闇色の目醒め
周囲に拡がる漆黒の闇が、私を圧し潰すかと思われた。
私は白樺の大木の根元に身をあずけていた。辺りには誰もいない。静寂が支配する中で、私は一人、腕の痛みに耐えていた。
左の上腕からは相当量の出血が、いまだ止まることなく袖を染める範囲を広げつつある。逆に額の傷から流れ出た血は、すでに乾いてこびりついていた。
「リーの奴め、帰ったらただじゃすまんからな」
私はこの国の統合参謀本部議長の名を低く呟いた。
ことの発端は三日前に遡る。
いつものように、私と依頼主の仲介人であるリー・アンクランシスから連絡が入り、私は依頼を受けて捜査に乗り出したという次第だった。
私、シモン・リーフが特別捜査隊員としてリーの下で働いているのには、二重三重の理由がある。ひとつは私の能力の故だが、それ以上に関しては私は話す気になれない。
背後に拡がる白樺の林の奥から、慎重に、だが迅速に駆け寄ってくる人物の気配が私には感じ取れていた。周囲を包む静寂が、辛うじてその気配を私に届けてくれていたのだ。
私は右脇に抱えた鞄に一瞥をくれてから、不平を鳴らす身体に鞭打って立ち上がった。鞄の中の代物が、今回の依頼の対象である。加えて、私の懐にはそれ以上の代物が収まっていた。これだけは追手の手に渡す訳にはいかない。
近づいてくる気配はかなり小さなものだった。季節は夏で地面には落ち葉も少なく、気をつければ足音を最小限に抑えてかなりの速さで移動できる。相手もそれを充分に理解した上で行動しているのであろう。間違いなくプロである。しかも相当な手練であることを、私は理性ではなく感じ取っていた。だが、私も一応、この道のプロである。これまでの経験と日頃の訓練の成果もあろう。私はかなり正確に相手の位置を把握していた。
私は可能な限り迅速に追手と反対方向へと駆け出した。最低限の注意は払いつつも、足音を消すところまでは気を遣っていられない。本来であれば迎え撃って撃退するという選択肢もあるのだが、今回に関してはそれが不可能であろうということは、私自身が最もよく理解している。
私の能力を駆使すれば、大抵の相手とは五分以上に渡り合える。
私の持つ能力。それはカラテと軍隊式格闘術を中心とした格闘能力と、一般的に超能力、あるいはESPなどと称される超常的な能力である。
格闘術に関しては別段、取り立てるほどのものではないだろう。カラテにしても軍隊式格闘術にしても、私の実力はそこそこのレベルに達しているといっていい。だが、私と同じ程度に腕に覚えがある者はいくらでもいるものだろう。
特筆すべきは、今ひとつの能力である。物質の透過、空間の固形化、質量の増大などといった能力を、どういう訳か私の身体は有している。あるいは、自分でもいまだ知らない能力もこの身には宿っているのかも知れない。すべての能力には何かしらの制限があり、共通の制限として極度の疲労がある。したがって、能力を長時間使用し続けると、私の肉体はもとより精神も恐慌に陥るかも知れない。
それでも、極めて特異な力であるのは事実であるし、私の能力をもってすれば大抵の警備システムなどほとんどなきものに等しい。その力を使って特別捜査隊員などという碌でもない仕事をやっているのだが、そこに至る成り行きを説明するには、私の気分は不快に過ぎた。
足元に気を配りながら、私は可能な限りの速さで白樺の間を縫って走った。左腕からの出血は依然、続いている。追撃してくる男の仲間に深々と肉まで斬り裂かれたのだ。骨には達していないが、凶悪なファイティングナイフによる傷口からの出血は、すぐに止まる程度のものではなかった。あるいは重要な血管の一部も損傷を受けているのかも知れない。その男を何とかまいた代わりに、現在、私を追跡している男に発見されてしまったのだ。
私の記憶では、あと三百メートルほどで林が切れてアスファルトの道路に辿り着くはずである。果たして、私の視界に左から右へと流れる一条の光の線が飛び込んできた。車のヘッドライトだ。
すでに左手の指先に痺れを感じ始めてから相当時間が経過している。神経も損傷しているかと思いつつ、現状では応急処置もままならない。今はとにかく林を抜けることが先決だ。そのまま足音が立つのも無視して、さらに速度を上げる。
その瞬間、全身を雷撃に撃たれたような衝撃が私を襲った。もんどりうって、との表現そのままに、私は白樺の林立する地面に凄まじい勢いで転がった。右脇に抱えた鞄を放さなかったのは、我ながら大したものだと思う。地面を転がりながら、私の耳には夜の闇に吸い込まれる銃声がはっきりと届いていた。
私はぞっとした。
撃たれたことにではなく、発砲があったという事実に、である。威嚇ではない。完全に的を狙ってきている。しかもサイレンサーも着けずに。もはや相手は手段を選ぶ気はないということだ。いかなる手段を使っても鞄の中身と懐にあるものを取り戻そうとしている。確かに、これにはその程度の価値はあるだろう。最初からプロに殺す気でかかってこられては、さすがに私の能力をもってしても対抗するのは容易ではない。そう思うと、背筋を冷たいものが流れ落ちた。
撃たれたのは左脚だった。
大腿部に灼熱をともなう痛みを覚えたが、視線を向けても暗闇の中で状態を確認することができない。右手を伸ばして触れると、どうやら中央部付近を銃弾が貫通しているらしいことがわかった。掌をべったりと濡らす液体を感じて、出血量の多さにわずかに息を呑む。昼間であれば、溢れ出る血液によってズボンも大地も深紅に染まる情景が確認できたであろう。
こんな時にはもう少し慌てるものかと思ったが、意外と冷静な自分に驚きながらも、いささかまずい状況になったことは認めざるを得ない。
その時、ちょうど垂れ込めた雲が切れて、月光が周囲に降り注いだ。改めて左脚に目をやると、足の付根から膝までが真っ赤に染まっている。だが、私の意識はすぐに別の対象に向かっていた。
振り返ると、右手に赤外線スコープの付いたライフルを持った長身の男が、口許に残忍な笑みを浮かべて近づいてきていた。さらにまずい状況になった。もはや闇に隠れての逃亡は不可能である。仮に再び月光が遮られたとしても、近距離で一度視認された以上、もはや逃げおおせることはできないであろう。
さて、どうしたものか。思案を巡らそうとした私の目に、男の左手に握られた白銀の物体が映った。心中で驚愕が弾ける。
ソヴィエト社会主義共和国連邦の特殊任務部隊スペツナズ。中でも参謀本部情報総局、いわゆるGRUに属する部隊は潜入工作、偵察、夜間戦闘、破壊工作、要人暗殺、電子戦などを主任務とする精鋭部隊である。我が国の各特殊部隊といずれが勝るのか、その全貌が不明な分、その実力はベールに包まれている。
そのスペツナズが愛用すると噂される凶悪な武器、通称スペツナズ・ナイフ。グリップに内蔵されるスプリングの力により刀身を射出できる弾道ナイフと呼ばれる代物が、男の左手の中で獲物の血を求めているかのように月光を反射して煌めいた。白兵戦において最大に威力を発揮するなどと評されているが、これもまた噂の範疇を出ない。あくまで試験的なもので正式支給には至っていないとか、実戦的な能力には疑問が残るとか聞くが、私はそれ以上の機密に触れる立場にはない。
私は職業柄、各国の軍事事情にある程度精通している。正規の軍に限らず、代表的な特殊部隊に関しても一定以上の知識がある。これはその大半がリー・アンクランシスの助力によるものである。その知識を元に総合的に考えれば、弾道ナイフなど機構上の複雑さに強度を奪われて実用性にかけるのではないかと思わざるを得ない。
ともかく、私の意識はその白銀の金属塊に引き付けられた。
どうしてそんなものを?
