序章 そいつは、俺じゃない!
ちょっと、エロありです。
それは、桜の花びらに歓迎され入学式を終えた新入生が、そろそろ、新しい環境になれ始める時期だった。新鮮だったはずのやる気が、少しだけ熟れてくる頃。
そんな、四月下旬。
彼らと時期同じくして、高校三年生になった俺も、だれてくる頃。本当は、いつでも無気力なんだけどね。それは、どうだって良い。
とにかく、四月下旬の日曜日。
十三時頃に部活動から帰ってきて、束の間のお昼寝を楽しんでいた時……。
不自然な気配に起こされた。
ベッド横から俺を見つめている女性二人に気がついたんだ。
一人は知っている。
チビで、無数の蛇みたいなベリーショートパーマの女。垂れ目なんてのは人類の神秘、遺伝的な原因なのだけど、こいつに至ってはやる気のなさが顔に出たに違いない。
俺の妹だ。
もう一人も知っている。
真直ぐに伸ばされた背筋は百七十センチメートル程のやや高身長を、更に、凛とした美しさで見せている。
無駄な装飾品の無い慎ましい黒のロングヘアーには、癖毛や枝毛の一つも無い。
大きな瞳は全ての悪意すらも受け入れてくれる、包容力を見せている。
近い将来に環境省から絶滅危惧種に指定されるであろう、大和撫子がここにいる。
今年、不運にも、妹と友達になってしまった哀れな女性。
佳代ちゃんだ。
俺が目を覚ました事に気がついた妹は、気だるそうに、こう言った。雰囲気が、低くないはずの妹の声を低く認識させる。
「あ、兄貴。ゲーム貸してよ」
なるほど。彼女たちは時間を持て余し、解決策として俺にゲームを借りに来た、と言ったところか。
「好きにしろよ」
俺は、まだまだ寝足りなかった。
少しの違和感を感じたものも、そのまま再び眠る事にした。
それから、二時間ほど後に目を覚ました。今度は、不自然な覚醒じゃない。充分に寝る事ができた満足感で一杯だった。いや、寝すぎてしまって、逆に身体が重いほどだ。
布団から這い出て、『お風呂にする? ご飯にする?』と言う自問自答に、『寝る前にシャワーに入ったよ』と返答し、ご飯と言う選択肢を選んだのでリビングへ向かうため、ドアを開けようとした時に気がついた。
右手の甲に落書きがある。
嫌な予感と共に洗面所に向かうと、案の定、顔には沢山の落書きがあるではないか。俺は思わず一人で叫んでしまう。
「なんだよ! これ!」
定番の泥棒髭や、『馬鹿兄貴』と言った見覚えのある憎たらしい字のものまで……。
これは怒ってもいいよな?
普段は穏便な俺でも我慢できないぞ?
ただ、右手の甲の落書きだけは、様子が違っていた。
妹の丸みを帯び、全ての線が短くてやる気の無さが滲む、読みにくいグニャグニャ文字とは違う。
綺麗な凛とした字で、こう書いてあった。
『ずっと、あなたを見ていました』と。
俺は、ノックもせずに妹の部屋に乱入するのだけど……。
そこに広がる映像は、あまりに不自然だった。
妹の部屋が、無機質なスチール棚や、ベージュの単色カーテンや、ポスター一つ無い白い壁紙とかがメインの女っ気が無い部屋だ、と言うことではない。それならば、以前から知っている。
妹の姿はなく、緊張の表情で正座している佳代ちゃんだけの姿があったんだ。
佳代ちゃんは、突然乱入した俺に慌てることなく、落ち着いた様子で俺を見上げている。
二つ年下の妹の友達である佳代ちゃんは、やっぱり、二つ年下である事を意味している。
だけど、大和撫子な佳代ちゃんは、大人びて見える。
なにより、全ての行動がスローテンポで、口から出る言葉も、ゆっくりとした口調な訳で、どこか優しい雰囲気を作り出す。
興奮冷めならぬ俺は、不自然な状況を気にすることなく、ただ一言。
「あの馬鹿は、どこ行ったの?」
だけど、佳代ちゃんは、俺の質問に答えることはなかった。
スローな話リズムではあるのだけど、緊張感の伝わる一言。
「答えを聞かせてください!」
「答え? いや、俺が質問しているんだよ。あの馬鹿はどこかに隠れているんでしょ? 良いよ。あいつが怒っても俺が守ってあげるから、居場所を教えてくれないかな?」
