表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/74

「扉のない檻」

ヴァルモントタワーにあるアドリアンの執務室は、外科手術のように完璧な効率性を誇る聖域だった。

書類も。時計も。沈黙さえも――何一つ乱れていない。


クララは黒革のソファに座り、腕を組んだまま足を小刻みに揺らしていた。本人すら気づいていない不安がそこにあった。

その表情は怒りと――そして名前を付けることを拒む、もっと脆い感情の間で揺れていた。


「ここにいたくないの、アドリアン」

ついに彼女は口を開いた。

「買収なんて何も分からないし……あなたの帝国にも興味ない」


アドリアンは画面から視線を上げなかった。

指は正確無比な動きでキーボードを叩き続ける。


「ジュリアンのことも分からなかっただろう」

彼は無機質な声で答えた。

「それでも、低予算詩人に騙される専門家にはなったみたいだが」


その一言は即座に突き刺さった。


クララの頬が赤く染まる。

羞恥ではない。純粋な怒りだった。


彼女は手近にあった物を掴んだ。

分厚い企業法の本だった。

考えるより先に投げつける。

驚くほど正確な軌道で、兄のこめかみに向かって飛ぶ。


アドリアンは片手でそれを受け止めた。

視線すら画面から逸らさないまま。

数秒、本の重さを測るように持ち――

そして静かに机の上へ置いた。


壁際では、メイランが乾いた短い笑いを漏らしていた。

タブレットから目を離さずに。


「興味深いわね」

彼女は呟いた。

「反射神経も悪くないし……軌道も綺麗。単なる飾りの令嬢じゃないのかも」


「黙って、メイラン!」

クララが叫ぶ。


しかしその声は怒りというより――傷ついた響きだった。


アドリアンはノートパソコンを静かに閉じた。

その仕草だけで、室内の空気が張り詰める。


彼は立ち上がり――

クララの手首をしっかり掴み、立たせた。


「行くぞ」


「どこに?」


「俺を信じろ」


「それ、いつもロクな結果にならないのよ……」

彼女は小さく呟いたが、抵抗はしなかった。


車は街を無言で走った。


「どこへ向かってるの?」

クララが窓の外を見ながら尋ねる。


「会議じゃない」


「なら引き返して」


「却下だ」


やがて車は、古びたアイスクリーム店の前に停まった。


クララは眉をひそめる。


「ここ、何年も前に閉店したはずよ」


「店主が俺に借りがある」


二人は中に入った。


バニラと古い砂糖の匂いが、変わらず空間に漂っていた。

まるで時間が止まっているかのように。


クララは驚いて瞬きをする。


「ピアノのレッスンの後、ここに来てたな」

アドリアンは彼女に確認もせず、アイスを二つ注文した。


「あなた来るの嫌いだったでしょ」


「今でも嫌いだ」


クララの唇に、わずかな笑みが浮かんだ。


二人は座る。


沈黙が戻る――

だがもう敵対的ではない。


「クララ……」

やがてアドリアンが口を開いた。

「家の帝国が欲しいなら……お前に譲る」


彼女はすぐに彼を見た。

疑いの目で。


「本気?」


「ああ」


「じゃああなたはどうするの?」


アドリアンは肩をすくめた。


「別の形で役に立つさ。世界は広い……ヴァルモントにとってもな」


クララは短く笑った。


「両親に殺されるわよ」


「多分な」


再び沈黙。


クララは溶け始めたアイスを見つめた。


「私は帝国なんて欲しくない……」

彼女は小さく呟いた。

「ただ……一度でいいから、あなたみたいに見てもらいたかった」


その告白は、割れたガラスのように二人の間に落ちた。


アドリアンはすぐには答えない。


「私はずっと守られる側だった」

クララは続ける。

「壊れやすくて、繊細で、重要なことから遠ざけられる存在」


声が震える。


「一番辛いのは……あなたですら、私を見てない気がすること。

ただ解決すべき問題としてしか見てない」


アドリアンは肘をテーブルにつき、指を組んだ。


そして普段より低い声で言った。


「俺はお前を誇りに思ってる、クララ」


彼女は信じられないという顔で見上げる。


「嘘よ。ずっと避けてたじゃない」


アドリアンは苦笑した。


「十四歳の時、父に契約書の山を前に座らされた。

『読めなければ、他の誰かが読む』ってな。

そして他人が帝国を動かせば――内部から壊れる」


クララは黙って聞いている。


「お前がピアノを弾いてた頃、俺は百人を解雇して市場を揺らさない方法を学んでた」


空気が重くなる。


「守られてたのは、お前が弱いからじゃない」

アドリアンは続けた。

「この家に、普通の人生を持つ人間が必要だったからだ」


「普通?」

クララは眉を寄せる。

「私は金の檻の中で生きてた」


アドリアンは彼女を見据えた。


「俺は……扉のない檻の中だった」


その言葉は、空気に静かに残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
"読んでいただきありがとうございます!コロンビア人ですが、日本のアニメや小説が大好きで頑張って書いています。翻訳ツールを使っての投稿ですが、楽しんでいただければ幸いです。"
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