水仙の護符をつけた王子が、悪役令嬢の私に求婚してきます
白百合の乙女人形の騒動から、しばらく過ぎました。
女神の鏡に映され、白百合の乙女人形に似られ、王宮の魔道具とはできるだけ距離を置いて生きていこうと、私は改めて心に決めておりました。決めておりましたが、どうやら魔道具のほうには、私の決意を尊重する気があまりないようです。
ある日の午後、私は王宮の応接室へ呼ばれました。
そこにはエリオット殿下と、王妃殿下がいらっしゃいました。お二人とも穏やかな顔をしておられます。穏やかすぎて、少し嫌な予感がしました。
「ネレイス嬢。あなたに同席していただきたい場があります」
王妃殿下は、いつもの柔らかな声でそうおっしゃいました。
「同席、でございますか」
「ええ。隣国アルディオス王国から、使節団が参ります」
隣国アルディオス王国。海を挟んで古くから交流のある国です。婚姻同盟こそありませんが、魔道具や薬草、古式礼法に関するやり取りは多く、王宮同士の関係も悪くありません。
「五十年前、友好の証として、我が国からアルディオス王国へ一つの魔道具を貸し出しました」
「魔道具」
私は思わず繰り返しました。
殿下が、ほんの少しだけ視線を逸らされました。
その時点で、私は帰りたくなりました。
「水仙の護符、と呼ばれるものです」
王妃殿下は続けます。
「本来は礼装用の魔道具でした。身につけた者の姿や振る舞いを、場にふさわしく整えて見せるものです。外交儀礼の席で、相手に好印象を与えるために用いられていたと記録にあります」
「それが、五十年ぶりに戻ってくるのですね」
「ええ。今回、使節団が返還のために持参します」
私は静かにうなずきました。
水仙の護符。礼装用魔道具。五十年ぶりの返還。聞いただけなら、たいへん由緒正しい話です。聞いただけなら。
「それで、なぜ私が同席するのでしょうか」
念のため、尋ねました。
殿下が咳払いをなさいます。
「アルディオス王国側から、女神の鏡に選ばれた令嬢にもぜひ挨拶をしたい、という申し出があった」
「たいへん余計な申し出ですわね」
「ネレイス」
「失礼いたしました。たいへん光栄な申し出です」
「言い直しても、気持ちは変わっていないな」
「人間ですので」
殿下は小さく息を吐かれました。
王妃殿下は扇の陰で笑っておられます。
「女神の鏡の一件は、隣国にも伝わっているようです。もちろん、詳しい事情までは伝えておりません。けれど、鏡に選ばれた王太子殿下の婚約者、という噂だけは広がってしまいました」
「噂というものは、どうして余計な部分だけ遠くまで走るのでしょう」
「それを止めるのも社交の一部です」
王妃殿下は、たいへん優雅におっしゃいました。
止める側の身にもなっていただきたいです。
とはいえ、王宮での外交の場に王太子殿下の婚約者として同席すること自体は、不自然ではありません。相手国がこちらに敬意を示しているなら、こちらも礼を尽くす必要があります。
私は覚悟を決めました。
「承知いたしました。できる限り、見苦しくないよう努めます」
「ええ。それで十分です」
王妃殿下はそうおっしゃいました。
殿下は、なぜか少しだけ不満そうに私を見ました。
「君は、すぐに自分を低く見積もる」
「見苦しくないよう努める、というのは大切なことですわ」
「否定はしない。だが、それだけではないだろう」
「それだけではない、とは」
「いや。今はいい」
殿下は何でもないように首を振られました。何でもない顔をする殿下は、だいたい何でもなくありません。
翌週、アルディオス王国の使節団が王宮へ到着しました。
使節団を率いていたのは、アルディオス王国の宰相補佐を務める侯爵でした。年配の穏やかな方で、挨拶も礼も整っています。隣には、王族に連なるという若い公子が立っていました。正式な王子ではありませんが、王家の血を引く遠縁の方だそうです。
その後ろに、数名の随行員と従者が控えていました。
そのうちの一人に、私は少しだけ目を留めました。若い男性でした。年は殿下より少し上か、同じくらいでしょうか。淡い金色の髪に、湖のような青い瞳。整った顔立ちで、立ち姿も美しい。ただ、従者にしては、少し視線が高すぎるように見えました。
