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二章 変わっていく俺!

 初デートの翌日。つまりは、日曜日午前。それは、バドミントン部が体育館を使える曜日だった。

 人の気持ちが動く瞬間なんて、他人から見れば理解できないのかもしれない。

 いや、俺自身が理解できてない。

 不思議な事に、嘘がばれるかもしれない初デート、と言うピンチを乗り越えたのに、俺は真面目に部活の練習に参加していた。

 俺たちの体育館の半分には、バドミントンコートを三つ設置できる広さがある。部員は四人なので、常に全員がコートを使える。

 先週まで素振りがメインだった一年生は、今日から、体育館が使える日はコートを常に使える事になるらしい。

 一年生より初心者の俺も、便乗してフルタイムでコートを使う。

 コート上でフットワーク練習をして、残りの時間で長く続ける事が目標のラリー練習をする。最後には、試合形式で練習するらしい。

 部長と副部長は、羽を撒き散らしながら、ノック形式でスマッシュの練習をしていた。

 一年生と俺は続かないラリーの練習を頑張るのだが、ラリーが終わってしまう原因は、殆どが俺だった。

 そして部長は、自分の練習を中断し、一年生と俺に新しい技術を伝授してくれた。

「高い軌道で来たシャトルを、インパクトの瞬間に力加減を調整して、相手ネット際に落とす。これがドロップだ。ネットギリギリに落とす技術も大事だが、それよりも相手にスマッシュなのかクリアなのか解らなくする技術が大事なんだ」

 俺はレベルが上がった。ドロップの知識を身につけた。

 その一時間後には、部長は更なる技を伝授してくれる。

「スマッシュは攻撃的なショットだ。やっぱり、攻撃力の高さはスポーツにおいて大事だろ? と言う事でスマッシュを教えるよ。相手の高い軌道の返球を力いっぱい叩きつける! スマッシュは、色んな球技にもある言葉だよな。それだけ、大事って思ってくれて良い」

 俺は更にレベルが上がった。スマッシュの知識も身につけたのだが、使いこなすには時間がかかりそうだ。

 相手にばれないフォームかは置いといて、自分コートのネットにぶつかるのも置いといて、とりあえずドロップは何となく形になった。

 問題はスマッシュだ。

 スマッシュのつもりがクリア(高い軌道で相手コートに返す)になるし、逆も多い。

 俺の思惑とシャトルの動きが連動しなかったのだが、部長はスポーツマンらしくない事に。

「えっとだな。シャトルを捉える、インパクト時の位置が大事なんだよ。スマッシュならちょっと前方で、クリアなら自分の頭上あたりで捉えると、初心者のうちはやりやすいかな。あとは、ラケットの面の角度がシャトルの動きに関係するんだぞ。だから、手首の動きも意識しないと駄目だ」

 と理論付けて説明してくれる。

 いや『スポーツマン』と『根性論』を因果関係で結び付けているのは、世界広しと言えど俺の頭だけか。別にスポーツマンが理論派でもおかしくないのかな。

 一年生と俺は、今日はクリア、スマッシュ、ドロップ。この三種類の打ち方を練習するみたいだった。

 理由は簡単で、俺たちの素振りは、オーバーヘッドストローク、つまりは上から振り下ろすフォームだけだったからだ。今日教えてもらった技は、そのフォームを使用する。

 それにしても、佳代ちゃんと付き合う以前も、体力トレーニングは真面目にやっていたのだけど……。見て想像していたよりも、バドミントはずっとハードなスポーツだった。

 そう言えば、真面目に練習する俺が珍しいのだろう。女子バレー部員たちのチラ見する視線を感じる。猫目の大川とも何度か目が合った。

 そして、片付けの時間、「本当にお前がやる気を出してくれて、嬉しいよ」と本当に嬉しそうに部長は言っていた。こいつは、絵に描いたような爽やかなスポーツマン野郎だな。 

 そして俺は、彼を利用しようと、邪心に満ちたもくろみを企てていた。

 こんな俺が優しいはずも無い。

 いつものように、素早く綺麗な職人技でネットを畳む部長に、俺は計画を実行した。

「なぁ。部長さ。今日の午後には、予定あるの?」

 俺は部長に用事が無いのを知っていた。何故なら、部長は毎日一人で、居残り練習をするからだ。

 部長は。

「ないよ」

 とだけ答えて、一枚目のネットを畳み終わった。そして、俺は悪いお願いをする事にした。

「あのさ。俺さ。本気で頑張る事にしたんだ。予定が無いなら、この後に県立体育館で練習しない?」

 部長と俺の組み合わせじゃ、俺の練習にしかなら無い。部長は時間を無駄に費やすだけだ。

「もちろんだ!」

 それでも部長は、せっかく畳み終わりそうだった二枚目のネットを床に放り投げ、俺の手を強く握り締め、更には抱きつこうとしてきたのだが、俺が回避した。

 俺は抱きついてきそうだった部長が、少し気持ち悪くて、結構うざくて、凄く嬉しかった。

 そして俺は、部長がこう言う優しい人間だと知っていて、この計画を決行する、悪い男だった。

 幸運な事に、俺たちの話を聞いていた二年生の副部長が。

「俺も参加します。どうせなら、一年生もどう? あ、無理強いはしないよ」と言っていた。

 副部長が来てくれるなら、部長もまともな練習が出来る。

 俺は副部長にお礼を言うと「何がですか?」と言われたので、何故か恥ずかしくなって、「何でない」と答えた。副部長は意味がわからず困っていた。


 俺たちは一度家に帰り、昼飯やシャワーを浴び、県立体育館へ集合する事になる。

 体育館に到着し入場手続きをする時、受付のおっちゃんは、やっぱり図々しくて「彼女と結婚するのかい」と聞いてきた。

 どうやら昨日の逆プロポーズは、おっちゃんの所まで聞こえていたみたいだ。

 俺がおっちゃんにラケットを借り、ジャージに着替えて、運動場に入場すると、既にメンバーは全員揃っていた。

 この日は部員全員が揃っていた。俺以外のバトミント部員たちは、真面目で努力家なんだ。

 八面あるバドミントンコートは、三つ空いていたが、俺たちは遠慮して一つのコートだけを使う事にした。俺たちは四人しかいないしな。

 二人もしくは四人全員がコートの中に入り、余りの人間がコート脇で、素振りや、実用書で勉強をする。

 部長と俺がコートの外で待機している時、新技を伝授してもらった。

 ロブ、プッシュ、ヘアピン、と言う三種類の技だ。

 かいつまんで説明すると、学校で教えてもらったのが『上段』の返球。今、教えてもらったのが『中段』『下段』に対応する技。

 本当は『球種の強弱』や『ネットとの距離』の関係とかも含まれて、さっきの説明は正しくないのだけど、まぁイメージとしては、大体そんな感じ。

 とりあえず、俺はこの技で大会を乗り切るらしい。

「これで、ある程度の場面に対応できるはずだ。下手に小技を増やすより、基本を磨いたほうが良い。時間が無いからな!」

 と言う部長の戦略だった。

 俺は足が言う事を聞かなくなり、部員たちも青春の汗を流し、時計が二十一時の十分前を指したあたりで、『今日は帰れ』と言う館内放送が流れた。

 俺は県立体育館の一ヶ月券を購入し、それを見ていた部長までもが一ヶ月券を購入してしまい、それを見ていた副部長が「バドミントン部の慣習にしましょうよ! もちろん、費用がかかるので、自由練習と言うのが、第一条件で!」と言っていた。

 俺は明日からも部長を騙すつもりだった。

 みんなに聞こえないように「ありがとう」と呟く。

 すると、スポーツマンらしくない地獄耳の部長が「何が?」と聞いてきたので、俺も「ん? 何が?」と誤魔化した。

 学校の体育館で汗を流し、県立体育館でも汗を流す部員たちは偉い存在に思えて、今日は俺も一員になれた気がした。 

 電車で来ていた俺たちは、帰り道は一緒に駅に向かう。目的地に向かう電車が到着した順に人数が減り、部長と俺だけがホームに残った時点で気がついた。

 自転車!

 部長に「昨日来た時、チャリを体育館に置き忘れてたんだ」と告げて、体育館に戻る。

 気づくのが遅れたから、無駄に電車料金を払ってしまった。


 それから、自転車を結構な時間漕いで、自宅マンションに到着すると……。

 見覚えのある人物が外門前で困っていた。

 知っているおばさんが困っていたんだ。

 人が通るたびに、見えない相手に「困ったわ~」と、小さな声で話しかける女。

 四○一号室の佐藤さん、つまりは巧みな井戸端会議技術で、母さんから夕食の準備時間を取り上げる人物だ。

 俺は直ぐに佐藤さんの「困ったわ~」の理由がわかった。彼女に近づき声をかける。

「佐藤さん。こんばんは」

「こんばんは~」

 と相手の出方を伺ったのだが、佐藤さんは何も言わない。鍵少年といい、何故言えないのだろうか?

 それでも今日の俺は、不自然に偽者の俺だった。

 いや、これからの俺なのかもしれない。

「鍵を忘れたんですか? 共有玄関のオートロックだけでも開けましょうか? いや、佐藤さんなら家で休んでいても、誰も文句言いませんよ」

「あら? わかっちゃった? ごめんなさいね~。私ったらドジなんだから!」

 と四十代の佐藤さんは、自分の頭を小突いて、舌を少し出した。

 俺は、ちょっと反応に困る。

 それにしても、最近の我がマンションでは、鍵忘れ事件が多発しすぎだ。

 エレベーターや玄関ロビーに、注意喚起の張り紙を張るべきだよな。

 俺から言わせて貰うと、家の鍵を掛け忘れるなんて考えられない。そうだろ? 

 鍵を忘れると言う事は、家を出る時に鍵を閉めなかったって事なんだ。いくらかこの県が平和だからって、いくらこのマンションがオートロックだからって、無用心だろ。

 駄目だな。

 はっきりと言うべきだ。

 共有玄関のオートロックの前で、俺は佐藤さんに話しかけた。

「すみません。俺も鍵を忘れてしまいました。しかも、家に誰もいないみたいです」

 春とは言え肌寒い夜空の下、佐藤さんから、信憑性に乏しいこのマンションの裏情報を、特に不倫関係について、俺は聞かされる羽目になった。

 不倫関係についての話も興味ないのだけど、それよりも、同じマンションの住人らしいのに、噂話に出てくる登場人物の殆どが知らない人だったのが気になる。

 ただ俺の予想以上にこのマンションの、いや、この街の女性の情報網は凄くて、俺と佳代ちゃんの学生結婚まで話題に上っていた。

 なんでだよ!

 あの日、県立体育館で知り合いなんて見なかったのに……。

 信憑性があるかもしれない佐藤さんのお話は、俺の家族が帰ってきたことで収束を向かえ、自宅に戻ると、俺だけ寿司を食い損ねた事実を知らされた。薄情な家族だ。

 今日の俺の晩御飯は、冷凍ご飯をレンジで暖めたものだ。つまりは、白飯だけである。おかずは一つも無い。

 いやいや、俺を置いて寿司を食いに行った事は認めても良い。でもさ、そういう時って、コンビに弁当ぐらい買って来てくれるもんじゃないの?

 拗ねた俺は行儀悪く部屋に茶碗を持って行き、せめて佳代ちゃんのメールをおかずにしようと、初めて本当の努力を報告するメールを送った。

 佳代ちゃんの返信がきた時、つまりは三十分後には、茶碗は綺麗に洗われた後だったのだけど……。

 それでも、なんか幸せだった。


 次の日の昼休みの時間に、猫目のショートカットの女、つまりはバレー部員の大川が話しかけてきた。

 デザートなのだろうか。棒つきキャンディーを咥えている。

「やぁ! 昨日の君は変だったね~。いや、先週の君だね。何かあったの~?」

 明朗快活で天然でお馬鹿な大川の尻には、俺には見えない、犬の尻尾があるに違いない。いつも嬉しそうに尻尾を揺らしているに違いない。

 それは悪い意味ではなくて、誰とでも仲良くなれる大川は、男女問わず人気があるのもうなずける。

「そんなに、俺が頑張ると変かな?」

「変だよ~。でも偉いよね! 見直しちゃうよ!」

 大川は屈託の無い笑顔で、棒付きキャンディーを勢い良く俺に向けるのだが、唾液が飛び散ったのが凄く気になる。女の子らしくない。

 ショートカットだからボーイッシュなんて定番のつもりか? だけど、ボーイッシュってこんなのか? 違うぞ。俺の常識論では絶対に違うぞ。

『ボーイッシュ』と『行儀の悪さ』には、何の因果関係も無いはずだ!

 俺の頭のデスクの上には、大川に言いたい事についての書類が、聖徳太子もびっくりするほど積み重なっていたのだけど、口から出たのは意外なものだった。

「今度の大会に向けて頑張りたいんだ。結果は残らなくても良い。とにかく頑張りたいんだよ」

 らしくない自分の発言に、俺は顔に熱を帯びるのを感じながら答えた。

 すると、馬鹿な大川は馬鹿な提案をしてきた。

「よし! それじゃ、昼休みも特訓だよねぇ!」

 意味がわからない。こいつは、何を言っているんだ?

