沈黙の力(ちんもくのちから)
アストリッドは、いつも教室の最前列に座っていた。
それは習慣ではなく、意志だった。
一番前の席。
首を回さずとも教授を見ることができ、答えは迷いなく口をついて出て、自信が自然に見える場所。
そこに座るのは、自分が何者かを知っている人間だけだった。
そして、アストリッドはそれを知っていた。
彼女は優秀だった。
聡明で、美しく——だからこそ、早くから一つの基本的なルールを学んでいた。
距離を保つこと。
特に、金を持つ男たちとは。
興味と権利を混同する男たち。
——超富裕層の男たちとは。
当然、アドリアン・ヴァルモンはその筆頭だった。
彼は、自分が彼女に恋をしていると言っていた。
だが、アストリッドはそれを完全には信じていなかった。
ロッシュ家は、ヴァルモン家と同格ではない。
最初から、そして本当の意味では、一度も。
街で最も裕福で、最も力のある一族は、彼女のような少女に恋をするのではない。
飾るのだ。
洗練されたトロフィーとして。
気晴らしとして。
美しく並べて……やがて、取り替える。
アドリアンの目に映る自分も、きっとそうなのだろう。
高価なおもちゃ。
それ以上でも、それ以下でもない。
……それなのに。
彼は礼儀正しかった。
気遣いもあった。
慎重でさえあった。
誰でも勘違いしてしまうほどに。
だが、アストリッドは自分を欺かなかった。
自分の立場は、よく分かっていた。
ずっと、分かっていた。
だからこそ、証明したかった。
彼のためじゃない。
自分自身のために。
誰の好意にも頼らず、近道も使わず、誰にも借りを作らずに。
自分の力で、何かを築く。
笑顔や他人の姓のおかげだと言われないものを。
それが、計画だった。
……けれど、今は。
アストリッドはペンを強く握りしめ、白紙を見つめていた。
実際には、何も見えていなかった。
始めることすらできなかった。
数か月かけて構想してきたプロジェクト——
明確で、構造的で、実現可能だったはずのそれは、最初の一歩すら踏み出せずに止まっていた。
理由は、アイデア不足でも、恐怖でもない。
限界。
それが、何よりも痛かった。
一方で、アドリアンは——
大学に入学した時点で、すでにいくつもの会社を自分の名義で持っていた。
実体のある企業。
従業員がいて、契約があり、収益がある。
すべて彼の管理下にある——少なくとも、外から見れば。
姓のせいかもしれない。
財力のせいかもしれない。
……おそらく、その両方だ。
努力する前から前に進める人間は、確かに存在する。
腹立たしいことに、彼は努力しているようにも見えなかった。
授業で常にトップというわけでもない。
欠席も多い。
どこか、いつも——上の空。
まるで、すべてがただの通過点でしかないかのように。
それでも、世界は彼の前で抵抗なく道を開く。
アストリッドは、唾を飲み込んだ。
嫉妬じゃない。
……少なくとも、そう呼びたくはなかった。
もっとざらついた、居心地の悪い感情。
不公平。
彼女は、すべて正しくやってきた。
責任感を持ち、几帳面で、慎重で。
誰にも依存せず、声に出されない“見えないルール”を忠実に守ってきた。
それなのに——
彼女は今も、そこに座ったまま、前に進めずにいる。
アドリアン・ヴァルモンは、努力すらせずに、すでに数歩先にいるというのに。
アストリッドは前を見据え、無理やり意識を集中させた。
背筋を伸ばし、いつもの自信に満ちた表情を取り戻す。
誰にも、気づかれてはいけない。
授業が終わると、オリバーが現れた。
彼女は、隣に来る前から彼の存在を感じ取っていた。
いつも気が利いていて、いつも手を差し伸べてくる。
……過剰なほどに。
「バッグ、持とうか?」
彼女が立ち上がる前に、彼はもう手を伸ばしていた。
アストリッドは反射的に微笑んだが、何も渡さなかった。
オリバーはクラスで二番目の成績。
奨学金を得ている、模範的な学生。
教授たちが好んで名前を出すタイプ。
賢く、真面目で——予測可能。
そして、彼の目的も明白だった。
アストリッドは愚かではない。
もし彼女がアドリアン・ヴァルモンに「釣り合わない」のなら、
この少年も、彼女には釣り合わない。
残酷さではなく、現実の問題だった。
彼女は、社会的距離を正確に測る術を身につけていた。
オリバーは、自分にチャンスがあると思っている。
それ自体は、まだ許せた。
本当に彼女を苛立たせていたのは——別のこと。
アドリアン。
以前なら、誰かが彼女に近づきすぎると、彼は必ず介入した。
騒ぎ立てることなく、余計な言葉もなく。
一瞥だけで十分だった。
時には、短く礼儀正しい一言。
それで、相手は身を引いた。
彼女が頼んだわけじゃない。
ただ……彼がそこにいたから。
でも、今は違う。
今のアドリアンは、彼女の横を素通りする。
まるで存在しないかのように。
まるで、彼女がただの学生で、オリバーが教室の備品であるかのように。
その無関心が、彼女の内側をかすめた。
「大丈夫よ」
彼女はそう言って、バッグを肩に掛け直した。
「ありがとう」
オリバーは少し気まずそうに手を引いたが、なおも言った。
「プロジェクトの件、今度一緒に復習しない?
君はいつも、考えが整理されてるから」
アストリッドは機械的にうなずいた。
「考えておくわ」
出口へ向かう途中、彼女の視線は無意識に廊下の奥へと逸れた。
アドリアンがいた。
仲間に囲まれ、リラックスした様子で、
授業とも試験とも、彼女にとって重要な何とも関係のない話をしている。
一度も、こちらを見なかった。
アストリッドは唇を噛んだ。
なぜ、こんなにも胸がざわつくのか、分からなかった。
彼の関心なんて気にしていないと、ずっと思っていた。
あの愛の告白も、大げさで、きっと偽物だと。
それなのに——
胸に圧迫感がある。
一瞬、馬鹿げた衝動が湧いた。
彼の前に立ち、説明を求めたいという衝動。
——馬鹿げている。
彼女に、何かを要求する権利などない。
最初から、なかった。
教室を出る直前、彼女は一瞬だけ立ち止まった。
——最後の瞬間に、彼が顔を上げてくれることを、期待して。
彼は、そうしなかった。
ほんの小さな出来事だった。
ほとんど気づかれないほどの。
それでも、彼女の中で何かが、静かにずれていった。
誇りじゃない。
嫉妬でもない。
それは——
欲しいとすら思うことを許さなかったものを、失った感覚。
アストリッドは深く息を吸い、振り返らずに歩き出した。
だが、その時初めて、
自分が正しい方向へ進んでいるのか、分からなくなっていた。




