選挙』とか、色々な選挙において身代金のようなものを、立候補者は公的機関に納めるんだ。選挙の結果が、余りに悪いと収めた供託金はそのまま没収されてしまう。公的な立場に立候補するのだから、ある程度の覚悟と責任感を持て! とい制度らしいが、それはどうでも良い事で。
大事なのは、佳代ちゃんの謝罪を聞いた部長がフォークをテーブルの上において、食事を止めてまで、俺の瞳を見つめながら。
「初めて行う総理大臣選挙だからね。夢見党も話題作りのためのお祭り騒ぎ的な意味も含めたんだろう。今回は供託金が必要ないんだ。選挙活動だって、工夫次第で高校生でも出来ると思う。今は情報化の社会だからな。ホームページを作って、そこで文章や動画を配信するだけでも効果があるかもしれない」
とか理系っぽい事を言って、その表情には冗談色が見えなかった。
大川も同じで。
「そうだね~。でも、やっぱり生の声は大事だよっ! 駅前とかで演説するとかどうかな? あ、私はメガホン式のマイク持っているんだ~」
とか言い出した。
大川がメガホン式マイクを持っている理由は想像付くので、その理由はどうでも良くて。大川まで真剣な表情になっていた。
みんな笑えよ。ニヤニヤしろよ。
肝心の佳代ちゃんは。
「みなさん、ありがとうとざいます!」
とか言い出して、いつの間にか佳代ちゃんの中では、既に『俺が立候補する』事は案件ではなくて決定事項になっているらしく、それは俺を除く、このテーブルの三人の意思でもあった。
「それじゃっ! 『目標は急げ』だね!」
と大川が改変したことわざを披露して、急ぐ事になったのだけど、佳代ちゃんが食べ終わるのは三十分の時間が必要だった。
そうして、俺は総理大臣選挙の立候補届けを提出しに行く事になる。俺は『どうせ、俺が立候補しても選挙で勝てるはずも無い』と思っていたので、とりあえず、この場の流れに任せる事にした。
と言うか、この個性派変人の三人を相手に、どう拒否権を発動していいかわからないのも、大きな理由だったかもしれない。
誰か俺を助けてください!
俺たちは県庁に向かったのだが、県庁らしくないリムジンが駐車場にあったのが気になる。リムジンと悪人を結び付けてしまうのは、俺だけだろうか?
いやいや、県立体育館も何故か立派だったし、やっぱり、うちの県知事は悪い男なのだろう。
そして。
県庁の受付のおばさんに書類を貰い、椅子なし立ち机で、必要事項を書いている時、おっちゃんが話しかけてきたんだ。
「お前も立候補するのか? 何故、今更書類を書いているんだい?」
野太い声。太い身体。ボサボサ頭の五十代と思わしきおっちゃん。
おっちゃんの後ろにはクソ熱い夏に背広の上着を脱ごうとしない、なんか怪しい雰囲気のオールバックの髪型とサングラスをした、おじさんとお兄さんんのペアがいる。
おっちゃんの隣には、「ザマス」なんて語尾で話し始めそうな、チョココロネ帽子みたいな髪型に教育ママみたいな尖ったメガネの、美人と言うべきか否か悩むボーダーライン上の、秘書が一人いる。
なんか偉そうなおっちゃんを、俺は知っていた。
彼が持っている書類には、名前が見えたのだけど、それには金田 修三と書いてある。
おっちゃんは有名人だった。
「えぇ。立候補しますよ。書類をここで書いている理由ですか? 今日、思いついたんです」
俺は彼に説明するのだけど、改めて言葉にするとさ、俺達アホの子だよな。
総理大臣選挙に無謀にも立候補する高校生で、しかも、締切日当日に立候補を思いついて書類を提出するの。
それは、もちろん、おっちゃんも同じだった。
「君は馬鹿だな! 本当に立候補する気かい?」
と発声練習をしているように、腹に手を当てて笑っている。
おっちゃんの取り巻きたちも、声を出さずに小さく笑っている。
大川仮夫妻は。
「馬鹿という奴が馬鹿なんだよっ!」
「そうですね。人の努力を笑う人間を、馬鹿と言うべきだと思いますよ」
と反撃するのだけど、今は、俺はおっちゃんの味方だね。
俺の変わりに、こいつらを止めてくれ。
今ならまだ間に合う!
美人かな? 的な秘書は、手帳みたいな、PDAだかミニノートパソコンだかを広げながら。
「公的機関の発表ですと、現在、三百六十四人の立候補者がいます。そのうち、高校生の立候補者は、一人しかいませんね。これは昨日までのデーターですので、あなたが二人目となります。もう一度言いますよ。二人しかいないのです。愚かと思われても仕方が無いと思いますけどね」
と、キラリンと幻聴を鳴らしながら、メガネの位置を直していた。
嘲笑するおっちゃん集団、睨む大川仮夫妻、そして、佳代ちゃんは綺麗な笑顔で。
「彼は素敵な人なんですよ。努力家で優しくて純粋な若者なんです!」
と会話の流れを無視して、俺を褒めていた。
「まぁ、せいぜい頑張りたまえ!」
おっちゃんは、毒気を抜かれたのか、悪代官のような嫌らしい笑い声を響かせながらも、外へと消えていった。
オールバックのおじさんが、俺に耳打ちするのだけど。
「ゴメンな。少年。あの人も今日、立候補届けを出したんだよ」だって。
そんな事は、どうでも良いんだよ。
もっと、頑張れよ。粘れよ。おっちゃん!
俺のピンチを救えるのは、多分、あんただけだ!
この日の夜。夢見党のホームページには、立候補者の名簿が掲載されていた。
淡い期待で、その名簿を確認するのだけど。
俺が総理大臣選挙レースに出場する四百二十九人のお馬さんの、一人になったのは確かなようだ……。
こうなってしまったからには、頑張るしかないよな~。俺が頑張ると、部長も大川も褒めてくれるし。何より、佳代ちゃんが喜んでくれるし。
ただ、受かるはずの無い総理大臣選挙のために、受験勉強の時間を奪われるのは、ちょっと不満だ。
次の日の日曜日午前。俺たちは再び集まる事になる。場所は俺の家。選挙用ホームページを作成するためだ。
ちなみに、大川だけは午後から合流する。バレー部の練習があるからな。
部長がパソコン前の特等席に座り、俺が隣に座る。佳代ちゃんは、俺たちの後ろからパソコンを覗き込むように立っている。
ホームページ作成と言っても、USBメモリーを持ってきた部長は、わざわざ睡眠時間を削ってまで、ある程度ホームページの土台を作ってくれていた。
だから、今日は俺の選挙理念を考える事が第一目標だった。でも、これについては直ぐにまとまった。
「やっぱり、俺たちの弱点は知識不足と人脈のなさと経済力のなさだ」
と部長は言うのだけど、俺からは当然疑問が出る。
「部長。それって俺たちに長所が無いってことじゃない?」
「そうですね。あなたの長所は、文章では伝わりにくいかもしれません」
そうか。佳代ちゃんが見ている俺は、俺っぽい偽者の俺なんだ。本当の俺には長所なんてありませんよ~?