 しかも、疑問系ですらなく、決定事項らしい。

「特訓って何をするんだ? 昼休みの体育館はバスケットしか出来ないぞ? しかも、混んでいるし」

 と俺は、ため息一つと当然の疑問を、大川にぶつけるのだが。

「君は馬鹿だね~。『努力よければ全てよし!』『基礎で勝利を釣るんだよ!』」だとよ。

 大川が嬉しそうに勢い良く腕を振り回すから、棒付きキャンディが哀れなクラスメイトを襲う事になったのは、ちょっと哀れな事実で。

 性格だけじゃなく成績も馬鹿な大川に、馬鹿と言われたショックは大きいのだけど、それはどうでも良い事実で。

 大川が言うと、ことわざの改変なのか、間違って覚えたのかわからないのも、どうでも良い事実で。

 それって俺の質問の答えになってなくない? って言うのは少しだけ重要な事実で。

 大事なのは『なんか俺、教壇の上で、反復横飛びさせられてるんですけど~』という事なのである。

 どうやら、大川の頭の中では、バドミントン=フットワーク=反復横飛びだっ! と言うことらしい。

 クラス中の嘲笑的なまなざしが痛くて、噂を聞きつけた教師は説教に来たはずなのに「お前が頑張るなら仕方ないな」とか謎の言葉を残して消えて行ったのも不満で、それよりも、俺は『エロい目つきのサボり魔』から、変化した人を略して『変人』に異名を変えて、なんか学校の有名人になってしまった事がショックだった。

 と言うか、俺はサボり魔で有名だった事実を、この事件をキッカケに知ったので、二重のショックだった。

 そして、遠くから眺めていると和やかそうに見えた女子バレー部の練習、と言うか天然そうだった大川は、実は根性論の鬼だったのが、三重のショックだった。

「遅ぃ~!! ほら! 地面を見ないぃ! 良し、そこまで! 三十秒のインターバルだよ!」

 俺は座り込むのだけど……。本当に三十秒は言葉通りに『あ』と言う間で、全然休んだ気がしない。

「時間だ、ほら! 立つのが遅い! きびきび動けぇ~!!!」

 今日は初日だったから、昼休みの途中に立案されたから、二十分後にチャイムが鳴ったのだけど、ひたすら反復横飛びをするのはきつかった。

 俺が常に全力を出すように、怒鳴り散らすし、大きすぎる音を両手から発生させるし、壊れないか心配してしまうほど強く教卓と黒板を叩くしで、とにかく大川は怖かった。鬼教官だった。可愛い犬じゃなかった!

 考えてみればそうだよな。犬がどんなに可愛くたって、あいつらは肉食系なんだ。


 そして次の日から、昼休みの飯タイムは十分しか与えられなくて、残り四十五分は反復横飛びをするのが、俺の日課になってしまった。

 教壇の上からチョークの粉を撒き散らす迷惑な俺たちだけど、他のクラスや下級生までもが見学に来るほど、学校の名物となってしまった。

 俺たちの教室の昼休みは、チョークの粉を回避するために不自然に後ろ側だけに人口密度が集まる。そんな教室になったのも、学校の名物となった理由かもしれない。

 そして、バドミントン部の新たな慣習、つまりは部活の後に県立体育館で行われる自由練習は、ほぼ毎日全員が集まり、俺と部長は欠かさず参加していた。俺は週に一度は行っていた『お楽しみ』も、大会までは二週に一回ペースに我慢する事にした。

 これらの練習は、ゴールデンウィーク中も変わらなかった。

 土曜日だけは、身体を休めると言う理由から、全ての練習をしない完全休業日になる。

 一日で筋肉痛が取れるか! なんて疑問はあるのだけど、それは俺の身体が証明した事実でもあるのだけど、なんか充実感が心を満たしていた。

 佳代ちゃんは、そんな俺の日常を、三十分更新のメールで凄く喜んでくれていた。

 こうして、俺は努力家っぽい俺のまま、一週間を過ごした。


 俺の変化はまだ続く。

 ゴールデンウィーク開けの週の最後の平日、つまりは金曜日の事だ。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ると、鬼教官の大川は、瞬時に入れ替わり、人懐こい犬になる。

「いやぁ~。お疲れ様~! 頑張ったね~」(ワンワン!)

 最近良く話すようになった俺にはもう、彼女の尻尾は具現化して見ることが出来るのだが、それはどうでも良い事実だ。

「大川もいつも有難うな」

 俺は半分嘘で半分本音を言った。大川の行動は、俺にとって、迷惑なような有難いような、よくわからない位置付けだったんだ。

 その大川は、昼休みの特訓と言う過酷なアイディアに続き、とんでもない事を言い出した。

「明日から私たちの朝の練習、朝連にも来ると良いよ! 顧問の先生には、私から言っとくから安心しいいよっ!」だと。

「いや、有難いけどさ、俺の身体は限界に近いんだよ」

 大川は俺の返答を待つことなく、自分の席に戻ってしまった。嬉しそうに尻尾を揺らしながらな。

 大川は明日からって言うけど、明日は土曜日じゃないか、つまりは完全休業日じゃないか、と思うのだけど。

 本当にもう~! って感じなんだけど。

 それでも、この時の俺の心には、何故か闘志らしき物があった。

 

 翌日。土曜日。天気は曇り。俺の心は曇りっぽい晴れ。しかも、まだまだ眠たい、時刻は六時。

 俺は女子バレー部の朝連に参加するため、学校の玄関ロビーに来ている。

 売店前でもあり、普通教室に続く階段や、体育館に続く廊下など、様々な進路へと枝分かれしているためか、玄関ロビーは結構な広さを割り当てられていた。

 大体、バドミントンコートが二つ分かな。

 それにしても、土曜日は学校が休みなのだから、朝連だってスタート時間を遅くしても良いのに、と思った。

 だけど、女子バレー部の連中は、宿直の先生が体育館の鍵を開けてくれる九時からは、コートで実技の練習をしたいそうだ。

 そう言えば、バレー部が体力トレーニングをしている所を見たことが無いよな……。いつも、朝連だけで済ませているのだろう。

 俺を見かけると、尻尾を振りながら小走りで、大川が近づいてくる。飼い主の帰宅に気がついて喜びながら駆け寄ってくるような様は、正に犬そのものだった。

 どうやら、まだ犬モードらしい。

「偉いね~! ちゃんと、来たんだ。もう少しで、メンバーが集まるからね。それから、練習が始まるよ!」

 そして、何故か玄関ロビーには、バドミントン部の部長もいた。なんでだ?

 やっぱり、部長も俺を見つけると、スポーツマン笑顔を浮かべて近づいてくる。

「お前も、朝連に参加するのか?」

 と部長は俺がいることに驚きながらも、抱きついてきそうだった。俺は後ずさりして、拒絶の意思を伝える。

「大川に誘われたんだ」

「彼がもっともっと、練習したいって言うからねっ! 誘ったんだよ」

 大川は嘘をついていた。俺はそんなことを言った覚えは無い。いや、大川の表情には曇りも迷いも無い。その表情は、周りが何と言おうと飼い主の帰還を信じ続けた忠犬ハチ公のようだ……。

 きっと、大川的には真実を言っているのだろう。

 なんでだよ! 大川の記憶を改変したのは誰だ!

 それを聞いた部長は俺の肩を小突きながら。

「バレー部の練習はきついぞ~」

 と脅しをかけてくる。大川がその内容を説明してくれた。

 大川にとって朝連は毎日の行事であるはずなのに、額に指を当てながら必死に思い出していたのが、ちょっと気になる。

「そんなこと無いよ~。えっとね、体力トレーニングがメインなんだけど、十五メートルダッシュでしょ。えっと~、それから、腕立て十回、腹筋十回、背筋十回、スクワット十回するだけだよ!」

 本当だ。大した事無いじゃないか。

 俺が唯一つ頑張っていた、バドミントン部の体力トレーニングだって、その五倍だ。

 俺が悩んでいる事を察したのだろう。部長は自分のスポーツ刈りの頭を撫でながら。

「大川さん。それを五十セットでしょ。いつも言葉が足りないよ! あとは、学校の周りを四週するランニングもだね」

 との事らしい。

 俺の脳みそはスーパーコンピューター顔負けの速度で『無理だ!』と判断した。

「それは無理だ。出来る範囲で良いかな? 絶対に手は抜かないからさ」

 不思議な事に、努力家っぽい俺は、この言葉を心の底から言った。本心だ。絶対に手を抜かないよ。

 それには部長も同意してくれるらしい。

「そうだよな。俺もさ、中学三年生の春休みから。この高校に合格した事が解った時から参加させてもらっているんだけど、最初の頃は、週二回とかの参加だったぞ。今のお前は、既にオーバーワーク気味に頑張っているんだから、無理はしないほうが良い。かえって、逆効果だ」

 そうなんだよ! 今の俺は筋肉痛に悩める、部活高校生なんだ。

 だけど、その言葉を聞いた大川には鬼が降臨した。

「オーバーワーク~? そんなことを言っていいのは、時間に余裕がある奴だけだよぉ!!」

 と俺に詰め寄り、胸倉を掴み、女とは思えない力で俺を引き寄せる。俺たちの顔が近い。

「君には時間が無い! 積み重ねてきたものも無い! それならば、残り数週間ぐらいは耐えなさい!!」

 と俺と大川の鼻が付きそうなぐらいの至近距離で、これでもかと言わんばかりの、大きな声と大量の唾をくれた。

 汚い。五月蝿い。そして、スゲー怖いの。でも、近くで見ると可愛いかも。いや、違うんだ。佳代ちゃんゴメン!

 などと言う俺の心の声なんか聞こえていない大川は、軽く頭突きをしてから、更に有難いお言葉をくれた。

「女子バレー部は連帯責任の部活なんだよ! 一人でもメニューをこなせないなら、みんな待つ事になるのぉ! だから、責任感を持って、何が何でも、根性で、私たちのペースについてくるんだよ!!」

 そうなのか。

 ある意味 『ワン フォー オール』、『オール フォー ワン』の精神に思えなくも無いよな、と俺が何とか彼女の言葉を理解しようとしたのは、どうでも良い事で。

「大川さん。そんなルール初めて聞いたよ?」

 部長は、またも大川が嘘をついていると教えてくれた。

 すると大川は、部長には犬の表情で話しかけた。落ち着いたのなら、俺の胸倉から手を離して欲しいな。

「うん。昨日決まったんだよ~。先生に『彼も練習に参加する』と言ったらね、このルールを作ってくれたんだっ!」

 なんだよそれ。どいつもこいつも、俺の事を何だと思っているんだ?

 そして、大川は鬼の表情に戻り、俺に顔を向け。

「わかったね!」

 ついに俺を解放した。

 サイクルトレーニング形式とは言え、合計で言えば、七五〇メートルを全速力で駆け抜け、五百回ずつの筋トレを行ったことになる。

 しかも、十キロメートルほどのランニング付きだ。

 体育館の鍵が開かれた九時までに終わらなかったとは言え、この俺がこのメニューをやり遂げた事が不思議だ。

 自分で自分を惜しみなく褒めたいね。

 二十分ほど、時間をオーバーしたのだけど……。

 それでも。

 学校周りのランニングを終え、玄関ロビーに倒れこむ俺に近寄り。

「偉いね~。君を見直したよ!」と言う大川の言葉は嬉しいのだけど。

「本当に凄いぞ! 実はさ、いつでも救急車を呼べるように、ポケットに携帯電話を忍ばせていたんだ。まさか、やり遂げるとは思わなかったぞ!」と言う部長の言葉も嬉しいのだけど。

 俺は荒い呼吸の中で二人を見上げながら、これが毎日続くの? と思うと、落ち込まざるを得なかった。

 今の俺は本当にフラフラ何だよ。

 その一方で、やっぱり何故か充実感があった。

 ただ、この時に事件は起きた。

 俺と部長は、体育館に向かう女子バレー部員を見送った。その颯爽(さっそう)とした後姿は、ハリウッド映画に出てきそうな、地球を救うために死地へ赴く勇敢な男たちみたいだ。

 男の俺が朝連だけで精根尽きているのに、なんて凄い女たちなんだろう。と言うか、本当に女たちなのだろうか?

