「扉のない檻」
ヴァルモントタワーにあるアドリアンの執務室は、外科手術のように完璧な効率性を誇る聖域だった。
書類も。時計も。沈黙さえも――何一つ乱れていない。
クララは黒革のソファに座り、腕を組んだまま足を小刻みに揺らしていた。本人すら気づいていない不安がそこにあった。
その表情は怒りと――そして名前を付けることを拒む、もっと脆い感情の間で揺れていた。
「ここにいたくないの、アドリアン」
ついに彼女は口を開いた。
「買収なんて何も分からないし……あなたの帝国にも興味ない」
アドリアンは画面から視線を上げなかった。
指は正確無比な動きでキーボードを叩き続ける。
「ジュリアンのことも分からなかっただろう」
彼は無機質な声で答えた。
「それでも、低予算詩人に騙される専門家にはなったみたいだが」
その一言は即座に突き刺さった。
クララの頬が赤く染まる。
羞恥ではない。純粋な怒りだった。
彼女は手近にあった物を掴んだ。
分厚い企業法の本だった。
考えるより先に投げつける。
驚くほど正確な軌道で、兄のこめかみに向かって飛ぶ。
アドリアンは片手でそれを受け止めた。
視線すら画面から逸らさないまま。
数秒、本の重さを測るように持ち――
そして静かに机の上へ置いた。
壁際では、メイランが乾いた短い笑いを漏らしていた。
タブレットから目を離さずに。
「興味深いわね」
彼女は呟いた。
「反射神経も悪くないし……軌道も綺麗。単なる飾りの令嬢じゃないのかも」
「黙って、メイラン!」
クララが叫ぶ。
しかしその声は怒りというより――傷ついた響きだった。
アドリアンはノートパソコンを静かに閉じた。
その仕草だけで、室内の空気が張り詰める。
彼は立ち上がり――
クララの手首をしっかり掴み、立たせた。
「行くぞ」
「どこに?」
「俺を信じろ」
「それ、いつもロクな結果にならないのよ……」
彼女は小さく呟いたが、抵抗はしなかった。
車は街を無言で走った。
「どこへ向かってるの?」
クララが窓の外を見ながら尋ねる。
「会議じゃない」
「なら引き返して」
「却下だ」
やがて車は、古びたアイスクリーム店の前に停まった。
クララは眉をひそめる。
「ここ、何年も前に閉店したはずよ」
「店主が俺に借りがある」
二人は中に入った。
バニラと古い砂糖の匂いが、変わらず空間に漂っていた。
まるで時間が止まっているかのように。
クララは驚いて瞬きをする。
「ピアノのレッスンの後、ここに来てたな」
アドリアンは彼女に確認もせず、アイスを二つ注文した。
「あなた来るの嫌いだったでしょ」
「今でも嫌いだ」
クララの唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
二人は座る。
沈黙が戻る――
だがもう敵対的ではない。
「クララ……」
やがてアドリアンが口を開いた。
「家の帝国が欲しいなら……お前に譲る」
彼女はすぐに彼を見た。
疑いの目で。
「本気?」
「ああ」
「じゃああなたはどうするの?」
アドリアンは肩をすくめた。
「別の形で役に立つさ。世界は広い……ヴァルモントにとってもな」
クララは短く笑った。
「両親に殺されるわよ」
「多分な」
再び沈黙。
クララは溶け始めたアイスを見つめた。
「私は帝国なんて欲しくない……」
彼女は小さく呟いた。
「ただ……一度でいいから、あなたみたいに見てもらいたかった」
その告白は、割れたガラスのように二人の間に落ちた。
アドリアンはすぐには答えない。
「私はずっと守られる側だった」
クララは続ける。
「壊れやすくて、繊細で、重要なことから遠ざけられる存在」
声が震える。
「一番辛いのは……あなたですら、私を見てない気がすること。
ただ解決すべき問題としてしか見てない」
アドリアンは肘をテーブルにつき、指を組んだ。
そして普段より低い声で言った。
「俺はお前を誇りに思ってる、クララ」
彼女は信じられないという顔で見上げる。
「嘘よ。ずっと避けてたじゃない」
アドリアンは苦笑した。
「十四歳の時、父に契約書の山を前に座らされた。
『読めなければ、他の誰かが読む』ってな。
そして他人が帝国を動かせば――内部から壊れる」
クララは黙って聞いている。
「お前がピアノを弾いてた頃、俺は百人を解雇して市場を揺らさない方法を学んでた」
空気が重くなる。
「守られてたのは、お前が弱いからじゃない」
アドリアンは続けた。
「この家に、普通の人生を持つ人間が必要だったからだ」
「普通?」
クララは眉を寄せる。
「私は金の檻の中で生きてた」
アドリアンは彼女を見据えた。
「俺は……扉のない檻の中だった」
その言葉は、空気に静かに残った。