だけど、部長は。
「だからこそ、理念の一点押しで頑張ろう!」だってさ。
「俺の理念ね~。みんなで助け合う世の中、とか? でも、金が無いと出来ないよな。口先だけなら、夢見党と同じじゃん? そんな奴に存在価値は無いって」
「あなた、それは違いますよ。目標があるからこそ、頑張れるんです!」
「そうだな~。目標は大事だよ。でも、やっぱり、お前の長所を前面に出しつつも、さわり程度には解決策を提示しなきゃな」
こんな感じで、なんか立派な文章をまとめていた。
それは、今後、俺が演説するために参考にさせてもらう事になるんだけど、今はどうでも良い。
次にホームページに乗せるための写真を撮ることになる。
午後一時半。
大川と合流し、俺たちは、電車で二つ隣の駅へ移動して、大きな自然公園に行った。家族連れが多く、周りに自然もあって、五月蝿い都会の喧騒も聞こえてこない。普段は感じない、草の香りが、今は夏だと思い出させてくれた。
そんな自然公園は、俺たちが住んでいる世界とは別世界だった。とても、穏やかだった。
その自然公園の雰囲気のせいかもしれない。俺は俺で、結果が駄目になるとわかっていても、総理大臣選挙を頑張ろう、と改めて思った。
いや、違うな。今回に限って言えば、結果が駄目になるだろう、と予想できるからこそ頑張れるんだ。そして、多分俺の中では、佳代ちゃんたちのおかげで『無気力な俺』が消え去ろうとしていたんだと思う。
そして、部長がデジカメで、森林を背景に『自然を愛する俺』の写真を撮ったり、大きな噴水前石段の上で『考える人』のポーズを取る『日本のために悩める俺』の写真を撮ったりした。
恥ずかしさマックスだった。
キャッチボールをしていた三人組の小学生の「あの人たち、変な写真取ってる~!」と言う言葉は、凶悪凶暴で巨大な凶器だった。
写真の構図の殆ども、実は腹黒い部長の案だ。部長の作戦はこれだけじゃない。
俺をメインに写真を撮るんだけど、フレームギリギリに美しい女性を配置する事を忘れなかった。つまりは、佳代ちゃんだ。おまけで大川も。爽やかな部長って、実は腹黒いんだ。
この時、俺は『爽やかなスポーツマン』と『腹黒さ』の因果関係を考えると共に、『理系』と『腹黒さ』の因果関係についても考えてみた。いや、それはどうでも良い。
大事なのは、出来上がったホームページはなかなかに好評だったと言う事だ。アップした当日に、ホームページのカウンターは五千を記録していた。
これはちょっと先の話になるのだけど、一週間後には、一日にカウンターを十万アクセスで回すほどに、ホームページは好評だった。
俺たちなりに真剣なつもりでも、常識的な世間から見れば、高校生の悪ふざけにしか見えないはずなのに……。
なんで、評判になるんだよ!
写真撮影をした次の日。九時。
俺と部長は、再び集合する。大川も佳代ちゃんの姿は無い。彼女たちは部活なんだ。そして、集合場所は昨日と同じ、俺の部屋。
今日も部長は、USBメモリーを持ってきていた。その中身は、自然公園で撮った写真を加工したものだ。
つまりは『自然を愛する俺。見知らぬ幼稚園少女と犬に、愛の視線を送るバージョン』を拡大して、俺の名前と、『溢れる若さ。穢れなき若さ!』なんてキャッチコピーを付け足したデーターが入っていた。
更につまりは、俺の選挙ポスターデーターだ。
もちろん、俺たちに経済的余裕は無いので、印刷屋さんに頼めるわけが無い。そこで、我が家のプリンターで印刷するんだ。A四サイズのコピー用紙で出来た、手作りポスターを作ることが、今日の目標だ。
またしても、部長が予めデーターを作ってくれていたので、午前中で終わってしまった。
そこで、午後からは、その出来立てポスターを配り歩く事になる。
小学生の頃に大変お世話になった、駄菓子屋さんのおばあちゃんに。
「あらあら。あんたが総理大臣になるなんてね~。立派に大きくなったね~」
と言う言葉と、店にポスターを貼る許可を貰った。ちなみに、おばあちゃん。俺はきっと総理大臣にならないよ。
近所のスーパー、つまりは母さんのパート先の女店長には。
「総理大臣になるぐらいなら、お母さんの手伝いをしなさい!」
と言うお叱りと、ポスターを貼る許可を貰った。ちなみに、おばさん。俺は総理大臣になら無いからね。
部長は、そんな様子を見て、白い歯を見せながら。
「お前って、やっぱり良い奴なんだよ。俺もお前の彼女も、人を見る目があったんだな。だって、地元で人気者じゃないか! もう、彼女の理想とお前のギャップで悩むなよ」
とか言っていた。それはみんなの勘違いだって。
三時頃、佳代ちゃんからメールが入る。
部活が終わったから、合流してくるみたいだ。
俺の地元は、大方周ったし。今度は隣の駅、佳代ちゃん家の近くでポスターを貼ることにした。そこで、俺たちは佳代ちゃんの家近くの駅で落ち合う事になる。
ジャージ姿のまま、合流してくれた佳代ちゃんは、それでもやっぱり大和撫子だった。久しぶりに見る、額を見せたポニーテールの佳代ちゃんを、部長には見せたくなかった。
普段と違う雰囲気の佳代ちゃんは、希少価値の高い茶器のように思えたから。
城一つに匹敵するほどの価値があるように思えたから……。
でも、部長は全然興味なさげだ。
これはこれで、すげームカつくのな!
俺たちは選挙ポスターを貼るのに、県が歩道に設置してくれた、専用の掲示板に向かう。
「やっぱ、改めて自分の写真を見るのは恥ずかしいよ」
「そうか? 俺はお前のポスター好きだけどな」
「そうですよ。あなた。あなたの内面の良さは、外見にも出ています! だって、あなた程度の顔が、こんなにも格好良く見えるんですもの!」
こんな感じ。微妙に佳代ちゃんの言葉に、無意識的なとげが隠されているのだけど、それは、別段問題ない。佳代ちゃんがちょっと変な人なのも含めて、俺は彼女が大好きだ!
そう、この辺は想定内の出来事だった。
だけど、この時。
「流石は、高校生立候補者だ。若さもあるが、真面目さが足りんな」
「そうですね。世の中を知らないお子様にしか見えません」
と、後ろからおっちゃんと秘書が話しかけてきたんだ。嫌味なおっちゃん、金田だ。
「俺もそう思いますよ」
俺は答えた。もちろん本音だ。
だけど、部長は。
「確かに僕たちは、あなたみたいにお金の事には詳しくありません。だからこそ、こいつが総理大臣になるんですよ!」
と珍しく怒っていた。
佳代ちゃんは。
「彼は素晴らしい人です」
と笑顔だった。
だけど、おっちゃんはお子様なんかの野次に負けない男のようで。
「応援はするよ。勝つのは私だからね」
高らかな笑い声を上げていた。
そんな俺たちのやり取り中に、オールバックペアや、美人っぽい秘書が、金田のポスターを張り終わり、彼らは車に乗り込んでいった。
その時、オールバックのお兄さんが「悪いな」と前置きしつつ。
「心中察する。嫌味な男だろ? だが、金田は優秀な人間だ。全力で挑め」
佳代ちゃんと部長は「はい!」なんて頼もしい返事をして、闘志を燃やしていた。
俺も、総理大臣にならないけど、あのおっちゃんには負けないように頑張ろうと思った。
金田が嫌味な男だからじゃない。そんな事はどうでも良い。
県庁で『俺の立候補を止めてくれなかった』と言う逆恨みからなんだ。
更に次の日。俺たちは午後から集まる事になる。俺たちの高校前で集合した。
部長の腹黒い提案から『選挙活動をするなら正装だ』と言う事で、今日は学生服を着ている。
佳代ちゃんの学生服を見るのは、俺は初めてで、違う学校に通う利点はここにあるのか、と悟ったね。ビールを飲むためだけに、わざわざサウナと言う苦行に挑むサラリーマンたちの気持ちを理解した。
そうそう。今日は演説する予定だったのだけど。
「ゴメン! マイクを忘れちゃったよ~……。どうしよう。明日から会えないのに……」だって。
大川は、今にも泣き出しそうな顔で言うんだけど、何度も何度も「ゴメンね」とか謝るんだけど、本当に馬鹿な女だよな。
こいつは、明後日から全国大会に出場するため、遠くの県に行く。明日は移動するために一日を費やすんだ。
つまりは、今日は貴重な休養日のはずなのに、俺に付き合ってくれるんだぞ。しかも、マイクだって、大川が使うものではない。俺が必要なものなんだ。
なんで、大川が落ち込む必要があるんだよ。
「別に大した問題じゃないだろ。大きな声で演説すれば良いだけだ」
「あなたはやっぱり理想の人です!」
佳代ちゃんは褒めてくれた。意味がわからないけど、スゲー嬉しい!
