「聖女の誕生日と、ただの一粒」
林月の誕生日だった。
身支度を整えながら、彼女は卓上に置かれた最も安価な櫛を手に取った。
上品でも希少でもない。特別な刻印すらない品だ。
それでも、林月にとっては意味があった。
かつて、アドリアンは過剰なほど豪華で、唯一無二、常識外れの贈り物をしてきた。
財を惜しまず、価値を誇示するような贈り物を。
だが最近は違った。
彼の贈り物は、年々、簡素で、慎ましいものになっていた。
――もしかして、見せびらかしても私の心は動かないと、やっと理解したのかしら。
そう思い、林月はわずかに微笑んだ。
今年は、どんな贈り物なのだろう、と。
一方その頃――
アドリアン・ヴァルモンは、特注の人間工学的革張り椅子に深く腰掛けていた。
机の上には、丹炉も、護符も、儀式用の陣もない。
あるのは翡翠製の算盤、いくつかの契約書、そして三杯のコーヒーだけ。
(すでに副次的な利益を生む植物栽培だ)
秘書が書類の束を抱えて入室する。
「ヴァルモン様、午前シフトの生産報告です」
「数字だけで。叙事詩はいらない」
「基礎安定丹、四千錠」
「冷髄抽出液の合成工程をC区画の錬丹炉で最適化し、コストを1.5%削減しました」
その瞬間、システムが静かに振動した。
【任務:林月に贈り物を渡せ】
【追加条件:勇者を挑発せよ/屈辱を受け入れよ】
アドリアンは一瞬、目を閉じた。
机の上に積まれた丹薬の山を見る。
どれにも、個人的な価値はない。
「……これでいいか」
そう呟き、今朝生産されたばかりの一錠を手に取った。
彼はまだ知らなかった。
それが、致命的な判断ミスになることを。
宗門の中央広場は、翡翠の灯籠と銀糸の刺繍布で飾られていた。
弟子たちは完璧な列を成し、未来の副宗主となる聖女・林月を敬っていた。
香の香りと花の匂いが混ざり合い、空気は厳粛そのもの。
今日は、聖女の誕生日だった。
林月の前には、跪く男がいた。
葉晨。
泥と血にまみれ、息を荒げながら、血蓮花の花束を差し出している。
その花は、命を賭けなければ手に入らない。
「誕生日おめでとう、月……」
「忘却の断崖にしか咲かない。死にかけたが……それでも、価値はあった」
林月は礼儀正しく微笑んだ。
だが、その視線は別の人物を探していた。
灯籠の向こう、人混みの中から――
アドリアン・ヴァルモンが現れた。
報告書を確認するかのような歩調。
式典など、単なる業務の一つであるかのように。
彼は立ち止まり、懐から再生紙の小箱を取り出す。
「ああ。誕生日おめでとう」
「これ」
中にあったのは――
基礎安定丹、一錠。
今朝生産された四千錠のうちの一つ。
神性も、輝きもない。ただの効率。
「……は?」
葉晨が叫んだ。
「基礎丹だと!?」
弟子たちのざわめきが膨らむ。
葉晨は箱を林月へ押し出し、挑発的に笑った。
「開けてみろ、月」
「この“ヴァルモン”様の贈り物をな」
期待と嘲笑が広場を満たす。
だが――
蓋が開いた瞬間、空気が変わった。
見守っていた長老たちが、わずかに身を引く。
「……まさか、これは……?」
葉晨の心臓が止まった。
それは、彼自身が数週間前に必死で精製し、境界を突破した丹薬。
それを――
この男が、平然と持っている。
「ありえない……」
群衆は沈黙した。
アドリアンは見ていなかった。
彼にとって、それは四千分の一でしかない。
その価値も、意味も、覚えてすらいなかった。
システムが振動する。
【副任務:勇者を挑発せよ】
【条件:敗北せよ。ただし排除されるな】
アドリアンは地面に唾を吐き、顔を上げた。
「貴様のような農民が……俺と比べるな」
次の瞬間、衝突。
拳、気、血。
アドリアンは膝をついた。
血を流しながら――わずかに笑った。
計算通りだ。
「止めなさい」
林月の声が、嵐を断ち切った。
沈黙。
アドリアンは血を拭い、振り返らずに去る。
「……このシステム、本当に面倒だ」
広場に、重い静寂が残った。
長老たちは、ゆっくりと頷いた。