 そして、俺は売店前の自動販売機で紙パックのイチゴ牛乳を購入し、部長は五百ミリリットルのスポーツドリンクを購入し、俺たちは、と言うか直ぐには歩けない俺のために、玄関ホールの壁際に座っていた。

 部長は俺に話しかけてくる。

 まだ褒めたり無いのか、優しい奴だ。なんて思ったのだけど、様子がおかしい。

 この時の部長は、斜め前の天井を見つめて、思いつめた表情だった。

「俺さ、高校卒業したら就職するんだ」

 実は理論的な部長は、やっぱり理数系に強くて、成績もソコソコ良かった。俺の口からは当然の疑問が出る。

「部長は進学しないの?」

「大学も専門学校も、結構お金かかるだろ? だから、無理なんだよ」

 俺は先日見たニュースを思い出した。

 公私立共に高校までは無料、大学だって国公立ならば無料になる法案が可決された事を。

 でも、それは来年度からで、こんな一文があった。『現役で入学するものに限る』と。

 人材こそ国の宝だろ。経済的な理由で、部長ほどの人材を失って良いのか! 

 と思うのだけど、この一億人以上が住む日本にとって、優秀な一人が進学できない程度の損失は、小さい事もわかっていた。

 そして、俺から見れば、部長は努力家で優しくて純粋で頭もソコソコ良い、優秀な人物なのだけど、日本にはそんな人間が沢山いる事もわかっていた。

 俺たちの存在なんか、日本と言う単位で見れば、小さい存在だと理解してた……。

 俺の視線が無意識に床を見つめている事に気がついたのかもしれない。部長は優しく静かな口調で。

「勘違いするなよ。それは、大した事無いんだ。大事なのは、今度の大会が俺のバドミントン選手としては最後の大会になるって事なんだ。だからさ、絶対に県大会までは進みたいんだよ」

 俺は何も言えなかった。部長は俺の気持ちを察したかのように話を続ける。

「目標なんて言うものは、簡単すぎても駄目だ。と言っても、難しすぎても現実味が無い。多分、俺にとって最適な目標が『県大会出場』ぐらいなんだ。多分、無理だけど、頑張れば大丈夫かもしれない」

「だろ?」と部長は笑いながら俺に聞くのだけど。

「そうかもな」

 俺は嘘をついた。その目標は、きっと、多分、無理だよ……。

「だからさ。お前には感謝しているんだ。県立体育館の練習なんて思いつきもしなかった。俺は、出来る限りの努力をしているつもりだったんだけど、まだまだ足りなかったみたいだな! 少し考えればわかるのに。体育館を使える日が少ない俺たちにとって、実技練習が不足しているって事ぐらい」

 そして、俺の背中を軽く叩いて。

「本当にありがとう!」

 部長は爽やかな笑顔を見せた。

 そして、一瞬だけ顔を曇らせて、聞き取れた事が奇跡と言う程の小さな声で。

「もっと、早くからやれたら良かったのになぁ……」

 と天井を見上げながら、言っていた。

 何言ってるんだよ!

 県立体育館の練習が慣習になる前から、俺たちが、バドミントン部が、練習を終えて解散した後も、部長は一人で廊下で練習をしていた事を知っている。

 俺が教科書を借りるために部長のクラスを訪ねると、いつも、部長はバドミントンの実用書を読んでいた事を知っている。

 一度だけ尋ねたことがある部長の家には、時代遅れのビデオデッキがあり、沢山のバドミントンの試合のビデオテープがある事も知っている。その部屋には、なにかバドミントンのことについてメモされているらしい、大量のノートがある事を知っている。

 毎日、四十分ランニングして、通学している事だって知っているんだ。

 それでも、俺は。

「そっか」

 と短い返事しか出来なかった。努力を知らない俺には、部長に投げかける言葉を知らなかった。

 そして部長は、もう一つの決意を話し始める。顔は爽やかな笑顔のままだ。

「目標の先にある楽しみは、多いほうがいいだろ? だから、県大会に出場できたら、好きな人に告白しようと思うんだ」

 俺には意外だった。部長は硬派な人間で、バドミントン一筋で、女には興味が無いのだと思っていた。

 暗くなっていた場を明るくさせてくれる話題だった。

「どんな人なの?」

 俺は弾む気持ちを抑えて、冷静なフリをして聞いた。

 だけど、部長の答えは、やっぱり切ないもので。

「えっと、初めて会ったのは中学三年生の時だったかな。黒髪が凄く似合って綺麗な人なんだ。芯が強くて、それでも優しい。正に日本女性って感じだよ。しかも、スポーツをしているんだ。俺と趣味も合いそうだろ」

 そう答えた部長は、嬉しそうに、恥ずかしそうに、はにかんでいた。

 だけど、俺はその人物を知っている。

 佳代ちゃんだ。

 佳代ちゃんも部長も、中学生の時もバドミントン部だった。何かの大会で会っていたとしても不思議じゃない。

 その佳代ちゃんは、努力家で純粋で優しくい人が好きだ。

 そいつは、俺じゃない。

 部長はバドミントンを、小学生時代から数えて八年間頑張っている、努力家の男だ。

 部長は俺なんかを心配してくれる、人のために頑張れる、優しい男だ。 

 そして、中学三年生から、ずっと一人の人を想い続けている部長は、やっぱり純粋な男だ。

 俺の心の中で、佳代ちゃんが愛している人物と、部長が重なった。

 それでも、俺は二人を騙す事にした。

 佳代ちゃんの存在は、俺の心の中で、絶対に失いたくない存在になっていたんだ。一度デートして、メールのやり取りして、妹の所に遊びに来た時に少し話をするぐらいなのに……。

 時間なんか関係なかった。

 そして、俺はまた嘘をつく。

「素敵そうな人なんだね。部長は頑張ったよ。うん。絶対、今年は大丈夫だ。県大会に出場できると良いな!」

 何も知らない部長は。

「ありがとう!」

 と気持ちよい言葉と、気持ちよい笑顔をくれた。


 大川主催の反復横飛びは、部長の案で、少しだけグレードアップした。

 俺は三分間を一サイクルとして反復横飛びをする。

 すると、大川が三十秒ごとに数字を言うんだ。

「五! 四! 九! 一! 七! 三!」ってな。

 そして、三十秒のインターバルの時に、俺は言う。

「えっと、五、四、九、七、二、四で、二十二かな?」

 部長が考えた『反復横飛び改』は、動きながら考える練習らしい。

 大川が言った数字を覚えながら、それを足し算していくんだ。

 聞いてる分には簡単そうだったのだけど、実際やってみると難しかった。

 それで、三十秒のインターバル中に、答え合わせするんだ。

 だけど、馬鹿鬼は。

「知るかっ!」(バウバウ!)

 だって。

 とりあえず、鬼モードのこいつは話を聞いてくれないので、と言うか俺が恐怖から意見出来る訳も無いので、人類の偉大なる発明『メモ帳と電卓』を、大川が手にしたのは次の日からだった。

 部活の方でも、部長の変な練習はあった。

 その存在を知ってはいたのだけど、体力トレーニング以外は興味がなかったので、その全貌を体験できたのは今回が初めてだった。 

 例えば、毎週水曜日の素振り練習は……。

 英語教師私物のビデオデッキを使い、教室標準装備のテレビで、部長私物のバドミントンビデオを見るんだ。そして、コマ送りしにしながら、一つ一つ細かに綺麗なフォームを確認しながら、一年生に正しいフォームを教えていた。俺もその講義を受けた。

 他には、二週に一度、体育館を使えない日を利用して、卓球部にお邪魔したり、野球部にお邪魔していたらしい。別に遊んでいるわけではなく、色々な球技の刺激を取り入れ、バドミントンと言う物に対し、マンネリ感を抱かないようにするためみたいだ。

 更に他には、体育館を使える日の練習メニューにも、こだわりがあるらしい。準備運動を終えてからは……。

 最初にスマッシュ練習で気分を良くして、次にそれぞれの短所練習や辛いフットワーク練習も気持ち良く行い、最後に試合形式で練習して再びハッピー気分になって、一日を締めくくる。との事だ。

 俺の知らない所で、部長は色々考えながらやっていたんだな……。

 もっと早くから、彼の好意に応えるべきだった、と反省した。

  

 こんな感じで、俺は努力家っぽくなっていった。

 本物のバトミント部員になれたのかもしれない。

 それでも俺は、佳代ちゃんと部長と言う、二人の素晴らしい人間を騙す悪い男だった。

 それから俺は、複雑な心境のままだけど、それなりに頑張る俺のまま日々を過ごした。

 

 そして、大会まで残り一週間ほどとなった、土曜日。ほぼ完全休業日。

 太陽さん、おはようございます。なんて独り言を呟きそうになる、気持ちの良い晴れ。朝、午前十時。俺の心は晴れ時々曇り。複雑な心模様。

 俺はバレー部の朝連を終えて、動きにくくなった身体を引きずりつつも、自宅でシャワーを浴びて、急いで駅に向かった。

 今は、駅のホームで電車を待っている。

 俺と佳代ちゃんは、県の中心街に遊びに行く事になっているんだ。

 毎日練習を頑張っている俺(今度は嘘じゃない!)を気遣って、来週は大会があるから応援の意味もこめて、佳代ちゃんは俺を映画に誘ってくれたのだ。

 今日が二回目のデートで、違う高校に通うと言うのは辛い事実だな、と思う一方で、たまに会うのも乙だな~嬉しいな~、なんて思うのも事実だった。

 電車の中で、時々、一人笑いしてしまうのを、堪えるのが大変だったよ。

 俺は、佳代ちゃんの自宅近くの駅で合流した。

 黒と白のストライブシャツと黒のズボンを着こなし、小さなハンドバックを持った、佳代ちゃんは大人っぽくて、明らかに洋服なのに、やっぱり大和撫子だった。

 そして、中心街の駅に到着し、例の如く、俺は佳代ちゃんに手を握られ、引っ張られるように映画館に到着した。

 県の中心街の駅から直結している、十三階建ての商業デパートの最上階に映画館はある。

 九つのスクリーンがある、シネマコンプレックスだ。 

 俺は佳代ちゃんと一緒に映画を見れると思うと、周りにいる男共が哀れに見えた。その一方で、部長に申し訳ない気持ちになる。

 本当ならば、佳代ちゃんとここにいるべき人間は、部長なんだ……。

 それでも、俺は部長の存在を忘れるように勤めながら。

 チケット売り場前、大きな掲示板に張られている、九つの映画ポスターを見ながら。

「ん~と。最近の映画情報なんて知らないからな~。佳代ちゃんは何か見たいのある?」

 と聞いたのだけど。

「私は、これが見たいですね」

 佳代ちゃんが指差したのは、映画に詳しく無い俺でも知っている、今話題の超絶に恐ろしいホラー映画だった。

 佳代ちゃんがホラー映画を見たい、と言うのは大した問題ではないのだけど、俺がビビりなのは大きな問題だった。

 例えるなら、そのホラー映画のCMを見たせいで、俺は部屋の電気を点けたまま寝る二週間を過ごしたぐらいで、それは今日の朝まで続いているので、現在進行形なのである。

「これが見たいの?」

 と俺は、ホラー映画のポスターの隣にある、大人でも見れる和やかなアニメのポスターを指差す。だけど、佳代ちゃんは。

「純粋なあなたらしい間違いですね」

 と小さく微笑んで、アニメ映画のポスターを指していた俺の手を握り、ホラー映画のポスターまで誘導して。

「これが見たいのですよ」

 と嬉しそうに、腰を曲げ下から覗き込むように、反応をうかがうように、俺の顔を覗き込んでくる。

「そ、そっか~! 楽しそうだね」

 なんて俺は、強がってしまって、またもや彼女に嘘をついてしまった。

 だけど、心が痛むより、少し先の未来が恐ろしかった。

 血の気が引くとは、良い比喩だ。俺はめまいを覚えながら、確信する。俺の顔は青くなっているに違いない。

 まぁ、心配する必要も無いんだけどね。CMなんて映画の良いとこ取りで、さも凄い映画に見せかける詐欺映像なんだよ。

 なんて俺の、自分に向けられた心のエールは見事なまでに裏切られて、とても恐ろしい映画だった。

 佳代ちゃんに抱きついて、小さな悲鳴を上げて、後ろに座っていた怖そうなお兄さんに無言で椅子を蹴られて、のループを十一回ほど繰り返す事によって、俺はやっと恐怖から解放された。なんとか小便を漏らすなんて失態だけは、回避する事が出来た。

 映画が終わった後、エンディングテーマが流れる薄暗い空間で、怖いお兄さんに「お前さ~面白い奴だけど、迷惑だったからな」と怒られて、佳代ちゃんに「純粋なんですね。可愛い!」なんて嬉しく無い褒め言葉を貰った。

 しかも怖くて抱きついた記憶はあれど、それはぼんやりとした記憶な訳で、感触は思い出せない! 

