『檻は玉座に変わる――冷酷な契約者たちの密室』
モンテカルロ宮殿の専用エレベーターが、油圧のささやきとともに閉じた。
その音は、先ほどまでの祝宴の喧騒を――まるで最初から存在しなかったかのように、切り離す。
残されたのは、二人だけ。
黒いガラス張りの壁。
落とされた照明。
意図的に設計された、不快な沈黙。
キャサリンはゆっくりと黒絹の手袋を外す。
多重に映る自分の姿を、無言で見つめながら。
アドリアンは何も言わない。
鏡越しに彼女を観察するだけ。
まるで株式報告書でも読むかのように、細部まで。
「今夜、一人の男を破滅させたわね」
キャサリンがようやく口を開く。声音は中立。
「違う」
アドリアンは即答した。
「誤った判断を破壊しただけだ」
手袋が、クロームの操作盤に落ちる。
「彼はあなたを攻撃したわけじゃない」
「私の金融構造に干渉した」
静かな訂正。
「道徳的意図は無意味だ。数字が崩壊すればな」
無音の下降。
キャサリンはわずかに身体を向ける。
「……医者のほうは?」
短い間。
「私を救う必要があると、本気で信じていたみたい」
アドリアンの眉が、わずかに上がる。
「英雄を必要とする男は、投影と共感を混同しがちだ」
彼女は低く笑った。
愉快だからではない。
正直だからだ。
「彼の失望は……興味深かった」
「腹は立たなかったか?」
「いいえ」
一拍。
「侮辱されたの」
エレベーターは、宮殿の制限区域を通過していく。
アドリアンが一歩近づいた。
侵さない。
距離を、外科的に削る。
「それは誇りが残っている証拠だ」
「最初から持っているわ」
「なら、利害は一致している」
キャサリンの視線が変わる。
社交でも政治でもない。
査定。
「介入があると分かっていたの?」
「ああ」
「私が止めないことも?」
半秒。
「予測していた」
小さな笑み。
「傲慢ね」
「統計的に正確なだけだ」
最下層に到達。
ヴァルモン家と戦略的同盟者専用のスイート。
扉が開く。
灰色の絨毯が敷かれた静寂の廊下。
並んで歩く。
触れない。
だが、偶然とは言えない距離。
部屋の窓からは夜の港。
照明に縁取られたヨット。
黒い海。
砕けた星座のような反射。
キャサリンは窓辺へ。
儀式のようにイヤリングを外す。
「私に近づく男は、いつも壊すの?」
振り返らないまま。
アドリアンはグラスを置いた。
「私の代わりになれると誤解した者だけだ」
彼女が振り向く。
危険な観察。
「私はあなたの所有物じゃない、アドリアン」
「そんなことは言っていない」
一歩。
一メートル未満。
「だが私は、君の姓を支える契約の一部だ」
静かに。
「君もまた、私の姓を支える」
数秒の対峙。
それから、彼女が近づく。
急がない。
意志だけ。
「あなたの一番奇妙なところ、知ってる?」
「聞こう」
「私を誘惑しようとしない」
「必要がない」
笑み。
さらに近い。
「普通なら腹が立つわ」
「立つか?」
小さく首を振る。
「いいえ」
真正面。
身長差はわずか。
だが空間は、閉じ込められた電流のように張り詰める。
「今夜、数十億を賭けた。ただ支配を示すために」
「違う」
アドリアンが手を上げる。
まだ触れない。
「安定を証明するためだ」
指先が、顎の線に触れる。
ゆっくり。
計測するように。
所有的でありながら、侵略的ではない。
「帝国は情熱では存続しない。予測可能性で生き延びる」
キャサリンが一瞬、目を閉じる。
開いたとき、声は半音低い。
「なら……あなたの予測の中で、私は何?」
親指が頬をなぞる。
「計算する価値のある変数だ」
沈黙が濃くなる。
彼女の手が、彼の胸へ。
心臓の上。
ロマンではない。
計測。
「脈が速くならない」
「なっている」
「足りない」
「立場に自信があるからだ」
顔が近づく。
「それって、私を信頼しているってことに聞こえるわ」
瞬きひとつしない視線。
「君が、自分の所有物を壊さないほどには野心的だと信じている」
長い視線。
そして――
私的な笑み。
暗い。
「医者、少しは正しかったかも」
「ほう?」
彼女の手が首元へ滑り、優雅に掴む。
「この婚約は檻よ」
アドリアンは動かない。
「でも――」
唇が触れる寸前。
「檻を玉座に変える方法を知っている人と共有するなら、悪くない」
キスは優しくない。
遅く。
制御され。
呼吸で締結された契約。
離れても、外見に変化はない。
だが、距離は消えた。
それでも――
キャサリンの奥底には、別の渇望があった。
単純で。
危険で。
ほとんどの人間が求めながら、扱えないもの。
愛。
アドリアンはそれを知っている。
理解されなくとも。
制御で。
沈黙の約束で。
愛とは似て非なる言語で。
彼なりに、彼女を愛するだろう。
その夜。
二つの身体が重なり。
言葉なき契約は、一生を期限として封印された。




