一章 努力家で優しくて純粋な俺?
学生と言う身分においてメインイベントであるはずの授業と言うのは、実はオマケに過ぎなくて、休憩時間に友達と過ごす時間や、部活動の時間、あるいは学校外でぶらぶらとアミューズメント施設で時間を潰したり、バイトに精を出す時間こそがメインなのだろう。
少なくとも俺はそうだ。
そんな俺が、今は何をしているかというと、体育館のステージの上であぐらをかき、自分の足を台に頬杖をつき、女子バレー部の練習を眺めている。
どうもこれじゃ気に入らないらしい、スポーツマンらしいスポーツ刈りの彼に追加の説明をする事にしよう。
俺の所属はバドミントン部なのだが、この学校のバドミントン部は女子がいない。どちらかと言うと女子のスポーツってイメージが強いのに、この学校の七不思議の一つに数えても良いよな。
バドミントン部に女子がいないのなら、女子バレー部を見るしかあるまい。
と言う事で、俺は女子バレー部を眺めている。
それでも、理解できない筋肉質な彼に、説明を続けなくてはいけないらしい。
俺たちは月曜日と金曜日の放課後、それと日曜日の午前に、半分だけど体育館を使える。他の平日は、廊下で素振りやフットワーク練習、体力トレーニングをしているんだ。
そして、俺たちが体育館を使用できる日と言うのは、女子バレー部が体育館を使う日でもある。
正確に言えば、全国大会常連の優秀な女子バレー部は、毎日体育館を使えるのだけど、それはどうでも良い情報だ。
大事なのは、そんな理由から、俺は女子バレー部を眺めているという事だ。
ここまで説明しても、薄黒く日焼けしている彼は理解できないらしい。そもそも、バドミントンは室内スポーツのはずなのに、日焼けしているのは不自然だ、なんて俺のツッコミはどうでも良い。彼に追加の説明をしなければいけなさそうだ。
俺が何で部活をやっているかと言うと、内申書のためである。ついでに言うと筋トレのモチベーションを上げるためだ。やっぱり男の子はムキムキなマッチョに変わっていく自分が好きなのさ。とは言え、一人で筋トレのモチベーションを維持するのは難しい。
そう言う訳で、全く持って、俺はバドミントンと言う競技には興味が無い。
それでは何故、この部活を選んだかと言うと弱小だからだ。やる気の無い俺に文句を言いつつ、受け入れてくれる。
そんな理由から、俺は女子バレー部を眺める事にしているんだ。わかったかな?
「高校最後の大会ぐらい、出ようぜ?」
彼は高すぎず低すぎない心地よい声で言う。
毎度、何度も、説明しても理解してくれないバドミントン部部長、つまりは羽場 健太は、まだ諦められないらしい。
根性あるよな。
ただ残念な事に、身長は小さめだけど……。
ちなみに俺の身長は百八十五をちょっと超えているので、身長だけは部長に勝つことが出来る。
身体的特徴しか勝てないのは、情けない事だ。俺の努力が絡んでいない。俺が駄目人間なのは、わかりきっているので、そんな事はどうでも良い。
俺は部長に説明を続ける事にしよう。
だから、バドミントン部の団体戦には五人のメンバーが必要だ。バドミントン部には四人のメンバーしかいないだろう?
どっちにしろ、団体戦は出場できない。
俺が頑張る必要も無い。個人戦に出る気も無い。
だから、俺は女の子を眺めていたいの! 高校生にとって、こう言う癒しの時間はスゲー大事なの!