私の理性は、この時、完全に麻痺していたようで、視界に映る光景の持つ意味をにわかには理解し得なかった。出血の増加によって脳の血流が低下していたのかも知れない。
長身の男は大股に歩み寄ってくる。私との距離はすでに三十メートルばかりだ。今にも舌なめずりしそうな男の顔が、一秒ごとに近づいてくる。左の腕と脚を負傷した身では、格闘術はおろか、痛みと出血によって能力を使用することもままならない。
朦朧とし始めた頭で、改めて、さて、どうしたものかと考えた刹那、後方から光の波が私と私を殺害しようと接近する男の身体を包み込んだ。私はライトに背を向けていたが、男は正面から突然照明を浴びせられて、目を眩ませたようだった。
急激な状況の変化の中で、私の耳にははっきりと聞き慣れた声が響いていた。
「ボス! 大丈夫⁉️ ボス‼️」
よく通る声に常とは異なる緊張感がはらんでいるのを感じながら、私が意識が遠くなっていくのを他人ごとのように自覚していた。
「来るんじゃない……逃げろ……」
叫んだつもりだったが、その瞬間、視界が暗転した……。
白い天井に明るく灯る電灯、心配そうな表情を浮かべる美しい少女と常の冷静さを欠いた少壮の紳士の顔。
私が目醒めた時に見たのは、天国を彩る華やかな天使の群れではなかった。
「気がついた! シモン? あたしのこと、わかる?」
最初に声を発したのは少女の方だった。私の助手であるラリー・エヴィダンスだった。肩下まで綺麗に伸ばした薄い夕焼け色の髪に明るく澄んだヘイゼルの瞳を持った美しい少女だ。もう少し性格上女性らしさが備わっていればとても助手など務まらない、と私は考えている。
「随分と寝込んでいたが、気分はどうだ。私たちの言うことがわかっているか?」
次いでその隣りの少壮の紳士、リー・アンクランシスが尋ねてきた。オールバックに固めた黒髪に切れ長の目。今年で四十二歳になるはずだが、やや細身の外見は実際よりもかなり若く見える。
「ああ、それほど悪くない」
私は自然にそう答えたが、どうやらまだ自失の状態から脱していなかったらしい。不意に、私はあの男の顔を思い出した。ライフルとナイフを手に残忍な笑みをたたえて歩み来る殺人者。
途端に、私の意識は覚醒した。
「ここはどこだ。あの男はどうした? ラリー、お前は怪我なんかしていないのか?」
目を見開いて身体を起こそうとしたが全身が思うように動かず、代わりに全身を激痛が駆け巡った。ラリーが慌てたように私の身体を支える。
「大丈夫だったのか、ラリー? 怪我は? それに、俺は死んだと思ったんだがな」
私の身体を、ラリーが依然心配そうな表情のまま答える。
「ここは病院。あたしは大丈夫、かすり傷ひとつないよ。シモンも死んでなんかないから、安心して」
「お前は三日間、昏睡状態だったんだ。あれほどの出血では無理もないがな」
リーが、表面だけはいつものように厭味なまでの冷静さを保って告げた。だが、その言葉に私の方は冷静でなどいられなかった。
「三日? 三日だと⁉️」
私は反射的に跳ね起きようとした。途端に全身を再び激痛が包み込み、私は唸り声を上げることもできずに顔をしかめた。ラリーとその背後に控えていた看護師が慌てて私の身体を取り押さえる。
「無理をしてはいけません。あなたの身体は、自分で考えている以上にダメージを受けているんですよ。それに、腕と脚の傷はまだ塞がっていません。無理に動けば血が噴き出しますよ」
妙に痩せこけた医師が、ベッドの反対側から私の顔を覗き込んできた。そのまま無言で心拍数やら血圧やらを調べていたかと思うと、リーに向かってひとつ頷いた。取り敢えずは大丈夫ということであろうか。
「すみません、医師。少し三人にしていただけませんか。何かありましたら、すぐにお呼びしますので」
頬のこけた医師は、私とリーの顔を交互に見ていたが、「いいでしょう」とひと言だけ言い残して、看護師とともに病室を出ていった。
後に残された私たちはしばらく無言で互いの思いに没していたが、まず口を開いたのは私だった。気にかかっていたことをリーにぶつける。
「例の本はどうなった。まさか、連中に奪い返されたんじゃないだろうな」
リーは形のいい眉を動かしもせずに、素っ気なく言った。
「心配するな。お前の努力は報われた。お前が生きていること自体がその証拠だ。もっとも、まだ提出はしていないがな」
そう言われて、私は納得した。もし、連中が私の抱えていた鞄の中から「本」を取り戻すことに成功していたなら、私が生きている訳がない。だが、現に今、私の心臓はいまだに脈打っている。あの男はあれ以上、私に手を出せなかったということだ。そこまで考えて、私はあることに思い至った。枕元の椅子に腰を下ろしているラリーに視線を向ける。
「あの時、俺を助けてくれたのはお前か、ラリー」
ラリーは気恥ずかしそうに下を向いただけだった。救いの手は。私たちの共通の後見人であるリーから差し伸べられた。
「その通りだ。ラリーがいなかったら、お前の魂は今頃あの世とやらを浮遊していただろうな」
私は何と言っていいのかわからなかった。ラリーと仕事をするようになってから、互いに助け合ったことは幾度もある。だが、今回ほど絶妙の、しかも紙一重の時はなかったかも知れない。もしあの時、ラリーがもう一分、いや、三十秒足らず遅れていれば、私の命はなかっただろう。多量の出血と激痛で能力の使用もままならず、ライフルなりナイフなりでとどめを刺されていたはずである。仮に追撃者にやられずとも、ラリーが救出に来てくれなければ、意識を失ったまま失血死に至っていたに違いない。
「手間をかけたな。ありがとう、ラリー」
とでも言えばよかったのだろうか。だが、私の心はこの時、完全に私のものとは言えなかった。
結局、私が何も言えないまま、ラリーは「何か買ってくるね」と言い残して病室を出ていった。
「やれやれ……」
ラリーが扉を閉めて姿を消した後、溜め息混じりにリーが呟いた。
私は不審さを隠そうともせずに彼を見つめたが、リーはしばらく思案してから、重そうな口を開いて話題を戻した。
「ところでシモン、例の本だがな。どうやら思っていた以上に根が深そうだ」
私は黙って聞いていた。リーはひと言ひと言、自分に言い聞かせるように言葉を継いでいるように思えた。
「連中がこのまま諦めるとは、到底、思えん。何しろ、己の命運がかかっているからな。この病院ですら、危険かも知れん」
後でラリーに聞いたことだが、この病院はリーの旧くからの友人が経営する病院で、この国でも最高級の医師が揃っているということだった。無論、設備・環境・保安・警備などあらゆる面でも万全だそうだ。いわゆるお墨付きというやつだ。リーの配慮により、私は緊急でここへ担ぎ込まれ、一命を取り留めたということだった。
リーが全面的に信頼する病院であり、間違いなくリーの個人的な要員による警護も配置されているはずである。にも関わらず、それでもなお危険と言うのは相当なものだ。まぁ、それほどの相手でもなければ、私がここまで無様な姿を晒すこともなかっただろう。
「この部屋にはSPをつけている。病院全体も一流の警備で固めている。無論、二十四時間体勢でな」
私の想像を肯定するリーの言葉だったが、それに対して私は異を唱えた。
「待てよ」
無意識に声が荒くなりそうになったところを、私は辛うじて抑えた。リーは驚いた様子もなく、私の目をまっすぐに見つめている。その目が、先を続けろと無言のうちに語っていた。
「SPも警護ももう必要ない。休ませてやってくれ。俺は今日中にここを出るからな」
冗談じゃない、などとリーは言わない。あっさりとこう言っただけだった。
「身体は大丈夫なのか、シモン」
私は珍しく友好的な笑みをリーに向けながら、半ば無理やり陽気な声を出した。
「心配いらない。自分の身体は自分が一番よくわかってる」
「そうか……」
短く答えて、リーは部屋から出ていった。その向かった先を、私は尋ねるまでもなく見抜いていた。
入れ違いにラリーが缶コーヒーを三つ抱えて戻ってきたので、事情を説明すると、彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、先に帰って準備しとくね。六日も空けてたから掃除もしなきゃだし、ご飯も作らないと。お腹すいてるでしょ。なにしろ三日も食べてないんだから。まずは栄養をつけなくちゃね」
ラリーの言葉で、私は依頼を受けてから都合六日間、自宅を留守にしていたことに気がついた。加えて三日も食べていない、などと言われると、急に空腹が実感として湧いてくるから不思議なものである。私の腕には点滴の針が刺さっており、この三日間、私の生命を繋ぎ止めてくれていたのだろう。だが、それと空腹とはまた別の問題である。
「先に帰るのか?」
私は手際よく周りの片付けをするラリーに声をかけた。それに対する返答は極めて簡潔だった。
「そうだよ。ちゃんとシモンが帰れるように準備しとかなきゃ!」