 こんな事で悔しがる、俺は純粋じゃないと思う。

 茫然自失、無我の境地、そんな俺は佳代ちゃんに引っ張られながら街をさまよった。いや、目的地は決まっているんだけどね。

 昼食を食べるために蕎麦屋さんに行ったんだ。そこで、気がついたのだけど、恐怖で放心状態だった俺は、佳代ちゃんに映画代を出してもらっている。

「あ! ゴメンね。映画代を払わせちゃって」

 と二人分の映画料金をテーブルの上に置くのだけど。

 初デートの時のような、やり取りがあった。

「駄目ですよ。あなた! 結婚するまで駄目なんです! もしかして……。ついに結婚してくれるのですか? 嬉しいです。でも、どうしましょう。 えっと、あなたの誕生日は十月ですよね。式場の予約って何ヶ月前から出来るのかしら? あ、多分、私の貯金で結婚式って出来ないですよね。バイトすれば間に合うかな。でも、部活もあるし……。どうしましょう?」

 とドンドン佳代ちゃんの中で話が進んでいく。

「ま、待って! ゴメンね。やっぱり、俺が就職するまで待ってよ」

 まだ結婚する決心の無い俺は、一人分の映画料金を財布にしまった。

「残念です」

 と佳代ちゃんは言っていた。何が残念なのかは意図的に考えないようにして。

「ゴメンね。佳代ちゃん」

 もう一度謝った。

 デート経験の少ない俺は午後の時間をもてあまし、意外にも嬉しくも、佳代ちゃんもデート経験は少ないらしく解決策を知らないみたいだ。

 目的もなく歩き続けた結果、中心街に隠れるように存在している、小さな公園で時間を潰す事にした。

 白いプラスチック製のベンチから、砂と埃を拭きとって、二人で並んで座った。手は繋がれたままだ。

 砂場で遊ぶ子供たちの笑い声は、俺たちへの祝福の鐘のように思えた。

「部活頑張っているみたいですね」

 と褒めてくれる佳代ちゃんは、満足そうな笑顔だった。

「うん。身体中筋肉痛だよ」

 と今度こそ、本当に、努力家っぽい俺を披露する。

 彼女の返答はゆっくりではあるけどリアルタイムで返ってくるのは嬉しくて、俺の努力が彼女の笑顔を作ったんだと思うと嬉しくて、産声を上げて一ヶ月だけど彼女の理想通りの『努力家の俺』を見せる事が出来た、と言うのはやっぱり嬉しくて、つまりは今の俺は幸せすぎるって事だった。

 そして。

 どこからか聞こえてくる、十七時を知らせる小学校のチャイムが鳴り響き、佳代ちゃんがコンビニに行くというので同行しようとしたら、きつい口調で断られてしまった時だ。

 公衆便所は嫌なんだな~、トイレ借りに行くんだな~、なんて俺の予想はどうでも良くて。

 つまりは、佳代ちゃんが公園のベンチから席をはずした時、事件は起きた。

 不安そうな表情で、周りの景色情報の全てを把握しようとしているみたいに顔を激しく動かしている、大川が公園前を横切った。大川の家はこの辺りにあるのだろうか?

 Gパンに、フードつきのトレーナーを着ている大川は、やっぱりボーイッシュだった。

「お~い。大川~!」

 何故か俺は声をかけてしまって。

 その大川は、俺に気が付いた瞬間、フリスビーを上手くキャッチできた犬の様に見えない尻尾を激しく揺らしながら、嬉しそうに俺に駆け寄ってくる。

「良かった~! 君に会えてよかったよ!」

 と訳のわからないことを言うので。

「なんでだ?」

 と俺が聞くと。

 大川は、嬉しさで潤んだ猫目を輝かせながら。

「あのね。言いにくい事なんだけどね……」

 と足で地面に丸を何個も書きながら、恥ずかしそうに。

「実はさ。君にさ。えっとね……」

 と本当に言い出しにくそうにしている。

 そんな時、コンビニから戻ってきた佳代ちゃんが、大川の横に並び、俺の顔を見つめながら。

「あら? あなたのお友達ですか?」

 と聞いてきた。

 俺は簡単に大川の紹介をする。同じ学校で同じクラスで同じ体育館を使っている、女子バレー部員だと。

 俺は佳代ちゃんに、自分の努力を全部報告しているので。

「まぁ! あの昼休みや早朝にコーチして下さる方ですね!」

 と佳代ちゃんは、胸の辺りで指を組み、輝いたまなざしで大川を見つめる。

 しかし、肝心の大川は。

「君に彼女がいたんだね……」

 なんて失礼な事を言うんだけど、その表情はとても切なくて。

「そっか……。邪魔しちゃってゴメンね!」

 振り返り走り去った。この時、大川は泣いていた。

 こんな状況で、理解できていないのは佳代ちゃんだけで、俺を諭すように優しく微笑んで、顔を少しだけ傾けて。

「あなた。追いかけないのですか?」

 とか聞いてくるのだけど……、本当に良いの?

 誰がどう見ても、この状況は一目瞭然な訳で、つまりは大川は俺の事を……。

「追いかけて良いの?」

 俺は佳代ちゃんが気づいていないことを知っている、佳代ちゃんの返事も知っているのに、自分の行動の決定権を彼女に託した。嫌な男だ。

「だって、あなたが追いかけないはず無いじゃないですか。優しいあなたがね」

 と俺の心をえぐる言葉と、罪の念を強くする優しい微笑だった。

 一つ残念な事は、全国大会常連の女子バレー部の大川は、足が速くて、もう姿は見えなかった。

 俺は二十分ぐらい、当てもなく走り回るのだけど、見つかるはずも無い。

 こうして、二回目のデートは気まずい空気のまま終わった。

 それでも佳代ちゃんは俺を褒めてくれる。

「残念な結果でしたけど、優しいあなたらしい行動でした。学校で相談に乗ってあげてくださいね」

 家路に向かう、俺の足取りは重かった。

 大川の気持ちには応えられない、それでも俺の気持ちは伝えたかったんだ。

 大きな猫目で、結構可愛い大川。

 誰とも親しくなれる大川。

 俺に昼休みの特訓や朝連を押し付けるほどに、世話好きな大川。

 しかも、巨乳な大川。

 そんなあいつは俺にはもったいない訳で、彼女なら俺以外の相手を選び放題な訳で、だから俺との恋が実らなくても前向きに考えて欲しかった。

 問題なのは、大川が気持ちを伝えずに諦めてしまった事だ。

 これでは、俺の気持ちを伝えられない。

 俺は嫌な男になることを決心した。

 相手をフルために俺に告白しろ、と言う男。なんて最悪な男なんだ。 

 それでも、俺なんかの呪縛にとらわれてはいけない。大川は、そんな魅力的な女性なんだ。

 憎まれ役を買えよ! それが俺に出来る彼女への誠意だ! 

 明日は日曜日。大川とは体育館で会う。

 俺らしくも無い決意を、俺は固めた。

 ほんの一ヶ月前の俺なら、気づかないフリをして、忘れると言う決断を選んだはずだ。

 佳代ちゃんと付き合ったせいだろうか、佳代ちゃんに初キスと逆プロポーズをされたからだろうか、今日二回目のデートをしたからだろうか、部長への罪悪感からなのか、理由はわからない。

 それでも、俺は少しずつ変わっている。

 偽者の俺に近づけているのだろうか?

 俺が決意を固めるのと時同じくして、自宅マンションに到着したのだが……。

 また一つ、大きな問題に直面する事になる。

 例の鍵少年が、またもや鍵を忘れてしまったらしい。鋭い視線で俺を見つめてくる。

 俺らしく無くなった俺は、声をかけるのだけど……。

「どうしたんですか? 鍵を忘れたんですか?」

 鍵少年は、俺が話しかけてきた事に少し驚き、気を持ち直すため深呼吸をして、喉に絡まっていなかったはずのタンを生成し、そのタンを地面に吐き捨てた。

「てめぇか? 佳代ちゃんと付き合ってる男は?」

 弱々しいメガネの鍵少年らしくない、言葉遣いだった。

 俺は瞬時に理解したね。

 最初に彼を見た時に、妹と同じ制服を着ていた鍵少年は、やっぱり妹と同じ学校に所属している訳で、つまりは佳代ちゃんとも同じ学校な訳である。

 そして、最初に彼と会ったのが、佳代ちゃんと付き合うことになった日から見て、最初の平日だった。その日の昼間に、学校で俺たちの噂を聞きつけたのだろう。

 二回目に見たのは佳代ちゃんとの初デートの日だった。これも学校で噂を聞いたに違いない。

 そして今日、三回目に彼を見るのは、やっぱり佳代ちゃんとデートをした日だ。

 つまりは、鍵少年は佳代ちゃんに恋をしているのだ。

 俺と佳代ちゃんがデートしている事実を知った鍵少年は、どう対処して良いのか解らない気持ちに動かされて、何をするべきかも解らないまま俺の家まで来てしまったのだろう。

 俺も、状況は理解できても、なすべき行動は理解できなかった。

 こう言う時って、どうすれば良いの?

 鍵少年は返事をよこさない俺に、イラついているらしく、地面を強く踏みなおした。

「聞いてるのか? あぁ?」

 と言うのだけど、なんかムカつく。彼のその行動が、俺の行動を決定付けた。

「付き合ってる。だからなんだよ?」

 俺も強気に出てしまった。その効果があったのかもしれない。

 鍵少年は俺に舌打ちだけを返し、ありえないほど大げさな、がに股歩きで立ち去っていた。

 こうして、二回目のデートはあまり良い思い出にならなかった。

 だけど。

 災難はまだまだ続く。


 次の日の日曜日。俺はバドミントン部の練習中に少しの休憩時間を貰い、隣で練習している女子バレー部員に話しかける。

「練習中ゴメン。大川さんを借りてもいいかな?」

 青春女子バレー部員は、やっぱり年頃の女子高校生な訳で、口笛や「熱いね~」なんて野次を飛ばしてくるのだけど、それは間違っていなくて、問題なのは、その野次は大川を深く傷付けると言う事だ。

 事情を知らないバレー部員たちを責めるのは筋違いかもしれないが、俺は腹が立った。

 俺と大川は、体育館の入り口を出て、ギャラリーのいない廊下で話をする。

「急に呼び出してゴメンな」

 と頭を軽く下げるのだが。

「ううん。私の方こそ、昨日はデート中にゴメンね」

 と大川まで頭を下げるのだけど。

「止めろよ! 大川は悪くない。自分に自身を持て!」

 俺は檄を飛ばした。

 大川の猫目は潤んでいて、小さく笑い。

「そうかな?」なんて聞いてくる。

「当たり前だろ」

 そして、少しの時間、沈黙が場を支配する。

 大川は気まずいのか、何か言いたいのか、背中を丸め、少しだけ顔を下げている。俺の靴を見つめている。

 俺も決意は固めてきたはずなのに、上手い切り出し方がわからない。

「あのさ。言いたい事があるんだろ? 大川らしくないぞ。はっきり言えよ」

 と男らしく無い方法を選んでしまったのだけど、大川は無言のまま上目遣いで俺を見つめてくる。 

 大きな猫目は、先ほどより水気を増していた。

「でもさぁ。君には彼女がいるし頼めないよ……」

 大川らしくなく、弱々しい口調だった。

「ゴメン、としか言えないけど……。それでも、お前の気持ちはわかったよ」

 すると、大川は勢い良く顔を上げ、小さく「なんで?」と呟き、話を続けた。

「そっか。わかっていたんだ……」

 綺麗な猫目は、真直ぐに、俺を見つめている。大川の表情には、もう迷いがなかった。きっと決意が固まったのだろう。

「ごめんね。これで最後にするから! だから、今日の夕方、昨日の公園で待ち合わせ出来ないかな?」

 今ここで言えば良いのに、と言う思いは俺の中にあった。

 でも、ロマンスを重んじる女性と言う生き物にとって、譲れない何かが、あの公園にあるのだろうと解釈した。

 だけど、俺にも譲れない部分があった。

「わかった。だけど、俺の彼女も同伴させて欲しい」

 プライベートの時間に、佳代ちゃんに秘密で、大川と、つまりは女性と会うわけにはいかない。

 例え、それが大川を深く傷付ける行為だと知っていてもだ。

 それを聞いた大川は、目を大きく見開き驚いていた。当然だ。

 それでも。

「君が、そうしたいなら……。私に反対する権利は無いよ」

 大川は最後に「それじゃ! 夕方会おうね」と告げて体育館に戻っていた。その時の彼女の表情は、ぎこちない小さな笑顔だったのだけど、希望の光がかすかに見えた。

 もしかしたら、俺は大川に期待させるような言い方をしたのかもしれない。

 そう思うと、俺は直ぐに体育館に戻れなかった。

 俺の心は痛かった。

 大川を傷付けた。

 そして、これからもっと深く傷付ける。と言う罪の針が俺の心に刺さる。

 それだけじゃない。

 部長に嘘をついたと言う針も、鍵少年の問題と言う針も、何より、佳代ちゃんを騙し続けている針が、深く深く俺の心に突き刺ささっている。

 針と言うには大きいそれは、もはや、釘だったり、杭なのかもしれない。

 そんな事はどうだって良い!