「わかったよ。それでも、俺は待ってるからな!」
部長は最後に一言だけ残して、スポーツマンらしい爽やかな笑顔も残して、練習に戻っていった。卒業していった元先輩たちや、顧問の教師も諦めたと言うのに、偉い奴だ。
そんな彼の気持ちに応えない俺は、優しいはずもない。
佳代ちゃんは、努力家で優しくて純粋な男に恋をしている。それなのに、俺と付き合うことになった。
見えない黒い渦が、胃の辺りで暴れている。なんか落ち着かない。
……たまには、練習しようかな。
と俺らしくないことを思った時、アタック練習の列に並ぶ、女子バレー部員と目が合った。
バレー部員と言えば、ショートカットだろ? 少なくとも、俺の学校では全員ショートカットなんだ。
そして、佳代ちゃんより少し背の高い彼女は、大きな猫目をしている。ちょっと可愛いかもしれない。しかも、巨乳だ。
大川 里。俺のクラスメイトだ。
大川は右目下に右人差し指を置き、口を大きく開けて舌を出していた。つまりは『あっかんべー』だ。
俺の記憶に、あっかんべーをする人間というのは、大川を除いて他にいない。
そんな彼女はやっぱり天然だ。どこかおかしい人間だ。はっきり言えば馬鹿だ。
だけど、真面目な奴でもある。
俺の反応を待つことなく、真剣な表情に戻り、アタックの練習に戻っていった。それはどうでも良い事だ。
結局俺は、部活の練習に参加することにした。
ステージから飛び降り、体育館倉庫から備品のラケットを持ってくる。
そして。
「なぁ。この握り方でいいのか?」
と素振りしながら先輩の練習を眺めている、一年生に聞いてみた。
「えっと、先輩は初心者ですよね? それは、僕もですけど……。多分、初心者は『イースタングリップ』と言う握り方が良いかもしれません。基本らしいですよ。ラケットを縦にして握ってください。ラケットの側面が刃、そんな剣を握るイメージかな。それが、イースタングリップです」
「こんな感じ?」
「フレームじゃなくて、グリップ部分を握ってくださいよ!」
初心者だからと、小回りが利くように、短くラケットを握ったら怒られてしまった。
更に「バドミンブレード! ジャキーン!」と言ったら、もっと怒られた。
それでも、一年生はラケットの握り方だけではなく、熱心に素振りのフォームまで教えてくれる。
それに気づいた、部長が嬉しそうに俺を見ていた。
副部長のスマッシュを失敗することなく拾い続ける部長は、横目で俺を見てくるのだけど、ニヤニヤしている様も爽やかなのは、少しムカつく。
その部長は片付けの時間、爽やかなスポーツマンとは思えない、腹黒さを見せた。
「練習してくれたんだな! 嬉しいよ。実は、来月の高体連の地区予選にさ、お前の名前も登録してたんだ」
と言いながら、嬉しそうに笑いながら、コートから鉄柱を抜いている。
おいおい。
「俺は大会に出るとは言って無いぞ?」
「考えてみろよ? 登録しないのと、登録したのに試合に出ないのでは、内申書的に違いは無いのか?」
部長は軽い脅迫じみた事を言ってくる。
多分、部活に所属さえしていれば『部活動を三年間頑張ってました』なんて書いてもらえると思うのだけど、残念ながら、俺は内申書の全貌を知らない。
「部長さん。お前は将来は出世するタイプだよ。良い意味でも、悪い意味でもな」
俺は嫌味を言いつつ、どうやって大会をサボるか考えていた。
教師にとっても生徒が進路未定で卒業する状況は望まないはずだ、と思う事にした。
だから、内申書の事なんて心配する必要も無い。大会だって頑張る必要も無い。
それでもやっぱり、部長はスポーツマンらしい笑顔で。
「信じているからな」
そう言いながら、コートネットを、熟練の職人技のような見とれる技術で畳んでいた。その様は見事としか言いようが無い。
部長の職人技を見ながら思った。
部長は今年も地区予選の四回戦ぐらいで負けて、県大会には出られないだろう。それでも努力と言うやつは、ちゃんと形になって世界に残るのかもな。
窓から差し込むオレンジ色の光はどこか青春なんてイメージで、それに照らされるバドミントン部員たちもなんか青春高校生って感じで、俺たちと入れ替わりに体育館を使うバスケット部員たちもフレッシュな若者って感じがして、まだ練習を続けるらしい女子バレー部員も何となく輝かしくて、俺だけは仲間ハズレだった。
今日俺が女子を見て心を癒す大切な時間を、練習に費やしてしまったのは、明らかに佳代ちゃんが原因だ。
俺の彼女が誰よりも可愛いからなのか、偽者の俺に恋をした彼女への罪悪感からなのか、俺は偽者になろうと思ってしまったのか、それは俺にもわからない。
それでも、佳代ちゃんが原因なのだけは間違いない。