その時、荒々しくドアが開いて、先刻出ていった痩せこけた医師が顔を真っ赤に紅潮させて入ってきた。室内に入るなり、医師は声も高らかに叫ぶ。
「退院なんてとんでもない! あと二週間は絶対安静にしておかないと、いつまた傷が開くか! 腕も脚もひどい怪我なんですよ。二度と使えなくなってもいいんですか! まったく、とんでもない!」
どうやらこの医師は模範的な医療従事者のようだった。だが、善良な医師の言葉は丁重に無視されただけだった。
「医師。患者にとっては自宅こそ一番精神的に落ち着ける場所なんです。場所もここに近いですし、何かあったらすぐに連絡しますから。あ、必要な薬は一週間分出しといてください。きちんと飲ませますから。じゃあ、よろしくお願いします!」
てきぱきと私の身支度まで済ませてから、ラリーは医師に向かって満面の笑みで言い放った。医師は目を丸くして、呆れ顔でものも言えないという様子だった。
「議長、後のこと、よろしくね」
そう言い残して、ラリーは辟易する医師の横を素通りしてさっさと部屋を出ていってしまった。それから我に返って騒ぎ立てる医師をリーに任せて、私も部屋を出た。そこで何事かと怪訝な表情のSP二人と鉢合わせたので、私は労いの言葉をかけた。
「お勤め、お疲れ様。おかげでゆっくり休めたよ。ありがとう。もう帰ってもらっていいよ。細かい話はリーに聞いてくれ」
顔を見合わせるSPに手を振りながらその場を離れ、私はそのまま退院手続きを済ませたのだった。
その手続きとやらと薬の処方で時間を取られ、結局、先に帰ったラリーに二時間ほど遅れて私は病院を後にした。その間に、リーは医師を説得した上でSPと警護に撤収の指示を出していた。
当然ながら、腕と脚の痛みはまだ取れていなかったが、松葉杖を必要とするほどではなかったので、私は病院側の申し出を丁寧に断って自分の脚で玄関まで向かった。そこでタクシーを拾おうと手を上げかけた私の背後から、聞き慣れた落ち着いた声がかけられる。
「送るぞ、シモン。遠慮するな」
振り返った私は、涼やかな微笑を浮かべて佇むリーの姿を見て何も答えなかった。リーもそれ以上何も言わず、玄関前に回ってきた自分の車のドアを開ける。私は自分がどんな表情をしているのかもわからなかったが、無言でリーが開けているドアをくぐって車中の人となったのだった。私たちは互いにひと言も発さなかった。コンドミニアムの前で私を下ろすと、リーは立ち寄ることもなく、そのまま去ったのだった。
自宅へ帰った私を出迎えたのは、部屋の掃除を終えてから料理を作っているラリーだった。さすがに手際の良さは天下一品である。
「おかえり。思ったより早かったね。ごめん、まだご飯できてないからちょっと待ってて」
特段取り立てるような言葉ではなかったが、私はそれを聞いて妙に安心する自分がいることを素直に認めていた。
「手間かけてすまないな。急がなくていいぞ」
もっと気の利いた言葉を言えればよかったのだろうが、私はそれだけ伝えて書斎へ向かった。キッチンから気を悪くした様子もないラリーの声が響く。
「もう少し時間かかるから、コーヒーでも淹れようか? それとも紅茶の方がいい?」
「ああ、すまない。紅茶を頼む」
つくづく素直じゃないな、と自嘲しつつ私は書斎に入ってデスクに向かった。デスクの中央には大型封筒が一枚と便箋が五枚、綺麗に重ねられていた。さらにその側に書類ケースが置かれている。ラリーが整理したものだろう。抽斗にしまっていないのは、私がこれを見ることを見越してのことだ。
その場から少し声を大きくしてキッチンで紅茶を淹れているであろうラリーに声をかける。
「ラリー、本以外はリーに渡さなかったのか?」
「うん。シモンが自分で渡した方がいいと思って」
キッチンから返ってきたラリーの言葉に、私は思わず感心してしまった。相変わらず、ラリーは私の気持ちをよくわかっている。
取り敢えずケースの方はおいて、私は便箋五枚にわたる手紙の方を手に取った。そのまま椅子に腰を下ろす。手紙の内容は、リーから送られてきた依頼の詳細を綴ったものである。これが今回の騒動の始まりだった。
この国の国務長官と国防長官の確執。それが、依頼という形で私たちの元へ波及してきたのだ。
国務長官ヘルムート・ショバルと国防長官ジョン・クラークスの人事は、現在の大統領レオナルド・T・ケーリーの大きな失策だった。個々の才能を見れば、その登用はケーリー政権にとって極めて大きな利益をもたらすはずであったことは確かであろう。だが、二人を同級のポストにつけたのは、それ以上に大きな不利益を生じさせる結果となった。
ケーリー大統領自身も事後にそれに気づいて後悔したようだが、一度決定を下してしまった以上、安易にそれを撤回することもできない。二人とも、今のところ大きな失策は犯していないのだ。だが、その分、ケーリー大統領の悩みは一層深刻なものとなった。
犬猿の仲という言葉の具体的象徴のような二人は、周囲の同僚も二分してケーリー政権は今や完全な内部分裂状態にあったのだ。これは無論、最終的には人事を決定した大統領自身に責任が帰するであろう。大統領といえども所詮は人の子ということだろうが、このような事態も見越せずして組閣するなど、この国の将来も明るいものではないようだ。致命的な失策が出るのも時間の問題というマス・メディアの報道は、遠からず現実のものとなる可能性が大きかった。
そんな時に登場したのが「本」である。
正確に言えば、それは書籍ではなく一冊の帳簿なのだが、私たちはそれを通称として「本」と称している。その中身はと言えば、クラークス国防長官にとっては喉から手が出るほど、というやつである。敵対者の失墜のために、クラークスとしては何としても入手したい代物であった。
そして、帳簿の所有者であるショバル国務長官にとっては自己の保身のために、どんなことがあってもそれを白日の下に晒す訳にはいかないのである。何とも醜悪極まりない争いであった。
私がその醜い権力闘争に巻き込まれたのには、複数の理由があった。単に特別捜査隊員に対しての依頼という訳でもなかったのである。
統合参謀本部議長の肩書を持つリー・アンクランシスも、当然ながら政権の一角を担う重要な一員である。必然的に国務長官と国防長官の確執の影響も受ける立場にある。そして、それは上司であると同時に学生時代から交流のあった国防長官ジョン・クラークスに傾かざるを得なかった。
リー自身は中立をもって自分の意志としていたらしいが、クラークスはそうは考えなかったようである。当然のように、リーが自分の側につくものと信じていたのだ。さらに、それをショバルも信じたものだから、リーとしてはたまったものではなかっただろう。もはや自分の考えを信じて疑わない二人には、リー自身が何を言っても無益だった。
そこでクラークスからリーに持ちかけられたのが、ショバルの脱税と収賄についての金銭の移動を記した帳簿の奪取という話だった。現状では明確な証拠がないので訴えることができないが、その帳簿さえあれば、ショバルは確実に政治生命を失うことになるというのだ。
リーとしては、その話を聞かなかったことにするという訳にはいかなかった。クラークスに対する友誼などではない。かねてより交流があったとは言え、リーとクラークスの関係はあくまで互いに認知しているという程度の深さであったらしい。そんな個人的な立場より、統合参謀本部議長として中立的に各軍をまとめあげる軍事最高顧問という立場によって、国務長官の汚職を黙って見過ごす訳にはいかなかったのだ。
結果、リーにはクラークスに肩入れするつもりはなくとも、ショバルの帳簿を入手するために動かざるを得なくなった。
リーが非公式に様々な依頼を受けているという事実は、政界にも知っている者はごくわずかしかいない。大統領もその一人だが、これはかつて問題を抱えた大統領に対して、リーの方からその解決法として提示したためである。そのことを咎めるつもりはないが、実行部隊として行動する立場の私としては、いささかリーにいいように使われているとの感は否めなかった。ケーリー大統領は、クラークスより遥かに親しいリーの友人なのだ。
ここで、リーはクラークスにも特別捜査隊員の存在を打ち明けることになった。その秘密を遵守するという条件付きで、である。
これは何もクラークスに限った話ではない。大統領に対しても同様である。先方としては、恩人となる相手からのささやかな望みとあっては、快諾する以外の選択肢はないのだ。万が一、その誓約を破るようなことがあれば、リーと私が動いた事実を世間に公表するまでのことだ。そうなれば、自分自身の首を絞めるということは子どもでもわかることだ。したがって依頼主はその誓約を守り、私たちの存在は必要最小限の者しか知り得ることはないのである。もっとも、私とラリーの有する能力については一切知らせる訳にはいかない。
