禁忌の混成体
執務室の扉が静かに開いた。
蘇美蘭が入ってくる。最近では、まるで習慣のように、定期的にアドリアンの「世界」を確認しに来ていた。
一歩踏み入れた瞬間、彼女の視線が止まる。
アドリアンの顔には、まだ新しい切り傷が走っていた。
唇には乾いた血の線が残り、頬には青あざが浮かび始めている。
「……まあ」
彼女は、小さく呟いた。ほとんど独り言のように。
アドリアンは机からほとんど顔を上げない。
彼は新しい原材料輸送計画の設計図に集中していた。
蘇美蘭が近づく。
図面を指し示そうとした時、無意識に彼の唇の傷に触れてしまった。
ほんの一瞬の接触。
だが、それだけで二人の背筋に小さな震えが走る。
重く、曖昧な沈黙が落ちた。
風すら、割って入るのを躊躇うようだった。
アドリアンは瞬きをし、触れられたことには反応せず、淡々と言った。
「輸送がボトルネックだ」
蘇美蘭はゆっくり手を引いた。
ようやく距離の近さに気づいたように背筋を伸ばす。
「……どういう意味?」
アドリアンは巻物を彼女へ向けた。
それは修行図でも霊脈地図でもない。
単純な線。
矢印。
積荷。
距離。
「この世界の物流は全部おかしい」
「遅すぎる。高すぎる。高位修士に依存しすぎている」
彼は赤い線で示されたルートを指した。
「陸路。隊商。霊獣。武装護衛」
「三週間かかる。本来は三日で済む距離だ」
蘇美蘭は腕を組む。
「飛行霊船は高価よ。まだ買えない」
「そうだな」
アドリアンは頷いた。
「しかも持っているのは大宗門か皇族か、再現不能な遺物だけだ」
「解決策じゃない。特権だ」
彼女の興味が、はっきりと動いた。
「じゃあ提案は?」
「まさか……奪う気?」
アドリアンは首を振った。
「作る」
別の巻物を広げる。
そこに描かれていたのは、奇妙な設計図だった。
細長い翼。
湾曲した表面。
霊器にも霊獣にも見えない構造。
蘇美蘭は眉をひそめ、机へ身を乗り出した。
「……これは霊器じゃない」
「違う」
アドリアンは翼の構造を指差す。
「霊核がない」
「符文もない」
「陣式もない……」
彼女の指が紙の端をなぞる。
再び、わずかな接触。
視線が交差する。
一瞬長く続いた。
彼女は本能的に霊感を巡らせた。
――何もない。
完全な無反応。
死んだ木片を見るようだった。
「……なら、どうやって飛ぶの?」
アドリアンは彼女を見つめた。
距離が、妙に近い。
窓から差し込む光が、彼女の輪郭を柔らかく照らしていた。
「飛ばない」
彼は言った。
「落ちるんだ」
「ただし、あまりにも制御された落下だから――世界が飛んでいると錯覚する」
沈黙。
だが、不快ではない。
濃密だった。
蘇美蘭の背筋に冷たいものが走る。
この世界では、すべては天に従う。
すべては道に繋がる核を必要とする。
それなのに――
これは、ただ機能する。
挑戦も。
傲慢も。
凝縮された気もない。
ただ、結果だけ。
しかも恐ろしいほど有効な結果。
アドリアンが身を乗り出し、内部回路の図を指した。
肩が触れる。
どちらも離れない。
微かな熱。
理解できない電流のような感覚。
蘇美蘭は深く息を吸った。
「……不穏ね」
ほとんど囁きだった。
「まだ理解する必要はない」
アドリアンは薄く笑う。
「動けばいい」
図面を交換する際、再び指が触れ合う。
どちらも、先に離れようとしなかった。
玉閣の地下工房は、オゾンと熱した金属の匂いに満ちていた。
そこに、蘇美蘭の淡い香りが混ざる。
そこは伝統的な錬丹場ではない。
鼎も祭壇もない。
あるのは作業台、精密工具、黙々と働く職人と弟子たち。
工房中央には――
猛禽の骨格のような構造体が立っていた。
霊銀合金と霊木で構成されている。
羽はない。
代わりに、構造骨格と制御パネル。
「主骨格は穆長老が設計した」
アドリアンが言った。
「引退前は宗門最高の工匠だった。霊船を作っていた頃の人だ」
蘇美蘭は構造を観察する。
重心配置。
振動吸収。
霊木の特性。
「つまり……あなたの作品じゃないのね」
「俺は鍛冶屋じゃない」
彼は自然に答えた。
「必要条件を説明しただけだ」
「軽量、耐久、対称性」
「三日間、議論したがな」
蘇美蘭の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
アドリアンは精密レンチでネジを調整しながら続けた。
「翼の迎角が揚力を生む」
「純粋な物理だ」
「ただし離陸には追加推進が必要になる」
蘇美蘭は後部区画へ歩く。
翡翠核が銅管と密閉室に接続されている。
彼女は設計を確認した。
「元の陣式は硬すぎる」
「穆長老は構造安定しか見ていない」
彼女は小室を指でなぞった。
「ここを改良した」
「気を短いパルスで燃焼室へ送れば、推力が安定する」
少し考え、言葉を選ぶ。
「……これは魔法じゃない」
「推進よ」
指先が操作盤で触れ合う。
離れない。
沈黙が電流のように走る。
職人たちは見ていないふりをした。
蘇美蘭が顔を上げる。
「もしこれが飛べば……」
彼女の顔は、彼のすぐ近くにあった。
「距離という概念は崩壊するわ」
アドリアンの喉が鳴る。
危険ではない。
説明不能な化学反応だった。
何か言おうとした、その瞬間――
【DING】
冷たい機械音が脳内に響く。
【メインイベント発生】
【任務:天命の子選抜大会に参加】
【最終目標:決勝で葉晨に敗北】
【失敗時:魂消滅】
アドリアンは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「……どうしたの?」
蘇美蘭が尋ねる。
「いや」
彼は疲れた笑みを浮かべた。
「剣闘士ごっこに行かなきゃならないらしい」
「宗門が次の“天命の子”を選ぶんだ」
蘇美蘭は瞬いた。
「出場するの?」
「その宗門は必要ないでしょう」
アドリアンは未完成の機体を見つめる。
「分かってる」
静かに言った。
「でも祖父が宗門にいる」
「家の伝統だ」
彼は顔を上げる。
皮肉と諦めが混じった表情。
「祖父の最大の夢は――」
「自分の血を引く者が頂点に立つことなんだ」
工房は再び静まり返った。
飛行機は待っている。
職人たちも。
そして空は――
まだ、自分に何が起こるのか知らなかった。