「クソ! 痛ぇ!」

 俺は独り言。

 そして、壁を力いっぱい蹴った。

 柔らかい上履きは、俺の足を守る役割を果たさなかった。

 耐え難い激痛が、俺を襲う。

 俺はうずくまり、靴を脱ぎ、足の指をさするのだけど……。

 痛みが消える事は無い。

「痛ぇよ……」

 足より心が痛かった。

 

 バドミントン部の練習が終わり、自宅でシャワーを浴びて、県立体育館に向かう前に、佳代ちゃんに電話をした。

 実は初めての電話だった。電話をするまでに、何度もため息をついた。気が重い。

「佳代ちゃん。急にゴメンね。あのさ、昨日公園で、会った人がいるでしょ?」

「えぇ! あなたにコーチをしてくださる方ですね」

「うん。今日の夕方、その人と重大な話をするんだ。そこに佳代ちゃんも来て欲しい」

「それは、かまいませんよ。あなたに会えるのは嬉しいですもの。ところで、重大な話とは何なのですか?」

「ゴメン。それは言えない。出来れば、その話中も会話が聞こえない距離で見ていて欲しいんだ」

「そうなのですか?」

 佳代ちゃんは理解できてないみたいだ。当たり前だ。

「本当にゴメンね。佳代ちゃんに聞かれては困る話なんだ。ただ、プライベートな時間に女性と二人っきりで会う。その場に、佳代ちゃんがいないのは嫌だったんだ」

「そういうことですか! 純粋なあなたらしいですね」

 純粋な俺か……。意図しない所で、また彼女を騙してしまった。そして、佳代ちゃんは嬉しい事を言った。

「私はあなたを信じていますから、そんな気を使わなくても良かったのに」

 と笑ってから。

「でも、あなたと会う口実が出来るのは嬉しいです! それに、初めて電話で話せたのも嬉しいですよ」

 と言っていた。

 電話を終えた俺は、電話をかける前の俺と違う気持ちだった。佳代ちゃんの言葉には、俺にとって向精神薬以上に効果があるに違いない。

 大川には悪いけど、この時の俺の気持ちは有頂天だった。

 それは束の間の事だったのだけど。

 そして、スローな佳代ちゃんは、やっぱり電話でもスローなわけで、この会話をするだけで十五分の時間が必要だった。俺たちは、しばらくメールでコミニケーションする事になりそうだ。バイトをしていない高校生にとって、携帯電話料金は大きな出費なんだよ。


 そして、県立体育館の練習を途中で抜け、自宅に戻り準備をして、佳代ちゃんと合流した。

 この時には、俺の気持ちは憂鬱なものに戻っていた。

 コットンのギャザーシャツとロングスカート、と洋服を着ていた佳代ちゃんは、それでもやっぱり大和撫子なのだけど、今は喜んでいられない。

 十七時ちょっと前、俺たちは、あの公園に到着した。

 今日は珍しく、俺が佳代ちゃんの手を握り先導している。

 既に大川は公園にいた。膝を抱え込むようにして、ベンチに座っていた。これから起きる、緊張の瞬間に、怯えているようでもあり、期待しているようでもある。

 Tシャツに紐付きジーンズの大川は、やっぱりボーイッシュだったんだけど、今の俺にはどうでも良い事だ。

 今から、自分がズタズタに切り裂く相手を、遠くから見ると、俺の胸までえぐられた気分だった。 

 俺の手には汗がにじんで、それに気がついた佳代ちゃんは事情も知らないのに。

「あなたなら大丈夫ですよ。きっと、上手くいきます」と言ってくれた。

 俺は怖かった。痛かった。

 覚悟を決めて、大川に近づく。

 だけど、俺たちが公園に入ってすぐ、大川の座っているベンチまで結構な距離がある時、大川は俺たちに気が付いた。

 その大川からは『クゥーン』と言う弱々しい泣き声が聞こえた気がする。明らかな作り笑いだった。

 先に言葉を発したのは、大川だった。俺は佳代ちゃんに「距離をとって」と頼む時間すらなかった。

 大川はベンチから飛び降りるように立ちあがり、さすがは全国大会常連だ、と納得させるほどのダッシュを見せて俺たちに近づいてくる。

 そして、膝を付き中腰になって、俺の膝に絡みつき、大川は叫んだ。

「ミーちゃんがね。ミーちゃんが誘拐されたの!」

 顔は見えないけど、言葉の節々に表れる、しゃっくりと鼻水を(すす)る音から推測するに、大川は泣いているみたいだ。

 こうして、俺は自分の勘違いに気が付いた!

 だけど、事態は思っているより深刻だった。

「大川。落ち着け。ゴメン。俺も詳しい事情はわからないんだ。説明してくれないか?」

 俺は帳尻合わせのために、嘘をついた。『大川が俺に恋していると思ったんだよ』とは言えない。 

「あのね。ミーちゃんはね。時々一人でフラフラしちゃうの。そしたらね。土曜日から帰ってきてないの! でもね。以前にもこんな事があって、犯人はわかっているんだ……。でも、親にも頼めないし、私も行けないし。友達にも頼めない。だからね。昨日君を見かけた時、君になら頼めるかもって思いついたの。男の子なら、大丈夫だと思ったから! だけど、彼女がいるなら頼めないよぉ~」

 訳がわからん。

 とりあえず、俺は当然の提案をした。

「警察は? 警察に行ったのか?」

 大川の答えは信じられなかった。

「行ったよぉ~。でもね。忙しいって断られたの!」

 ありえない! この国は腐っている。誘拐事件を目の前にして、忙しいから警察に頼むなだって? 

 大川は俺が怒り心頭なのを感じ取ったのだろう。でも、その矛先が自分に向けられていると勘違いしているみたいだ。

「ゴメンね。やっぱり、彼女がいる人に頼めないよね」

 とか言っている。大川は本当に馬鹿だ。

「何言っているんだ! 警察が頼りにならないなら……。俺が解決してやる!」

 正直自信はなかった。でも、この状況では、こう言うしかなかった。

 それに、丸っきり嘘という訳ではない。俺は全力で問題に取り組むつもりだ。

 しかし、犯人がわかっていても、警察が何も出来ない誘拐事件か……。犯人はヤクザや外国人マフィアか……。恐ろしい想像しか思い浮かばない。

 確かに多大な恐怖はある。

 でも、ほっとけない!

 この時大川は、やっと顔を上げた。涙と鼻水だらけの顔で、上目遣いに俺を見つめてくる。

 そして。

「ありがとうぉ~!」

 と言って、さらに大きな声を上げて、泣き始めた。

 俺は大川に恋愛感情は無い。それでも、一瞬胸が締め付けられた。守ってあげたい、と思ってしまった。

 佳代ちゃんゴメン!

 その佳代ちゃんは、顔を青くしていた。

「あなたらしいです……。でも、気をつけてくださいね」

 と消え入りそうな声で言った。  

 大川が泣き止むのを待ち、俺たちは、その犯人の元へ向かった。

 そこは、古びたビルだった。茶色いレンガ調の外壁に、四階建ての建物。外壁にある無数にあるヒビ割れが、今にも崩れ落ちそうなイメージを連想させる。

 上へ続く階段がある入り口の隣には、地下に続く階段がある。

 そして、二階は丸々空きテナントのようだった。

 他の階にある会社も、どこか裏側社会を連想させるものばかりだ。『スマイルローン』ってのはまだ想像がつく。『今谷会』って何の会社だよ。不透明さがビルの概観と合い重なり、不気味な恐怖を煽る。

 そんな怪しいテナントが多いこのビルは近いうちに壊されるだろう、と思う一方で、意外としぶとく生き残りそうだ、と思わせるビルだった。

 大川は「ゴメンね」と小さく謝り、ビルの地下に続く入り口を指差した。

「あそこなの。あのお店にミーちゃんは奪われたの……」

 この時、やっと、俺は全貌を理解した。

 理由は簡単だ。

 俺はこの場所を知っている。もう、足を洗った世界、怪しく如何わしい世界が広がっている店だ。

 そう。俺は佳代ちゃんとの初デートをキッカケに、この世界からは足を洗ったんだ。俺にも理由はわからない。もしかしたら、純粋な俺に近づこうとしたのかもしれない。

 不安げな表情で青い顔の、上手く話すことすら出来ずにいる女性二人に、俺は声をかけた。

「安心しろよ。俺に任せて!」

 大川は「うん……」と、佳代ちゃんは「はい……」と、それぞれに、不安を乗せたトーンで返事をした。

 俺は女性陣を安心させるため、部長顔負けの爽やかな笑顔を残して、地下に続く階段を下りる。

 建物の内壁は、色を塗ってないコンクリートの色そのものだ。やっぱり、無数のヒビが存在し、そのヒビがどことなく不安を駆り立てる。

 最後の段差を降りると、目の前には飾り気の無いドアがあった。

 鉄製で装飾品も色も付いていないドアは、監獄を連想させる。

 重たいドアを開けると、コレクションしても人に見せられないだろう代物が所狭しと並んでいる。

 人一人が歩くのにも、窮屈な通路しか確保されていないほどに、怪しい品物が、陳列棚が、狭い部屋に詰められていた。

 店の入り口をくぐり、直ぐに右を向くと、レジカウンターがある。

 レジカウンターに座っている男は、危ない薬をやっているのだろうか、と思わせる空虚な表情で地面を見つめながら、一人で話していた。

 そして、室内なのにハット帽を深く被っていた。辛うじて見える目には、濃い色のサングラスをしている。これも室内なのに変だ。

 レジの男は、俺に気が付くと声をかけてきた。

「お前か。最近来ないな。どうしたんだ?」

 音が低くドスの効いた口調だが、怒っているわけでもない。彼は、それがカッコイイと思うタイプの人間で、常にこの口調なんだ。

「俺は足を洗ったんだ」

 レジの男は、レジカウンターを軽く叩いて。

「な、なんだって? そんなこと不可能だ」

 と言いやがる。

 確かに、以前の俺からは想像できないだろう。でも、今の俺は偽者の俺になってきているんだ。

「多分、金輪際、この世界に関る事は無いと思う」

「お前が足を洗うなんて、想像していなかったよ。せっかく『とっておき』を用意していたのに……」

「ゴメンな」

 悪事とは言え、彼の親切を裏切るのは心苦しくて、俺は謝った。

 彼も悪い人間ではないのだろう。

「いや。詳しく事情は聞かない。でも、その事情は明るいものだと思う。この世界から足を洗う理由は大体そうだ。応援してる」

 と言ってくれた。

 俺は彼の言葉が嬉しかったのだが、それよりも今は、ミーちゃんの事が大事だ。

「ところで、ニコは来ているか?」

 俺はミーちゃんに心当たりがある。俺とレジの男は、ニコと名づけていた。

「あぁ。ここにいるよ」

 彼は椅子を引き、レジカウンターの下を指差す。

 レジカウンターの裏側には、小さく丸くなっている女がいた。茶色の毛が可愛らしい。

 いや、俺もレジの男も性別を確かめた事は無いので、もしかしたら、男なのかもしれないが……。

 俺と彼の間では『女のはずだ』と言う共通のイメージがあったんだ。

 俺はミーちゃんを抱き上げる。

 つまりは、茶色の三毛猫を抱き上げる。

「こいつさ~。野良じゃないんだって。飼い主が俺の知り合いだったんだ」

 レジの男はハット帽を捲くりながら、驚愕の表情を見せていた。

「そうなのか? 良く来るから、野良にしか思えなかったぞ」

 俺もそう思っていた。

 この店に来た当初、悪の道に進み始めた十五歳の時には、この店が飼っている猫だとさえ思っていたぞ。

「今、ビルの前で飼い主を待たせているんだ。久しぶりに来たんだけどさ、今日は直ぐ帰るよ」

 男は了解し、もう一度、俺を悪の道へ引きずりこもうと試みた。

 さっき、応援するって言ったのに! 俺は商売人魂の強さを知った。

「なぁ。お前のために、探したんだ。R―十五指定の中じゃ、飛びっきりにエロイ本だぞ。本当に興味ないのか? 足を洗うのか? 『巫女の初めての冒険』って言うんだ。お前って和物コスプレ好きだったろ? しかも、この女優さん好きだったろ?」だと。

 好きだよ。超好きだよ! クソ~! スゲー見て~よ!

「悪いけど、俺は可愛すぎる彼女を手に入れたんだ。その娘の好みが『純粋な男』だからさ。もう、この世界には関らない事にするよ」

 俺はもう一度決意を伝えた。言葉にしないと心が折れそうだった。『巫女の初めての冒険』は余りに魅力的だった……。

 レジの男は「残念だ」と言った後だけど。

「頑張れよ!」

 と応援してくれた。

 店を出て、階段を上っている時、目を覚ました三毛猫に腕をひっかかれる。

 こいつは、ヤンチャさんらしい。

 ビルの外に出ると、佳代ちゃんと大川は不安そうに話をしていた。

 大川が俺の帰還に気がつくと、『待て!』を解除された犬みたいに俺に食いつきそうな勢いで近づいてくる。いや、怖ぇよ。

 大川にミーちゃんを渡すと、ミーちゃんは大川にも懐いてないみたいだ。必死に抱っこ、つまりは腕の包囲網から逃れようとして、暴れている。

 犬と猫は相性が良くないのかもしれない。

 でも、ミーちゃんが暴れるのは、大川にとっては当たり前の出来事なのだろう。暴れるミーちゃんを気にする様子を見せていない。

 そんなんだから、よく迷子になるんだよ!