事情を知ったクラークスは、ふたつ返事でリーに依頼を告げたらしい。
「報酬は五十万USドル。自分の名が表に出ることがなければ、手段は問わない。確実にショバルの帳簿を入手してくれ。なるべく早いうちがいいが、性急にことを運んで失敗するような愚は避けたい。詳細は任せるので、上手くやって欲しい」
依頼の概要はこうである。それを聞いた時の私の反応は、無言だった。代わってラリーがひと言……。
「議長も、もう少し人間性を見てから友達選べばいいのに」
まったくだ、と私は心中で強く同意した。リーに言わせれば、別に友人などではない、ということになるのだろうが。
とにかく、金銭さえ出せば、というクラークスの安直な考えに嫌悪感を抱きつつも、かくして私たちは政権中枢に淀む汚職を暴くべく動かざるを得なかったのである。
そうと決まれば行動が早いのは、私たちの常だった。依頼を受けたその日のうちにショバルの自宅を下見に出かけ、その夜のうちに侵入したのだ。クラークスは依頼の際に「性急にことを運んで失敗する愚」と言ったらしいが、それこそ大きなお世話である。
私たちは目標の帳簿がそこにないことを確かめ、この国の北部の国境を成す湖岸にあるショバルの別荘を訪れることになったのだ。その段階ですでに相当な苦労だったのである。
そもそも今や世界を代表する軍事大国の国務長官の自宅に侵入するのだ。それだけでも極めて危険な仕事と言えた。そこで空振って、今度は北へ百二十キロ余り移動した後でその別荘に忍び込もうというのだ。五十万ドルの仕事とは言え、重労働は疑いなかった。
私とラリーはそこで目指す帳簿を発見し、それを持ち出すまでは成功したのだが、あろうことか極めて初歩的な失敗を犯してしまった。つまり、相手の力量を見誤ったのである。これにはいささかの事情があるが、それはまだリーにすら話していない。簡単に言えば、とんでもないものを発見してしまったことによって二人揃ってわずかに気が動転してしまったのだ。デスクに置かれた書類ケースの中身こそ、それが現実であったことの証拠である。
ラリーがこの証拠品を「本」と一緒にリーに渡さなかったのは、私が自分自身の手でこの件の決着をつけるつもりであることを見抜いたからである。
私を殺そうとしたあの男たち。あれはどう考えても殺人の専門家である。接触したのは二人だけだったが、あるいはさらに人数を増やして追ってくる可能性は低くはない。
あの日、ショバルの別荘を出たところで私とラリーは別れた。逃走用に用意していた車を男たちの一人によって走行不能の状態にされたために、車の調達を任せたのである。
その間、私が敵を引きつけて時間を稼いでいたのだが、タイヤを裂いて走行不能にしたであろうファイティングナイフを構えた男の近接戦闘力は私の予想を超えるものだった。その立ち会いの中で、不覚にも私は左の上腕を斬り裂かれたのだ。不利を悟った瞬間に逃げに徹したおかげで何とかその男をまくことはできたが、そこでもう一人に補足されてしまい、さらなる重症を負う羽目になったという訳だ。
幸い、いまだ「本」はこちらの手元にあり、私もどうにか生き延びた。だが、そうなると別の問題が生じてくる。つまり、相手がどのような策を用いて「本」を取り戻しに来るか、である。あちらもプロであれば、残してきた車や逃走経路などからこちらの足取りを掴むことはさほど困難ではないだろう。
私としては、本来無関係の他人に警護してもらった挙げ句に病院で安穏と寝ている訳にはいかなかった。私にもプロとしての意地やプライドぐらいある。自分の失敗の後始末を他人に押しつけて寝ていられるほど、私の心臓は豪胆な作りをしていなかった。
書斎にトレイを抱えたラリーが入ってきたのは、私が資料をもう一度読み返して、敵の追撃に対する策を講じている最中だった。
セイロン葉の紅茶を淹れたカップをトレイからデスクへと移しながら、ラリーが常になく控えめな様子で口を開いた。
「やっぱりまだやるの?」
控えめではあるが、その口調には後ろ向きな雰囲気はない。むしろわかりきっていることを改めて確認するような意図が滲んでいる。
「当然だ」
私はきっぱりと言ったが、すぐに付け加えた。
「こっちにその気がなくても、どうせ向こうから来るに決まってる。だったら、先手を打った方がいいだろう」
ラリーは頭では納得しているのだろうが、釈然としない様子だった。無理もないだろう。私自身、そうだったのだから。
「とにかく、退くことはできないんだ。せいぜい派手に動いてやるさ」
私は必要以上に言葉に力を籠めた。だが、これはどうも逆効果だったようだ。
「あんまり無理すると、本当に傷が開いちゃうよ。普通なら動けないほどの重傷なんだからね」
ラリーの表情はこれまでに見たことのないものだった。私と目があった瞬間、はっとしたようにラリーが視線を逸らす。
「まぁ、いざとなったらあたしがサポートするからいいんだけどね。それが助手の役目だし」
立て続けに初めて見せるラリーの言動に、私は言葉を返すことができなかった。
「とにかく、今は無理に動かず休んでね。傷が開いちゃ、動きたくても動けなくなるんだから」
私は頷くしかなかった。
「さて、それじゃあもう少しでできるからね。今日はここで食べようか」
「ん? ああ、任せる」
「はーい。じゃあ、もう少しのんびりしてて」
書斎を出ていくラリーの後ろ姿を見送りながら、私は柄にもなくラリーの存在の有り難さを噛み締めていた。
その夜、極めて珍しいことに、我が家は統合参謀本部議長リー・アンクランシスの訪問を受けた。さらに珍しい、というより初めてのことだが、リーは三人の逞しい男たちを引き連れていた。その全員を外で待機させておいて、リーは玄関先に立ったまま厳重に包装された何かを差し出してきた。私は何も言わずにそれを受け取ると、ひとまず書斎にリーを通した。
私は訪問の理由を尋ねなかった。リーも沈黙を守っており、三人分のコーヒーを運んできたラリーが私の隣りに座ってから、ようやく口を開いた。
「その本をすぐにレオナルドに渡すことはできない」
レオナルドとは、すなわち現大統領レオナルド・T・ケーリーのことである。リーは大統領をファーストネームで呼ぶ。その一事だけでも、クラークスとの違いがよく表れている。
「どうしてだ」
私は冷静さを保った口調で言ったが、これはいささか見え透いていたようだ。理由は明白だったのだから。
今、この「本」こと帳簿を証拠にショバルを告訴したとする。法廷において、ショバルは高らかに明言するだろう。
「捏造された証拠によって、不当に告訴された。これにより著しく名誉を毀損されたものと判断し、検察側を告訴する」
現状の証拠が帳簿だけでは、その裏付けを取るだけでも相応の時間を要する。だが、ショバルは根拠のなさを突いて強引に無罪を勝ち取ろうとするだろう。それを阻むことは実質的に不可能である。
証人が必要だった。さらに決定的な物的証拠を揃えられればいいが、それに関しては限りなく非現実的であろう。その程度の相手であれば、我々が動くまでもなく足がついているはずだ。暗号化されたこの帳簿を管理していた人物を拘束できれば、言うことはない。だが、それもまた極めて困難であろう。あるいは、その人物はすでにこの世にいないかも知れない。相手は殺しを厭うことなど微塵も頭にないような連中だ。危険と判断すれば、即座に切り捨てる程度の冷酷さは持っていない方がおかしい。私が好きなひと昔前の映画のようにはいかないだろう。
本来、これ以上の追求は私にとってどうでもいいことだった。依頼は「帳簿の入手」の一点である。その後の対応や証人の検挙はむしろリーの管轄である。警察機構をはじめとして各当局に働きかけて捜査を促せばいい。
それでいいはずであった。
だが、事情が変わった。こんな目に遭わされて、そのまま引き下がるつもりは毛頭なかった。そんな私の気持ちを、さすがにリーは正確に見抜いていたようだ。
「決着が着くまで、それはお前が持っていた方がいいだろう」
低い声で言うと、「本」を残してさっさと引き上げてしまった。
玄関までリーを見送ったラリーが、書斎に戻ってくるなり発した言葉は、妙に引っかかるものだった。
「議長ってやっぱり大人だねぇ。誰かさんとはえらい違い」
「何が言いたい? リーが大人なら、俺だってさして変わらんだろう」
「コーヒー、もう一杯いる? それとも紅茶の方がいい?」
「……コーヒー」
私がラリーの発言に対して深入りするのを控えようと思うのは、往々にしてこういう時である。
私は半ば自棄気味に気を取り直して、リーから手渡された帳簿を包む包装紙を破いた。分厚い革製の帳簿はところどころ擦り切れていて、長期間の使用を伝えてくる。適当に開いて目を通すが、そこには意味不明な記号と数字の羅列が並んでいる。おかしなもので、実際に内容をじっくりと見るのはこれが初めてだった。別荘からの脱出と追撃者からの逃亡で、それどころではなかったのだ。もっとも、先方からすればこちらの方こそ不法な侵入者であったには違いない。
