甘い毒の囁き
ジュリアンは図書館でクララを見つけた。彼女はエリーズから任されている三つの子会社の財務報告書に囲まれていた。目は赤く、机の上にはどうしても帳尻の合わない請求書の山が積み上がっている。
「また遅くまで仕事か、クララ?」
ジュリアンはそう言いながら、湯気の立つ紅茶を二杯持って彼女に近づいた。
「君の献身は本当に立派だ……でも、ヴァルモン家で本気で努力しているのが君だけに見えるのは、少し悲しいね」
クララはため息をつき、苛立ちを隠せないままノートパソコンを閉じた。
「義務なのよ、ジュリアン。お母様は、もっと責任を任せる前に、私が実力を証明しなきゃいけないって」
ジュリアンは彼女の向かいに腰を下ろし、まるで計算されたかのような、抑えた悲しみの表情を浮かべた。
「不思議なものだね……さっきアドリアンがまたアストリッドと出かけるのを見たよ。四半期報告なんて、少しも気にしていない様子だった。むしろ、経理部の場所すら覚えているか怪しいな」
クララは拳を握りしめた。
「彼は後継者よ。ルールが違うの。ずっとそうだった。もし私が一晩でも帰宅が遅れたら、お母様は車の鍵を取り上げて、警備に探させるわ。でもアドリアンは……三日も姿を消しても、宴会で迎えられるのよ」
「無視するには難しい二重基準だね」
ジュリアンはわずかに身を乗り出し、低く囁いた。
「君は彼よりも誠実で、規律正しく……そして何より、家族に忠実だ。それなのに、彼らにとって君は、まだ“息をするにも許可が必要な妹”のままだ。アドリアンは財産を気まぐれや女性に浪費しているのに……君は取締役会の席すら懇願しなければならない」
沈黙が二人の間に落ちた。
そのとき、ジュリアンの視界の端でシステムが瞬いた。
【システム:「ディン! 兄妹間の怨恨を検出:エピックレベル。影響力ポイント+800獲得。」】
「時々……彼を憎んでいる気がする……」
クララの声が震えた。
「努力しなくても、すべてを手に入れているから。しかも退院してからは、さらにひどい……まるで私の存在なんて見えていないみたい」
「君を当然の存在だと思っているからだよ、クララ」
ジュリアンは優しく言いながら、兄のような温もりを装って彼女の手を握った。
「でも、僕は違う。君が見える。この帝国を率いるべき女性が」
クララは顔を上げた。
ジュリアンはさらに声を潜める。
「もしアドリアンがこのままなら、彼の生活は家族の遺産を弱体化させるだろう。もしかすると……誰かが彼の過失を記録し始めるべきかもしれない。恨みのためじゃない。責任のためだ。会社の安定のため……そして君自身の未来のために」
クララは黙って彼を見つめた。
初めて、兄への忠誠が、正義という約束の前で揺らいだ。
ジュリアンは客室へ向かいながら、悪意を帯びた笑みを浮かべた。
廊下で彼女を見つける。
メイランが、静かに、そして優雅にアドリアンの部屋へ向かって歩いていた。まるで殺意を宿した影のように。
ジュリアンは足を止め、彼女の姿を賞賛と抑えた欲望の混ざった視線でなぞる。無意識に唇を湿らせた。
もし手に入れられるなら……
いや、まだだ。
彼は歩調を速め、彼女に声をかけようとした。いつもの魅力的な笑顔、柔らかな声、計算された仕草。
——失敗。
メイランは冷たく、感情のない視線で彼を貫き、そのまま歩き去った。敵意すらない。ただ、存在を無視するだけ。
ジュリアンの顎が強張る。
彼は別の手段を試みた。礼儀に偽装した感情操作。隙間に入り込むよう設計された言葉。
——それも失敗。
彼は、メイランがアドリアンの部屋へ消えるのを見届けた。
一瞬だけ表情が硬直し……すぐに平静へ戻る。深く息を吸い込んだ。
学ばなければならない。
母親のときと同じように。
無理に奪うことはできない。まだ。
彼はゆっくり背を向け、自室へ歩き出した。
「焦るな……」
彼は自分に囁く。
「少しずつ……すべては俺のものになる」
ジュリアンはクララを人目につくレストランには連れて行かなかった。
