『目覚めぬ龍』
執務室の外で、パトリシオが待っていた。
戦場を生き延びた戦士のような顔。
だが戦場を作ったのは彼自身だ。
「ユエ!」
大げさな声。
「ヴァルモントは何もタダでは渡さない! 何か要求されたんだろう? 俺が守る!」
私は静かに息を吐いた。
「あなたは何もするな。会社にも来るな。家も出ていって。離婚する」
彼は理解しない。
英雄妄想が、現実を上書きする。
「俺が救う!」
電話を取り出す。
私の計画を、数週間分、台無しにしかねない愚行。
「もう会わない」
私は背を向けた。
エレベーターの扉が閉まる。
金属音が、判決のように響いた。
彼の表情が変わる。
長年の屈辱。
張家からの軽視。
精神的飾り物扱い。
そして――ヴァルモント。
世界を盤面のように扱う男。
ポケットの中で拳を握る。
「龍が眠れば……鼠が空を支配した気になる」
古い無印の携帯を取り出す。
二回目のコールで繋がる。
「若様」
声は恭しい。
「オズボート家後継者としての、最初の命令だ」
空気が変わる。
「ヴァルモントグループの全調査を。子会社、保険、政治資金、すべて」
「若様……ヴァルモントは西側最古級の金融一族です。干渉すれば――」
「干渉ではない。観察だ」
ガラスに映る自分へ、薄く笑う。
「漢栄コンソーシアムがどう崩れたか、思い出させる必要があるか?」
沈黙。
「承知しました」
窓の外に広がる都市。
ガラスの塔。
無敵を気取る現代帝国。
「十分に耐えた」
彼は呟く。
「妻は、自分が高みへ昇っていると思っている。だが気づいていない。より大きな檻に入っただけだ」
ガラスに手を当てる。
ユエが振り返らなかった姿を思い出す。
「ヴァルモントが彼女を利用するなら――幻想ごと壊す」
彼は確信していた。
運命は、すでに自分の勝利を書き終えていると。
――まだ、目覚めてもいない龍がいることを知らずに。