落ち込む大川を、何度も抱きしめようとしては諦めている部長は、結局、頭を撫でて慰めていた。
そして、俺は喉が上手く機能しなくなりガラガラ声で演説し、他の三人も声を枯らしながら応援してくれて、なんか嬉しかった。
しかしだ。
突然、俺たちの前に選挙ーカーが止まった。
あのおっちゃんは、再び現れたんだ。
リースしたと思われる選挙カーから出てきたのは、おなじみの金田率いる五人組だ。
ガハハと下品に笑いながら、金田は俺に話しかけてくる。
「よく会うな。君は世間を舐めている立候補者なだけではなく、私のストーカーなのかね?」
「何さ! 私たちのいる所に、あんたが突然現れるんでしょっ! ストーカーはおじさんの方だよっ!」
と大川が反撃した。俺達サイドの人間は大きく頷き、金田サイドのオールバックペアも頷いていた。
さらに、部長は。
「そうです。いつもいつも、頑張る人を馬鹿にするあなたは、可愛そうな人ですね」
とらしくない毒を吐き、佳代ちゃんは。
「でも、彼は素敵です!」
とうっとりしていた。
俺も何か言わなくちゃ、と思ったんだけど。
「せいぜい、頑張りたまえ。清いらしい若者たち」
と金田は憎らしい笑顔を見せながら、去っていった。
ムカつく男だな!
そして、美人っぽい秘書は、佳代ちゃんと大川に。
「金田に気に入られているからって勘違いしないで下さい。良いですか? 彼は私の獲物なのです。絶対に、手を出さないで下さいね」
と言うんだけど、それは色々と突っ込み所のあるものだった。
金田は俺たちを嫌っているだろ?
それにだ。
佳代ちゃんは、きっと、多分……。もしかしたら、俺一筋なの! だよね?
俺たちは、金田の憎しみを燃料にして、熱い演説をした。
そして、夕方、俺たちは今日の活動を終了し、近くの公園に向かった。
ご褒美を食べるんだ!
佳代ちゃんと大川は、早起きして弁当を作ってくれたみたいなんだよ。
公園にある、土で出来た人工的な小さな山に、敷かれたレジャーシートは、魔法の国へ向かう絨毯みたいだ。その行き先は、天国か地獄か……。
いや、だってさ。弁当を作ってくれたのは、スゲー嬉しい事実なのだけど、佳代ちゃんは天然で、大川も馬鹿だ。
更に俺は『この二人が料理を苦手だ』と言う情報を、手に入れてしまっている。
チョコレート入りのおかずや、グレープジュースで炊いたご飯を想像してしまう、俺は純粋じゃなかった。
佳代ちゃん。ゴメンね。
ピクニックバスケットから出てきたのは、卵焼きや、金平ごぼうに、焼き鮭で、少し黒っぽい以外には、特に異変は見当たらない。
佳代ちゃん、本当にゴメンなさい。
そのどれもが、美味しかったです!
照れている佳代ちゃんはやっぱり大和撫子で、照れている大川はボーイッシュじゃなかった。
次の日からは、大川は全国大会に行き、部長も応援に行った。
佳代ちゃんも部活がある日も多かった。
だから、俺は連日色々な場所で、握手会やら、演説やら、ポスターを貼る許可を貰ったり、勉強したりと、忙しい毎日を送ったのだけど、半分ぐらいが一人きりだった。
そんなこんなで、俺が立候補届けを提出してから、一週間後に選挙は始まったんだ。
『一週間しか選挙活動出来ないのかよ』と思ったが、そもそも、立候補届けは三月から受付しており、届出を出したその日から選挙活動をしても良いので、この件に関しては行動が遅かった俺たちが悪い。いや、ある日の思いつきで行動した俺たちが悪い。
もう一つ。
総理大臣選挙は、北海道から県ごとに北から投票されるので、日本全国民の意見を聞く頃には、二ヶ月ほどの期間が必要だ。だから、選挙活動をする時間は、結構あると言えばあることになる。
この選挙方式はどこかの国の大統領選挙みたいだけど、大統領選挙みたいな複雑な仕組みは無い。単純に、日本国民から多くの票を勝ち取った人間が勝利者となる。
まぁ、県ごとに投票する理由は、夢見党の策略だからと思われるしな。
この方が盛り上がりそうだから~、みたいな。
そして、北海道で投票が行われた日。
大川は全国大会の準決勝で敗れた。この時、テレビに映る彼女が流した涙は、達成感の証にも見えたし、地区予選で俺が流したものと同じにも見えた。
一緒にテレビを見ていた佳代ちゃんの頬に伝わる涙を止める方法もわからず、俺は彼女の横顔を見つめる事しか出来なかった。
そして、この日。
部長と大川の初キスがドラマチックに行われたらしいのだけど、それを電話で話す部長は爽やかじゃなく、なんかエロかった。いや、凄くスケベだった!
そして月日は流れ……。
選挙は順調に行われ、約一ヶ月が過ぎた今、俺の県の一つ北まで投票は終わっていた。つまりは、明日は俺の県で投票が行われるんだ。
変わりつつある俺は、やるからにはそれなりに頑張る人間になってしまった。
だから俺は今、演説しているわけだ。太陽が一番元気だろう正午に、中心街の駅前広場で、三脚の上から不安定な立ち姿で、メガホン式マイクを片手に。
「え~っと、自分の利権よりも国民のために頑張ります~。若い僕だからこそ、社会の厳しさを知らない僕だからこそ、汚れなき理想だけを掲げられるのです。確かに、実力は伴っていません。それは、総理大臣就任後に発足する内閣の人材で補います!」
と俺の演説は具体性に欠ける夢見党みたいな、酷いもののはずなのに、周りには見渡す限りの人の顔が見える。しかも、えらい歓喜の表情を浮かべて俺を見上げている。テレビの取材陣まで見えるよ……。
その理由。俺は総理大臣選挙の途中開票で、気がつけば上位三名の一人になっていたからなんだ。
一位の立候補者の男は有名人だった。
二位との差を五万票ほどつけて、独走する彼は、十年ほど前から納税番付け一位を独走する人である。つまりは、金儲けの達人なんだ。
あの嫌味なおっちゃん、金田だった。
俺は、有名人な金田の名前と顔が一致したのは、総理大臣選挙の時だった。
二位の立候補者の女は、以前から顔と名前の両方を知っている。
弁護士でありタレントである人だ。異なる業種を器用にこなす彼女は、きっと政治の世界でも上手くやっていけるのだろう。
そして、何故か三位が俺だ。二位との差は僅か百六十票しかない。なんでだよ! なんだけど、不幸にも俺には武器が合った。
そんな回想をしている間に、俺の演説は、そろそろ佳境だ。
「俺はお金の事とかよくわからないので、もし総理大臣になれたら、信念だけは曲げないようにします~。それでは、皆様、暖かい声援ありがとうございます~」
俺はいつも言う、この決め台詞を最後に、三脚から降りた。佳代ちゃんが優しい笑顔で声をかけてくれるんだけど。
「あなた。お疲れ様です。立派な演説でしたよ」
その言葉は、あまり嬉しくなかった。今までとは違って、罪悪感が原因じゃない。
こんなの、俺じゃない。
続いて、佳代ちゃんはこんな事を言う。
「もし、あなたが総理大臣になってしまったら、大変ですよね。でも、あなたが望むなら、私はいつでも高校を辞めます。全力であなたをサポートします!」
その表情には、嘘は見えない優しい微笑みだった。もちろん、冗談を言っている風にも見えない。佳代ちゃんの目は、笑っていても、凄く真剣なまなざしだった。
更に佳代ちゃんは続けて。
「私たち夫婦で、日本を良い国にしましょうね!」
とサラっと、それでも照れ笑いをしながら、逆プロポーズをしてくる。
佳代ちゃんの逆プロポーズは、総理大臣選挙をキッカケに、いつどこで飛び出してくるかわからない代物になっていた。佳代ちゃんの中では、ある程度のライフプランが決まっているのだろう。
「いや。俺が総理大臣になっても、佳代ちゃんは高校を辞めないで欲しい。愛する君だからこそなんだ。俺のせいで、苦労はさせたくない! 佳代ちゃんが隣にいてくれるだけで、俺は頑張れるよ」
とか俺も困惑しながら、変な事を言うんだけど、概ね本気だった。佳代ちゃんは大切な存在だし、もし総理大臣になれたら経済的に苦労をかけることも無いだろう。それならば、俺は佳代ちゃんを苦労させないように、激務ぐらい必死に頑張るさ。
だけど!
