錬丹の真珠の崩壊 ― 市場が神話を砕く時
南方錬丹師一族の領地には、花や天上の香が漂ってはいなかった。
そこに満ちていたのは硫黄の匂い、活性炭の焦げた香り、そして――希望が錆び始めた時にだけ生まれる、金属質の冷たい空気だった。
李小――大陸全土で「錬丹の真珠」と呼ばれる少女は、主精製工房の回廊を歩いていた。
翡翠色の絹の袖は煤に汚れている。
学者のように鋭く整った美貌は青白く、目の下には深い隈が浮かんでいた。
彼女が眠れぬ夜を過ごしていたのは、炉の前ではない。
悪化し続ける数字の前だった。
「李師……」
震える手の老人が近づいた。
「北方の火炎草供給業者が、納入を取り消しました」
李小の足が止まる。
「取り消し……?」
「そんなはずはありません」
「全収穫量が、事前に買い占められたそうです」
「市場価格以上で……現金払いで」
李小は眉をひそめた。
問題は李一族だけではない。
数週間前から、似た噂が広がっていた。
閉鎖する錬丹房。
破産寸前の商人。
仕事を失った弟子たち。
都市市場では、伝統的な丹薬が山積みになり、買い手を失っている。
一方で、新製品が――異常なほど安価で流通していた。
偽物ではない。
詐欺でもない。
効果は、本物だった。
「これは競争ではない……」
李小は呟く。
「時代の終わりよ」
それは一族を襲う力ではなかった。
市場そのものを侵食する力だった。
李一族の危機は、暴力的ではなかった。
そして、彼らだけでもなかった。
剣も包囲戦もない。
ただ、代々一族を支えてきた回復丹の価格が――製造原価を下回っただけだ。
商会は市場に製品を氾濫させていた。
五割も安い価格。
見習いでも納得する純度。
標準化された工程による廃棄削減と生産速度の向上。
伝統錬丹師は品質で対抗できた。
だが赤字なしでは不可能だった。
旧式で製造するたび、財務に穴が開く。
コストを削れば、一族の名声が傷つく。
「今月末までに銀月一族への借款を返済できなければ……」
老人は震える声で続けた。
「祖伝の炉が差し押さえられます。一族は……消滅します」
李小は白檀の椅子に崩れ落ちた。
彼女は、葉晨へ連絡を試みた。
かつて牢獄から救い出し、「正義は必ず勝つ」と誓った英雄へ。
だが――正義は利息を支払わない。
三百人の弟子を養うこともできない。
葉晨は、目に見える敵からは守れる。
しかし今回の敵には、顔も剣もなかった。
帳簿。
物流網。
そして、外科手術のように市場を操作できる資金力。
そのとき、静かに使者が入室した。銀の盆を持っている。
「天虚城商会より書簡です」
「戦略統括責任者――アドリアン・ヴァルモント様より」
李小は封筒を受け取った。
絹ではない。
派手な魔法封印もない。
厚手のクリーム色の紙。
そして黒い蝋印――天秤と歯車。
強制的均衡の象徴。
招待状
差出:天虚商会 戦略統括室
宛先:南方錬丹師一族当主 李小殿
件名:供給同盟および再編計画の提案
李師へ
近頃の貴殿の業界における価格変動を注視しております。
南方一族が卓越した技術力を持つことは明白です。しかし現在のコスト構造は時代遅れであり、適応力を阻害しています。
私は貴殿の伝統が崩壊する光景を望んではおりません。
一族の消滅は供給網に非効率を生み、それは私にとっても不利益です。
つきましては、本会本部へ正式にご招待いたします。
資本直接投資および産業近代化計画について協議したく存じます。
・生産工程最適化と廃棄削減
・最低純度を維持した大量生産工程の導入
・職人型錬丹市場に依存しない収益戦略の構築
敬具
アドリアン・ヴァルモント
天虚商会 副戦略統括責任者
週末
天上闘技場は、浮遊石輪の最外層まで満員だった。
数十万の修士たちが息を呑み、増幅陣が足元で唸りを上げる。
空気は霊力だけでなく――神意への期待で震えていた。
ただの試合ではない。
決勝だった。
勝者は天虚宗の神子として宣言される。
天の寵愛を受け、時代の旗印となる存在。
最上席では、古代符文を刺繍した金衣の宗主が沈黙のまま観戦していた。
その威圧は、長老たちすら息を潜めさせるほどだった。
その右側――黒玉の杖に寄りかかる老人。
アドリアンの祖父、ヴァルモント老。
彼の瞳は深淵だった。
歓喜も恐怖もない。
ただ――計算。
下方の貴賓席では、リン・ユエが無意識に唇へ触れていた。
隣で蘇美蘭は欄干を握りしめ、拳が白くなっている。
彼女の父は、獲物を観察する捕食者の笑みを浮かべていた。
闘技場中央――
運命の天秤が揺れる。
天に選ばれし英雄、葉晨。
修為を持たぬ悪役、アドリアン・ヴァルモント。
「死ねぇぇ、悪党!」
天光が降臨した。
黄金の弧。
完璧なる神罰。
観客には神の奇跡。
だがアドリアンには――義父による地獄訓練のおかげで――
全てが、水中のように見えた。
遅い。
彼はわずかに首を傾けた。
剣は耳を掠め、髪束だけを切り落とす。
予測可能。
重心偏移確認。
肝臓打撃。試合終了。
身体が思考より先に動く。
その瞬間――
【DING!DING!DING!】
【最終警告】
システム:
『触るな、馬鹿!!