身分が低いという意味ではありません。控える者には、控える者としての視線の置き方があります。けれど彼の視線は、時折、窓硝子や磨かれた銀盆、水差しの表面へ流れました。そこに自分の影が映るたび、彼の目がほんの少し柔らかくなるのです。
私はその印象を、心の中でそっと棚に置きました。
「ローヴェル公爵令嬢でいらっしゃいますね」
使節団の代表が、穏やかに私へ声をかけます。
「はい。ネレイス・ローヴェルと申します」
私は礼を返しました。
視線が、ほんの一瞬だけ止まりました。無遠慮なものではありません。外交の席に立つ者として、相手の装いと所作を正確に見た、という程度のものです。
けれど、その目には確かに、礼儀正しい賛嘆がありました。
「女神の鏡に選ばれた令嬢にお目にかかれるとは光栄です」
「恐れ入ります」
鏡に選ばれた件については、できれば忘れていただきたいです。しかし、外交の場でそのように申し上げるわけにもいきません。
私は微笑んでおきました。淑女には、時に忘れてほしいことにも微笑む技術が必要です。
その夜、歓迎の夜会が開かれました。
水仙の護符は、翌日の正式な返還式で披露される予定でした。今夜はあくまで親睦の場です。そう聞いていたので、私は少しだけ安心していました。
魔道具がまだ表に出ていないなら、何事も起きないはずです。そう思っていた私が甘かったのかもしれません。
夜会の途中、会場の空気がふと変わりました。それまで隣国の公子や使節団の代表へ向けられていた視線が、少しずつ別の方向へ流れていったのです。
人々が、同じ方角を見ています。
私もそちらへ目を向けました。
そこにいたのは、とても美しい青年でした。金の髪は燭台の光を受けて柔らかく輝き、青い瞳は澄み、身にまとった衣装は隣国の王族が着るような深い青の礼装です。胸元には、小さな水仙をかたどった護符が光っていました。
会場の令嬢たちが、ほうっと息を漏らします。
それだけではありませんでした。
年配の貴婦人までが、扇を持つ手を止めていました。いつもなら人の衣装の縫い目まで見逃さないような方が、まるで若い娘のように目を潤ませています。近くにいた侯爵夫人は、隣の夫人に何かを言いかけたまま、言葉を忘れたように唇を閉じました。
「まあ……」
「なんてお美しい方」
「あれほど気品のあるお方なら、王族に違いありませんわ」
「アルディオスの王子殿下ではなくて?」
「正式な紹介はまだだったはずですわ」
「けれど、見れば分かりますでしょう」
「見れば、分かる」
近くの令嬢が、うっとりと同じ言葉を繰り返しました。
「ええ、見れば分かりますわ」
「王族の方に違いありませんもの」
「違いありませんわ」
ささやきが、会場のあちこちで返っていきます。
まるで、青年の姿に向けられた言葉が、壁や杯や扇に当たって、少しずつ甘くなりながら戻ってくるようでした。
私は、少しだけ眉を寄せました。どなたも、あの方を王子だとは紹介していません。けれど、会場の熱気で、それがさも事実かのように感じられました。
「リュシオン」
その時、隣国の公子が低く呼びました。声には明らかな緊張がありました。
「下がりなさい」
公子はすぐに一歩踏み出しました。使節団の代表侯爵も、青ざめた顔で従者へ何か命じようとします。けれど、その声は周囲のざわめきに飲まれました。
「リュシオン?」
「お忍びのお名前かしら」
「まあ、異国の王子殿下が身分を隠していらっしゃるの?」
「素敵ですわね」
素敵、ではありません。少なくとも、隣国の公子は少しも素敵そうな顔をしていませんでした。
公子はもう一度、青年へ手を伸ばそうとしました。けれど、近くにいた貴婦人が、うっとりとした顔でその前へ出てしまいました。
「殿下、こちらへ」
その貴婦人は、彼を本当に王子だと思い込んでいるようでした。
公子の手が、宙で止まります。
青年はその混乱の中心で微笑み、ゆっくりと会場を進んできます。周囲の者たちは、自然に道を開けました。まるで本物の王子が歩いているかのように。いえ、違います。すでに、本物の王子が歩いているつもりで道を開けているのです。
けれど、彼が見ていたのは会場の人々ではないように思いました。壁際の大きな窓硝子。磨かれた銀の燭台。貴婦人が手にした水晶杯。そこに映る自分の姿を、彼は一つずつ確かめているようでした。水晶杯の揺れる表面に青い礼装の影が映ると、彼の口元がかすかにほどけます。
