帳簿の裏で交わされた口づけと、崩れゆく市場
事務室は、ほとんど儀式のような静寂に包まれていた。羊皮紙が擦れるかすかな音と、霊石の結晶に反射する金色の灯りだけが、空気を揺らしている。
アドリアンは帳簿と将来予測を確認していたが、意識は数字から遠く離れていた。前日の高揚、リン・ユエとの口づけ、イェ・チェンとの張り詰めた緊張――それらが、単調な事務作業の中で混ざり合っていた。
扉が開いた。
アドリアンはすぐには顔を上げなかった。だが、柔らかく、予想外の声が彼を現実へ引き戻した。
「アドリアン……」
蘇美蘭が、ベールを外したまま入ってきた。
彼は顔を上げ――そのまま動きを止めた。
比べようがなかった。彼女の顔は、不安になるほど完璧だった。穏やかな目の形、繊細な唇の曲線、そして肌からほのかに放たれるような淡い光。
その瞬間、帳簿も数字も計画も、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。
彼女は何事もなかったように隣へ腰を下ろした。
「霊石の収支ですが」
書類を指差しながら言う。
「予想以上に利益が伸びています」
声は落ち着いていて、完全に職務的だった。
アドリアンはゆっくり息を吸い、意識を自分の得意分野へ引き戻した。
「いい傾向だ。ただ、資金を停滞させてはいけない。動かす必要がある」
彼は続けた。
「銀行……あるいはそれに近い制度を作るべきだ。低利貸付は修行界では危険だ。債務者が死ねば、全て失う。だが質屋型の制度なら――実物担保が取れる。そっちは機能する」
蘇美蘭は思案するように頷いた。
「それだけじゃない」
アドリアンは続けた。
「投資帝国も築ける。資本はこちらが出し、運営リスクは他者に負わせる。構造さえ整えば、全て拡張可能だ」
気付かないうちに、二人の距離が縮まっていた。
意図した動きではない。ただ自然に、空間が静かに譲ったようだった。
肩が触れ合う。指先がかすかに触れる。
会話の意味が薄れていく。
近すぎた。
最初に触れたのは唇だった。控えめで、探るような接触。
だがすぐに、その口づけは深まり、ゆっくりと、確かに、自然に変わった。
蘇美蘭が少しだけ離れる。
「……だめ」
小さく囁いた。
だが身体は退かなかった。視線も逸らさなかった。
アドリアンは彼女の腰を抱き、再び引き寄せた。
口づけは長く、濃く、避けられないものへ変わる。二人が出会ってから積み重なってきた全てが、この瞬間に花開いたかのようだった。
時間が消える。
そのとき――
床の敷居が開く乾いた音が、世界を断ち切った。
「――ここで何をしている!?」
荒々しい声が轟いた。
蘇美蘭の父は、敷居をまたぐ前から、その存在だけで室内を満たしていた。
アドリアンの身体が即座に緊張する。彼の手はまだ蘇美蘭の腰にあった。鼓動が激しく鳴り、ほんの一歩間違えれば、この瞬間が個人的にも財務的にも破滅へ変わると理解していた。
蘇美蘭はすぐに姿勢を正した。瞳の温度が冷え、敬意と緊張に置き換わる。ベールのない娘の顔を、父は完全に見つめていた。
その視線は、計算高く、保護的で、そして危険だった。
「父上」
彼女は落ち着いた声で言った。
「何も問題はありません。収支と投資案を確認していただけです」
アドリアンは一歩下がり、彼女の腰から手を離したが、完全には距離を取らなかった。警戒姿勢に近い。
老人と視線が交差した瞬間、外交だけでは足りないと悟った。
「ああ、そうか……」
老人は歪んだ笑みを浮かべた。
「帳簿に投資……それにしては、ずいぶん親密だったようだな、坊主?」
アドリアンは咳払いをした。
「誤解です。事業計画について話していただけです」
蘇美蘭はわずかに眉を寄せた。
「私はアドリアンの能力と誠実さを信頼しています。警戒する理由はありません」
