『悪役の契約は、英雄を必要としない』
モンテカルロ宮殿に響いた拍手は、決して騒がしいものではなかった。
優雅で。
抑制され。
そして――危険なほどに洗練されていた。
契約の署名が、今しがた完了した。
その瞬間、四百五十億ユーロもの資金が、外界からは見えない金融の地下トンネルを通って動き始める。
ホログラムのスクリーンには、上昇する数値、投資ルート、そして取消不可能なデジタル認証印が次々と映し出されていた。
出席者にとっては、これは経済史に刻まれる瞬間。
だが――
この場にいる三人の男にとっては……
戦争だった。
企業招待客専用の側面ギャラリーで、マックスは息を詰めたままタブレットを見つめていた。
「情報漏洩」は、予想通りに届いた。
あまりにも綺麗すぎる。
あまりにも完璧すぎる。
幽霊子会社。
脆弱な中継送金。
契約の税務正当性を無効化できる、わずかな会計上のズレ。
彼のシステムが、熱に浮かされたように震える。
【MAXシステム:ヒロイック・オポチュニティ検出】
介入成功確率:87%
予測結果:対象「キャサリン・スターリング」解放
推定報酬:モラルランク《エピック》昇格
マックスは一瞬、目を閉じた。
衝動的な人間ではない。
これまでも、決して。
だが――
これは正しい。
彼はスターリング銀行のセカンダリー端末から金融介入コードを入力した。
現顧客、ラインハルト家から得た間接的認証情報を用いて。
侵入は受理された。
三秒間――
何も起こらない。
そして。
契約金額が、点滅を始めた。
メインテーブルに、不穏なざわめきが走る。
テオ・スターリングが眉をひそめた。
「何が起きている?」
銀行アナリストが、端末の前で青ざめる。
「資金出所の検証に……異常が……」
マックスは息を止めた。
成功した。
――はずだった。
そのとき。
砂漠連邦主権基金のシステムが反応する。
【砂漠連邦金融システム:プロトコル起動】
第17-B条:外部干渉を検出
契約妨害に対する自動制裁を適用
請求賠償額:80億ユーロ
法的責任追跡中……
スクリーンに、一本のラインが引かれる。
銀行から。
そして――
ラインハルト家の金融ネットワークへ。
血の気が引いた。
【MAXシステム:ERROR… ERROR…】
予測結果:同盟クライアントの金融破綻
ヒーローステータス:失敗
マックスは一歩後退する。
誰かを救おうとして――
自分を信頼した家を、破滅に追いやった。
宮殿東翼、アートギャラリー。
彫刻を際立たせるための淡い照明の中、ジュリアンは三度目のネクタイを直してから足を踏み入れた。
彼のシステムが、甘い高揚とともに震える。
【JULIANシステム:ミッション進行中】
目標:キャサリン・スターリング
イベント:運命の親密接触
潜在報酬:ロマンティックリンク《レジェンダリー》
キャサリンは大理石の彫像の前に立っていた。
背中を向け。
完璧に静止して。
宇宙そのものが自分を前へ押しているような錯覚。
「美しい場所でも、孤独は重いものですね」
練習された柔らかな声。
キャサリンがゆっくりと振り返る。
穏やか。
礼儀正しく。
そして――読めない。
「ヴェイン博士。シャンパンを配っていると思っていました」
計算された憂いの笑み。
「社交的な役割は、見えない檻です。家の義務と同じように」
沈黙。
一歩、近づく。
「皆が見るのは後継者……戦略的駒。だが私は、その姓の裏に閉じ込められた女性を見る」
キャサリンは答えない。
ただ観察する。
リスク投資を見極めるように。
「本気で、そう思っているのですか?」
「ええ。確信しています」
彼はゆっくりと手を差し出す。
「誰も、自分を食い尽くす帝国に属すべきではない」
キャサリンはその手を見る。
そして、彼の目を見上げ――
微笑んだ。
温かくはない。
貴族の微笑。
訓練された。
致命的な。
「ヴェイン博士……強い女性を救えると思う男性の問題点をご存じ?」
ジュリアンは瞬きをする。
キャサリンが一歩踏み込む。
パーソナルスペースを侵す距離。
「私たちが救われたいと、勝手に決めつけること」
声が低くなる。
冷たく。
「この契約、設計に私も関わっています」
彼のシステムが揺らぐ。
【SYSTEM:警告… ナラティブ不整合…】
「私は被害者ではありません。パートナーです」
触れる前に、彼女は手を引いた。
「でも、ご心配ありがとう。……とても愛らしく、世間知らずですね」
ジュリアンは立ち尽くす。
無音のアラームが鳴り続ける中で。
メインホール。
混乱は、丁寧に抑え込まれていた。
金融アナリストたちが絶望をささやく。
アンリ・スターリングの額に汗。
主権基金の代表は、揺るがぬ静けさで状況を眺めている。
アドリアン・ヴァルモンは座ったまま。
微動だにせず。
メイランが隣に現れる。
「金融担当は、予測通り第17条を発動しました」
「損失は?」
「彼のクライアントのみ」
アドリアンは頷く。
「医者は?」
「現在、スターリング嬢に心理的解体を受けています」
わずかな吐息。
静かな満足。
そのとき、キャサリンがホールへ戻った。
姿勢は完璧。
表情は不変。
彼女はアドリアンの隣に座る。
視線は向けない。
「救出未遂が二件」
「結果は?」
「一件は外部金融危機を誘発。
もう一件は、私にヒーローが不要だと学びました」
アドリアンはわずかに頭を傾ける。
「見事な処理だ」
キャサリンはシャンパンを手に取る。
「最高の悪役から学びましたので」
アドリアンは、ほんの少しだけ微笑んだ。
ホールの向こう側。
マックスの携帯には、ラインハルト家からの緊急メッセージが溢れる。
追及。
疑問。
恐慌。
さらに向こうでは、ジュリアンが東翼の入口で立ち尽くし、システムが不可能な確率を再計算していた。
砂漠連邦の代表がグラスを掲げる。
「永続する同盟に」
招待客たちが倣う。
アドリアンもキャサリンとともに掲げた。
「必要な教訓に」
澄んだ音が響く。
どこか深くで。
二人の男のヒーローシステムの進行バーが――
砕け散った。
そして。
権力と資金、無傷の名声に囲まれたホールの中心で。
真の勝者たちは――
まるで最初から戦ってすらいなかったかのように、静かに佇んでいた。