たいへん美しい微笑みでした。ただし、その微笑みは、誰かへ向けられたものではありませんでした。
先ほどまで隣国の公子へ向けられていた敬意まで、少しずつ青年のほうへ移っていくように見えました。公子の表情が硬くなります。彼はもう一度、青年を止めようとしました。
けれど、青年が胸元の護符に触れた瞬間、近くの令嬢が小さく息を呑みます。
「なんて、お可哀想」
誰に向けた言葉なのか、すぐには分かりませんでした。
「身分を隠してまで、想いを伝えにいらしたのね」
その言葉に何人かの令嬢が頷いていました。
彼は私の前で立ち止まりました。
その視線が、私の髪飾りから襟元へ、袖口の刺繍へと流れました。
不躾というほどではありません。けれど、先ほど侯爵が向けた視線とはどこか違います。私を見ているようでいて、私だけを見ているわけではない。
近くの窓硝子に、深い青の礼装をまとった青年と、青い衣装の私が並んで映っています。
青年はその映り込みを見て、満足そうに微笑みました。
「お初にお目にかかります、ローヴェル公爵令嬢」
声まで美しい方でした。
「お初にお目にかかります」
私は礼を返しました。
名前を名乗られないのが気になりましたが、相手が名乗らない以上、こちらから問い詰める場面ではありません。
青年は微笑みました。
「女神の鏡に選ばれた方は、やはり噂以上にお美しい」
また見られ方の話ですか。私は心の中で、そっとため息をつきました。
「恐れ入ります」
「ですが、少し惜しい」
「惜しい、とは」
「あなたほどの方が、一国の王太子妃に収まるなど」
周囲が静まりました。
私は、ゆっくりと顔を上げました。
青年の微笑みは、少しも揺れませんでした。自分の言葉がどれほど不敬に近いかなど、まるで問題にしていないように見えます。どちらにせよ、扱いに困ります。
「私の立場については、我が国と王家が正式に定めたものです」
「もちろん存じております」
青年は、優しく笑いました。
「けれど、女神の鏡に選ばれたあなたには、もっと広い世界がふさわしい」
私は返事をしませんでした。
なぜでしょう。広い世界と言われているのに、少しも広く感じません。その言葉は、私をどこかへ連れていくためのものではなく、彼自身を広く見せるための飾りのように聞こえました。
「あなたは、私の隣でこそ最も美しく見える」
青年は、私を見ているようでいて、どこか私の向こうを見ていました。
「女神の鏡に選ばれたあなたが私の隣に立てば、誰もが理解するでしょう」
「何をでしょうか」
「私が、どれほど美しいかを」
周囲がほうっと息を漏らしました。
私は、少しだけ黙りました。今、とても重要な言葉が聞こえた気がします。
この方は、私を褒めているのではありません。私を隣に置いたご自分を、褒めておられるのです。
その瞬間、殿下が静かに私の隣へ立たれました。
「失礼」
声は穏やかでした。穏やかすぎて、近くにいた令嬢が一人、扇の陰で息を呑みました。
「彼女は私の婚約者だ」
「存じております」
「ならば、彼女を使って自分の美しさを測るような言葉は控えるべきだったな」
殿下は笑っておられました。
ただし、目が少しも笑っていません。珍しいものを見ました。
できれば、もう少し安全な距離から拝見したかったです。
青年は、殿下を見ました。
その表情には、敬意がありました。礼儀もありました。けれど、それ以上に、どこか勝ち誇ったような色がありました。
「殿下。私はただ、美しいものにはふさわしい場所があると申し上げただけです」
「彼女の場所を、お前が決めるのか」
「いいえ。ただ、見えるのです」
青年は胸元の護符に手を添えました。水仙の花をかたどった金の護符が、淡く光ります。
「彼女が誰の隣に立てば、最も美しく見えるのかが」
会場の空気が、甘く歪んだように感じました。周囲の視線が、青年へ引き寄せられていきます。誰もが彼を美しいものとして見ています。高貴なものとして、正しいものとして、少し哀れなほど誠実な恋をしている者として。
そのせいでしょうか。
私が一歩下がると、周囲の空気がわずかに冷えました。
「まあ」