 そして、再び涙を見せて「もう離さないよっ!」と言っていた。

 暫くミーちゃんとの会話を楽しんだ大川は、俺たちにお礼をしたいので、ファーストフード店か喫茶店でおごらせて欲しい、と五月蝿かった。

「ミーちゃんの命の恩人だもん! せめて、晩御飯ぐらいおごらせてよ!」だと。

 俺たちが何度断っても、引き下がろうとしない。

 俺は言い訳を思いついて。

「それじゃあさ、駅まで送ってくれよ」

 と提案した。大川は騙されてくれた。でも、お前の感謝の気持ちは、確かに受け取ったから気にするなよ。

 一つ問題なのは、俺を待っている間に、佳代ちゃんと大川の間には友情が出来たみたいなんだ。

 駅につくまで、俺はなんか孤独だった。

 俺が先頭を歩き、直ぐ後ろを女性二人がついてくる。

 その会話の多くは、偽者だった。

 大川はこんな事を言っていた。

「佳代ちゃんの彼氏って優しいよね~。普通、彼女が出来たらエロ本屋さんに行けないよぉ~。それなのに、行ってくれたんだもん! それだけじゃなくて、彼女を不安にさせたくないから、わざわざ呼び出すなんてね~。純粋なんだね! 変人だけど、見直しちゃったっ!」

 馬鹿な大川の男と言う生き物について認識は普通と違っていて、俺に対する評価も間違っていた。

 彼女が出来てもエロ本を読む男は珍しく無い。(むし)ろ多い。

 そして、俺は優しくも無いし、純粋でもない。

 でも、大川は余りに嬉しそうにしていた。後ろを振り返らなくても、ボールを投げてくれるのを待っている犬のような大川の表情は想像がつく。そんな明るい声だった。俺は勘違いさせたままでも良いかな、と思ってしまった。

 多分俺は、偽者の俺に近づいているはずだし……。

 佳代ちゃんは、大川の言葉に対して。

「えぇ。あの人は素敵な人なんですよ!」

 とスローだけど明るいトーンで言っていた。黒船と言う脅威的な他国の力を見せ付けられても動じない、江戸末期の女性のような、自信に満ち溢れた声だった。

 駅に到着すると、大川は大げさに手を振って、俺たちを見送ってくれた。でも、ミーちゃんはまだ暴れているのだけど。

 流石は怪力大川だ。片手でしっかりとミーちゃんを制御していた。

 改札をくぐり、大川の表情も確認できない程に遠い距離まで、俺たちが移動しても、まだ手を振っていた。

 本当に犬は律儀な生き物なんだな。

 そんな大川を見ると、なんか俺まで嬉しくなった。

 佳代ちゃんも、機嫌が良かった。

 駅のホームでも、電車でも、ずっと俺を褒めてくれていたんだ。

「本当にあなたを好きになってよかったです!」と。

 佳代ちゃんを騙し続けている俺の罪の念を、打ち消してくれる時間だった。

 そして、自宅マンションに着くと、鍵少年はいなかった。

 今日、俺と佳代ちゃんが会ったのは、突発的だったからだろう。彼は、今日『俺たちが会う』と言う情報を手に入れる事は出来なかったんだと思う。 

 こうして、大川の問題は解決した。

 それは俺の勘違いだった。

 考えてみれば、直ぐわかることだよな~。俺がモテルはずも無い。

 こうして、変化した俺は、切ない想いを胸に、(むし)ろその切ない想い、みんなへの罪悪感があったからかもしれない

 努力家っぽい俺のまま、大会当日を迎えることになる。

 最後の三日間は、軽いトレーニングと、軽いラリーだけの練習だった。筋肉痛のままじゃかえって悪い結果になる、と言う部長の提案だった。

 大川は悔しそうに、一応は部長の提案を呑んだ。

「うぅ~。君たちは根性の素晴らしさを知らないんだよっ! 違う。現代科学は悪だっ! スポーツ科学なんて嘘偽りだっ!」

 でも、納得しているようには見えなかった。

 俺に軽めの練習を提案した部長は、大会一日前になっても、いつも通りの練習をこなしていた。いや、今までよりハードに見えた。

「俺は筋肉痛になって無いからな! それに、自分の筋肉の超回復リズムも掴んでいるから安心しろよ」

 と部長は言っていたが、その言葉の真意はわからない。

 俺には『県大会に出場する』と言う決意が、部長を無理させているように思えた。

 大会前日には、俺も部長の練習に参加した。一セットだけど試合形式で練習したんだ。

 部長曰く。

「大会前に、お前と試合するとさ、俺が自信を付けられるだろう?」

 なんて、失礼な言い方で誤魔化していたけど。

 でも、俺は知っていた。

 部長は最後の最後まで、俺を心配してくれていたんだと……。

 


 そして、六月中旬。大会当日。天気は弱い雨。俺たちの心は太陽が情熱の赤色に燃えている快晴!

 地区予選は、市立のスポーツセンターで行われる。二階建てでドーム型の建物だ。

 一階にある運動場は、学校のそれより二倍程の大きさをしていた。半分にバドミントンコートが六つ設置できる大きさで、その半分の六コートで男子予選、もう片側で女子予選が行われる。

 二階は下に運動場のある部分は空洞で、その空間を囲むように、観客席が設置されている。俺たちの控え場所はこの観客席になる。

 俺たちは観客席の学校ごとに指定された場所に陣取る。対面側の観客席、中央よりやや左側には、佳代ちゃんの姿が見えた。

 佳代ちゃんも俺を見つけたみたいで、嬉しそうに、ゆっくりした動作で、それでも大きい動作で手を振ってくれた。俺のやる気メーターは瞬時にレッドゾーンを越えた。

 そして幸いにも、部長は佳代ちゃんに気づいてないみたいだ。

 俺は佳代ちゃんに、『大会が終わるまで集中するね。ゴメン』とメールを送信する。

 部長に、俺と佳代ちゃんとの関係を知られたくなかった。

 佳代ちゃんは、携帯電話を取り出し、携帯電話を見つめて、右上を見つめて、もう一度携帯電話を見つめて、自分のこめかみを両手で押さえながら可愛らしく頭を揺らし、また携帯電話を見つめる。

 そんな感じで、三十分後に返信が来た。佳代ちゃんのメールが遅い理由がわかったのだけど、俺に送るメールをあんなにも悩んでくれていたんだ、と思うとそれは嬉しい事実だった。

 佳代ちゃんのメールは『あなたらしいです。お互い頑張りましょうね!』と短かった。

 そして、そのメールを受信したのは、開会式の始まる直前だった。

 俺たちは運動場に降り、学校ごとに綺麗に並ぶ。

 開会式での偉い人のお話は、いつもなら退屈なのだけど、なんか今日は少しだけ心にしみた。『清い若者の清い青春の汗は将来大切な思い出となり、それが清い大きな武器となります。私が若い頃の話になりますが、それは清い若者の話でして……』とか、『結果よりも今日までに諸君らが得た経験が大事で、それを例えるために百十八の小話をさせて頂きますと……』とか。

 全体的にくどくて、結局何が言いたいの? って感じでつまらないのだけど、変に俺の心を捉える部分があった。

 俺たちは観客席に戻り、トーナメント表を見つめる。個人戦シングルスの部の参加者は百十二人いて、そのうち七人が県大会に出場できる。

 俺たちの中で、最初に試合するのは部長だった。

 部長にとって、今回の組み合わせは、運が良い組み合わせらしい。

 去年の秋の新人戦のデーターから予想するに、部長は準々決勝までは進めそうだ、と言っていた。ベストエイトにはなれそうだ、と言っていた。

 それよりも俺は、部長がそんなデーターまで作っていた事に驚いた。

 問題なのは、他校の一年生の実力が未知数な事と、他の選手も新人戦から成長しているだろう、と言う事らしい。

 でも、部長の努力は本物だ。そいつらが部長より成長しているとは思いたくなかった。

 偽者の俺とは違う。

 部長は昼休みも小休憩もバドミントンにささげた。通学時間すらもバドミントンにささげた。部活が終わった後の時間だってそうだ。一度部長の家を見ただけの俺でも確信を持てる。プライベートの時間だって、その殆どが、バドミントンのため使われていたに違いない。

 でも、部長が県大会に出場すると言う事は、部長が佳代ちゃんに告白すると言う事で、それだけは嫌だった。

 俺は部長に勝てる気がしない。全てにおいて負けている。そして、佳代ちゃんの理想像と部長は余りに一致していた。

 それでも、俺は部長を尊敬している。

 だから、部長にとって最後の公式大会で、彼が県大会まで駒を進めて欲しい、と言う思いもある。

 どっちつかずの矛盾した思いが、不安定な炎のように、大きく燃え上がり、小さく消えかけ、また大きく燃え上がる、を繰り返していた。 

 部長は一回戦危なげなく勝利した。

 そして、もう部長が使う事はないのに……。

 今の対戦相手のデーターをノートに書き込んでいた。

 そして!

 いよいよ、俺の試合だ。

 相手は二年生だ。部長の話によると、秋の新人戦のデータから見て……。

 俺の勝算は三割ほどらしい。

 俺から見れば、この会場にいる全ての人間が格上だろう。それを考えると、三割と言うのは、良い勝率に思える。

 それに、今の俺のテンションは二重丸なのだから! 絶好調なのだから! 佳代ちゃんのメールも嬉しかったし、部長の問題も、もう少し先のお話だ。

 試合は相手のサーブから始まった。

「やっ!」と言う相手の掛け声と共に、シャトルが宙を舞う。そのシャトルは緩やかな速度で、俺のコート奥側に落ちる。

 緊張で強張った俺の身体は、少しぎこちなく、それでも、ちゃんと反応してくれて、数歩後ろにステップした。

 いや、ステップとは言えない、転びそうな足取りだった。それでも、俺は優しいタッチで相手のネット際にシャトルを落とす。

 サービス位置にいたはずの相手は、俺がネット際に落とす事を読んでいたのだろう。シャトルから相手に視線を移すと、既にネット際に駆け寄っていた。

 そして、相手も優しいタッチでネット際に落としてきた。

 見るからに初心者の動きの俺がコート奥にいれば、相手が手前に落とす事は予測できるさ。

 俺は体力トレーニングだけは真面目にやっていたんだ! 

 大またでネット際に近寄り、予想通りに、ネット際に落ちかけているシャトルを強く打ち上げる!

 シャトルは高い軌道で、相手コート左奥を目掛けて飛んでいく……。

 ぎこちない動きの俺を見くびっていたのだろう。相手は返されるとは思っていなかったに違いない。少し反応が遅れていた。

 そして、シャトルは地面に落ちる。

 ラインギリギリだ。

 俺も相手も、緊張と期待を載せた視線で、線審をみつめる。

 線審、つまりはシャトルが落ちた場所が、ラインの内側か外側かを判断する審判が、指も腕も真直ぐに伸ばし、斜め下方に向けていた。

 そして、主審がコールする。

「サービスオーバー。 ラブ ワン」

 俺の得点だ!

 無意識に声が出た。「よぉし!」と。

 俺が初めて行う試合。俺が初めて手に入れた点数。俺の努力が実った瞬間。

 アドレナリンもエンドルフィンも、あらやる脳内物質が、遠慮なく俺の脳内を刺激する。

 今度は俺のサーブからだ。

 興奮しすぎている頭を落ち着かせるために、数回の深呼吸をする。

 そして、俺はサーブで、相手コート手前側にシャトルを落とす。

 真面目に部活をしているだろう対戦相手は、当然のように反応する。

 それでも、相手が俺を見くびっているのはわかっていた。

 俺はわざとコート中央より、やや左前方に移動する。俺流フェイントもどきだ!

 すると、相手は俺の作戦通りに、俺の右後方を目掛けてシャトルを打ち込んだ。高い軌道だ。

 俺は直ぐに後ろにステップし、スマッシュを打つ!

 実は、まだ俺のスマッシュは、クリアにならない確率が七十パーセントしかない。さらに今の俺にはコースを意識するなんて無理だった。

 つまり、どこに飛んでいくのか、どんな軌道になるのか俺自身にも予想がつかなかった。

 そして、打った後に思い出す。

 部長が、シングルスの時は無理にスマッシュを打たないほうが良い、とか言っていた事を。

 力いっぱい打つスマッシュは、体制が崩れることも意味している。無理に打つと、相手の返球に対応できない。とか言ってた事を。

 うわ~。今の俺、スゲー不安定な体勢でスマッシュを打っちゃったよ! 興奮しすぎていた……。

 不安を抑えて相手に視線を送ると、対戦相手はどんな球種にも対応出来るようにコート中央に移動していた。

 そして、俺のスマッシュは右ラインスレスレを飛んで行き、相手は力いっぱい手を伸ばしながら飛びつくように反応した。

 それでも、対戦相手のラケットはシャトルに届かなかった。

 俺の放ったシャトルは、ラインの内側に落ちる。

 俺の二連続ポイントだ!