絶対に触るな!!
敗北しろ、さもなくば即時消滅!!
今すぐ防御を解け!!』
冷汗は葉晨のせいではない。
魂分解の脅威のせいだった。
「なぜ倒れない!!」
葉晨は狂乱のように攻撃を繰り出す。
連撃。
奥義。
刺突。
アドリアンは最小動作で回避する。
ほとんど怠惰な足取りで。
観客には逃走。
達人には――悪夢。
修為ゼロの男が、世代最強の天才を翻弄していた。
「アドリアン!遊ぶな!殴れ!!」
美蘭の父が怒号を上げる。
ヴァルモント老は沈黙したまま。
杖を握る指だけが、わずかに強まった。
アドリアンは蘇美蘭を見る。
彼女は――息をしていなかった。
そして最終咆哮。
システム:
『消滅カウントダウン
5…
4…
3…』
いいだろう。
敗北が欲しいなら。
史上最も高価な敗北をやる。
葉晨が究極奥義――
「太陽災厄」を解き放った瞬間。
アドリアンは回避をやめた。
止まったのではない。
前に出た。
――つまずいたかのように。
轟音。
衝撃が闘技場を震わせた。
アドリアンは吹き飛び、二本の古柱を貫通し、粉塵と血と石片の中へ叩き落とされた。
「……勝者、葉晨!」
審判が宣言する。
闘技場が歓声に包まれる。
だが、その歓声は――遅れていた。
半拍遅れの拍手。
何を祝うべきか、確認してから始まった喝采。
葉晨は剣を掲げなかった。
ゆっくり立ち上がる。
拳はまだ砂に沈んでいる。
背筋は硬直し、歯を噛み締めすぎて顎が震えていた。
呼吸は乱れていた。
天の子に求められる神聖な静寂とは程遠い。
彼の瞳は燃えていた。
勝利ではない。
怒りで。
誰も口にしない疑問が、天空闘技場に漂う。
――あの一撃は、やりすぎではなかったのか?
長老が咳払いをする。
宗母が眉をひそめる。
治療師が専門家の目で見つめ――静かに首を振った。
葉晨は一歩踏み出す。
また一歩。
勝利したはずなのに、誇りのほうが深く傷ついていた。
そして誰も――
未来も天が彼を祝福し続けるのか、問う勇気はなかった。
地面で、アドリアンが血塊を吐く。
【DING】
【任務達成:悪役は敗北した】
【報酬:生存確定】
『……くそ野郎。
あれは卑怯すぎるだろ』
システム:
『ふぅ……危なかった。
よくやった、サンドバッグ。
英雄は栄光を得た。
お前は帳簿に戻れ』
治療師たちが駆け寄る。
震える手が彼の額に触れた。
「わざと……」
蘇美蘭が囁く。
「わざと殴られたのね」
瞳は燃えていた。
誇りではない。
怒りと――痛み。
「何が、あなたをここまで屈辱に耐えさせるの?」
アドリアンは血まみれの口で笑った。
目には届かない笑み。
「ダメージコントロールさ、メイラン。
帝国を救うには……
時には、どうでもいい戦いを落とす必要がある」
最上席で、リン・ユエは勝者を見ていなかった。
敗者を見ていた。
神子は誕生した。
だが――
アドリアン・ヴァルモントは、もっと危険なものを手に入れた。
疑念。
そして――
正しい手に渡れば、疑念はどんな剣よりも致命的になる。