ざっと目を通して、私は溜め息を吐いた。詳細は読み取れないが、ところどころにある数字の桁を見てその多くが金額を示しているものであると推測する。大層な代物であることはわかっていたが、いざ目にするとやはり閉口するばかりだ。
どこからこれだけの額の金銭が湧き出してくるのか、見当もつかない。正当な取り引きだけでも巨額の金銭がショバルの身辺で動いている。まぁ、ショバルのみに限ったことではないが。それに加えて、不正不法なやり取りでこれである。
これが世に出て事実が証明されれば、いかにショバルといえども確かに手の打ちようがないだろう。それほどにショバルの手は広範囲かつ高濃度に各方面に浸透しているようだった。それを物語るこの「本」は、クラークスにとってみればまさに至宝の書という訳だ。
さて、そこで問題だ。いかにしてこれを有効な証拠として認めさせるか。最も手っ取り早いのは、やはり証人の確保であろう。帳簿の管理者でなくとも、何らかの形でショバルの行動に関して証言し得る人物の身柄を押さえることができれば、そこから突破口は開けるはずだ。
だが、ひと筋縄でいく相手ではない。さらに、負傷した身とあってはなおさらである。いずれ相手の方からやってくることは疑いない。そこにつけいる隙を見出すか。
そんなことを考えながら、私は傍らの書類ケースを開いた。数百枚にのぼるレポートを綴じたファイル、ばらばらの紙に記されたメモ、何を示しているのかすぐには判断できない複数のグラフなどなど。時間的制限に加えて、精神的衝撃の大なるも手伝って、持ち出せたものはごく一部だった。統一性もない。だが、それらが何に基づくデータなのか、私たちはこの目で目の当たりにしたのだ。
雑多なデータをデスクの上に並べていると、ショバルの別荘で味わった嫌悪感が再び湧き上がってくる。持ち帰ったもののうち、最も分厚いファイルを開いて目を通しながらラリーが淹れてくれたコーヒーをひと口すすった時、私の脳内に不意に閃光が閃いた。
「これだ!」
私は思わず叫んで、椅子を蹴倒しそうになりながら立ち上がった。瞬間、左脚から全身に激痛が駆け抜け、唸り声を上げてその場にしゃがみ込んでしまった。
「何やってんの、シモン⁉️ 駄目だよ、まだ無理しちゃ。傷が開いたら、冗談じゃ済まないよ」
私の声を聞いたラリーが何事かと顔を出し、うずくまる私を見て慌てて駆け寄ってきた。包帯を巻いた上からスラックスを履いている私の左大腿部にそっと手を添える。傷口の異常と出血の有無を確認してから、私の身体を支えて椅子に座らせてくれた。
「すまない」と短い礼だけ言ったのは、いまだ激痛が収まりきっていなかったからである。
やれやれ、こんな調子ではあの連中と渡り合うなんて夢の話じゃないか。
「どうしたの、いきなり?」
ラリーが尋いてきたので、私は自分の思考を回復させることができた。
「こいつを有効な証拠に変える策を思いついたのさ。まぁ、そんな大したもんじゃないがな」
私はデスクの上に投げ出された帳簿を指差した。ラリーが幾度か瞬きしてから、次いで愉快そうに笑った。
「じゃあ、もう勝ちは決まりだね。どうやるの? 教えてよ」
私は訝しそうな目でラリーを見た。
「何でそんな自信たっぷりなんだ? この通り、俺は連中のおかげでこのざまなんだぞ」
「それはまぁ、相手のことを知らなかったからね。一度手合わせしてるし、もう実力はわかったでしょ。だったらシモンが負けるはずないよ」
今度は私が瞬きする番だった。
そんな楽観的でいいのだろうか。口には出さなかったが、私は自問せざるを得なかった。
闇の中で蠢くふたつの影。
二メートルを越える巨躯と、それには及ばないが一八〇センチの私よりゆうに一〇センチは高い長身が、手にそれぞれ禍々しい金属の塊を持って林の中を進んでいた。白銀のナイフではない。型式までは識別できないが、オートマチック式の拳銃である。
すでに午前零時を過ぎて日付が変わり、辺りは静まり返っている。空は厚い雲の層に覆われ、貴婦人の美しさを纏った月光は地上への到達を阻まれていた。
不意に巨躯の影が振り返って、闇の奥に視線を向けた。闇の衣を縫い通すような視線は、目に見えぬ何かを見出そうとしているようにも見える。しばらくそのまま微動だにせず固まっていたが、先を進む長身が振り返って小さく指を鳴らして促したので、巨躯の影は再び前進を再開した。
どれほど進んだろうか。三百、いや、三百二十メートル。
ふたつの影の前には、いまや郊外の自然公園の樹林ではなく、二十メートルほどのアスファルトで舗装された道路が広がっていた。その先に、高級の一歩手前といった感じのコンドミニアムが、夜の帳の中になけなしの威容を誇るかのようにそびえている。
先を進む長身が無言で手首を翻し、後ろの巨躯に合図した。ふたつの影は左右に分かれて、コンドミニアムの入り口へと向かおうとしている。樹林を抜けて、道路との境の高さ一メートル足らずの柵を乗り越えて、ふたつの影は歩道に出ようとした。
ふたつの影の足がアスファルトに触れた瞬間、変化は急激に訪れた。
影の正面から浴びせられる煌々たる光。一瞬遅れて、後方の林の中から向けられたライト。さらにふたつの影が道路に現れた地点を挟むように、車道の左右に停めてあった車からの上向きのヘッドライト。めくるめく光の乱舞の中、二人の男の声が響いた。
「くそっ、気づかれていたか!」
「謀られた! 逃げるぞ!」
声に焦りとわずかな後悔が混ざっているのが、聞いている方にも明確にわかった。相手を侮り、不用心なまでに大胆に接近したことに内心で舌打ちしているのだろう。一度はとどめを刺す一歩手前まで追い詰めた鼠に対してであることを思えば、頷けることではあった。
二種類の焦慮を含んだ声を畳み込むように、複数の別の男たちの声が周囲を圧した。
「無駄な抵抗はやめろ!」
「もはや逃げることなどできんぞ!」
「抵抗すれば発砲して構わん! 絶対に逃がすな!」
随分と演劇めいた台詞だ、と少し離れて一部始終を見ていた私は思った。どうもリーの持ち駒には自己陶酔癖の所有者が多いようだ。自分が刑事映画の主演俳優にでもなったつもりらしい。
私の傍らにはラリーもいて、私と同じように赤外線暗視ゴーグルを通して事態の全容を眺めている。
赤外線暗視システムの特徴のひとつとして、強烈な光が入ると安全装置が働いて電源が切れることが挙げられる。私たちは電源が切れると同時にゴーグルを投げ捨てていた。昼間にように明るく照らされた中では、暗視ゴーグルはもはや無用だった。
私たちの身体は、樹林の中の楡の大木の上にあった。太陽が沈むと同時に部屋を出て、ここで獲物が網にかかるのを待っていたという訳だ。網を引いたのは、リーガ連れてきた三人の男たちである。さすがに腕利きであることは容易に察せられた。そして今、三人が主導する形でさらに複数のリーの部下が各所に配置されており、襲撃者を迎え撃つべく待機していたのだ。
だが、彼らも私たちがここにいることには気づいていないだろう。さすがのリーの部下たちも、私とラリーの能力にかかれば煙に巻かれるという訳だ。
その時、事態のさらなる急変を告げる轟音が響き渡った。第一射が発砲されたのだ。
ほんの瞬間目を離しただけで、私はすぐには誰が発砲したのか見極めることができなかった。状況を確かめ、全員の位置と体勢を確かめる。
いた。一人が道路上にうずくまっている。撃たれたのはリーの部下の一人だ。ここから一番離れた位置にいたやつだ。遠隔操作で車のライトを点灯させたと思われる人物である。
二人の暗殺者は、いまやほうほうの体で逃げ出している。言葉を取り繕う必要はない。だが、実力は確かにあるようだ。リーの部下にとっても、そう簡単に相手を取り押さえられるという状況ではなくなっていた。
「いくぞ、ラリー」
私は脚の調子を確かめてから、短く囁いて傍らの助手の方を振り返った。ラリーは心得たといった様子で頷くと、身軽な身のこなしで勢いよく木の幹を滑り降りた。私もできるだけ左脚に負担をかけないように気を配りながら、それでもラリーに劣らぬ速さで後に続く。
「無理しないでね、シモン」
ラリーの言葉の意外さに私は唖然としてしまったが、続く言葉でそれは憮然に取って代わった。
「傷が開いたりしたら、足手纏いだからね」
「……いらん世話だ。それより、さっさと追うぞ。ぐずぐずしてたら逃げられちまう」
私はこの時、「無茶」という形容がぴったりの行動を取っていたようだ。というのも、傷口からの出血は覚悟の上で、それを最小限に留めるためにことが始まると同時に傷口の少し上の部分をきつく縛り、半ば脚に血が通わない状態で走り出したのである。
そのこともあって、ことは迅速に処理しなければならなかった。場合によっては、私は片脚を失うことになるかも知れないのだ。私は別に仁徳の志士という訳ではないので、いかに依頼と自分のプライドのためとは言え、片脚を失おうとも必ずや、などと思うことはできなかった。