 そして、それからの試合運びは一方的だった。

 第一セット 二十一対四。

 第二セット 二十一対六。

 バドミントンの試合は、一セットが二十一ポイント制で、二セット先取で結果が決まる。

 つまり、もう第三セットをする必要も無いのだ。

 俺の予想以上に圧倒的な結果だった。

 こうして、俺の短いバトミント部員生活は終わった……。

 俺の実力を上方修正した対戦相手には、俺の付け焼刃の技術は通用しなかった。

 クソ! 

 俺は叫びたい気持ちで一杯だった。

 待機場所に戻ると、完敗した俺に、部長も副部長も一年生も、『お疲れ様』と言ってくれた。

 一ヶ月半しか頑張って無い俺なのに、その頑張っていた思い出がちらちら脳裏に浮かび、悔しかった。

 そして、もっと早くから頑張れば良かった、と言う後悔が止め処なく押し寄せてくる。そうすれば、勝てないまでも、試合らしい試合が出来たかもしれない……。

 ふと、佳代ちゃんに視線を送ると俺の試合を見ていたらしく、既に携帯電話と格闘していた。

 それから、三十分後送られてきたメール。

 それは、短いのだけど……。

 俺の後悔に耐え難い重みを与えるものであり、俺の心を罪悪感の刃で切り刻むものであり、それでも、深い優しさで抱擁してくれるものだった。

 メールには『あなた、大丈夫ですよ。私はちゃんと知っていますから……。お疲れさまでした!』と書いてあった。

 佳代ちゃん、違うんだ。俺が頑張ったのは凄い短い期間で……。

 何もしてないのと同じなんだ!

 それでも、彼女のメールが嬉しかった。彼女が勘違いしていたとしても、認めてもらえた事が嬉しかった。

 一ヶ月半だけのバドミントン部員の癖に、俺は二粒の涙がこぼれ落ちてくる。

 それに気がついた部長は、誰にも気がつかれないように、こっそりティッシュを渡してくれた。

 その部長は、県大会には出場出来なかった。

 準々決勝まで、勝ち続け、全セットデュースの接戦を繰り広げ、そこで敗れた。

 ベストエイトだ。

 県大会に出場できるのは、七人。

 まず準々決勝で敗れた四人で、五位決定戦が行われる。その一回戦でも部長は負けてしまった。

 次に五位決定戦の一回戦で負けたもの同士で、七位決定戦が行われるのだが、そこでも一歩及ばなかった。

 第一セット 二十一対十九。

 あと少しのところで、相手が取った。

 第二セット 十六対二十一。

 今度は、部長が取った。

 そして、試合の結果を決める、第三セット。

 二十対二十。でデュースに突入する。

 俺はその後の事を考えずに、本当は幸せそうにデートしている佳代ちゃんと部長を想像しながら、出来る限りの声を出した。必死に応援した。

 応援する事が、どれ程部長の手助けになってるのかわからない。もしかしたら、意味が無い行為なのかもしれない。

 それでも、必死に叫び続けた。

 試合は、もつれにもつれ、どちらも一歩も譲らず、二十九対二十九。

 デュースは二ポイント差で勝負が決まる。しかし、例外があって、どちらかが三十ポイントを取った時点で終了する。つまりは、次のポイントを取ったほうが県大会にいけるんだ。 

 そして、結果。

 第三セット 三十対二十九。

 部長は県大会に行けなかった。

 なんでだよ!

 足りなかったのは、最後の一ポイントだけだった……。三セットの合計で言えば、部長の方が多くポイントを取っていたのに……。

 本当に僅差だったんだ!

 部長が頑張っていた事を、部長が色々な決意を持ってこの大会に挑んだ事を、俺は知っている。

 それに、偽者の俺とは違う。

 部長に足りなかったのは、絶対に努力じゃない。

 才能とか、時の運とか、得体の知れない『何か』だ。

 俺には、その『何か』が憎かった。

 その『何か』の存在を絶対に認めたくなかった。

 肝心の部長は、爽やかで曇りの無い大きな笑顔で「ゴメン。トイレに行って来る」とだけ言っていた。

 部長がトイレから戻ってきたのは二時間後で、閉会式も終わり、会場の片付けも終わっていたのだけど……。

 バドミントン部の誰もが何も言わなかった。

 そこにいる全員が理由はわかっていたのだから。

 他の部員たちは俺ほどに、部長の事情に詳しく無いだろう。

 それでも、部長の努力は、そんな事情を知らない部員たちの心に届くほどに、確かなものだったんだと思う。

 なにより、「ゴメン! 特大ウンコだったんだ。本当ゴメンな!」と言っていた部長の目はまだ赤かった。

 俺たちは作り笑いを浮かべながら、楽しくも無い会話を無理やり盛り上げながら、駅に向かった。俺たちの作り笑いの中で、部長の爽やかな笑顔が一番本物に思えた。

 俺の中での罪悪感が一際大きくなる。

 部長が県大会にいけなくなったのだから、俺の中の矛盾は解決したはずだ。

 それでも、この時の俺は、大きな割合で決意を固めつつあった。

 それを決定付けたのは、夜になってからだ。佳代ちゃんからの優しいメールは五通も届いていた。それが原因だったのかもしれない。

 布団の中で、一人悔し涙を流していた時、俺は気づいた。

 部長の努力には一つの欠陥があるのだ。部長が俺のために費やした時間は少なくない。

 それは、この一ヶ月半、練習に付き合ってくれたことに限らない。

 一年生の時も二年生の時も、貴重な自分の時間を使い、部長は俺を気遣っていてくれた。

 決して努力しようとしなかった俺に、諦めずに、嫌な顔も見せずに、誠意を持ってぶつかってくれていた。

 もし俺が最初から頑張っていれば、今日、部長は県大会に行けたのかもしれない。

 もちろん、それを確かめる術は無い。結果は変わらなかったのかもしれない。

 それでも俺にとっては、『昔の俺』こそが部長の敗因だった。

 部長の邪魔をした『何か』の成分に、俺の存在は含まれている……。


 翌日には、個人戦のダブルスの部が行われたのだけど、そこでも部長は県大会にいけなかった。  

 それから数日、俺は朝連もせず、久しぶりのゆったりした、それでも何故か寂しい、そんな登校時間を過ごした。

 昼休みも静かだった。名物の反復横飛びが突然消えたのに、クラスメイトたちは、何も言わなかった。

 大川も話しかけてくるのだけど、最初に「君は頑張ったよ」と言ったきり、部活の話はしなかった。 

 そしてある日の放課後。俺と部長は、最後の部活動に参加するため体育館にいる。

 今日は挨拶だけなので、制服のままだ。

 悲しみの欠片も見えない、爽やかな笑顔で、部長は挨拶をした。

「残念な結果になってしまったけど、ここでの思い出は確かな俺の財産です。それを与えてくれた、みんなに感謝の気持ちを述べたいのですが……。残念な事に、この気持ちを表せる程の言葉を知りません。だから、ありきたりな一言ですが。本当にみんなありがとう!」

 そして、部長は、まだフォームが乱れているから素振りを怠らないように、と一年生にアドバイスを送る。

 スマッシュもプッシュも力強いものを持っているからコントロールを磨けよ、と副部長にアドバイスを送る。

 最後に。

 県立体育館を教えてくれてありがとうな、お前のおかげで後悔は微塵もない、と俺に言葉を送る。

 俺に送られた言葉だけは偽者だった。俺は部長を騙すために県立体育館に誘ったんだ。

 どこまで、お人好しなんだよ!

 俺はやっと行動に移せた。

 帰ろうとしている部長を呼び止め、俺が一ヶ月半前まで愛した定位置、つまりはステージ上に、俺は部長を招待した。

 二人で並んで座り、二人っきりになったバドミントン部を眺めながら、俺の想いを伝えた。

「部長は頑張ったんだ。せめて、片思いの相手に想いをぶつけろよ」

 俺は佳代ちゃんを諦める決意を固めた。

 それでも、事の顛末を、佳代ちゃんの選択にゆだねる方法を選んだ。

 まだ、未練があった。

 部長は、爽やかな笑顔を消して、無表情のまま目を瞑る。そして語りだした口調もいつもと違って、重々しいものだった。こんな部長を見るのは初めてだ。

「駄目だ。俺は自分に課した目標を達成できなかった」

 その声には、揺るぎない信念が見える。

 それでも俺は、何が何でも、今日は引き下がらないつもりだ。

「結果が大事なのかよ? 部長自身が、さっき言ったじゃないか。『後悔の微塵もない』って! それじゃ駄目なのかよ!」

 部長は目を(つぶ)ったまま、静かに首を振る。

「駄目だ」

 真面目な部長の事だ。俺だって簡単に事が運ぶとは思っていなかったさ。

 俺は手法を変える事にした。

「俺がこの一ヶ月半頑張った理由は、彼女が出来たからなんだ。その彼女はちょっと天然でさ。俺の事を『努力家で優しくて純粋な男』だと思っているんだよ。だから、俺は変わろうとしたんだ。多分だけどな。俺にも自分の気持ちが良くわからないけどさ」

 部長は口だけで小さく笑いながら、いつもの爽やかな口調で。

「そう言うことだったのか~。どうしても、急に頑張ってくれるようになった理由がわからなかったんだよ。お前らしい理由だな。でも、俺はその『努力家で優しくて純粋な男』は間違いなくお前だと思うぞ。少なくとも、今のお前はそうだ!」

 と言った。俺はこの手法に手ごたえを覚え、それでも焦らずにじっくりと、部長と言う頑固要塞を攻略する。

「その彼女が、部長の好きな人なんだ……。俺は迷ったよ。彼女を手放したくないし、部長も好きだし。何より彼女の好きな『努力家で優しくて純粋な男』は部長だと思う。部長ほど、この言葉にふさわしい人間はいないと思うんだ。だからさ。今日は俺なりに覚悟を決めてきたんだ」

 目を開き、今度は目だけで笑いながら、部長は答えた。

「なんとなく、お前と彼女が付き合っているのは感づいていたよ。ずっと片思いだった人に突然彼氏が出来るんだ。ショックだったぞ~! それでも、俺は諦められなかった。だから、県大会に出場出来たら、と言う条件をつけたんだ。俺自身、行けると思っていなかったから。それでも、俺がその目標を達成できたら、お前に遠慮することなく彼女に気持ちをぶつけるつもりだったんだ」

 その遠慮する相手、つまりは俺が良いって言ってるんだぞ!

「今ぶつけろよ!」

 と俺が言うと、部長は再び目を瞑り、頑固な口調で。

「駄目だ」

 と言う。

 駄目なのは部長の性格だ!

 部長への謝罪の念から始めた事なのに、気がついたら、俺は部長がなんかムカついてきた。

「良いから告白しろ!」

「駄目だ」

 を六回繰り返したところで、我慢の限界だった。俺は力いっぱい床を殴りつける。

 思っていたより、拳が痛かった。

 部長は目を開き、小さく微笑んでいた。

「お前は馬鹿な男だよ」だとよ。

 馬鹿なのは部長だよ! 

 俺は、再び手法を変えることにした。命令して駄目ならお願いしてみろ。押して駄目なら引いてみろだ。

「俺は毎日不安なんだよ。彼女が見ている偽者の俺と、本物の俺を比べてさ。必死にあがいて、それでも不安なんだよ。それは、部長がいるからなんだ。俺のために頼むよ。どんな、結果でもお互いに恨みっこなしだ」

 俺の計算から出た言葉のはずなのに、それは本音でもあるので、自分の発言が自分の心に突き刺さる。

 俺は部長に勝てないのを知っている……。

「お前のためなのか? 本当に、それで良いんだな?」

 部長が折れ始めた。もう一押しだ。

 違った。もう一引きだ。

「あぁ。今日に限らない。部長の努力が実ったのなら俺は諦める。他の奴だったら、譲れないって足掻くけどな。部長は別格だ。特別なんだよ。だから、俺のために頼むよ……」

「そうか……」

 部長はそう言って、瞑想するかのごとく、再び目を閉じ黙り続けた。

 俺も「あぁ」とだけ返した。

 それから、十分後。

 部長は突然立ち上がる。

 薄黒く焼けた肌は、赤みを帯びていた。

 そして、一歩一歩、緊張の重さが乗っているかのような足取りで歩き始める。

 その後姿には言葉に出来ない頼もしさが見える。

 今更、俺が「やっぱり、止めてくれ!」と言っても、彼を止める事は出来ない。もう、彼を止めることが出来る人間は、この世に存在していないだろう。

 そんな、力強さを見せる後姿だった。

 と言うかさ、部長よ。どこ行くんだよ?