商会の総責任者は黙って二人を観察した。その鋭い視線は、市場の刃のように、言葉の裏を読み取る。娘の頬の赤み。アドリアンの緊張。そして、まだ残る空気の電流。
やがて彼は低く、危険な声で言った。
「なあ、小僧……」
「まさか、お前……二人の女を同時に手に入れようなどと考えてはいないだろうな?」
アドリアンは、社会的に許される限界をわずかに超える時間、虚空を見つめた。
蘇美蘭の父の視線を無視したまま――
彼の脳内で、赤く点滅するインターフェースが起動した。
警告メッセージが暴力的な速度で流れ込む。
【DING!DING!DING!】
【地域経済崩壊アラート】
システム:
『よく聞け、この……! お前の“最適化”が地域経済を粉砕した! 伝統商人は価格競争に耐えられず、薬草市場は崩壊、霊石インフレも制御不能! トーナメント編の真っ最中で経済恐慌を起こしやがった!』
(それは俺の責任じゃない)
アドリアンは冷静すぎる精神応答を返す。
(ただの非効率だ。適応できないなら市場に淘汰される。金融的自然選択だ)
システム:
『この……! アダム・スミスを引用するな! 経済が崩壊すれば第二ヒロイン――南方錬丹師一族の若き宗主が破産する! 英雄が彼女の債務を買い取って救うサブストーリーが消滅するんだぞ!』
新たなウィンドウが乱暴に展開された。
【強制任務発動】
任務名:ヒロイン経済救済計画
目標:第二ヒロイン「李小」の破産回避
必要行動:資金注入、または一族を破壊しない新ビジネスモデルの構築
システム警告:方法は問わない。やれ。さもなくば死。しかも三度の転生に渡る魂痙攣付きだ。
画面が消える。
アドリアンは瞬きをして、現実へ戻った。
蘇美蘭の父は腕を組んだまま立っていた。蘇美蘭は彼を見つめていた――理解はしていないが、彼の内側に変化が起きたことだけは感じ取っていた。
「先ほどのご発言についてですが」
アドリアンは静かに言った。
「個人的関係を軽率に扱うつもりはありません」
短く間を置く。
「ですが、市場機会を発見しました」
二人の注意が同時に向いた。
「我々の価格再編は、高位生産者に圧力をかけています。一部の一族は、この利益率に適応できません。今動けば、生産を吸収し、戦略資源を確保し、武力を使わずに支配力を強化できます」
蘇美蘭がわずかに眉を寄せた。
「錬丹師一族……南方の?」
アドリアンは否定も肯定もしなかった。
それで十分だった。
名前が、彼女の脳裏に浮かぶ。
李小。
錬丹の真珠。
才能は過剰。誇りも過剰。そして財務基盤は脆弱。
蘇美蘭の瞳が鋭くなる。
「危機を支配へ変えるつもりなのね」
「彼らがまだ耐えられると信じている段階で、入り込む……」
父は低く笑った。
「面白い坊主だ……市場を壊すだけでなく、気付かれずに支配しようとするとはな」
アドリアンは肩をすくめた。
「支配ではありません。戦略投資です。将来利益と引き換えに支援する。彼らは生き残り、我々は安定を得る」
沈黙。
蘇美蘭は、理解と不安が混ざった新しい表情で彼を見つめた。
「もし断られたら?」
アドリアンは笑わなかった。
「そのときは、別の誰かが機会を奪うだけです」
「市場は待ちません」
老人は長く彼を観察した。まだ使うと決めていない武器を評価するように。
「危険な男だな」
「女を奪うからではない。難しい決断を――必然に変えてしまうからだ」
アドリアンは軽く頭を下げた。
「私は、世界を正常に機能させているだけです」
そして蘇美蘭が、李小の美しさと誇り、そして崩壊の直前にいるかもしれない未来を思い描いている間に――
アドリアンはすでに一歩先にいた。
救世主としてではない。
悪役としてでもない。
危機を――資産へ変える者として。