「ローヴェル公爵令嬢、少し冷たすぎませんこと」
「異国の高貴な方が、あれほど真摯にお言葉をかけておられるのに」
「女神の鏡に選ばれたからといって、少しお高くとまっておられるのでは」
「でも、ローヴェル公爵令嬢には以前から、少し近寄りがたいところがございますでしょう」
「ええ。美しい方ですけれど、どこか冷たいというか」
「殿方の心を踏みにじっても、眉ひとつ動かさないように見えますわ」
ささやきが、布の擦れる音のように広がります。おかしいですね。私はただ、お断りしようとしただけですのに。
気づけば私は、異国の高貴な方の純情を冷たく踏みにじる悪しき令嬢、という役を与えられつつありました。
不本意です。そもそも、純情だったのでしょうか。私には、自分の姿を飾る額縁を探しているように見えたのですが。
もう一つ引っかかるところがあります。皆様、あの方を隣国の王子殿下のように扱っておられます。ですが、正式にそう紹介された覚えがありません。
私は使節団の方々へ視線を向けました。
代表の侯爵は、青ざめた顔をしていました。隣国の公子も、困惑したように眉を寄せています。少なくとも、彼らは目の前の青年を王子として扱ってはいませんでした。
「殿下」
私は小さく声を落としました。
「何かおかしくありませんか」
「ああ」
殿下は、青年から目を離さずに答えました。
「誰も、彼を王族として紹介していない」
「やはり、そうですわね」
「それなのに、周囲は最初からそのつもりで見ている」
殿下の視線が、青年の胸元へ落ちました。水仙の花をかたどった護符が、淡く光っています。
「明日の返還式で披露されるはずのものだ」
「では、なぜ今、あの方が身につけていらっしゃるのでしょう」
「それを確かめる必要があるな」
その時、青年がこちらへ手を伸ばしました。
「ローヴェル公爵令嬢。どうか、私の言葉を誤解しないでください」
誤解でしょうか。わりと正確に不快だったのですが。
彼の指が私へ触れる前に、殿下の手が私の手首をそっと引きました。
強くはありません。けれど、迷いもありませんでした。殿下の指先は、すぐには離れませんでした。
「触れるな」
殿下の声は低く、静かでした。
会場の空気が凍ります。
青年は不思議そうに微笑みました。
「殿下。なぜそのように警戒なさるのです。彼女は、あなたの所有物ではないでしょう」
「その通りだ」
殿下は即座に答えました。
その早さに、私は少しだけ驚きました。
「彼女は私の所有物ではない。だからこそ、お前が飾りのように扱うことも許さない」
青年の微笑みが、ほんのわずかに深くなりました。
「飾りではありません。花です。美しい花は、ふさわしい場所に咲くべきでしょう」
「彼女は、お前の姿を飾る水仙ではない」
殿下の声が、会場の隅まで届きました。
「ネレイスは、誰かの美しさを証明するために咲いているわけではない」
周囲のささやきが止まりました。
私は返事に困りました。
青年は、ゆっくりと首を傾げます。
「美しさを証明するためではない、と」
「そうだ」
「では、なぜ女神の鏡は彼女を選んだのですか」
その言葉に、周囲が再びざわめきました。
女神の鏡。また、その話です。
「鏡に選ばれた者は、世界で一番美しいのでしょう」
青年は、うっとりと私を見ました。
「ならば、その美しさにふさわしい相手が必要です。彼女を最も美しく見せる者が、彼女の隣に立つべきです」
私は、ようやく口を開きました。
「失礼ながら」
青年が私を見ます。
「あなたは、本当に王族の方なのでしょうか」
会場の空気が止まりました。
青年は、微笑んだまま瞬きをしました。
「何を今さら。皆がそう認めているではありませんか」
「皆様がそう見ていることと、あなたがそうであることは別ですわ」
殿下は何も言いません。ただ、私の手首を支えていた手を、静かに離されました。
私は一歩、前へ出ました。
「正式なご紹介を受けておりません。王族の方であれば、使節団の代表からそのように紹介されるはずです」
「紹介など、必要ありません」
青年は笑いました。
「私を見れば、分かるでしょう」
「いいえ」
私は首を横に振りました。
「見ただけでは、分からないこともございます」