ふたつの影、つまり先日私を殺そうとした二人組は、私たちが身を潜めていた木から直線距離で五十メートルほどのところを一目散に駆け出している。おそらくはその先に彼らが乗ってきた車があるのだろうが、今頃はリーの部下たちの別働隊によって確保されているはずである。
私とラリーは楡の木立の合間を縫いながら、ふたつの影とほぼ並行して走った。リーの部下たちが照射するライトのおかげでいまや真昼のように明るく照らし出された樹林の中で、私たちは二人の動きをはっきりと見ることができた。リーの部下たちが大仰に立ち回ってくれているおかげで、敵はいまだ私たちの存在を察知していないようだ。
二人の姿を追う視線の先で、その前方に突然人影が躍り出て、先行していた巨躯の方にアメリカン・フットボールさながらにタックルした。最初にリーが連れてきた三人のうちの一人だ。二人は組み合ったまま地面を転がった。殺人者の手から拳銃が飛んで、乾燥した大地に接吻する。
最初はタックルをかけた方がのしかかっていたが、すぐに体勢が逆転して巨躯の男が上になる。リーの部下も鍛え上げた肉体の所有者であったが、そこからさらに逆転させるのは容易ではないようだった。組み合う二人はともに二メートルを越える長身だったが、殺人者の方が横幅でひと回りは上回っている。
今一人の長身の男は一瞬躊躇したようだが、後方から追い縋るもう一人のリーの部下の姿を認めると、判断を下すのは早かった。振り返って銃を構えると、迷うことなく引き金を引いた。リーの部下は横っ跳びに跳んで躱し、その瞬間にはホルスターから自身も銃を抜いている。互いに徹底抗戦の構えである。
響き渡る銃声は、近隣住人の眠りを妨げるであろう。すぐにも警察が駆けつけるはずだ。その上で発砲を厭わないということは、襲撃者たちにはそれなりの算段があるということだ。さすがに自分たちの殺人技術には相応の自信があるということなのだろう。確かに、いかにリーの部下たちが優秀であっても、最初から殺すつもりでかかられれば分が悪い。
だが、二人の殺人者にも誤算があった。
彼らは、いまだに私とラリーの存在に気づいていなかったのだ。まさに致命的である。まぁ、先日、深手を負わせて生命を奪う一歩手前まで追い詰めた相手が獲物となれば、油断するのも無理からぬことではあるが。
私は二人の殺人者の足が止まったことを確認すると、隣りを走るラリーに目で合図した。ラリーが無言のまま頷く。二手に分かれて、私は追い縋る追撃者に銃口を向けている長身の男の方へ駆け出した。私の左脚を撃ち抜いた男である。
私は、すぐに男から確認できる位置にまで駆け寄った。駆け寄る足音に反応して振り向いた男の視線が、私のそれとぶつかる。男の瞳が驚愕の色を発するのを、私は冷静に見て取っていた。
私の左手には、小型のスタンガンが握られていた。暴漢撃退用の高電圧発生装置だ。その威力はなかなか侮れない。私の手にある武器を認めると、男は反射的に銃口をこちらに向けて躊躇うことなく引き金を引いた。
静寂が支配するはずの深夜の郊外の公園に、三度銃声が反響した。それに次いでくぐもった嗚咽が漏れ、私の眼前で長身の男の身体が崩れ落ちる。私が投じた石が男の鳩尾に食い込み、気絶させたのである。私は生まれつき肩は強かったが、この時、それはさらに私自身の能力によって威力を増して男を襲った。質量の増大である。
物質の質量がどのような要因でその物質独自の一定値を保っているのか、私は詳しいことは知らない。だが、私は極めて自然的なもの、石やら木やらといったものに対してのみ、触れた直後に限ってその質量を増大させることができる。質量の増大域は元の物質の五倍から七倍。正確には調べていないが、感覚的にはそんなところであろう。
質量が増大すればそれに比例して速度と衝撃が増すのは当然である。投石が男を襲うのと銃弾が発射されるのは、ほぼ同時だった。
掌に収まる程度の大きさの割に大幅に質量を増した石は、投石機で打ち出された砲丸並の衝撃を男に与えたはずである。そのような状況でさすがに銃弾は狙いを大きく外して、私の遥か横を飛び去った。
男は私の左手にあるスタンガンに注意を奪われる余り、右手に握った石という原始的な飛び道具に気づかなかったのだ。文明の利器に頼り切った報いだ、と私が口にするのはいささか虫が好すぎるだろう。その文明の利器のひとつを囮として使ってのトリックに過ぎなかったのだから。
私が戦闘においてこの能力を使う頻度は、他の能力に比して少ない。と言うのも、極めて確率が悪いからである。今のように見事に敵の攻撃力を奪い、かつ意識を断つことができれば重畳だが、それも私の投球技術にかかってくるとなると実戦においてははなはだ使い勝手が悪いのだ。体感的には三割程度の確率で失敗するような実感だ。そんな確率では、生命のやり取りがかかっている場ではあまりに危険である。結果として、本来であれば私は近接戦闘においては極力格闘を選ぶのだが、今の身体の状態ではそれは無理であった。加えて、今はリーの部下たちの目もある。あまりに超常的な能力を使う訳にはいかなかった。
殺人者たちも焦りさえなければ、私の左脚が半ば痺れている状態であることを見抜けたであろう。加えて、脚ほどではないにしても左腕も傷は深く、まだ思うようには動かせなかった。幸い神経には損傷はなかったが、筋肉は大きく斬り裂かれている。今の私は専門家を相手にしてまともに近接戦を挑めるような状態ではなかった。
私が長身の男を片付けた数瞬後には、その片割れも地面に這いつくばっていた。
銃声に気を取られた一瞬に、リーの部下にのしかかっていた巨躯の男は後頭部に凄まじい衝撃を受けて卒倒していた。
ラリーが力任せに特殊警棒で殴りつけたのだ。見た目には細身の少女であるが、ラリーにかかればその衝撃はとてつもないものとなる。
筋力の爆発的な増強。これはラリーの有する超常的な能力のひとつだ。女性であるラリーにとっては、私たちのような仕事をする上では極めて有効な能力だった。
これらの様々な超常的な能力によって、私たちは特別捜査隊員などという職務に就いているのだ。とは言え、大層な名前とは裏腹に、その実情はどこまでもリー・アンクランシスの小間使いでしかないのだが……。
私とラリーが持つ能力は、互いにまったく重複していない。奇妙なことだが、事実である。ラリーが質量の増大という能力を有していないと同時に、私には筋力の増強という能力はない。我々の能力の違いは、すなわち対象となるものの違いであろう。私の能力は外界の物質に対して働くものであり、ラリーの能力は自身の肉体機能に対して働くものである。ちなみに、私の能力は先ほどの質量増加以外に物質の透過、空間の固形化などといったものがある。ラリーは筋力の増強に加えて視覚や聴覚の強化など、身体能力全般を強化することができる。そして、私も彼女もいまだ自身も知らぬ能力を秘めているのかも知れない。
ともあれ、二人の殺人者はこうして私たちの前に意識を失って横たわることになった。こうなると、さすがの暗殺稼業を生業とする闇の住人であっても目も当てられない。
リーの部下たちは、最初は事態の急展開に混乱していたようだが、私たちの顔を見て得心がいったようである。
無論、彼らには私たちの能力についての知識はない。必要以上に私たちの存在を広めるのは、自分で首を絞めるようなものだ。何しろ私たちの能力は、医学者や生物学者をはじめとする研究者たちにとっては、一生を費やすに足るほどの研究対象となるであろう。それだけならまだしも、この力が公に知られれば、ゆくゆくは軍事目的に利用されるのは自明である。
したがって、この時も私たちは使用する能力を厳重に制限しなければならなかった。あまりに不自然であれば、当然追求されることは免れないからであるが、さて、本当によかったのか。
見るからに屈強そうな大男を特殊警棒の一撃でのした少女に向けられる二人の視線を、私は複雑な表情で観察して苦笑せざるを得なかった。
銃声を聞きつけた一般市民が騒ぎ出したので、私たちは処置を急がなければならなかった。リーの部下たちが集まってきて、襲撃者たちを担ぎ上げる。彼ら自身のベルトを拝借して後ろ手に縛り上げた上で、用意していた車の後部座席に押し込む。目隠しと猿轡を噛ませることも忘れない。
その間に、私は地面に転がっている銃を拾い上げた。ベレッタM9。この国の軍に数年前から正式採用されているモデルだ。その意味するところを考えつつも、結論を出すのはまだ先だ。それをリーの部下に手渡すと、さすがに彼も驚いたようである。
二人をリーの元へ運ぶように頼んで送り出す時に、私は付け加えるのを忘れなかった。
「この二人には、俺自身が聞きたいことが山とある。俺の分も残しとくように、リーに伝えといてくれ」
リーの部下の一人は神妙に頷いたが、直接には何も言わなかった。