そんな思考は、反復するばかりループするばかりで、あまり広がることなく、結局解決には至らなかった。
学校を出て少し歩き、バスを一つ電車を一つ使い、十五分ほど歩く事で、自宅マンションに到着した。
周りの建物の高さと比べて、二十階建てのマンションは大きい。
引っ越してきたばかりの頃、つまりは五年前には『こんな四角い狭い建物に、二百ほどの生活があるんだ』と思うと、ちょっとした詩人になれた気がしたのだけど。それはどうでも良い事で。
大事なのは『なんか見たことの無い男が困っている』と言う事なんだ。
マンション敷地の境界を知らせる外門前では、中学生が困っていた。いや、彼が来ている制服は妹の学校のだな。それならば、高校生か。
彼は前へ六歩ぐらい歩き、振り返り、また六歩ぐらい歩く。そして顔は、X軸にもY軸にも忙しくなく動いている。
つまりは、挙動不審だった。
細いシルエットは、少し猫背で長身だった。真面目そうな坊ちゃんヘアーにメガネをしている。
そんな彼は、大人しそうで弱々しくて、それでも勉強は出来るのだろうな。
なんて、見た目だけで彼の性格を想像してみる。そして何故に彼が、挙動不審なのかも想像してみるのだけど……。
どうして人間って生き物は、見た目だけで、ここまで様々な情報を推測するのだろうか? なんて事はどうでも良い事で。
彼は鍵を忘れて、共有玄関のオートロックから先に進めないのだろうな、と言う俺の想像はちょっと大事な事で。
重要なのは『なんか、俺、彼に、めちゃくちゃ睨まれてるんですけど~』と言う事である。
訳がわからない。
人間って奴は理解できない状況に対して、納得できる理由を想像する生き物であり、俺も人間であると思われるので、なんとか理由を探すのだけど、そんな俺が出した答えは『鍵を忘れてマンションに入れないよ~。せめて部屋の前で家族を待てたら気が楽なのに……。困ったな~。あ! やっと同じマンションの住人が登場したけど……、同年代だから声かけるの恥ずかしいよ~。頑張れ俺!』と言う彼の心の声だった。
内向的な外見の彼は、やっぱり照れ屋なのだろう。そして、俺に声をかけようとするのだが、緊張で目つきが悪くなっているんだ。
俺は彼の存在に気がつかないフリをして、心の中で力一杯『共有玄関なら開けてやるぞ~、声かけろ~、頑張れ~』なんて応援して、玄関ロビーを通り過ぎ、エレベーターに乗り込んだ。
彼は俺を睨むだけだった。
ちょっとだけ、悪い事をした気分になるのだが、反省する暇も無いんだ。俺には重大な任務がある。
夕食を食べながら、第七十三回佳代ちゃんに送る初メールについての脳内会議を開く。
「どんな、メールを送ろうか?」
「やっぱり、正直に言わないと……」
「いやいや、佳代ちゃんは勝手に勘違いをしたんだ。俺たちは肯定も否定もしていない。それで良いじゃないか」
「駄目だよ! あんな、素敵な女性を騙すなんて。彼女の勘違いに気がついているのに、知らないフリをするのは騙しているのと同じだ!」
「じゃあ、今からでも断る?」
「それだけは、絶対に駄目だ!」
「じゃあ、彼女の理想に近づくよう頑張る?」
「それは、不可能だ!」
こんな感じ。
結局、脳内会議は何の結論も出す事はなかった。
夕食を食べ終わり部屋に戻る途中、妹に「どうでも良いけど、昨日佳代ちゃんにメールしなかったでしょ」と怒られたので、テレパシーで佳代ちゃんに謝罪文を送りつつ、もう少しだけ悩む事にした。
部屋に戻り、携帯電話を取り出して、一時間悩んで、ジュースを飲んで一息し、もう一時間悩んで、やっと佳代ちゃんにメール出来た。
初めて彼女へ送るメール。
それは結局、嘘だった。
『俺の努力が認められたんだ。ついに試合に出られるよ』と言う偽りのメール。
佳代ちゃんの返信は、俺の予想通りにゆったりしていて、三十分更新で送られてくる。
流石に時間掛かりすぎだよ。
俺は生殺し状態で、長い待ち時間を過ごし、いつのまにか、鍵を忘れて困っていた男子中学生を救ったと言う嘘もついた。彼は高校生だったか。それは、どうでも良い事だ。
俺は昨日の『佳代ちゃんの告白』を否定しなかった事に重ねて、今日も嘘をついてしまった。
どうしよう。
気がつけば、寝る直前には、『土曜日の体育館デート』まで話は膨らんでいた。俺の練習に付き合ってくれるらしい。
そうだった。佳代ちゃんは中学生の時、バドミントン部だったと聞いた事がある。メールから得た情報だと、高校でもバドミントン部らしい。
俺は中学生時代は卓球部で、今と変わらず、サボりながら三年間を過ごした訳だけど、それはどうでも良い事で。
本当にどうしよう。
俺は抑えきれない不安な気持ちから、ベッドに広がるマットの海に、叫び声を上げながらダイビングした。