彼が「準備」した、小さな秘密の庭へ案内した。紙灯籠に照らされ、新鮮なジャスミンの香りが漂う、家族の脚光の影で生きてきた彼女にとって理想的な場所だった。
「ジュリアン……こんなの、やりすぎよ」
クララはドレスの裾をいじりながら、人生で初めて自分が物語の主役になったような気持ちを覚えていた。
「夕食に帰らなかったら、お母様が怒るわ」
「クララ……」
ジュリアンは彼女の肩に優しく手を置き、向き直らせた。
「今夜、君はエリーズの娘でも、アドリアンの妹でもない。ただのクララだ。そしてクララには、世界が彼女のために止まる価値がある……たとえ数時間でも」
【システム:「ディン! 『初恋』効果発動。対象の感情防御:30%まで低下中。」】
二人は白い花で飾られた親密なテーブルに座った。料理はジュリアンが作ったと言ったが――メイランなら、一流ケータリングの署名にすぐ気付いただろう。
食事の間、ジュリアンはアドリアンがほとんどしないことをした。
——話を聞く。
「君の監査能力には本当に驚かされる、クララ」
彼は料理に手も付けず、彼女に身を乗り出した。
「報告書も読んだ。君には優れた分析力がある。アドリアンだって羨むだろう……もし自分の姿に見惚れていなければね。君が戦略拡張を設計できるのに、設備費の請求書を確認させられているのは惜しい」
クララの胸に熱が広がる。
ワインではない。
もっと危険なもの。
——承認。
「彼は……まだ早いって言うの」
ジュリアンは禁じられた秘密を共有するように声を落とした。
「人が他人を止めるのは、能力を疑うからじゃない。自分の立場を失うのが怖いからだ。アドリアンはずっと帝国の中心だった。本当の機会を君に与えることは……自分より優れた存在を認めることになる」
クララは視線を落とした。
「悪気があるとは思えないけど……」
すでに疑念は芽生えていた。
「そうかもしれない」
ジュリアンは柔らかく微笑む。
「でも、結果は同じだ」
彼はテーブル越しに手を伸ばし、彼女の指先に触れた。露骨な恋愛の仕草ではない。もっと親密で、危険な接触だった。
ジュリアンはさらに手を滑らせ、自然を装って指を絡めようとした。
クララは最後の瞬間で気付き、息を詰まらせて手を引いた。慌てて髪を耳にかける仕草で誤魔化す。頬に浮かんだ紅潮は拒絶ではなく、甘い混乱だった。
静かな同盟の約束。
「もし僕の隣に君のような人がいたら……隠したりしない。帝国を支える存在が誰なのか、世界に示す」
【システム:「ディン! 目標『初恋の成就』達成。忠誠ポイント+1500。スキル『反逆の囁き』解放。」】
クララは彼を見つめた。
その瞬間、ジュリアンは医者ではなくなった。
彼女の避難所。
相談相手。
唯一、自分の価値を認めてくれる存在。
「ありがとう、ジュリアン……あなたは私を理解してくれる唯一の人よ」
彼は微笑んだ。
――内心だけで。
罠は閉じた。
これからアドリアンが彼女を導こうと、守ろうとするたびに――
クララは兄を心配する家族ではなく、光を奪おうとする抑圧者として見るだろう。
アドリアンはプライベートラウンジの広いソファに座っていた。
メイランは慣れた動作で彼の膝に腰掛けている。彼女が立ち上がろうとすると、彼は腕を腰に回し、そのまま引き寄せた。抵抗など最初から想定していないかのように。
片手には手付かずの紅茶。もう片方にはスマートフォン。
視線は通話より、正面のテレビに向けられていた。そこには、灯りに照らされた庭でジュリアンと微笑むクララの姿。
——近すぎる。
——無防備すぎる。
部屋の沈黙は重く、意図的だった。
アドリアンはゆっくり紅茶を一口飲み、冷徹な声で通話に話しかける。
「その男の調査を加速しろ。すべての記録、接触、吐いた嘘――一つ残らず欲しい」
テレビでは、ジュリアンがクララへ頭を傾けている。
メイランを抱くアドリアンの腕が、わずかに強くなる。
「それから……」
短く間を置き、彼は続けた。
「死亡日も記録しておけ」