俺は総理大臣になんかなりたくなかった。
そうだろ?
ちょっと前まで、部活も頑張らず、人の苦労を気づかないフリして、部屋には大量のエロ本がある、俺はそんな高校生だったんだ。
なんで、そんな男が総理大臣になるんだよ。
誰がどう考えたって、おかしい。俺自身が変だと思っている。
何より俺は、絶対に総理大臣になるのが嫌だった。
駅前の演説の後は、街中の大型スーパーの駐車場を借りて演説をして、その後は、『大川ミーちゃん事件』の時の公園でも演説をした。
時刻は、十七時を少し過ぎたあたりを指していて、今日の演説は終わる事になる。
「あなた。今日もお疲れさまでした」
と佳代ちゃんは、癒しの笑顔をくれた。
この夏休み、佳代ちゃんとはよく会っている。彼女は、部活動以外の時間を俺の演説補助のために費やしてくれていた。それは嬉しい事実だ。やっぱり、違う高校に通うものとしては、頻繁に会えると言う事は、果てしなく嬉しい事実だった。
佳代ちゃんは電車から降りる時。
「おつかれさまでした。明日はこの県の投票ですね! きっと大丈夫ですよ」
と言ってくれた。
俺は鼻の下を伸ばす、格好悪い笑顔を返した。だけど、正直辛い気持ちもあった。
道中には、何度もサインをお願いされた。俺は作り笑いを浮かべながら、震えた文字でサインをする。確かにみんなが俺を認めてくれるのは、嬉しい気持ちもある。
それでも、総理大臣にはなりたくなかった。
そして、佳代ちゃんと別れた俺は部長の家に向かう。部長の家は、三LDKの三階建てのアパートだった。
俺が部長の家を訪ねたのには理由がある。大川の応援から戻ってきた部長の家には、ほぼ毎日通っているんだ。
部長の地方公務員を目指すと言う目標と、俺の総理大臣を目指したくないけど目指すと言う目標は、ある一点で共通する部分があったからだ。
それは、政治経済や倫理についての勉強だ。
俺にとって政治経済の教科書も、倫理の教科書も、読んでもさっぱりと意味がわから無い代物だった。本当に日本語なのだろうか? と疑問に思うほどに、難解な文章だった。高校の教科書のはずが、近所の大学生に借りた『経済学入門』より解り難いのは不思議だ。
そこで、部長がわかりやすく教えてくれるのだ。
部長曰く、わかりやすい言葉に噛み砕いて説明する事は、復習にもなるし、理解を深める事にもなるので、気にするなと言ってくれていた。
状況が状況なので、俺は部長の言葉に甘える事にしている。ありがとうな。
部長は、中学一年生の弟と部屋を共有していたが、俺が訪れると、弟さんは遠慮して部屋を出て行く。
しかし、大川は遠慮する事はなかった。部長の部屋には大川がいたんだ。これも、珍しい事ではない。大体半分ぐらいの確率で、俺が部長の部屋を訪れると大川がいた。もう、スカート姿の大川は、珍しいものではなくなっていた。
部長は部屋の中央に折りたたみ式のテーブルを設置し、そのテーブルの、俺が窓際に座り、部長がドア側に座る。
大川はベッドの上でマンガを読んでいた。部長の部屋には無い少女マンガを読んでいるので、自分で持参したのだろう。一体、大川は何の目的で来ているんだ?
部長はルーズリーフの一枚を取り出し、四角形を綺麗な正三角形に配置しながら、三つ書き込み、説明してくれた。
「これが立法、すなわち国会だな。これが司法、つまり裁判所だ。そして、これが行政、内閣だ。お前が目指す総理大臣も行政だな。この異なる強い権利を持った三つがバランスをとることで、日本と言う国の政治は成り立っているんだ。お前が総理大臣になったら、このバランスを意識する事が初めての仕事かもな」
俺の話題が出て来た事で、話は脱線する。部長は白い歯を惜しみなく見せる笑顔で。
「しかし、お前が総理大臣になったら、日本はどうなるのかな? きっと、色々問題もあるだろう。でも、大変でも幸せな結果が待ってると思うな」
とか言っている。
俺たちの勉強の脱線を待っていた大川は、嬉しそうに話に加わる。
「そうだねぇ! 君は実は良い人だからね。ミーちゃんも元気でやっているよ~」
「俺に出来るかな?」
俺は作り笑いを浮かべた。
しかし、部長は。
「大丈夫だ! 数年前に、裁判所だって陪審員制度を導入しただろ? 変化の最初は戸惑うかもしれない。それでも、何とかなるもんだよ。それに、俺はお前なら出来ると思っている」
とか励ましてくれる。
でも、そうじゃないんだ!