数分後、下の階の住人が怒りの表情で訪ねてきたのは、申し訳ない事実だ。
それから木曜日まで、俺は部活で素振りを頑張ってしまった。
金曜日、つまりは体育館を使える日には、部長にサーブを教えてもらった。突然練習をする俺に、事情を深く聞くことなく、部長は丁寧に教えてくれる。
俺のサーブは半分ぐらいの確率で、フォルトにならない程度には上達していた。ちなみに『サービスコートと言う、規定エリアにサーブを打ち込まないといけない』と言う基本ルールを理解したのもこの時だった。
それは、あまり役に立たなさそうな事実だ。
昼休みには「君さ~、最近練習しているよねっ! 感心感心っ!」と猫目の女子バレー部員の大川に褒めてもらった事や。
部活の時間には「本当、お前が頑張ってくれると部活の空気が変わるよ! 助かるよ!」と部長に褒めてもらった事は嬉しい事実なのだけど。
いや、それよりさ、どうしよう。
明日は佳代ちゃんとの体育館デートだ。
その夜、三十分毎に送られてくる佳代ちゃんからのメールには、『やっぱり、努力家ですね。あなたらしいですよ』なんて文が必ず入っていた。
翌日。初デートの日。雲ひとつだけある気持ちの良い晴れ。俺の心は今にも雨が降りそうな曇り。
どうしよう。絶体絶命のピンチだ。
佳代ちゃんとの待ち合わせ場所、それは体育館前だった。
県立体育館は、体育館らしい四角い建物だけど、学校のそれより四倍ほど大きく、高さも六階建てぐらいある四階建てだった。大きい部類の体育館だと思う。
四角い単調な構造とは裏腹に、モダン的な雰囲気の外壁は新築を連想させ、やっぱり去年に建て直したばかりの体育館だった。
立派な体育館を持つ、うちの県は儲かっているのかな。それなら、知事は悪い人なんだろうな。
なんて俺の想像は、どうでも良い事だ。
体育館の入り口から、少し離れた駐輪場に自転車を止め、腕時計を見ると、約束の九時より三十分早かった。
それでも、俺が体育館に到着した時には、予想を大きく裏切り、既に佳代ちゃんは待っていた。
『スローテンポ』と『遅刻』には因果関係が無いらしい。それでも『大和撫子』と『慎み深く真面目な性格』には因果関係があるらしい。
待たせてしまって、ゴメンなさい。
白が基調の春らしいワンピースは洋服なのだけど、それを着こなす佳代ちゃんは、やっぱり大和撫子だった。
大きなドラムバッグを地面に置いて、壁に寄りかかり、何か幸せな想像をしているに違いない面持ちで空を眺める佳代ちゃんに、俺は声をかける。
「佳代ちゃん。ゴメンね。待たせちゃったでしょ」
俺に気づいた佳代ちゃんの顔には笑顔が宿る。美しいです。可愛いです。顔が熱いです。
「おはようございます。待ってなんかいませんよ。私も五分ほど前に来たところです」
佳代ちゃんは『待ってない』なんて言うけど、それは嘘だ。
何故なら、俺は駐輪場から十五分間も、佳代ちゃんに見とれてしまった訳なのだから。
俺の胸が痛んでいる事を知らない佳代ちゃんは。
「さぁ、あなた。まだ運動場には入れないけど、受付は開始していますよ。行きましょう!」
と俺の手を握る。
俺の心臓は最速設定のメトロノームの如く忙しなく動いている。でも、今に限って言えば、嘘がばれる不安ではなく、手を握られた喜びで混乱しているらしい。
俺は受付のおじさんに高校生二人分の入場券をもらう。中学生までは無料なのに、高校生になると三百円かかるのは、ちょっと不満だ。
清く若いスポーツマンを応援しても良いのに、と思うのだけど、俺はそんな高尚な存在とは違うので文句は言えないか。
俺は千円札をおじさんに渡し、佳代ちゃんが俺に三百円を渡す。
「駄目だよ。今日は俺の練習に付き合ってもらうんだから。それに、年上で男の俺がデート代ぐらい出すって」
しかし、佳代ちゃんはゆっくり頑固に否定した。
「いいえ。今は男女平等の時代なんですよ。それに、奢って頂くのは、あなたと結婚してからと決めていますから」
口を尖らせ、睨むような目つきで見てくる、佳代ちゃんも可愛かった。
それよりも、俺はプロポーズらしき発言に、戸惑い、混乱し、慌てふためき、「え、えっとね」としか言えずに三百円を受け取ってしまった。
落ち着け。
佳代ちゃんは、落ち着く訳も無い俺の手を引っ張り、休憩室のベンチまで移動し、「着替えてきますね」と言って女子更衣室に消えていった。
変えのTシャツしか持って来なかった俺は、GパンにTシャツで運動する事になる。どこか、真面目な態度が足りないよな。
彼女は気づいていないのだろうか?
俺は気を落ち着かせるために、即席イメージトレーニングをしながら、休憩室を眺める。
新築でモダンな雰囲気の体育館の中身も、やっぱり近代的だった。