その時、王宮の庭園へ続く扉が開いていることに気づきました。夜会の熱を逃がすため、庭園側の扉が開けられていたのです。その先には、月を映す大きな水盤があります。
私は、青年の胸元にある水仙の護符を見ました。
水仙。水面。映る姿。たいへん嫌な並びです。
こういう時の嫌な予感は、だいたい当たります。最近、当たりすぎて困っています。
「では、確認いたしましょう」
私は庭園の方へ視線を向けました。
「水盤の前へお越しいただけますか」
青年の表情が、初めてわずかに揺れました。
「なぜ、そのようなことを」
「水面は、時に鏡より正直ですから」
会場の者たちが息を呑みます。
「そこまで疑わなくても……」
「ローヴェル公爵令嬢は、ずいぶん手厳しい方ですわね」
「あの方は、ただ想いを告げただけですのに」
囁きがいくつも重なりました。どうやら今の私は、恋する異国の貴公子を冷たく追い詰める令嬢に見えているようです。
たいへん不本意です。けれど、ここで退くわけにはいきません。
青年は動きませんでした。
代わりに、胸元の水仙の護符が淡く光ります。
「私は王子です」
彼は言いました。
「王子ですわ」
誰かが、ほとんど吐息のように繰り返しました。
「誰よりも美しく、誰よりも高貴で」
「美しく、高貴で」
「誰よりも女神の鏡に認められた彼女にふさわしい」
「ふさわしい」
言葉が返ってきます。彼の言葉が、彼を見つめる人々の口から、何度も、少しずつ形を変えて戻ってきます。
リュシオンはそれを聞いて、陶然と微笑みました。まるで、戻ってくる声だけを待っていたかのようでした。
私は使節団の方々を見ました。
代表の侯爵は、青ざめた顔で周囲の者に指示を出そうとしていました。隣国の公子も、何度も青年を止めようとしているようです。けれど、不思議なことに、その声は届いているはずなのに、誰も正しく受け取っていないようでした。少なくとも、彼らだけは目の前の青年を王子として扱ってはいませんでした。
「殿下」
私は小さく声を落としました。
「私には、あの方が最初に入場した従者の一人に見えます」
「ああ」
殿下は青年から目を離さずに答えました。
「私にもそう見えている」
その言葉だけで、十分でした。
殿下が近衛に視線を送ります。
青年は後ずさりました。
「違う」
その声は、先ほどまでより少し乱れていました。
「私は従者ではない。あの方の後ろに立つだけの者ではない。私のほうが美しい。私のほうが言葉を知っている。私のほうが、人の心をつかめる」
胸元の護符が、さらに強く光ります。
「なぜ彼ばかりが見られる。なぜ私は見られない。私こそ、王子として扱われるべき者だ」
言葉が進むたびに、青年の姿が揺らいでいきました。金の髪は少し色を失い、青い礼装は従者の衣装へ戻りかけます。けれど、次の瞬間にはまた王子のように整いました。水仙の護符が、彼の望む姿を必死に保っているようでした。
「水盤へ」
殿下が短く命じました。
近衛たちが青年を囲みます。青年は抵抗しましたが、妙なことに、暴れ方までどこか優雅に見えました。護符の力なのでしょう。見苦しいはずの動きさえ、悲劇の王子のように整えられて見えるのです。それがかえって、不気味でした。
庭園の水盤の前へ連れてこられると、青年は顔を背けました。
「見ません」
「なぜですか」
私が尋ねると、彼は唇を噛みました。
「私は、知っている」
声が震えていました。
「水面は、いらないものまで映す」
その言葉は、どこか幼い響きを帯びていました。
殿下が、静かに言いました。
「お前の名は」
青年は黙ります。
駆け寄ってきた使節団の代表が、青ざめた顔で答えました。
「リュシオンです。アルディオス王国使節団付きの従者で、王族ではございません」
会場に動揺が走りました。
リュシオン。
先ほどまで王子として扱われていた青年は、唇を震わせました。
「違う」
彼は水盤から目を逸らしたまま呟きます。
「私は、このような姿ではない。私はもっと美しい。もっと高貴で、もっと選ばれるべき者だ」
「リュシオン」
隣国の公子が、沈痛な声で呼びました。リュシオンは、その声に激しく反応しました。
「呼ぶな」
彼は叫びました。
「その名で呼ぶな。私は、あなたの陰に立つために生まれたのではない。私のほうが、皆に見られるべきだった。私のほうが、彼女の隣にふさわしい」