「違うよ。俺が総理大臣なんか出来るかなって聞いたんだ。いや、違う。俺は総理大臣になんかなりたくない! みんなが応援してくれるから、頑張ろうと思った。心の中で、俺が当選する訳無いと思っていた。それでも、きっと違う形で、俺の財産になる経験だからと頑張ってしまった。だけど……。嫌なんだよ。俺には重いんだ。総理大臣なんて無理なんだよ!」
ずっと言えなかった、俺の気持ちを言ってしまった。俺は気がつけば叫んでいた。
部長は、教科書を閉じて、俺の方を向き、じっと俺の目を見つめる。その視線は優しいものだった。
大川も寝ている状態から起き上がり、真剣に俺たちを見つめている。
そして、部長は、いつかの重い口調で。
「そうか」
と言った。
俺は強く何度も頷いた。
「そうなんだよ……。別に夏休みの毎日を演説に費やしたからとか。部長と毎日勉強するのが嫌だからとかじゃないんだ。ただ、自信ないんだよ……。俺は普通の人間でいたいんだ」
「そうか。俺は普通のお前が作る日本を見たかったな。彼女のために短期間で変わったお前だ。そんなお前が総理大臣になれば、日本も短期間で変われるかも、なんて思ってしまったんだ。お前の気持ちに気づけなくてゴメンな」
「ゴメンねぇ。ミーちゃんみたいに、みんなを救ってくれると思ったんだよ。君が困っているなんて、思いもしなかった。だって、君はいつも、頼りないけど、それでも笑顔だけは作っていたから……。ゴメンね」
部長が貴重な時間を俺のために割いて、選挙活動を手伝ってくれたり、勉強を教えてくれているのも事実だ。
大川だって、バレー部の練習で忙しいのに俺のために時間を作って、選挙を応援してくれた。全国大会で負けた後は、佳代ちゃんと同じぐらい、多くの時間を俺のために使ってくれた。
俺は部長が大好きだ。同年代の部長を尊敬している。大川だって同じだ。
「俺こそ、部長の好意に応えられなくてゴメンな」
「何の事だ? 変な事を言う奴だな」
と部長は俺の気持ちに気づいてない事を示してから。
「ホームページの方は閉鎖しておくよ。どこまで効果があるか、わからないけど、選挙活動しなければ、お前ブームもいつかは消えるだろう」
と努力の結晶をあっさりと消去してくれるらしい。
「そうだよ! 私なんて昨日の晩御飯も思い出せないよ! バレーの事なら全ての試合を鮮明に思い出せるのにね!」
と大川はワンワン泣いて、俺を元気つけようとしてくれた。
「部長……。大川……。ゴメンな」
と俺が言うと。
「何言ってるんだよ。元はと言えば、俺たちが無理やり立候補させたもんだしな! 気にする必要ないだろ?」
と、折りたたみテーブルに膝を何度もぶつけながら、部長は大爆笑してやがる。
大川は部長が言った事を理解して無いみたいだ。きっと、さっきの言葉通りに大川の記憶からは、ファミリーレストランでのやり取りは消えてしまったのだろう。
でもそれは、俺も同じだった。毎日が忙しくて忘れていた。
そうだよ。
デート中に愚痴ったのは俺だけどさ。元はと言えば、部長の冗談から、俺は立候補する事になったんだ。
俺は力いっぱい部長を睨みつけた。
だけど、こぼれ落ちる笑みを隠せなかった。
それから、部長はホームページを削除してくれた。これで、インターネット上での俺の存在感は、薄まったはずだ。
二十時ごろ、家に戻ると、玄関には男用の靴があった。多分、鍵少年が妹の所に遊びに来ているんだろう。妹と鍵少年は、飽きることなく夏休み中デート三昧の日々で、その内の三割ほどは家に遊びに来ている。
そうだった。鍵少年と妹が付き合い始めて、遠慮なく、俺は鍵少年の情報を聞き出す事ができた。
鍵少年の本名は柿沼 レン君だった。なんとなく、『かぎしょうねん』に似てなくも無い。ちょっと強引だけど、俺の心の中では鍵少年は永遠の称号となった。
そして、鍵少年の乱暴な態度の理由もわかった。彼は不良に憧れる高校一年生だったんだ。多感な思春期としては珍しい変化でも無いし、別段、その事について言及する気も無い。佳代ちゃんの高校では、確かに不良に分類されているみたいだった。
問題なのは、俺には鍵少年が不良に見えないのだけど、それだってどうでも良い事だ。
自分の痕跡がネット上から消えているかを確かめるため、部屋でインターネットをしている時、鍵少年が尋ねてきた。
俺の部屋のドアは二回のノックと同時に開かれる。
こちらの「どうぞ。入って」なんて返答を待つ気はないらしい。
俺が椅子を回転させ、ドアの方を見ると同時に、鍵少年は部屋に入ってくる。
そして、鍵少年は俺の反応なんて気にすることなく、部屋の中央に座り込む。妹も一緒だ。
そして、鍵少年はいつかのように、俺を睨みつけながら、口を開いた。
「お兄さんよ~。あんた、無理してるだろ? 俺にはわかるんだ。俺ってさ、こう見えても実は気が弱くて、真面目な人間なんだ。だけど、俺は憧れの自分になるために強がってる」
と既に知っている事実を告白されたのだが、それはどうでも良い。
どうやら、鍵少年には俺が総理大臣になりたくない事や、今の選挙活動が苦しい事や、もちろん途中開票で三位なのが辛い事も、全て見透かされているらしい。
妹も「どうでも良い」と前置きしつつも。
「そうだよ。兄貴らしくないよ」
と言っていた。
「鍵……。柿沼君にはそう見える?」
「当然だ。みんなが気づかない方がおかしいぐらいに、今のお兄さんは無理してるようにしか見えない」
もう、俺は限界だったのかもしれない。部長たちに続き、鍵少年にも自分の気持ちを伝えてしまった。あまり弱みを見せたくない相手、つまりは妹が目の前にいるというのに。
「そうなんだ。みんなが応援してくれる。だけど、俺は辛いんだよ! 総理大臣になんかなりたくないんだ!」
「じゃあ、無理するなよ。お兄さんの心意気は既にみんなわかっているはずだ。途中で総理大臣になる事に恐怖を覚えたとしてもな。誰も、お兄さんを責めたりしないさ。それに、お兄さんじゃなきゃ駄目だ、なんて訳じゃないだろ? 酷な言い方をすれば、あんたはそれほど大きな人間じゃない。だからよ。無理するな」
俺はただ短く「そうか、ありがとう」としか言えなかった。
妹は珍しく「別に、どうでも良いけど」と前置きしないで。
「兄貴は私と似ているからね。やる気無いのが兄貴なのさ」
俺はお前とは全く持って似ていない。それは、佳代ちゃんと付き合う以前からだ。でも、こいつの言葉も嬉しかった。
鍵少年はそれで満足したのだろう。立ち上がり、最後にこんな言葉を残して部屋を出て行った。
「それじゃ、俺は甘くて幸せな、妹さんとのスウィートタイム中なんで、失礼するよ。本当に無理するなよ」
目の前で、身の毛もよだつ台詞を言われた妹は。
「そうだね。兄貴はどうでも良いよね。早く、部屋に戻ろうよ!」
とはしゃいでいた。こんなハイテンションな妹は変だ。
今日、俺は四人の人間に認めてもらった。
総理大臣にならなくていいと。
佳代ちゃんと付き合い始めて、俺は変わろうと頑張った。
それは、意外にも嬉しくて、充実感に満たされた毎日だった。
だけど、今の俺だけは違う。
もう頑張れない。
それでも、認めてくれた人たちがいる。
嬉しかった。
それから、沈鬱な気持ちではあるけど、佳代ちゃんにメールで報告するのだけど……。
佳代ちゃんだけには、正直には言えなかった。
『作戦変更でホームページを削除したよ。演説もしない事にした』としかメール出来なかったんだ……。
佳代ちゃんから帰ってきた返事は、『わかりました。詳しくは聞きません。あなたの事を信じていますよ』と言う内容だった。
翌日。
俺の県で投票が行われ、テレビの速報ニュースは『俺が途中開票の結果で二位になってしまった』事を教えてくれた。
一位の金田とは依然として一万ほど差があるものも、三位の弁護士女とは六千票差を開いて、逆転してしまった。
地元効果、があるとは思う。
人間、地元出身の人間を応援したくなるもんだ。
だけど、それだけじゃない。
こんな俺が総理大臣選挙で戦える理由、大きな武器の一つに、インターネット上での情報操作力がある。
それは、俺はもちろん違う。腹黒い部長も違うらしい。当然、天然な女性陣は違うだろう。
ある、熱狂的な俺ファンによるものだ。
ハンドルネーム『ヨカ』と名乗る人物。
しかし、通り名と言うかあだ名と言うか、とにかく、ハンドルネームより有名な呼び方がある。『ヨカ』は『ワンテンポの魔術師』という異名の持ち主だった。
そうだな。例えてみるとわかりやすいと思う。
部屋から出て、リビングに向かうと、疲れ果てた母さんが寝ているとするだろう?