目の前には、バランスボールの上下を切り取ったような木の台の上に、バランス悪く、大きな板が載せられた机がある。それを取り囲む四つのベンチは、本当に取り囲むように緩いカーブを描いていた。
そのベンチは様々な年代の人が使うだろうと考慮してか、高さこそ低く設定してあるが、背もたれもなく、一センチ幅の細い木の棒でしましま模様を作っているため、座り心地は余り良くない。と言うか非常に疲れる作りだった。
真上を見上げれば、四階まで続く高い天井があり、その天井には大きな天窓が設置されている。プラネタリウムでも作る計画でもあったのだろうか? そして、この体育館の一階と三階の高さは通常の建物の二倍程あるので、天窓までは六階分の高さがあるのだろう。
その天井までの空間には、渡り廊下で作られた三階分のバツ印が存在している。
受付から見て、運動場と対面している壁には、更衣室やらトイレやらが設置されており、階段もこちら側の壁際に設置されている。その階段がまた、螺旋階段でオシャレだった。
空間を非効率に使うこの施設、使いにくい調度品の数々。それらは、お金が掛かっている証拠にも思えた。こりゃ~、絶対、うちの県知事は極悪人だな。
ふ~。人って生き物は、現実逃避の瞬間、必要の無い情報を必要以上に取り入れる生き物だよな。体育館の構造なんて分析している場合じゃない。知事がどんな人間かだって重要じゃない。
俺はアンバランスな机に肘を付き、手の平で両目に届く光を遮断して、即席イメージトレーニングに集中する事にした。
そして……。
少しずつ休憩室にも人が増え、俺は受付のおじさんにラケットを借りるのを忘れた事に気がつき、慌ててレンタル手続きをしに受付に向かう。
実は図々しい受付のおっちゃんに「可愛い彼女だね」なんて有難いお言葉も頂いて、暫く休憩室で待っていると、館内放送で『九時になったから運動場を使ってもいいよ』と言うお知らせが流れた。
さらに、十五分ほど休憩室のベンチで待っていると、佳代ちゃんが戻ってきた。
佳代ちゃんが初めて俺に見せる、装飾品付きの髪はポニーテールだった。前髪も後ろに束ねられており、額も耳も見せる佳代ちゃんは新鮮で可愛かった。
俺の鼓動は、やっぱり忙しなく動いている。
見とれている俺に気づかない佳代ちゃんは、またも俺の手を握り、ゆっくり引っ張りながら、三階にある運動場へと入場した。
運動場の入り口はスライド式ドアで、取っ手は床から天井まで届く親切設計だったのだけど、大きい建物の割りに小さいドアは不親切だった。俺は壁にぶつかりそうになる。
三階の運動場は、卓球とバドミントン専用らしい。
八面あるバドミントンコートは二面の空きがあり、二五台ある卓球台周辺には四組の待機者がいる。バドミントンってマイナーなのかな。そんな俺の感想はどうでも良くて。
ついにこの時が来たのか……。
俺は最後の足掻きで、五回の即席イメージトレーニングをして、サーブを打つ。
「佳代ちゃん。いくよ~!」
「はい!」
真剣な表情と声で、構えている佳代ちゃんも美しい。
俺のサーブは、なんとか、彼女のコートに入った。
佳代ちゃんはシャトル、つまりは他の球技で言うボールを、大きく高く打ち上げてくれる。一番打ち返しやすい軌道だ。
そして、俺は初球から空振りした。
「ドンマイですよ! あなた!」
佳代ちゃんは励ましてくれる。佳代ちゃんの笑顔は、食べるものに困っていてもお地蔵さんに傘をあげる優しさを忘れない、老夫婦の笑顔と同じに違いない。無限大の優しさがあるに違いない。
この日、佳代ちゃんは、高くて大きい軌道の返球ばかりだった。
それでも、俺たちのラリーは四回ほどで終了する。殆どの理由は俺が空振りするからで、さらに時々、俺の打ち返したシャトルがネットに衝突するためだ。
……もう、嘘はバレタよな。
俺は十五回目の、ネットに打ち落とされたシャトルを拾う際、佳代ちゃんに声をかける。
「ゴメン。ビックリしたでしょ?」
佳代ちゃんも、小走りでネットに近づき。
「えぇ」
とだけ応える。彼女は俯いていて、表情は確認できない。
「これじゃ、ずっと補欠にもなれないはずだよね」
「そうですね」
彼女は怒っているのだろうか。落ち込んでいるのだろうか。
短い言葉しか返してくれない。
俺は、佳代ちゃんの綺麗な頭に言葉を投げかける。
「もちろん、怒っているよね? ゴメンね」
「あなたは、そう思うのですか?」
怒っている女性の「ちゃんと、わかっているの?」なんて台詞は有名な常套句で、怒りのメーターが限界まで振り切っている事を示している、と俺は思う。
それもそうだ。
俺は純粋で優しい彼女を騙していた。
「うん。思っているよ。これから、佳代ちゃんに何をされても怒らない。怒れるはずも無い。本当に反省しているんだ」
だから、殴って良いよって事か?