彼は私を見ました。
その目は、私を見ているようで、私を見ていませんでした。私の瞳に映った自分の姿を確かめているようでした。
「私は、あなたを愛している」
リュシオンは言いました。
私は少しだけ息を吐きました。
「それは違いますわ」
「なぜ」
「あなたが愛しているのは、私に愛されるあなたご自身です」
リュシオンの顔が、強張りました。
護符が、強く光ります。
月の光を受けた水盤が、静かに揺れました。
その水面に、彼の姿が映ります。
そこにいたのは、美しい王子ではありませんでした。
使節団の末席に控えていた、若い従者です。整った顔立ちではあります。けれど、王子ではありません。高貴な礼装も、周囲を従わせる光も、そこにはありません。ただ、その胸元の水仙の護符だけが、不自然なほど明るく輝いていました。
「違う」
リュシオンは水面を見ました。
「違う。これは私ではない」
そう言いながら、彼は水面から目を逸らせませんでした。
「私は、彼女を見ていたはずだ」
水面の中の彼が、静かに微笑みます。
「彼女を、愛していたはずだ」
その声は、だんだん小さくなりました。
「なのに、なぜ」
リュシオンの指先が、水面へ伸びかけました。
「なぜ、私が映っている」
水面が揺れます。映った青年も、同じように手を伸ばしていました。
彼は息を呑みました。
「……私が、私を見ている」
水仙の護符が淡く震えました。
「そうだ。これでいい。誰も見なくても、私が私を見ている。私は、美しい。私は、高貴だ。私は、選ばれるべき者だ」
近衛が彼を水盤から離そうとしました。
リュシオンは抵抗しませんでした。ただ、水面を見つめ続けています。
「見ている。私が、私を」
その声は、だんだん小さくなっていきました。
魔導師たちが駆けつけ、青年から取り上げた水仙の護符に封印布をかけました。護符の光が布の下で何度か瞬き、それから静まりました。
リュシオンはその場に膝をつきました。
目は開いています。けれど、こちらを見ていません。
水面に映る自分だけを、まだ見つめているようでした。
夜会は中止になりました。
使節団の代表は王家へ深く謝罪し、アルディオス王国側も水仙の護符の扱いについて調査を約束しました。
もともと水仙の護符は、礼装の乱れを整え、身につけた者を場にふさわしく見せるための魔道具と聞いていました。そこまでは、おそらく本来の働きなのでしょう。実際、あの夜のリュシオンは美しく見えました。
けれど、五十年の間に性質が歪み、身につけた者を「本人が最も愛せる姿」に見せるようになっていたのだとか。周囲の者はその姿に惹きつけられ、身につけた本人はさらに深く魅せられる。自分が見たい自分を見続けるうちに、やがて本来の姿へ戻れなくなる。
たいへん迷惑な魔道具です。
なぜ王宮の魔道具は、人の弱いところを見つけるのがこうも得意なのでしょう。もう少し苦手になっていただきたいです。
リュシオンは、アルディオス王国へ戻されることになりました。
罰を受けるのか、治療を受けるのか、詳しいことは私には知らされませんでした。
けれど、出立の朝、彼は馬車の窓に映る自分を、ぼんやりと見つめていたそうです。それが本当かどうかは分かりません。ただ、水仙の護符を外されてもなお、彼は自分から目を離せなくなっていたのかもしれません。水面に映る自分へ恋をする話は、物語の中だけで十分です。現実で行われると、周囲が困ります。
事件の翌日、私は王宮の小さな庭園へ呼ばれました。
呼び出したのは、エリオット殿下です。
庭園には水盤がありました。昨日、リュシオンの正体を映したものとは別の、小さな水盤です。
私は少しだけ足を止めました。
「水盤が嫌いになったか」
殿下が尋ねます。
「嫌いというほどではありません。少し、警戒するようになっただけです」
「そうか」
「殿下も、王宮の水回りにはお気をつけくださいませ」
「水回り」
「魔道具が関わると、だいたい面倒です」
殿下は小さく笑われました。
「殿下は、最初からお気づきでしたか」
「美しいとは思った。だが、紹介されていない者を王族として扱うほど、王宮は不用心ではない」
「安心いたしました。殿下まで『見れば分かる』とおっしゃったら、私は少し寝込みました」