ふと流しを見てみると、食器は洗われていない。そこで、俺は思うのさ。母さん疲れているんだな~。たまには食器洗おうかな~、ってな。
だけど、食器洗いの音というのは、意外と大きい。食器のぶつかる音や、勢い良く流れる水の音は、疲れて居眠りしている母さんを容赦なく起こす。
目を覚ました母さんは、俺が食器洗いをしているのを見て、思い出すんだな。
「あんた! 今朝、食器を片付けなかったでしょ! テーブルの上に置きっぱなしにして!」
確かにそれは悪い事をしたよ。でも、今言うことなく無い? 俺は疲れた母さんを気遣って、食器洗っているんだよ。
とまぁ、こんな感じ。
あるいは、夕食の準備を終えた時に聞こえる、移動式ラーメン屋台のちゃらめるの音みたいな。
とにかく、ワンテンポの魔術師は、印象深い間を作り出す名人だった。
インターネット上で俺の話題が出てくる。でもしばらくすると、俺の話題は沈静化して、別の人の話題になるだろ。
そこにワンテンポの魔術師は現れるんだ。
三十分以上前の話題に、つまりは沈静化したはずの俺の話題について、返答する。
それが、妙に人の心を刺激するつぼを押さえているらしく、再び俺の話題で盛り上がる。
こうして、インターネット上での情報戦は、俺の独壇場と化していた。
それは、ホームページを削除した今でも変わらない。
今回だってそうだ。
俺たちがホームページを削除すると、当然インターネットでも話題になる。
『あいつやる気無くない?』って感じでな。
暫くすると、『それより金儲け男の方が良いよ。やっぱ、金がなきゃ何も出来ない』とか、話題が変わるだろ。
それで、『金儲けが上手い男って、悪い事してそうだよね』と言う流れになった時……。
ワンテンポの魔術師が現れるんだ。流れを無視して、俺の話をする。
『何か事情があるんですよ。もしかしたら、彼自身が総理大臣になるには、力不足だと悟ったのかもしれません。でも、そういう彼だからこそ、日本を託したくありませんか? 汚れの知らない青臭い若者だからこそ、未来を託してみたくありませんか?』だって。
いやいや、総理大臣だよ? 託したくならないでしょ! と俺は思うのだけど……。
それでも、インターネットでは、再び俺の話題ばかりになる。
なんか、非難的だったはずの俺の話題は、一転して好意的な物に変わっているし……。
そういう訳で、俺は途中開票で、ついに二位になってしまった。自分のホームページを削除したのに関らずだ。
そうして、落ち込んでいる時。
「あ、兄貴~。電話だよ」
妹の声がドアの外から響いてきた。それは、俺が二位に躍り出た事を知ってから三十分後、つまりは俺の県の投票結果がテレビで発表されてから三十分後に、佳代ちゃんから電話が来たのだ。
佳代ちゃんの自宅電話から俺の自宅電話へ、つまりは通称イエデンだ。考えてみれば、少しの事を話すのに時間がかかりすぎるって事から、俺たちはメールでやり取りしている訳だけど、イエデンならその問題は解決するよね。
なんて事は、この際はどうでも良い。
「あ、佳代ちゃん」
「あなた。良かったですね! 二位ですよ! この調子で頑張りましょうね!」
「ありがとう」
俺は、まだ、佳代ちゃんには言えなかった……。
「でも、メールで書いた通り、演説とかホームページでの活動とかは、もうやらない事にしたんだ」
「えぇ。あなたなりに、事情があるのだと思います。私は待っていますから、安心してくださいね」
電話の内容は、終始そんな感じだった。結局俺は、一番伝えるべき人に、伝える事ができなかった。
こんなのは、俺じゃないんだ!
そして、翌日。つまりは夏休み終了間際の、ある平日。
演説から解放された俺と、部活の練習が休みの佳代ちゃんは、久しぶりに選挙活動を伴わない、純粋なデートをする事になった。
午前九時。天気は曇り。俺の心もどんよりした曇り。
久しぶりの選挙がらみじゃないデートで、俺は告白しようと思う。
今までの全てを。
俺は佳代ちゃんが思っているような人物ではない。
それでも、佳代ちゃんの理想に近づこうとした。その結果、それなりに変化できたと思う。
だけど……。総理大臣なんか無理だ。こんな自分はもう嫌だ。
辛いんだ!
そして、佳代ちゃんの期待を裏切るならば、今までの悪行を全部伝えるべきだと考えた。
騙していてゴメンなさい、と。
今日、佳代ちゃんとは、俺の地元の駅で合流した。
今日の佳代ちゃんは、ピンクを基調としたワンピースで、肩から先の腕の部分も、胸元部分も、と言うか生地全体が涼しそうなんだけど、慎ましさを忘れずに、胸の谷間だけは見せていなかった。惜しい!
じゃなくて、それでも佳代ちゃんは大和撫子だった。
それから、俺たちは隣の県でも割りと静かな駅で降りる。そして、目的地に移動した。
そこは、動物園だった。
入り口に置いてあったパンフレットによると、ここには、百九十種類、千五匹の動物がいるらしいが、実際に見学してみると、そんなにいるのだろうか? と思ってしまう……のはどうでも良いよな。
俺の興味は、カンガルー館にレッサーパンダがいるのか~、学術名的な関係なのかな。俺にはカンガルーには見えないな。それとも、単に見た目的に可愛い系を集めたのかな、とか。
ゴリラの柵に、『糞を投げるから注意』って看板あるけど、これマジなのかな。そうなら、出来るだけ早く逃げたいな、とか。
なんだけど。
佳代ちゃんは、全ての動物に対して、差別することなく平等に「かわいいですね!」と感激の微笑と、神に祈るように両手を合わせる仕草を連発していた。
俺たち二人はお互いに楽しんでいるのだけど、微妙に温度差を感じる。
それどころか、俺は『佳代ちゃんの両手を合わせる仕草は、感激した時に見せる癖なんだな』とか考えたり。
「フッ。佳代ちゃんの方が数万倍カワイイぜ」と恥ずかしい台詞を、心の中だけで呟いたりとか、変な事ばかり考えていて。
一方の佳代ちゃんは、平等の愛から良い意味で差別するのはペンギンだった。
そして、悪い意味で差別されるのはニシキヘビではなく雄鶏だった。何かトラウマがあるらしい。
腕に抱きついてくる彼女。そして、嬉しい柔らかい感触。ナイス雄鶏!
とまぁ、楽しんでくれているみたいだった。
やっぱり、俺たちはチグハグな楽しみ方をしたと思う。
それでも、スゲー楽しかった。
だけど、俺はまだ告白出来ないでいた。
佳代ちゃんに全てを言うのは怖かったし、全てを告白するのは別れるる決意を固めるのと同義だったんだ。
それは『部長良かったね事件』や『初デートで嘘がバレルかも事件』とか、三回目の決意のはずなんだけど……。
怖かったんだ。
この恐怖に慣れるはずが無い。
いや、あの時より、ずっと、俺の中で佳代ちゃんは大きな存在になっていた。
積み重なる思い出が掛け算のように、一つの思い出が増えるたびに、何倍にも彼女の存在が大きくなっていた。
キッカケは意外なところにあった。
動物園を出て駅に向かう途中、そこは一軒家もアパートもマンションもスーパーも、色んなものが規則性なく建ち並ぶ、住宅街だった。
俺たちの前方二十メートルほどの所、ある一軒家の前で、男の子が凄い勢いで泣いていた。言葉とは思えない激しい泣き方で、何を言っているのかわからなかった。
それに気がついた佳代ちゃんは、無言で俺を見つめてくる。
全てを知っている菩薩様のような、優しい笑顔で見つめてくる。
俺にはその笑顔から「助けるんですね。あなたらしいです」なんて、幻聴が聞こえてきた。
多分、昨日までの俺なら、その佳代ちゃんの意思に従っただろう。
だけど、今日は違う。
俺は偽者の俺を告白するつもりだった。
「佳代ちゃん。ゴメン。駄目だよ。俺には出来ない。あの子を助ける事はできない。考えてみなよ。商業施設でもなければ、アミューズメント施設でもない。なんで、何も無い住宅街で泣いている子がいるのさ。ただの迷子じゃないかもしれないじゃないか。家庭内暴力かもしれない。何かの誘拐事件かもしれない。俺は、そんな面倒ごとに首を突っ込みたくない。周りを見てみなよ。あの男の子に気がついても、誰も何もしようとしないだろう? もしかしたら、誰かが警察に行ったかもしれない。そうだ。俺たちも警察に任せればいいんだよ」
俺は汚い自分を、初めて佳代ちゃんに見せられた気がする。それでも、佳代ちゃんは優しく笑ったままで。
「確かに誰かが警察を呼んだかもしれません。あるいは、私たちが呼べばいいのかもしれません。でも、それまで、あの子は辛いのです。寂しいのですよ? あなたらしくないです」
「だから、違うんだ。佳代ちゃんが見ている俺は、俺じゃない。部活を頑張り始めたのだって、佳代ちゃんと付き合ってからなんだよ。優しかったり純粋だったりもしない。俺なりに変わろうとしたけど……。違うんだ。これが、こんな事言うのが本当の俺なんだよ!」
恐怖と言うのは、人に大声を出させるものなのだろうか?