それでも、彼女は俺の質問に答えてくれなかった。
「あなたらしいですね。あれじゃ、伝わらないか……」
そして佳代ちゃんは、立ち上がり、深々と頭を下げたのだが、それはスローモーションだった。
「あなたは、ずっと補欠にもなれない部活を、腐ることなく頑張っていたみたいですね。そんな努力家のあなたが好きです」
俺の頭は、状況を理解するのに精一杯だった。そんな、俺に気がつくことなく彼女は続ける。
「あなたは、自分より他人を優先していましたよね。そんな優しいあなたが好きです」
スローな話口調は、俺に考える時間を充分に与えているのだけれど……。何も反応する事は出来なかった。
それでも、彼女は続ける。
「あなたは、やっと形に出来た私の気持ちにも気づいてくれない。だけど、そんな年上に見えない、純粋なあなたが好きです」
そして、彼女は深々と下げていた顔を上げ、『どんな結果でも大丈夫ですよ』なんて言葉が聞こえてきそうな澄み切った笑顔で、最後にこう付け足した。
「ずっと、あなたが好きでした。……答えを聞かせてください!」
今までは『妹の友達』としか意識していなかった佳代ちゃん。
その理由は簡単で、彼女が俺に不釣合いなぐらい可愛いからだ。
これは相当に嬉しい出来事で、考える必要も無いぐらい簡単なクエスチョンなのだ。
だけど、一つだけ問題がある。
努力家で、優しくて、純粋な俺が好きだって?
待ってくれ。そんな男は、この部屋に存在していないんだ。
そいつは、俺じゃない!
混乱の中、俺は即答した。
「これから、よろしくね。佳代ちゃん」
それと同時に、コンビニの袋をぶら下げた妹が、部屋に入ってきた。
「兄貴、起きたんだ。佳代ちゃん、告白終わった?」
ローテンションで無神経な妹は、とても乱暴な聞き方をする。
だけど佳代ちゃんは、そんな妹に動揺することなく、ゆっくりとした口調で。
「終わったよ。お付き合いする事になりました」
「やったじゃん!」
「ありがとう!」
スローとローな二人が、大声で喜びを表現し、手をつなぎ飛び跳ねる様は、不自然だった。
後悔しながらも呆けている俺に、妹は。
「それじゃ、兄貴。今日はもう良いよね。携帯電話番号とかメールアドレスは私が教えるから、夜に話しなよ」
「そうですね……。夜にメールくれると嬉しいです。二人きりで話すのは、恥ずかしいかもしれません」
顔を赤らめる佳代ちゃんは可愛かった。
「もう時間が無いよ。コンサートに遅れてしまわ」
と焦りながら、妹を急かす佳代ちゃんも可愛かった。
それでも、二人は急いでいるとは思えないスピードで俺を部屋の外に誘導し、ゆっくり時間をかけて出かける準備をして、七十分後に家を出た。
俺はメールの内容について考えながら、後悔した。
どうしよう。
佳代ちゃんが見ている人物は、明らかに俺じゃない。
魂の抜けたゾンビと化した俺は、リビングでボケーと時間を過ごす。
どうしよう!
そんな後悔を一時的にとは言え、打ち消してくれたのは、十九時頃にパートから帰ってきた母さんだった。
「ちょっと! その顔どうしたの?」
それから俺は、貴重な日曜日の夜と言う素晴らしいはずの時間を、油性マジックとの格闘に費やす事になる。
洗面所には、リビングルームから、テレビニュースの音声が届く。
年金支給か国営の無料老人ホームに入居するか、選べるようになった制度の是非について、討論していたり。
私立ならば高校までと、国公立なら大学までの、授業料が無料になる制度が可決されたそうだが、それについてどう思うか街頭インタビューをしていたり。
今年から総理大臣を、十五歳以上の立候補者から国民総選挙で選ぶ制度が実施される事について、専門家が話しをしていたり。
なにやら色々なニュースが聞こえてくる。
俺は激動の時代に生きているらしいのだが、それよりも、油性マジックと佳代ちゃんの問題の方が大きかった。
この日、佳代ちゃんとのメールは出来なかった。