溜息と(脅迫)の回廊
アドリアンは、闘技場内部の回廊を足早に歩いていた。
目的はただ一つ――人目を避けること。
好奇心旺盛な弟子たち。
噂を嗅ぎ回る宗門の書記官。
彼らから離れられるなら、忘れ去られた扉でも、整備用の通路でも、何でもよかった。
だが――運は味方しなかった。
薄暗い角を曲がった瞬間、彼は凍りついた。
林月とスー・メイランが、向かい合って立っていたのだ。
怒鳴り声はない。
身動きもない。
だが二人の間の空気は、意思同士が譲歩を拒んだかのように張り詰め、震えていた。
「林聖女」
最初に口を開いたのはスー・メイランだった。
完璧な礼。丁寧で――鋭い。
「こんな低位の試合を、そこまで個人的な関心を持ってご覧になるとは思いませんでした」
林月は瞬きすらしない。
「聖女は、天が才能を回収する前に見極める義務があります」
冷たい声だった。
「むしろ驚いたのはこちらです、蘇総監。あなたの信仰心は……帳簿にしか向いていないと思っていましたが」
温度が一段階下がった。
スー・メイランが言い返す前に――
重い手が、アドリアンの肩に置かれた。
「ははっ!」
かすれた笑い声。
「俺抜きで始めるなよ」
闇の中から、スー・メイランの父が現れた。
まるで最初からそこにいたかのように。
彼はアドリアンの肩を強く掴む。
過去の怪我と、未来の怪我を思い出させる程度に。
「娘と俺は同じ理由で来たんだ」
老人は読めない笑みを浮かべる。
「娘の恋人の様子見だ。何しろ、俺の丁寧な“指導”のおかげで、随分と成長したからな」
沈黙。
気まずい、ではない。
葬式のような静けさだった。
林月は、ゆっくりとアドリアンに顔を向けた。
穏やかだった瞳は、磨かれた翡翠の刃に変わっていた。
「……恋人?」
声は上げていない。
だが、回廊の灯籠が同時に揺らめいた。
スー・メイランは一瞬身を強張らせ――
それから一歩前に出た。
否定しない。
退かない。
「父上、誇張しないで」
頬を赤らめながら、ほんの少しアドリアンに近づく。
「大丈夫? 怪我は?」
十分すぎるほど、明確なメッセージだった。
アドリアンの背中を、冷たい汗が流れる。
老人は彼に顔を寄せ、値段――あるいは運命を交渉する商人のように囁いた。
「よく聞け、小僧」
声は下げない。
「俺はお前に大金を賭けている。明日の準決勝、説得力のある勝ち方をしなければ――訓練再開だ」
間を置く。
「一日数時間。休憩なし。少し……ペースを上げる」
アドリアンは唾を飲み込んだ。
勝てば――筋書きから外れる。
負ければ――分解される。
そして、その瞬間。
まるで世界が、彼に逃げ道を与えることを拒否したかのように――
【DING】
赤く、硬質で、感情のない通知が視界に現れた。
【緊急ミッション:ヴィラン衝動】
要求行動:現在の緊張を最大限に利用せよ
目標:英雄が最も欲するものを用いて挑発する
指定行動:葉辰の前で林月聖女にキスをする
制限時間:60秒
失敗時ペナルティ:坐骨神経への第9級霊痙攣(48時間)
恐慌はなかった。
理解だけがあった。
これは挑発ではない。
――物語修正だ。
林月にキスすれば、冒涜。
拒否すれば、罰のための“動く肉体”になる。
【カウントダウン:45秒……】
そして――彼は見た。
葉辰。
完璧な白衣を纏った宗門の英雄が、数歩先でこちらを見ていた。
その目は、嫉妬と計算で燃えている。
スー・メイランがアドリアンの近くにいるのを見て、彼の唇が無意識に湿る。
ほんの小さな仕草。だが十分だった。
――この女は、俺のものだ。
だが葉辰の怒りは二重だった。
肉体はスー・メイランに反応し、
精神は林月がアドリアンを観察していることを察知している。
彼は現実を見ていない。
裏切りと所有だけを想像していた。
アドリアンの呼吸一つが挑発。
瞬き一つが侮辱。
アドリアンは、再び唾を飲み込む。
勝てばシステムを壊す。
負ければ解体。
そして今、英雄がそこにいる。
古典恋愛小説級の“英雄的嫉妬”を纏って。
「俺は……」
アドリアンは必死に理性を探した。
「みんな、座って……帳簿を確認して……」
【カウントダウン:10秒……】
【ペナルティ準備中……】
回廊が狭くなる。
世界が憎んだからではない。
聖女が怒ったからでもない。
天と、葉辰と、容赦ないシステムが――
彼の役割を決めていたからだ。
アドリアンは一歩下がる。
さらに一歩。
臆病ではない。
本能だ。
「……ダメだ」
無理に落ち着いた声。
「これは不適切だ」
スー・メイランは安堵と警戒を同時に滲ませる。
林月は、ほんの僅かに眉を寄せた。
拒絶されたことより――
その自然さに。
その時、再び空気が変わった。
回廊の奥――葉辰。
血の匂いを追う捕食者のように、緊張を辿ってきた。
林月の前に立つアドリアン。
すぐ隣のスー・メイラン。
彼の世界では、すでに筋書きは完成している。
悪役が追い詰める。
乙女が抵抗する。
英雄が乱入する。
完璧だ。
アドリアンは横目で見て――心の中でため息をついた。
「……これは間違いだ」
踵を返す。
「俺は興味が――」
【DING】
通知が視界で炸裂した。
【緊急ミッション:ヴィラン衝動】
物語修正進行中
英雄には即時の感情刺激が必要
警告:拒否の継続は英雄の動機を低下させます
アドリアンは歯を食いしばり、歩き続ける。
【DING】
再警告
ヴィランは行動せよ
さらに一歩。
【DING】
強制修正、間近
林月が追いついた。
走らない。
触れない。
ただ、隣に“現れた”。
「アドリアン」
低い声。
「待って」
背後で、葉辰が歩調を速める。
介入の準備は万端だった。
【DING】
カウントダウン:10秒
神経系ペナルティ準備中
アドリアンは立ち止まった。
目を閉じる。
「……クソッ、システム」
ゆっくり振り向く。
葉辰ではない。
スー・メイランでもない。
林月へ。
「聖女」
行政文書のように無感情な声。
「これは、愚行です」
彼女は彼を見た。
怒りでも、軽蔑でもない。
――危険な好奇心で。
【DING】
最終警告
即時行動を要求
アドリアンは、最後の一歩を踏み出した。
傲慢ではない。
演出でもない。
むしろ――不器用だった。
この世界にも、彼の役割にも属さない行為。
唇が林月のそれに触れた瞬間――
時間が、壊れた。
拒絶はない。
平手打ちもない。
英雄の乱入もない。
林月は――受け入れた。
短く。
最小限。
だが十分だった。
離れた時、回廊は完全な静寂に包まれていた。
スー・メイランは信じられないという表情で目を見開き、
葉辰は思考停止したまま固まり、
目撃者たちは呼吸の仕方を忘れた。
林月は半歩下がる。
その頬は――初めて、赤かった。
アドリアンも同じく呆然と見つめる。
「俺は……」
「これは……」
【DING】
沈黙。
システムは応答しなかった。
初めて――
修正案を用意できなかった。
葉辰は拳を握り締める。
誰も救っていない。
救う必要もなかった。
悪役も罰せられていない。
そして天は――
致命的なミスを犯した。