俺は、つい、大声を上げてしまった。
あるいは、二十メートル先にいる、男の子の泣き声にかき消されないように、大声を出しただけかもしれないが……。
佳代ちゃんは、俺の告白を聞いて、落ち着いた様子なんだけど、表情は驚いていた。
口を軽く手で押さえ、目を見開き、何も言えないでいた。
「ゴメンね。佳代ちゃん。今まで騙していてゴメン。だから、今日で俺たちの関係は終わりだよね」
佳代ちゃんは、まだ何も言えなかった。
だけど、数ヶ月付き合った俺にはわかる。
佳代ちゃんは、こんな俺でも許してくれる。
俺たちの関係は終わらない。それは、俺にとっては幸せな結果かもしれない。
でも、それは、佳代ちゃんを深く傷つけ混乱させるものなんだ。
それじゃ駄目なんだ。
俺は佳代ちゃんが混乱している隙に、佳代ちゃんが答える前に、その場を離れようとした。
今日までの経験から言わせて貰うと、考え込んだ彼女が、言葉を発するには、三十分ほどの時間が必要なんだ。
本当ならば、彼女の言葉を聞く必要がある。それが、正しい対応のはずなんだけど……。
「急にこんなこと言われても、ビックリするよね。ゴメンね……。とりあえず、俺は交番を探してくるよ」
その時、佳代ちゃんは微笑んでいた。
目には涙が溜まってくる……。
こんな、辛い思いをするなら。こんなにも彼女を傷付けるなら。
最初に、妹の部屋で断れば良かった……。
佳代ちゃんゴメンね。
俺なんかの事を忘れて欲しい。
佳代ちゃんほど素敵な女性なら、本当に理想通りの男に出会えるはずだ。
彼女の幸せを祈りながら、俺は歩き出した。
違う。
彼女のため?
違うかもしれない。
今の俺には、自分が傷つけたことで、流れる佳代ちゃんの涙を見る事が出来ないだけかもしれない。
ただ、逃げたかっただけなのかもしれない。
ゴメンね。今日だけだから……。
明日からも、妹と佳代ちゃんは友達のままだ。
俺と彼女は接触する機会が多いはずだ。
だから……。
いつ見ても、佳代ちゃんが胸を張って、「私の元彼は素敵な人でした」なんて言える男になるから。
だから、今日だけは許して。
ゴメンね。佳代ちゃん。ゴメン……。
だけど。
十歩ぐらい歩いた時。
交番の場所を誰かに聞く前に。
佳代ちゃんの叫び声が聞こえた。
それは凛としていて力強いもので、綺麗な透明色をしていて、ゆっくりで優しいものでいて、そして、とても大きな声だった。
先ほど、俺が大声を上げてしまったのに気づかなかった迷子の男の子が、佳代ちゃんの叫び声には驚いて泣き止んでしまうほどに、大きな声だった。
「全部知ってました~! それでも、あなたが好きなんです!!」
俺は意味がわからなくて、歩を止めてしまった。
そこに、佳代ちゃんが小走りで追いついてくる。
佳代ちゃんは。
「これが、私の宝物なんですよ」
と言って、カードケースを俺に渡した。そこに入っていたのは小さな新聞記事だった。
俺はそのニュースを知っている。
新聞記事の内容はこんな感じだ。
それは、相馬 大地と言う少年の小学一年生から四年生までについて書かれた記事だった。
少年が小学一年生だった時の様子から、書かれている。
少年には田舎に住む祖母がいた。少年にとって、物心付いてから接する祖父母は、彼女一人しか残っていなかった。
その祖母は、見るからに家計に苦しそうな生活をしていたのだけど、孫が来る時だけは、ご馳走を用意していた。
そのためか、少年も、少年の両親も気づけなかった。
ある日、少年の家に病院から、祖母が激しい衰弱で倒れたと言う電話が来る。年金暮らしで一人住まいの祖母の生活は、苦しいものだったんだ。
祖母は一命を取り留めたものも、脳に障害が残った。衰弱で倒れた事が原因だったかどうかは、誰にもわからない。それでも、祖母は記憶に障害を持つようになる。
その日から、祖母にとって、男の子は孫であり、息子であり、幼馴染である存在になった。
少年は怒った。
祖母の生活が苦しい事に気づけなかった自分や自分の家族に対してか。倒れるまで自分たちを頼ってくれなかった祖母に対してか。
何に対してかはわからないけど、男の子はやり場の無い怒りに支配された。
その怒りは、少年をある行動に動かした。
少年は、自分たちのような不幸を再現してはならないと思い、必死に大人たちに自分の気持ちを伝えた。
駅前だったり、区役所や市役所前だったり、長期休みには国会議事堂にも足を延ばした。
この時、少年はわかっていなかったんだ。
一億人以上が住む日本では、決して自分は特別な存在ではないと言う事をわからなかった。
こんな不幸は、至る所にある、ありふれた不幸だと言う事もわからなかった。
行動力の伴わない言葉は、無意味だと言う事もわからなかった。
何事も社会ではお金が大事だと、お金が無ければ何も出来ないと言う事も理解していなかった。
三年の歳月を経て、小学四年生になった時、少年は諦める事を覚え、努力の無意味さを知り、自分の無力さと小ささを理解した。それは、当時行動を共にする事が多かった、少年の妹も同じなのかもしれない。
それでも、少年の三年は、マスコミで小さい扱いだったけど全国的に取り上げられたし、夢見党の誰かの心も動かしたのかもしれない。
随分後の話ではあるが、『年金支給か、国営の老人ホームに入居するかを選べる』法案が可決された。
でも、だからこそだ。
少年は夢見党が嫌いだった。維持できそうも無い絵空事政治を行う夢見党が嫌いだった。
もしかしたら、理不尽とわかりつつ、祖母を救えなかった罪の念を、無意識的に、夢見党に対する怒りとして、変換しただけなのかもしれない。
無力で何も出来ない、人に頼る事しかできない、そんな自分を認められなかっただけなのかもしれない。
そして……。
新聞記事に書かれている少年、相馬大地は俺だった。
これが、なんの長所もない高校生の俺が、総理大臣選挙を戦えた最後の武器だ。
ワンテンポの魔術師が、みんなにこの事実を知らせてしまったんだ。大げさに誇張して、報告してしまった。
何も言えない俺に、佳代ちゃんは話を続ける。
「初めて憧れの人とあなたのギャップに気がついたのは、初デートの時でした。県立体育官です。下手な人と、練習していなかった人の違いぐらい、フォームを見ればわかりますよ」
と小さく噴出してから。
「理想の人と現実の人は、ちょっと違っていました。だから、私決めたんです。努力しようと。あなたを理想の人に近づけようと頑張る事にしました」
そして、凄く顔を赤らめて。
「でも、やる気を出してもらうためにした、キスは恥ずかしかったです……。本当は結婚してからと思っていたんですよ」