後に残った一人は、ラリーと一緒に負傷した仲間を別の車に乗り込ませていた。銃弾は右肩に着弾したようだが、幸い、生命に別状はないようだった。
病院に急行しようとする際、今度はラリーが口を開いた。
「そっちの人は弾も貫通してるから大丈夫だと思うけど、こっちの方が心配だから、一緒に連れてってください」
私は自分の方に向かって突き出された指を見て、初めて左脚に視線を落とした。
気づかない間に、私の左脚はいまや靴先まで真紅に染まっていた……。
「いや、まったく大したものだ」
リーの可笑しそうな表情をともなった称賛を受ける私の気持ちは、必ずしも建設的な方向には向いていなかった。
むくれた表情でベッドに横たわる私の枕元で、ラリーが腰を下ろして林檎の皮を剥いている。その後ろにリーが立って、私の顔を見下ろしていた。反対側の枕元には、血液を満たした輸血用パックが掛けられており、そこから伸びるチューブが私の腕まで続いている。
大量出血で朦朧とする意識の中、病院に運ばれた私を待っていたのは、痩せぎすの医師の引きつった笑いとそれに次ぐ説教、そして緊急の縫合手術と術後の安静だった。私は手術中から病室に運ばれるまでの間中、くどくどと自分の非を責め立てられる栄光にあずかったのである。
「はい」
そう言ってラリーの手が伸びて、私の口許に林檎をひと切れ運んできた。手術後にこんな飲食が許されるのだろうか。しかも今、私は輸血を受けている真っ最中である。
躊躇したのは、だが、一瞬のことだった。私は差し出された林檎に齧りつき、口内に広がる快い芳香を味わった。
「ルナーブル医師が、お前のような患者は初めてだと文句を言ってたぞ」
リーが人の悪そうな笑いを含めて言った。
ルナーブル医師……? あぁ、あの針金細工のような医師か。私は痩せこけた医師の顔を思い起こして、一人でにやついてしまった。
「ねぇ、大丈夫? 血が足りなくて頭の方まで回らなくなったんじゃないよね」
ラリーの真剣そうな問いで、私は自分の表情の変化に気がついた。慌てて笑いを抑えて、自分のことは棚に放り上げてから真面目を装って神妙な声を出す。
「くだらないことを言ってるんじゃない。それより、リー、あの連中はどうしてるんだ?」
リーはラリーと顔を見合わせて肩を竦めたが、すぐに私の言葉に答えた。
「私の個人所有の独房に監禁してある。無論、別々にな。私が出てくる時にはまだ意識が戻っていなかったから、尋問はこれからだ。戻る頃には気づいているだろうから、すぐにでも始められる。お前の意見も聞こうと思ったのでな。グリーンに言っただろう。聞きたいことが山とある、と」
それを聞いた私は、生真面目な表情で頷いたリーの部下の顔を思い浮かべた。そうか、彼はグリーンというのか。二十五の私より十歳は年長に見えたが、どうやらいやに律儀な性格らしい。
「だが、この様子じゃ無理だな。尋問はこちらでするから、大人しく療養に専念してくれ」
リーが口許にわずかな笑みを閃かせたので、私は冷たく水をかけてやった。
「心配するな。俺がいくまで尋問だろうが取り調べだろうがまともな回答は引き出せんさ。ゆっくり俺の回復を待っててくれ。自白剤でも使うなら、どうなるか俺にもわからんがな」
この時のリーの表情はと言えば、私にとって極めて鮮烈な印象であった。この男が理解できないでいる。私は笑い転げたい衝動に耐えねばならなかった。
「どういうことだ、ラリー?」
リーは私の様子を見て、対応の相手を変えることにしたらしい。
「おい、リー。敵前逃亡は汚いぞ」
「何、私も捻くれた坊やより美しい姫君と話す方が精神衛生上有益だからな」
リーはあっさりと形勢を逆転して勝ち逃げしてしまった。私がさらに言葉を重ねようとしたところを、ラリーが機先を制した。
「あの二人は何も知らないんだよ。自分たちがショバル国務長官に雇われてるってこともね。正確に言えば、忘れさせられてるってことかな」
「ほう」
リーの声は落ち着いていたが、その冷静さが表面だけのものかどうか、すでに判断できなくなっていた。常の厭味なまでのポーカーフェイスが戻っている。
「強力な暗示、とでも言えばいいのかな。そう簡単には解けないだろうね」
「そんなことが可能かい。軍の研究部でも科学研究所でも催眠暗示に関する研究は成されているが、いまだ実用化の報告は聞いていないが」
「私たちの存在は、どれくらいの人が知ってるの?」
ラリーの婉曲的な表現を受けて、リーは素直に納得したようだった。この世の中、科学的知見において一般的には知られていない事実などざらに転がっているのだ。その多くは、一部の人間によって占有され、研究や利潤のために利用されている。その生きた見本が、私とラリー自身である。
「では、お前たちはどうやってそれを知ったのだ。報告は受けていないが?」
「捜査の過程を逐一報告しろとは聞いてないぞ」
私の声は辛辣だった。しかし、私の毒舌をリーは自然な口調で躱した。
「そうだな。だが、もうことは終わったんだ。話してくれてもいいだろう、ラリー」
リーはどうあっても私を交渉相手と認めない気らしい。これのどこが大人なんだ。
「ショバルの別荘でね、本以上にとんでもないものを見つけたの。何だと思う?」
ラリーは別に勿体つけている訳ではないだろう。あの現場に居合わせれば、少なくとも平静にそれを語り流すことは難しいはずだ。
「何だい?」
リーはいつもと変わらない様子で先を促したが、ラリーが言葉を継ぐにはさらに多少の時間を要した。
「ショバルはね、国務長官なんてとんでもない悪党なんだよ。あそこはその証拠の集積所みたいなものだった。とてもまともな人間のすることとは思えなかったよ」
意を決して語りだしたラリーの口調は、常の調子より少しばかり低かった。だが、それ以上をラリーの口から語らせるのは、私としてはあまりいい気分ではなかった。それを察したのだろう、リーが私に視線を転じたので、続く話は私の口からなされた。すでに、とてもではないが冗談や軽口を叩く雰囲気ではなくなっていた。
話が進むにつれて、リーの顔からも毒舌家の表情が抜け、敏腕の統合参謀本部議長のそれに変わっていた。そして、そこには人道上の悪に対する嫌悪というスパイスも加えられていたのだ。
有名なところでは、第二次大戦中のドイツ第三帝国のアウシュビッツ、あるいは大日本帝國関東軍の五一六や七三一部隊の再現とでも言おうか。医学の暗黒面の集約。人間の残虐性の具現。サディズムとエゴイズムの申し子。ショバルの別荘の地下で、私たちが目にしたものがそれだった。
無数に並べられたベッドに掛けられた白いシーツ。研究成果をまとめた大量の書類の山。生体解剖実験の事実を告げる数々の証拠が、室内を埋め尽くしていた。人体実験による催眠暗示の実用化など、氷山の一角どころの話ではない。
私が「本」とともに持ち出したそれらの資料の一部を敢えてリーに見せなかったのは、本当に単なる個人的なプライドのためだったのだろうか。私の精神が、生理的嫌悪感によってそれに触れることを避けたと言われても、私はそれを完全に否定することはできなかった。
「なるほどな。ショバルはその研究成果を他国に売り渡していたという訳か」
リーの言葉で、私は自分が思考の波の中に沈んでいたことを悟った。意識を現実に引き戻して、沈痛な表情のラリーと思案に耽るリーの顔を見比べる。補足的に、私は自分の考えを述べた。
「他国とは限らないんじゃないか? まぁ、連中のことを思えばそれは間違いないだろうが、より大きな問題は国内の方じゃないか。どう考えても、この国だって一枚岩じゃない」
リーの顔に翳りが生じたのを、私は見逃さなかった。
「そうだな」
答えたのはそのひと言のみであったが、最も苦い思いを受けているのがリーなのだということを、私もラリーも感じずにはいられなかった。
男たちが持っていた銃はこの国のものだったが、先日、私は彼らがソヴィエト連邦の特殊部隊を示すであろう武器を所有していた事実に遭遇しているのだ。果たしてショバルの手がどこまで広がっているのか、にわかには想像もできない。どのような背景があるのか、場合によっては国際問題にまで発展しかねないほどの闇が存在することは疑いようがない。
リーの方が、我々よりよほど国家機構の中枢近くにいるのだ。利権を追って政争に明け暮れ、汚職が絶えない政治機構に対して、より深刻な憂慮と絶望を実感として受け止める立場にある。事態の深刻さを最も明確に受け止めているのは、リー自身に他ならなかった。
「もうひとつ言っておくことがある」
「何だ」
「やつらが持っていた凶器の中に、スペツナズナイフがあった」
「ほう……」
リーの目がすっと細くなる。
「そいつはまた思わぬ代物だな」
リーは私の言わんとするところを的確に見抜いたようだ。しばらく考えた上で、顎をひと撫でして呟く。
「これでショバルを叩く武器がまた増えたという訳だ。礼を言わねばならんな」