男の別れ台詞としては、反省の色が見えないよな。
だけど、俺に思いつくのは、こんなにもみっとも無い謝罪だけだ。
「私は怒って無いつもりです。それでも、本当に? 本当に何をしてもいいのですね?」
佳代ちゃんの声は微かに震えていた。
そうか……。優しい佳代ちゃんにとって、激しい憎悪と言うのは初めての感情なのかもしれない。
その感情が怒りと言うものだよ。俺のせいで辛い思いをさせてゴメンね。
俺も覚悟を決めなくてはいけない。
「あぁ。平手なんて甘い事考えなくていいよ。肘でも膝でも使ってさ。本当に気が済むまで良いよ」
多分こんな助言しないと、優しい佳代ちゃんは、平手一発で満足し、家に帰り、和室の部屋には不釣合いながらも可愛く溶け込んでいる、ピンクの枕カバーやお気に入りのテディベアを涙で濡らすだろう。
いや、俺は佳代ちゃんの部屋を見たことが無いのだけど、そうに違いない。
俺に出来る事は小さな事だけ。みっとも無い方法だけだった。それでも、彼女が少しでも満足する形で、体育館を出て欲しかった。
人の想いにもエネルギーがあるとするならば、運動エネルギーに転換する事で、佳代ちゃんの底なしの絶望に、底を与える事ぐらいは、無力で卑怯な俺にも出来るかもしれない……。
佳代ちゃんは下を見たまま、ネットを挟んで立っている俺たちには距離があるのに、俺の耳に届くような深呼吸をした。
そして、ゆっくりとネットの下をくぐり、俺の目の前に立つ。その動き一つ一つには、弓道の作法のような力強い美しさが見えた。覚悟が見えた。
まだ俺に顔を見せてくれない。
俺もこれから訪れる痛みに耐えるため、深く息を吸い込む。
佳代ちゃんが何とか出した言葉は、怒りに震えた声だった。
「目を瞑ってください」
優しい佳代ちゃんが俺の薄汚い提案に乗るための覚悟、それは彼女にとって告白の時と同様に大きい覚悟であろう。
俺は痛みに耐えるため目を瞑る。
視界が闇に包まれると、今まで見えなかったものが見えてくるものだ。
人を殴るなんて事は、佳代ちゃんにとって初体験に違いない。
俺はなんて酷な事をさせているんだ。
なんで、他の方法が思いつかなかったんだよ。
俺は馬鹿だ。
「少し、膝を曲げてください。顔に届きません」
その佳代ちゃんの言葉は、声からも決意が見えるものだった。俺は佳代ちゃんの言葉に従う。
佳代ちゃん。ゴメンね。
そして。
俺の身体全体が柔らかい感触を認識し、俺の口が温かく湿った感触を認識し、驚いた俺の目は情報を取得するため開かれた。
佳代ちゃんは俺を抱擁し、口付けを交し、顔は強張っていて赤く染まっていた。
彼女の目は閉じられている。
情報を理解できてない俺の頭は、嘘をつくことだけは思いつくことが出来て、再び目を瞑る。
良くわからないけど、それでも、この幸せだけは噛み締めようと思った。
多分、これが最後なのだから……。
約一分後、十二時を知らせるチャイムと、『運動場整備のため休憩室に移動しろ』と言うアナウンスのせいで、幸せな時間は終わった。
「もういいですよ。目を開けてください」
佳代ちゃんの言葉を聞き取り、俺が再び目を開けると、なんか静かだなと思ったら、周りの連中は俺たちを凝視しているし。
卓球していたおばあちゃんも、家族連れの四人ファミリーも、みんな俺たちを見ている。
まだ顔を見せてくれない佳代ちゃんは、無言で俺の手を取り、強引にゆっくりと、休憩室まで引っ張っていく。俺の肘がドアにぶつかる。
三階の休憩室は、一階から天窓まで続く真ん中の空間を囲むように、S字カーブのベンチがいくつも設置されていた。やっぱり、座り心地は悪かった。
俺たちは空いているベンチに座る。
佳代ちゃんは俺の手を離し、膝の上で指を組んでいた。背筋は真直ぐに伸ばされているものも、顔は下を向いたままだ。
だけど、先ほどとは違い、横から見ると少しだけ顔を見ることが出来る。
佳代ちゃんの顔は、どこにも地の色を残していない桜色だった。その表情は戦へ行った夫の帰りを待つ、戦国武将の妻のものと同じに思える。揺ぎ無い力強い信念の裏に、隠された不安が見えるものだった。
それから、館内放送で運動場の使用許可が下り、さらに二十分経っても、俺たちは無言のままベンチに座っている。
佳代ちゃんは俯いたままだ。
あまりに不可解な現状を、俺の頭はなんとか理論付けた。
佳代ちゃんにとって愛すべき人物はこの世界に存在していなくて、それでも目の前にいる俺は存在している。
俺は偽者だった事を知るのだけど、やっぱり目の前の俺は、佳代ちゃんから見ると理想の人物にしか見えない。
佳代ちゃんの頭は想像を絶するパニック状態に陥ったのだろう。
そのショックは、優しい佳代ちゃんには、怒りに変換される事なく、悲しみだけが心を支配してしまう。
純粋な彼女は、偽者の関係を終わらせるのに、偽者の幸せな思い出で幕を閉じようとしたんだ。
俺はこんなにも純粋で可憐で優しい彼女を、深く傷付けた。
純白な半紙のような綺麗な佳代ちゃんの心を、自分本位の気持ちから、どす黒いスプレー缶で無造作に汚しまくったんだ。墨すら使わなかった。
俺は卑怯な人間だ。
そして、長い時間、言葉を発する事が出来なくなる程に佳代ちゃんを傷付けた。それでも優しい彼女は俺を恨むことなく、気丈にも自らの心の中で解決しようとしているんだ。
俺は、なんて馬鹿な男なんだ!
