第二幕:それでも、運命は彼女を連れてくる
アストリッドは病室を出た。
廊下に彼女の声が響く。電話越しに法律関連の指示を次々と飛ばし、その口調は揺るぎなく、冷静だった。
室内には、アドリアンと美蘭だけが残された。
沈黙は濃密だった。
ただ、心電モニターの規則的な電子音だけが空気を震わせている。
美蘭はアドリアンの腕にガーゼを当て続けていた。
その指先は――微かに震えていた。
本人は決して認めようとしなかったが。
「ヴァルモント様……離してください」
囁きだった。
だが彼は、まだ彼女に触れてすらいない。
それは彼に向けた言葉というより――
自分自身への警告だった。
アドリアンは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと体を起こす。
その動きは同時に――
捕食者のようで、そして優しかった。
美蘭が一歩下がる前に、彼は腕を回し、彼女を胸へ引き寄せる。
首筋に顔を埋める。
「"ヴァルモント様"なんて呼ぶな」
低く、確信に満ちた声。
「名前で呼べ。……それか、恋人でも構わない」
「やめてください!」
美蘭は押し返そうとする。
だが拳は握られなかった。
気付けば、彼女の手は――
アドリアンの肩に、そっと触れていた。
頭の中では警報が鳴り響いている。
これはセクハラ。
職業倫理違反。
完全な狂気。
――なのに。
彼女の体は、まったく別の答えを出していた。
長年探していた何かを、ようやく見つけたかのように。
「もうすぐ、俺たちは深く知り合う」
アドリアンは抱擁を強める。
「お前は俺と来る。そして、これからは俺を看護する」
「こ、これは……ショック症状です……」
彼女はすすり泣いた。
涙が頬を伝う。
長年かけて築いた冷静な仮面が崩れていく。
「幻覚です……あなたは患者で、私は――」
「信じろ」
彼は言葉を遮る。
少しだけ距離を取り、彼女の瞳を見つめる。
「これは幻覚じゃない。運命だ」
静かに告げる。
「そして俺たちは――もう出会ってしまった。後戻りはない」
そして彼は――キスをした。
躊躇はなかった。
遠慮もなかった。
まるで、待ち続けた時間すべてが、この瞬間のためだったかのように。
美蘭は――応えた。
全身で。
まるで千の人生を越えて、ずっと彼を待っていたかのように。
その瞬間。
鋭い痛みが胸を走る。
錆びついた鍵が、記憶の扉をこじ開けるように。
声が響く。
若い頃の――
もっと必死だった自分の声。
『次の人生でも、必ずあなたを見つける……』
『乞食でも、王でも関係ない。あなたの隣にいる』
「……違う……」
美蘭は口元を覆う。
ベッドの縁に崩れ落ちる。
涙が止まらない。
「そんなはず……ない……」
震える声。
「ずっと子供の頃のくだらない夢だと思ってた……」
「腕の中で死ぬ男……」
アドリアンは彼女の顔を両手で包む。
親指で涙を拭う。
優しく。
そして、確信を持って。
「話してくれ」
囁く。
「どんな夢だった?」
その瞬間。
看護師・蘇美蘭は消えた。
そこにいたのは――ただの美蘭。
深い茶色の瞳が輝いている。
伝説のヒロインのように。
怒り。
忠誠。
そして消せない独占的な愛。
「嫌いよ……」
彼女は囁く。
だが彼を強く抱きしめる。
息が詰まるほどに。
「こんなに待たせて……」
「そんな死に方をして……」
その瞬間。
ドアノブが回った。
アストリッドが戻ってくる。
美蘭は飛び退いた。
慌てて涙を拭い、制服の袖で顔を拭う。
姿勢を正す。
ドアが開く直前に――完全に看護師へ戻った。
頬は赤く染まっていたが。
その瞳は、これまでで一番輝いていた。
「問題ないかしら?」
アストリッドは眉を上げる。
権威と好奇心の絶妙な均衡。
「完璧だ」
アドリアンは枕にもたれる。
満足そうな笑み。
「看護主任は……奇跡の手を持っている」
その時――
病室のドアが勢いよく開いた。
最初に現れたのは――
エリーズ・ヴァルモント。
アドリアンの母。
彼女は言葉を発する前から、空間を支配していた。
寝不足でも完璧な髪。
鋭い眼光。
夢の中では軍隊を率い、現実では企業帝国を動かす女。
「私の息子はどこ!?」
その声は揺るがなかった。
その背後から――
まるで行進のように。
五十人の医師団が入室する。
各国出身。
疲労した瞳。
しかし揺るがない決意。
タブレット。
点滴装置。
未来的な医療機材。
彼らは国境を越え、睡眠を犠牲にし、すべてを捨ててここへ来た。
一人の男のために。
患者というより――神話に近い存在のために。
アドリアンはベッドから彼らを眺める。
妙に落ち着いていた。
現実はいつも幻想より滑稽だ。
五十人の英雄。
そして彼自身は――
腕に小さな傷を負っただけの、ただの男。
美蘭は隣に立つ。
ガーゼを握りしめたまま。
彼女の心臓は激しく鼓動していた。
先ほど彼を襲った針の速度に追いつきそうなほどに。
「母さん……」
アドリアンは掠れた声で言う。
少しだけ楽しそうに。
「この……英雄軍団、本当に必要?」
「必要よ!!」
エリーズは叫ぶ。
彼へ歩み寄る。
「眠らない! 食べない! 休まない!」
「あなたが完全に目を覚ますまで、私は止まらない!」
「世界最高の医師を全員連れてきたのよ!!」
医師たちは次々に動き出す。
モニター確認。
点滴調整。
データ解析。
絶望が一つの舞踏のように統率されていた。
だがアドリアンは気付く。
その光景の滑稽さに。
医療天才たちの軍勢。
彼を救おうとしている。
――彼自身は、すでに理解しているのに。
もしこれが小説なら、自分で運命を操作できると。
美蘭は彼の手を握る。
不可能な瞬間を共有していた。
奇跡のような現実と、冷酷な論理の衝突。
「母さん……」
アドリアンは微笑む。
皮肉と愛情が混ざった笑み。
「これで分かっただろ」
「どうして物語の英雄は、いつも混乱に囲まれているのか」
「だが現実では――」
「天才だけでは、何も変わらない」
エリーズは皮肉に気付かなかった。
彼女の瞳はただ一つだけを語っていた。
――世界を敵に回しても、息子を守る。
こうして病室は、誰にも予測できなかった舞台へ変わった。
ベッドの上のアドリアン。
隣に立つ美蘭。
五十人の医療軍を指揮するエリーズ。
奇跡の英雄と、現実の論理が正面衝突する。
すべての専門家が、同じ目的で動いていた。
若きヴァルモントを目覚めさせるために。
だが――
本当の力は彼らではない。
患者自身にあった。
そして――
彼を待ち続けた者たちの忍耐に。