私はそれには答えず、書斎のデスクの抽斗に資料がしまってあること、その一部に二人の暗殺者の催眠暗示に関しての対応策が記されていることなど、必要最小限のことを告げた。
「まったく……ただでさえこれから政権内部の膿を出すところだというのに、これではどこまで広がるのか見当もつかんな。まぁ、いい。まとめて大掃除できるいい機会だ。レオナルドにもいい薬になるだろう」
友人の名を呟くリーの表情には、微塵も変化がない。たとえケーリー大統領に火の粉が降りかかることになろうとも、リーが容赦することは一切ないだろう。その目に冷徹な光を宿したまま病室を出ていくリーの後ろ姿を、私とラリーは無言で見送るだけだった。
リーが立ち去ってからも、私たちはしばらく沈黙していた。林檎を少しずつ私の口に運びながら、ラリーの表情はいつもの精彩さを欠いている。やはり、あの光景を思い出せばやむを得ないであろう。
「結局、シモンの計画は途中断念だね」
やや重い空気を破ったのは、ラリーのそんな言葉だった。
私は五歳年少の助手の顔を眺めやって、不平そうにそれに答えた。
「別に断念した訳じゃない。リーに譲っただけだ。報酬分の仕事はもう充分に果たしたからな」
わかっているのかいないのか、ラリーは「はいはい」などと呟きながら林檎のひと切れを自分の口に運んでいる。
私の計画では、まずはあの二人をおびき寄せる必要があった。そこでショバルの元へ直接連絡を入れて、自分が「本」を所有していることを、こちらの住所とともに教えてやったのだ。その際、金銭目当ての犯行と思わせるために、一〇〇万USドルという額を持ち出すぐらいのしたたかさは忘れていない。
人数が増える可能性はあったが、少なくともあの二人が派遣されてくることは容易に察せられた。最初に私たちを始末し損ねた責任は彼らにあるのだ。その失敗を挽回するためにも、必ず本人たちが来るはずであり、事実、そうであった。催眠暗示を施された上で、ということもさほど想像力を必要とはしなかった。そこで彼らを捕らえた後で、その暗示を解いて証人として祭り上げるというのが私が考えた策だった。
持ち帰った資料のうち、最も分厚いファイルにまとめられていたデータが催眠暗示に関するものだったので思いついたのである。
二人の捕獲については、リーがコンドミニアムの警備に置いていった三人がいたので、事情を極めて大まかに四捨五入した上で説得してご協力願ったのだ。人員の補充のためにリーにも伝える旨を聞いた私は当初やや渋ったが、取り逃がしては元も子もないので、致し方なくその申し出を了承した。私の想像は多少、的を外れていたようである。リーは何も聞かずに人員補充を認めてくれたのだ。
計画実施にあたって、私たちはぎりぎりまで手を出さないという条件をつけていたが、これに関しては私たちはあっさりと約束を破ったことになる。まぁ、私たちがいなければ、二人を取り押さえられたとしても被害はさらに拡大していたであろうことは事実なので、その辺りは大目に見てもらおう。
相手もプロであり、簡単には口を割らないことは間違いない。先ほど半ば冗談で自白剤の使用を口にしたが、場合によっては本当に使用することも考えなければならないだろう。実際のところ、今回、リーは薬物の使用に踏み切るはずである。私の予想通り、彼らが某国の特殊部隊員であれば、強度の尋問に対する訓練も受けているはずだ。場合によっては、さらに強烈な手段に訴える必要も出てくるかも知れない。
そのこと自体を、私は別にとやかく言うつもりはない。
このような事件に関わった際には、私はいつも思うことがある。私たちは別に正義の味方という訳ではない。ただ、自分の気に入らないことに対して、思うままに行動しているに過ぎない。特に自分を正当化するつもりもない。むしろ、自分の判断が間違いだらけなんてことは充分に承知しているつもりだ。だが、それでも、平和に生きている人たちにとって少しでも有益なものであるのであれば、それでいいのではないか。
いつか、私たちの存在が明るみに出るようなことがあれば、後世に伝えられる時、少しは成長しているかも知れない人類の後進によって、我々の存在意義も語られるのかも知れない。ふと、そんな思いが私の胸によぎった。
こうして、私の今回の仕事は終わった。後はリーが公的な立場から幕を引くだけである。ショバルの命運は数日で尽き、クラークスは手を叩いて喜ぶという訳だ。
それにしても、今回はいささか手間取った。通常を遥かに上回る所要日数もさることながら、医師の監視下で絶対安静を申し付けられることとなったこの負傷が、なにより鬱陶しかった。
私が仕事の上でこのような状態になったのは、今回が初めてである。いや、そもそも三週間の入院など、私の二十五年の人生そのもので初めての経験だった。私は金銭の亡者ではないが、これで五十万ドルでは割に合わないという気がしたのもやむを得ないであろう。クラークスの得た利益を考えれば、なおさらだ。
もっとも、私は一週間でうんざりして、さっさと病院を抜け出したのだが。その際、またリーに後のことを任せて逃げ出してきたのだが、まぁ、いつもこき使われているのだからそれぐらいは構わないであろう。
私が極めて自主的に退院したその日、リーの愛息であるアルフレッドが母親とともに見舞いも兼ねて我が家を訪問する予定であった。
アルフレッドに会うのは、随分と久しぶりのような気がする。ほんの半月前に会ったなずなのだが、私は幼い友人の来訪がやたらと楽しみであった。ふと我に返り、そんなことを考えている自分に首を傾げたくなる。はて、私はこれほど子ども好きではなかったはずなのだが、どうもアルフレッドには甘くなってしまうようだ。ラリーの言葉にも、それが表れていた。
「ねぇ、シモン。少しは落ち着きなよ。そんなにそわそわしなくてもアルは逃げないよ。まったく、他の人には会いたがらないくせに、アルだけは特別なんだから」
ふん、そんなことは言われなくても承知している。日頃、荒んだ人間関係の中にいると、純真を絵に描いたようなアルというオアシスの存在がひと際身に沁みるというものだ。人は古来よりオアシスを求めて旅をしてきた生物なのだ。
さて、今日はアルに何を教えてやろうか。あの子は好奇心旺盛で、しかも聡明だ。興味を持ったことは真綿が水を吸うように吸収する。新しい知識に触れるたびに目を輝かせるアルの姿は、久しく私が忘れていた微笑ましさを感じさせてくれる。そんなことを考えながら、私は書棚や物置をひっくり返していた。
アルの興味は分野を問わず多方面に向けられる。私やラリーはいつも質問攻めにあうのだが、それが楽しみで仕方がないことは、私だけでなくラリーの態度からも明らかだった。多方面への興味を示すアルだが、他分野の知識を結びつけて考えようとする姿勢は、彼の資質を示すものだと私は考えている。
前回、都市に生息する野生動物のことを調べていると、アルはそこから都市の環境や人側の対策にまで興味を示し、自分で調べるべき課題を見つけて帰っていったものだ。私はその時、広義的に物事を捉え、柔軟な思考を展開させることができるのは、アルが生まれ持った得難い資質だと確信した。誰が何と言おうと、私はそう信じている。
その日はまた、ショバル国務長官への当局の対応が決定する当日であった。とは言え、事前の報道でも伝えられるように、社会的身分の剥奪の上で即時収監は免れないはずだ。リーからも同様の報告を聞いている。その上で、罪に対する正当な裁きを受けるであろう。
彼を登用したケーリー大統領も何らかの責任を追求されることになるだろうが、リーも道を外れない範囲で友人のために奔走しているようだし、ケーリー政権にとっても成長するいい機会だろう。
そんなことを交えながら書棚を漁りつつ、ラリーに政治家どもの愚痴を零していると、何気なく点けていたテレビがアナウンサーの声も高らかに告げたのである。
「大統領はショバル国務長官に対して、不当に得た財産の返還命令を下しました。さらに収賄、背任、人権侵害、傷害致死、死体遺棄などの罪状により告訴する方針であることを発表しました」
私は、豪奢なベッドで毎朝を清々しい目醒めで迎えるクラークス国防長官の姿を想像した。そんな想像を他所に、ショバルの告訴決定の報が終わった刹那、速報を知らせるアラームが私とラリーの鼓膜を震わせた。アラームに引き続いて、感情を完全に抑制したアナウンサーの声が響く。
「国務長官に続いて、国防長官の汚職が発覚しました。ケーリー政権倒壊との声が現実味を増すことになりました」
数秒の沈黙の後、私はラリーと顔を見合わせて低く呟いた。
「敵を貶めて、自分は闇の中に目醒める、か……」
清々しい天使の訪問を待つ心に、暗く湿った風が吹き込み、私はやるせなさを感じずにはいられなかった。
その耳に、天使の来訪を告げるベルの音が響いた。私は自分の心にブラインドを下ろすようにテレビのスイッチを切り、大きく息を吐いてから玄関へ向かったのだった。
END