俺が妹の部屋で告白された時、断れば良かったんだよ。
そうすれば、少なくても、これ程までに彼女を傷付ける事はなかった。
それから、さらに十分が経った。
休憩室に移動してから、沈黙のまま座り続けて三十分後の事だ。
ついに佳代ちゃんが口を開いた。
「あなたは、補欠になれなかっただけじゃないですよね?」
その通りだ。
努力家な俺、だけが嘘じゃない。
優しくも無いし純粋でもない。
「うん。……黙っていて、ゴメンね」
「私こそ、気づかなくてゴメンなさい。人から聞いたお話だけで想像してしまったのです……」
「違うよ。告白してもらった時、ちゃんと言えなかった俺が悪い」
「違います!」
そう言って、彼女はやっと俺に顔を見せてくれた。
とても真剣な表情で、目には涙がたまっている。
やっぱり、優しい佳代ちゃんの表情には、憎しみの色は見えなかった。
そして……。
「あなたは、補欠になれないだけじゃない。努力が上手く実らない状態で頑張っていたんですね」
ん~?
「それなのに、毎日部活を休むことなく頑張っていたんですね」
佳代ちゃんは、俺の肩に手を置き、涙が溜まっている目は悲しそうて、赤くなった顔は不安そうで、それでも満面の笑顔で俺を見つめながら。
「そんな、あなたが大好きです!」
なんだか、佳代ちゃんは変な事を言っている。
俺は反省することなく、即答した。
「ありがとう」
佳代ちゃんは、頬に流れず目に溜まったままの涙を、ハンカチでふき取り。
「さぁ、行きましょう! 私もバドミントンの知識はあります。基礎から頑張りましょう! きっと、今は形になっていないだけです。いつか爆発的に成長できますよ」
と俺の手を引っ張り、運動場に移動する。俺は壁を意識して入り口をくぐる。
佳代ちゃんの熱心な指導のおかげで、俺たちのラリーは平均七回ほど続くようになった。
それから、十七時のチャイムが鳴り、『ナイトタイムの準備するから、一時間の整備時間のため運動場から出て行け』と言う館内放送と、『まだ居座るなら新しい入場券を買いやがれ』と言う館内放送を聞きながら、俺たちは一階の休憩室に向かい小休止をした。
俺の心は幸せだけど、痛かった。ピンチは乗り切ったけど、佳代ちゃんを騙したままだ。
そして、着替えを済ませ、体育館の靴棚、つまりは玄関に移動すると、外は小雨が降っている。
「傘なんて、持ってきてないな」
天気予報なんて見ない俺は、小雨など予想できなかった。せめて、佳代ちゃんと出かける時ぐらいは見るようにしよう。
と思った時、佳代ちゃんはこんな事を言った。
「そうですよね。私も傘を持ってきませんでした。天気予報では『今日は一日中気持ちの良い晴れ』と言ってましたよ」
俺は小さな努力の決意を、一度として行うことなく、無かった事にした。それは、どうでも良い事で、佳代ちゃんを雨に濡らすわけにはいかない。
俺たちは玄関で雨宿りをする事になる。
天気予報にも無い小雨なら、直ぐ止むかと思ったのだけど、時間が経つにつれ強くなっていった。もう、小雨なんて言えるものじゃない。
駄目だな。これは止みそうに無い。
「ちょっと、待っててよ。コンビニで傘買ってくる」
きっと、佳代ちゃんは傘の代金を渡したり、あるいは俺がコンビニに行く事すら遠慮すると思ったので、俺は返事を聞かずに雨の中走り出した。
コンビニでビニール傘を二つ買い、走り出すのだけれども、往復十分の道のりは、俺の服を遠慮することなく、びしょ濡れにした。
体育館に戻ると、佳代ちゃんは落ち着かない様子で視線を泳がせ、更には、ちょっと怒っているように見える。
俺は、少し不機嫌そうな佳代ちゃんに声をかける。
「お待たせ」
やっぱり、佳代ちゃんは怒っているらしく。
「風邪を引いたらどうするのですか!」
とゆっくり大きな声で言っていた。でも、直ぐに。
「でも、あなたらしいですね」
と微笑んだ。
俺はにやけてしまった。
「それでは、お代です」
と佳代ちゃんは小銭を渡してくるのだけど、俺は断った。
それは思わぬ方向に話を運び。
「私は結婚するまで、あなたに奢られたくないのです」
と真剣な表情で言って。
「あ! あと少しで私は十六歳です。あなたも今年で十八歳になりますよね! 学生結婚って良いかもしれません」
と胸の前で指を組みながら、これまた真剣な表情で言うのだけど、俺が今日得た経験から言うと、彼女はかなりの確率で天然なので、これはきっと本音だと思われる。
「ゴメン! 就職してからじゃないと結婚できないよ。佳代ちゃんに苦労させたくないんだ」
と混乱している俺まで、変な事を言い出して。
「それでは、選んでください! 結婚しますか? お金を受け取りますか? さぁ! どうするのですか!」