それで、あの日以来キスをさせてくれなかったのか。どうやら、初キスは佳代ちゃんの演出だったらしい。
でも、逆プロポーズについては何の説明もなかった。いつだって、真剣だったらしい。
更に佳代ちゃんは小さく笑ってから。
「あなたって変な人ですね。地区予選で負けた時に、私は全部知ってます、と言ったのに……。ずっと悩んでいたなんて」だって。
俺には覚えが無いのだけど。
と言うか、佳代ちゃんに変な人って言われるのは、変な気分なんだけど。
佳代ちゃんは、俺の混乱を無視して数歩俺の前に歩き出し、振り返り……。
特大花火みたいな満面の笑みで。
「さぁ! 迷子の男の子が待ってますよ! 行きましょう。あなた」
俺に手を差し伸べた。
俺は佳代ちゃんの手を握り、脱力状態のまま引っ張られる。
そして、男の子まであと少しのところで、佳代ちゃんは再び振り返り。
「でも、総理大臣は重荷でしたよね。気づけなくてゴメンなさい」
と謝っていた。
俺は気を落ち着かせ、混乱を男の子に悟られないように、優しく声をかける。
「ボクー? どうした? 迷子か?」
佳代ちゃんの大声に、一度は泣き止んでいた男の子だけど、俺が話しかけると再び泣き始めてしまった。
「アイム ロスト! ウワァァァン!!」
男の子は日本人じゃなかった。
俺は変な顔十連発をして、なんとか、男の子を泣き止ませ。
「ウィー ゴウ ポリス! あ、ウィー ウィル? いや、レッツゴー? とにかくポリス! ポリス!」と俺は上手く英語を喋れなかったのだけど、混乱のせいだと言い訳させてくれ。英語の成績が悪い事は隠させてくれな。
こんな英語でも、なんとか男の子には言いたい事を伝えられたみたいだ。そして、見知らぬ街だったので、道行く人に尋ねながら、近くの交番を目指す。
ちなみに、男の子が住宅街で放置されていた理由も簡単で、日本語のわからない両親も迷子になっていたからだ。彼らは外国人旅行者だった。
パスポートとかで、男の子と両親を名乗る人の身元確認とかも付き合って、気づけば結構な時間を費やしていた。
でも、帰り際、佳代ちゃんの。
「あなたらしかったです。素敵でしたよ!」
の一言で、幸せな時間を費やしたと思えた。
大和撫子な外見通りに、佳代ちゃんは凛として芯が強い女性だった。
スローなテンポ通りに、佳代ちゃんは優しい人だった。
だけど、俺は勘違いをしていたんだ。
佳代ちゃんって、実は計算高い女だったらしい。しかも、天然だから、その方向性がスゲー変なの。
それでも、俺は佳代ちゃんが大好きだ!
そうだ。これは、どうでも良いことかもしれないけど。
不思議な事に、この日を境に、ワンテンポの魔術師は俺のファンを辞めたらしい。
もう一つ。
これは大事な事なんだけど。
この日から佳代ちゃんは長かった髪をバッサリ切ってしまったんだ。俺が理由を聞いても、彼女は教えてくれなかった。
柔らかそうなベリーショートパーマは、優しそうだった。
ベリーショートパーマの短い髪は、凛とした力強さを演出していた。
そして、ベリーショートパーマの佳代ちゃんは、やっぱり大和撫子だった。
俺は身近な知り合いに、しかも血縁関係をもった人間に、同じ髪型をした人物がいた気がするのだけど、頑張って、その事実を黙殺した。
動物園デートの翌日。
残り僅かな夏休みを利用して、応援してくれた街中の人に謝りながら、俺たちは選挙ーポスターを剥がすことにした。
「残念」とは言うのだけど、みんなは俺を許してくれた。
アイツ以外は。
ポスターを剥がすため、佳代ちゃんの高校近くの、文房具屋さんに立ち寄った時だ。
地元でしか選挙活動を出来ない俺たちと違って、有り余る経済力を武器に日本を縦断しながら活動していた男。暫く見かけなかった嫌味なおっちゃん、金田と会った。
俺たちを見つけると、演説も中止して、選挙カーも止めて、俺たちに話しかけてくる。
「なんだ? 根性なしだな。途中で投げ出すのか? 最低だな。や~い、馬鹿、負け犬! 意気地なし男!」
とブーブー文句を言っている。
「何さ! おじさんには関係いでしょっ!」
「確かに、金田さんの言う通りかもしれません。でも、こいつなりに事情があるんですよ」
「それでも、彼は素敵なんですよ」
なんて、変人三人のパターン化した三段落ちを見ながら、『お前の本気はそんなもんじゃないだろ? 大川よ。こう言う時こそ鬼になれよな』と無言の抗議をあげつつ、今回は俺も発言できた。
「ゴメンね。金田さんは、良いライバルでしたよ。俺たちは選挙権も無い訳けど。それでも、応援するからさ、許して下さいよ」
金田は地団駄を踏み。
「嫌だ! 認めない! 今回の選挙は私の圧勝。そして、お前を秘書にして育てる予定だったのに! 次の総理大臣をお前にする予定だったのに!」
そんな、デパートでよく見かける駄々っ子は、オールバックペアに抱えられ、消えていった。
「おじさんは、本当に私たちを気に入ってたんだね~」
「うん、そうだね。大川さん。金田さんって悪い人ではないのかも」
「うぅ~、私は負けません! あなたは誰にも渡しません!」
俺は変人三人三段落ちを見ながら、心の中で金田に叫んだ。
だから、俺は総理大事になりたくないの!
そして、心の中で神様に愚痴をこぼす。
どうして、俺の周りには変人ばかり集まるのですか?
結局、金田とはソコソコ交流のある仲になるのだけど、それはどうでも良い。
夏休みも終わり、九月最初の土曜日。
俺の週一回は行くようにしている『お楽しみ』に佳代ちゃんも招待した。ばあちゃんに佳代ちゃんを紹介したんだ。
天然な佳代ちゃんとばあちゃんの会話は、俺のいる次元とは異なる所で行われているらしく、全く持って、理解不能だった。それでも、楽しそうに会話する二人を見る時間は、スゲー幸せな思い出だ。
そのちょっと後だったかな。俺は、やっと進路を定めた。冬には、二つの大学と三つの専門学校に、入試願書を提出した。
受験勉強をしながらも、結構デートは出来たんだ。
俺と佳代ちゃんは、大体同じ割合でデートに誘う。つまりは、半分が佳代ちゃんが考えたコース。もう半分が俺主催デートコースって感じ。
でも偶然とは怖いもので、佳代ちゃんがデート先に選ぶのは、ホラー映画やお化け屋敷のあるアミューズメント施設ばかりだった。何故か、それを言う時の佳代ちゃんの表情は色っぽいものだった。
だからデートの思い出の一部は、半分の半分の半分ぐらいは、あんまり覚えていない。佳代ちゃんに抱きついてた気がするけど、詳しくは思い出せなかった。
とまぁ、そんな感じで、俺の高校生活は三年生だけ濃密なもので、それでも、楽しい高校生活だったと思う。
そして、高校を卒業した俺は色々あって……。
結局、佳代ちゃんと別れた。