 俺に何か言ってくれよ。

 意味がわからん。

 そして部長は、県大会出場を当然の如く決めた女子バレー部の隣まで移動し、大きな声で、練習に割り込むように言った。

「大川さん! あなたがある男性とお付き合いしている事は知っています。それでも、僕はずっと、あなたが好きだした!」

 だってさ。

 部長らしくなく、落ち着かない様子で、両手の指を無意味に絡ませては、解き、再び絡ませている。

 この時、俺は全てを理解した。

 部長がずっと恋していた人物は、黒髪の綺麗な人で、芯が強くて優しい女性で、正に日本女性のような人だ。

 俺には唸る所が多々あるのだが、特に『優しい』の部分を鬼教官の思い出が邪魔するのだけど、大川が世話焼きなのは確かなので優しいとも言えるのかな、と言う俺の軽い混乱はどうでも良くて。

 とりあえず部長にとって、大川はそういう人物なのだ。

 そして最近、俺は大川とよく話すようになった。昼休みに二人っきりの特訓もしたし、朝連参加の時だって仲良さそうに見えたのかもしれない。『大川ミーちゃん事件』の時には部長の前で、「大事な話がある」とか言って呼び出したしな~。

 俺は勘違いをしていた。部長も勘違いした。

 その大川は「ん~ん?」とか気の抜けた返事をする。

「私は彼氏なんていないよ~」

 と言う大川の言葉を聞いて、顔だけを捻って、爽やかじゃない視線で、部長は俺を睨む。 

 きっと部長の中では、俺は嘘つき認定されているんだろう。

 後で説明が必要そうだ。

 そして、大川は恥らう様子も見せていない。

「私も好きだったんだよっ! 羽場君は根性あるもんね! ずっとずっと頑張っていたからね~! 一年生の頃から、うちらの朝連に参加したり。他の頑張っている事だって知っているよっ!」

 部長は、俺の事を忘れて照れていた。モジモジしてモゴモゴして、ろくに言葉が出てこない、その様は爽やかじゃなかった。

 呆気にとられていた女子バレー部員が騒ぎ出し、俺と部長の会話が聞こえていただろうバドミントン部の後輩は俺を見つめてくる。俺は「俺と部長の勘違いだ。俺の彼女は大川じゃない」と教える。

 スゲー恥ずかしい。

 今度は、ロボットダンスのように、ぎこちない動きで身体全体を無意味に動かしている部長に、大川は。

「それじゃ練習があるから。またあとでね」

 と告げて練習に戻っていった。

 右手と右足を同時に出して、左手と左足を同時に出す、そんなアニメみたいな歩き方で、部長はステージまで戻ってきた。

 部長が呆けている間に、『嘘つき!』と責められる前に、事情を説明しとかないと。

「俺の彼女は、別の高校でバドミントンをしている高校一年生なんだ。大川とは別人だよ」

 聞こえているのか、いないのか、部長は「そうか~」と言った。

 その表情は、爽やかじゃない、だらしない、にやけ顔だった。デレデレしていた。

 部長がこっちの世界に戻ってくるのには、二時間の時間が必要だった。そのため、久しぶりに女子バレー部の練習を眺められたのだけど……。この日、珍しい事に、大川はミスを連発していた。


 確かに、部長の努力は、地区予選大会では形にならなかった。

 ムカつく『何か』が部長の努力を認めなかった。

 それでも、大川は部長の努力を認めた。

 俺はそれで良いと思う。

 どんな形になるのかはわからないけど、努力は世界にちゃんと残るんだ。

 十七歳が思うには、幼い発想かもしれない。

 こんな夢みたいな事を言うのは、俺が嫌いなタイプの人間みたいだけど……。

 それでも、そうだと信じたい! 


 さて。俺は自分の状況把握能力に疑問を覚え始めている。『大川ミーちゃん事件』と『部長良かったね事件』を参考にさせてもらうと、鍵少年の正体は想像がつく。

 俺は計画決行のために、必要な準備をする事にした。

 準備と言っても、その殆どが情報収集なのだが、最後の仕上げとして、佳代ちゃんに嘘をついてもらう必要があった。可憐な彼女に嘘をつかせるのは、心苦しかったけど……。

 そして、二週間後の土曜日。

 俺は準備を終えて、鍵少年を罠にかけた。

 朝から一時間毎に、マンションの共有玄関を確認する。俺は鍵少年が待ち伏せするように餌をまいていたんだ。『今日、佳代ちゃんと三回目のデートをする』と。それが、佳代ちゃんについてもらう嘘だった。

 俺たちは今日はデートをしない。

 俺がリビングルームでコーヒーを飲みながらテレビを眺めていると、妹が話しかけてくる。

「あれ? 今日は佳代ちゃんとデートじゃないの?」

 だるそうな妹はパジャマだった。

「あ~。俺が風邪引いちゃってさ。今日は止めたんだ」

 と俺が答えると。

「な~んだ。それなら、佳代ちゃんと遊びたかったな。今から電話するのも……。あの娘、家を出る準備に凄く時間かかるのよね。もっと早く言ってよ。馬鹿兄貴」

 とこれまた気だるそうに言うのは良いのだけど、嘘とは言え『風邪を引いている兄貴』を心配する様子を見せないのは、どうなんだ? 

「悪いな」

 俺はとりあえず謝った。今日は妹を怒らすつもりは無い。

「別に、どうでも良いけど」

 と言う妹を見て、誰に似たのか無気力な妹を見て、俺は彼女の将来が心配になった。いや、残念ながら今はそれ所ではない。

 鍵少年が現れたのは、十一時だった。

 俺は直ぐに外に、マンションの外門に行く。

 鍵少年は、マンションの中から俺が出てきた事に驚いていたが、気を落ち着かせて、俺を睨みつけてくる。

 それでも、俺の心は余裕たっぷりだ。なにせ、今日の俺は、対鍵少年兵器を沢山持っているからな!

 相変わらず、話しかけずに睨みつけるだけの鍵少年に、俺の方から声をかけた。

「や! こんにちは」

「てめぇ! なんで、家にいる? デートはどうした?」

 とこれまた、悪意に満ちた返答を貰った。

 俺はなんかムカついたので、瞬時にプラン変更! 意地悪な方法を選んだ。

「お前の気持ちはわかっている」

 と俺が言うと、鍵少年は面白いほど動揺していた。

「ななな。な、なん。な! なんで」

 と『な』を七回言っていた。

 俺はさらに鍵少年を罠にはめる!

「だから……。お前には負けたよ。俺は佳代ちゃんと別れる」

 もちろんそんな訳は無い。佳代ちゃんがずっと俺を選んでくれるかは置いといてだ。部長以外の人間に佳代ちゃんを渡すものか。

 でも、鍵少年は頭をかきむしりながら、頭を振り回している。パンクバンドのコンサートみたいだった。

「幸せにしてくれよ」

 と俺が言うと。

「ち、ちが。ち、ち、ちがう! ちが!」

 と出血して無いのに、騒いでいた。

 ここまでは、ちょっと計画と違うけど、良かったんだ。

 問題はこの後だ。

 顔を真っ赤にしながら、叫ぶように鍵少年が言った台詞。

「俺が。俺が好きなのはあんたの妹だ! 佳代ちゃんと遊べない日には確実に家にいると思ったから、告白したくて、家に来たんだよ! あんたに佳代ちゃんの事を聞いたのは、将来のお兄様に挨拶しようと思っただけなんだ。でも、上手く話せなくて……」

 多少引っかかる所はあるのだけど、これは良い。(むし)ろ計画通りなんだ。

 本当は、妹の趣味とか誕生日とか教えながら、動揺を誘うつもりで、そのための情報収集だったんだ。

 そして、最後にこの台詞を鍵少年に言わせて、俺は恋のキューピッドになるつもりだった。この『妹丸秘データ』を記したノートを渡して、色んな作戦を伝授しようとしていた。

 それは、どうでも良い事で。

 大事なのは、鍵少年の直ぐ後ろに、妹がいる事なんだ。

 妹が手に持ってるレンタルDVDの袋を見るに、彼女が何故外に出てきたのは、返却するためだろうな、なんて俺の予想は正にどうでも良い事で。

 ローテンション蛇頭女がタイミング良すぎるって事は、結構大事な事なんだけど。

 もっと、大事なのは、妹が言った台詞だった。

「別にいいよ。私、彼氏いないし」

 情緒のかけらも無い、冷めた言い方だった。

 それを聞いた鍵少年が嬉しそうに、上半身だけが妹のほうへ移動しようとして、転びそうになりながら。

「ほ、本当か?」

 そして、妹は『どうでも良い』って声が聞こえてきそうな、欠伸を一つしてから。

「うん。別に、付き合ったら直ぐキスとかするわけじゃないでしょ? だから、柿沼(かきぬま)君がタイプじゃなかったら、お別れすれば良いし」だって。

 冷たい。俺はこんな女は絶対嫌だ。

 でも、俺が仕入れた情報、と言うか妹本人から聞いた情報では、妹のタイプは『兄貴に似て無い人』で、俺も『妹みたいな女は嫌だ』と思っているので、全然似て無い俺たちも、ある意味では似た者兄弟なのかも。と言う俺の思考もどうでも良くて。

 鍵少年が嬉しそうに目を輝かして、何故か俺の手を握り。

「お兄さん。よろしくな! 佳代ちゃんと別れるなよ!」

 とか言うんだけど、まだお前の兄にはなって無いとか、何でため口? とか、佳代ちゃんの事を苗字で呼べよとか、色々思うことはあるのだけど、鍵少年に一番言いたいのは『こんな女で本当に良いの?』って事なんだ。

 鍵少年が妹の手を繋ごうとする。妹はダルそうに鍵少年の手を叩く。

 そんな感じで、二人はレンタルDVDを返し行った。哀れ鍵少年。その後姿を見ながら二人の関係は長く続かないだろう、と俺は思った。

 俺は『ローテンション』と『クール女』の因果関係について考えながら、佳代ちゃんにメールで結果を報告した。

 やっぱり、佳代ちゃんの返事は『あなたらしいですね。人の幸せのために動けるなんて!』と勘違いしているものだった。

 それでも、俺は否定する気はなかった。

 部長と言う強敵すぎるライバルの不安もなくなったし、俺自身、自分の変化を感じ取っていた。今日も、妹と鍵少年を見送る時、なんか嬉しかったし、佳代ちゃんのメールも勘違いじゃないのかもしれない、とさえ思っていた。

 問題なのは、俺は鍵少年に『丸秘妹データー』を書き記したノートを渡しそびれたんだ。

 二人は直ぐに帰ってくるだろうと、マンションの外門で待っているのだけど、あいつら全然帰ってこないのな。

 一時間待って、諦めて家に戻り、すっかり忘れた頃に、妹が帰ってきた。

 時刻は二十二時ジャスト。

「別にどうでも良いけど、兄貴、風邪は大丈夫なの?」

 そう言った、妹の表情は、どうでも良くなさそうな笑顔だった。ローテンション女の明るい笑顔を見たのは、佳代ちゃんが俺に告白した時以来だ。

 俺の予想を裏切って、鍵少年と妹は相性が良いらしい。


 二人っきりになったバドミントン部は気づけば、七人に増えていた。思わぬ所で、俺の昼休みの特訓は役立ったみたいだ。

 何故、俺たちが引退した後に人数が増えたかと言うと、噂から推測するに、下級生が『エロイ目つきのサボり魔変人』を避けているのは確かみたいだった……。

 とにかく、変な事がキッカケではあるけれど、バドミントンは俺の高校で小さなブームとなっていた。

 部長が、この時になって、初めて教えてくれたのだけど……。

 バドミントン部は、人数不足で廃部の危機だったらしい。

「お前のおかげで、バドミントン部は救われたな!」とか勘違いした発言をしていた。

 進学しない部長は、地方公務員になるために勉強をしている。バドミントンに捧げていた時間の多くを勉強に費やして、残りの少しの時間を、やっぱりバドミントン部への練習に参加している。少しは遊べよな。

 大川は危なげなく、全国大会に駒を進めていた。更には、大学に進学する事が決まったらしい。

 県大会の活躍で、既に、地元大学からスポーツ推薦の話が来たみたいだ。

 俺は何を目指すかも解らないまま、とりあえず受験勉強をしている。

 そして、佳代ちゃんとは、三回目と四回目のデートを経て、俺は殆ど罪悪感を感じない関係になっていった。

 俺は確かに変わっているはずだから……。

 まだまだ、佳代ちゃんの理想とは程遠いにしてもだ。

 問題なのは、俺と佳代ちゃんは、初デートでキスまでする関係になったはずなのに、それ以降のデートは清すぎる男女交際だった。切ない。

 でも、かなりの頻度で、逆プロポーズはされている。


 こんな感じで、俺の一学期は終わった。

 まぁ、ここまでは良かった。

 俺自身も、戸惑いながらも、変化する環境と自分に満足していた。

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