なんて、何故か俺は不思議な究極のクエスチョンに直面するのだが、その質問に答えたのは、同じ玄関で雨宿りしていた女子中学生の小さな笑い声だった。
俺たちの会話は丸聞こえだったらしい。
改めて周りを見てみると、玄関で雨宿りする人物は、俺たちを除くと二組いて、その中に女子中学生がいた。
二人組みで、両者とも下は学校指定のジャージで、上は学校指定のTシャツを着ていた。
あ~あ。あれじゃ、コンビニに走るのにもブラがスケスケだ。と言うか、無料で体育館を利用できる彼女たちは、財布を持って来て無い可能性もある。
そんな中学生たちを見ていたら、ふと相合傘の計画を思いついたので、俺は女子中学生に話しかけた。
女子中学生たちは何度もお辞儀をして、お返しするつもりらしく俺の電話番号を聞いてくるのだけど、面倒だから断って、それでもしつこく電話番号を聞いてくる女子中学生にうんざりしながらも、俺は彼女たちを納得させる事に成功した。
佳代ちゃんは微笑みながら、俺たちのやり取りを見ていた。
女子中学生が、見えなくなると……。
「やっぱり、あなたは優しいですね」
と嬉しそうに言っていた。
ついでに傘代の事も忘れたみたいだ。
せっかく、傘を買ってきたのだけど、佳代ちゃんとの時間が惜しくなった。俺は、雨宿り仲間の、もう一組の三十代夫婦らしき人にも傘を渡した。
これまた、女子中学生の時と同じようなやり取りがあったのだけど、丁重にお断りさせてもらう。
「気にしないで下さいよ。下心が多い親切なのだから」とは言えなかった。
俺と夫婦らしき人たちのやり取りを見ている佳代ちゃんは、やっぱり嬉しそうだ。彼女が喜んでくれると、俺もなんか嬉しかった。
それから、二人で二時間程話し込んだ。
気がつけば、外は晴れたのだけど、太陽の元気が無い完全な夜の時間だった。闇に浮かぶ佳代ちゃんの綺麗な横顔は、どこか神秘的だ。
そう言えば、こんな素敵な女性の佳代ちゃんと、無気力ベリーショートパーマで垂れ目メデューサの妹が、何で友達なのだろう。
俺は駅に向かう途中、聞いてみた。
「佳代ちゃんと妹ってタイプ違うよね? あんな妹と一緒にいて楽しい?」
「あら? 妹さんも素敵な人ですよ! あなたと同じで優しくて純粋ですし。それと、不思議なんですけど……」
と返答に困っているのか、一度考えて。
「ほら、私ってノロマですよね? だから、他の友達といる時はお互いに気を使ってしまうんです。でも、妹さんは私と同じリズムなんですよ。彼女はノロマじゃないのに不思議ですよね」
「へ~。あ、でも妹も同じ感じかも。佳代ちゃんと出会う前、高校に入学する前は『どうでも良いけど疲れた~』って毎日のように言ってたよ」
「そうなんですか! タイプが違っていても、相性は良いのかもしれませんね。それに、彼女は……。あなたの妹さんですから!」
俺は照れた。
それにしても、共通の話題があるのは救われる。駅に向かう途中、妹の話で盛り上がった。
垂れ目蛇女に感謝しつつ、駅に到着する。
俺たちは電車に乗り込み、佳代ちゃんが電車を降りて、次の駅で俺も降りた。
次に体育館デートの機会があったら、佳代ちゃんが降りた駅で待ち合わせをしよう、移動中の時間もスゲー楽しかった、とか思いながら自宅マンションを目指している時に気がついた。
体育館に自転車を忘れたな。まぁ、今度行った時に回収しよう。
自宅マンションに着くと、以前見た、鍵を忘れた少年がいた。今日も鍵を忘れたらしく、俺を見つけると鋭く睨んでくる。
結局、俺も彼も何も出来ないまま、オートロックを後にした。
頑張れ! 鍵少年! 俺は応援しているぞ。いつでも、共有玄関のオートロックを開けてやるぞ~。でも、鍵を忘れない方向で頑張ると尚良いぞ~。
気がつけば、俺の中で彼は『鍵少年』と言うあだ名がついたのだが、未来永劫、それを知るのは俺だけだろう。
その夜、佳代ちゃんから傘代について、メールが来た。
俺は『あの人たちに傘を寄付したのだから要らないよ。佳代ちゃんは傘を使わなかったじゃない』と返信すると、三十分後『悔しいけど、わかりました』の一文だけの返信があった。『悔しいけど』が何に対してなのかは、考えない事にしよう。
とにかく、今の俺は幸せだった。
対して妹は、佳代ちゃん以外の友達はいないのか、一人でレンタルDVDを見て休日を潰したらしく、どこか不機嫌だった。
リビングのテレビを独占している妹は、俺の帰宅に気が付くと。
「あ、兄貴帰ってきたんだ。別に兄貴の帰宅時間なんて、どうでも良いけどさ」
と「おかえり」の変わりに、トゲのある言葉で出迎えてくれた。
こいつは、ローテンションなくせにアウトドア派だからな。
俺は『ロー』と『アウトドア』の因果関係について、理論立てながら、気がついたら眠っていた。
こうして、俺の初デートと初キスと……。
初逆プロポーズは終わった。