「そこまでか」
「そこまでです」
殿下は、困ったように笑われました。けれど、すぐに表情を改めます。
「ネレイス」
「はい」
「君は、あの男の言葉をどう思った」
「どう、とは」
「私の隣ではなく、もっと広い世界がふさわしいという言葉だ」
殿下の声は静かでした。静かでしたが、なぜか逃げ道がありませんでした。
「殿下」
「答えてくれ」
「……私がどこに立つかは、私が決めることだと思いました」
殿下は、少しだけ息を吐きました。
「そうか」
「ご不満ですか」
「いや」
殿下は私を見ました。
「君が自分で選ぶならいい。だが、誰かが君を飾りのように連れていこうとするのは、我慢ならない」
殿下はそこで一度、言葉を切りました。
「それに」
「それに?」
「君が、別の誰かの隣に立つところを想像するのは、あまり愉快ではない」
私は返事に困りました。たいへん困りました。
「殿下」
「分かっている。これは私の都合だ」
殿下は静かに言いました。
「だから、君に押しつけるつもりはない」
その言い方があまりにも整っていたので、かえって本音のように聞こえました。
「殿下も、私を隣に置きたいとおっしゃいます」
「ああ」
「では、あの方と何が違うのでしょう」
自分で申し上げてから、少し失礼だったかもしれないと思いました。昨夜、青年が私に触れようとした時の殿下の声と、すぐには離れなかった手のことを思い出すと、なおさらです。
けれど殿下は、お怒りになりませんでした。
「私は、君を私の隣に置きたい」
殿下は静かに言いました。
「だが、君が私の隣に立つことを選ばないなら、それは隣とは呼べない」
私は、言葉を返せませんでした。
「飾りは、置ける。人は、選ぶ」
殿下は私を見ました。
「私は、君に選ばれたい」
庭園の空気が、急に静かになりました。
困ります。非常に困ります。このようなことを正面から言われると、淑女としてどう返すべきか分かりません。いえ、分からないふりをして逃げたいだけかもしれません。
「……そういうことを、急におっしゃらないでくださいませ」
「急ではない」
「私にとっては急です」
「なら、覚えておいてくれ」
「努力いたします」
「また努力か」
「人間ですので」
殿下は笑いました。その笑みは、昨夜のように目が笑っていないものではありませんでした。
少しだけ、安心しました。
その後、水仙の護符は王宮の宝物庫へ戻されたそうです。五十年前、友好の証として隣国へ貸し出されていた護符。返還されるはずだった魔道具が、返還の途中で騒ぎを起こす。たいへん律儀な迷惑です。
その話を聞いたのは、数日後の学院でした。
「ネレイス様。水仙の護符は、王宮の宝物庫へ戻されたそうですわ」
アステリア侯爵家のメティア様がおっしゃいました。
「そうですか。できれば、そのままおとなしくしていただきたいものです」
「もう一つ、妙な話を伺いました」
メティア様は、少し声を落としました。
「事件の前日、宝物庫に保管されていた女神の鏡に水仙の花が映っていたそうです」
「水仙の花が?」
「ええ。鏡の前には何も置かれていなかったのに、鏡面に白い水仙の花だけが浮かんでいたとか」
私は、しばらく黙りました。
「母は、前回は白百合の花が映っていたのではないか、と申しておりました」
実は、私も同じことを考えておりました。けれど、それを口にすると、ますますあの鏡と縁が深くなりそうな気がします。ですので、黙っておきます。淑女には、時に黙る勇気も必要です。
「アステリア侯爵夫人とは、気が合いそうです」
「母も喜ぶと思います」
「ただ、鏡の忠告としては少々分かりにくいですわね」
「花だけですものね」
「たいへん控えめな働きぶりですわ」
メティア様は、扇の陰で小さく笑いました。
私も、つられて少しだけ笑ってしまいました。魔道具の話で笑える相手ができるとは、思ってもみませんでした。
その日の夜も、私は自室の鏡の前で身支度を整えました。
映っていたのは、いつも通りの私でした。
疲れた顔も、胸の内でうまく片づけられなかった感情も、私のものです。
時には、醜さが混じる日もあるでしょう。
自分を見ることと、自分だけを見ることは違います。
今日も、できるだけ見苦しくないように背筋を伸ばしました。




