「市場に名を刻んだ夜」
その夜、アドリアンは市場を歩いていた。
帝国は前進している。
任務もまた、進行中だ。
彼は霊石の露店の前で立ち止まり、頭の中で計算した。
中級霊石百個……およそ千ユーロ相当。
五百個で五千。
もし天虚全体の流通を押さえられたら――
「……年に数百万だな」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「しかも、草一本育てずに」
彼は宗門へ戻ろうと踵を返した。
十歩も進まないうちに――
「アドリアン・ヴァルモン」
声は柔らかい。
あまりにも、柔らかすぎた。
彼は足を止めた。
五人。
完璧な配置。出口を塞ぎ、距離を測り、角度を管理している。
肉体的な脅威ではない。
戦略的圧力だ。
交渉の心理を熟知した者たち。
押すべき時と、譲らせる時を知っている人間。
一人の女が前に出た。
薄いヴェールを纏っている。
顔を隠すためではない。ただ、輪郭を示すため。
それでも、その美しさは隠しきれなかった。
洗練され、控えめで、無視できない。
すべての動作が計算されている。
アドリアンは、わずかに息を吸った。
「ご心配なく」
彼女は微笑んだ。
「流動翡翠亭の者です。天虚の商会ですね」
アドリアンは眉を上げる。
「これはどうも」
「思ったより早かった」
ヴェールの下で、彼女は笑った。
「お話をしに来ました」
「……実は、我々は損失を被っています。原因は、あなたです」
アドリアンは後退しない。
緊張もしない。
むしろ――待っていた。
今までは小規模だった。
安定した流れ、安定した利益。
だが、次の段階には後ろ盾が必要だった。
それが、向こうから来た。
「それは嬉しいですね」
「つまり、もう無視できない存在になったということだ」
側近たちが眉をひそめる。
女は手を上げ、沈黙を命じた。
「あなたは基礎丹の流通に介入した」
「一日五ロット、時には六。価格を下げ、配送を早め、市場を乱した」
「最適化しただけです」
アドリアンは訂正する。
「混乱は、もともとありました」
彼女は反応を測るように彼を見つめた。
「一周期あたり五粒ほど」
「量は少ないが、安定している。そして流れを押さえている」
アドリアンは頷く。
「金は、流れにあります」
彼女は一歩近づいた。
「歩きましょう」
それは招待ではなかった。
――これが彼女の本領だ。
交渉という技術。
数分後、二人は翡翠亭の個室にいた。
茶が出され、心地よい沈黙。
アドリアンは、相手が圧を感じる“ちょうどいい時間”だけ待った。
「市場を歪めています」
彼女が口を開く。
「安定供給、安定価格。加盟商から苦情が出ている」
アドリアンは頷く。
「それは、市場設計が悪かった証拠です」
「……あるいは、あなたが問題だ」
「問題は排除されます」
「利益は、管理される」
彼女の視線が鋭くなる。
「量は少ないが、失敗しない」
「原材料も押さえている。危険です」
「違います」
「それはインフラです」
沈黙。
――第一ポイント獲得。価値の再定義。
「衝突は避けたい」
「だから、単純な提案を」
「あなたは我々の亭の下で運営する。流通は我々が担当」
「七割が我々、三割があなた」
高めのアンカー。
教科書通り。
アドリアンは反応しない。
比率ではなく、前提を叩いた。
「それは、あなた方が既に流れを支配している前提です」
「……違います」
彼女はわずかに眉を動かす。
「今日はね。明日には」
「いいえ」
「生産を支配していない。あなた方は“店”を持っているだけ」
「私は“工程”を持っている」
彼は巻物を出した。
詳細な数字ではない。
――傾向だけ。
「錬丹師を増やさずに倍産」
「資本があれば三倍」
「止めれば市場は縮む」
「支援すれば、拡大する」
「あなた方の取り分は、利幅じゃない」
「量です」
――第二ポイント。未来への依存構築。
彼女は黙った。
「五分五分」
「護衛、ルート、正当性」
アドリアンは首を振る。
「四割」
「受け入れられません」
「なら、私が宗門に移るだけです」
「安くて良い丹の噂は、もう広がっています」
脅しではない。
――暗黙のBATNA。
「天虚だけが市場じゃない」
「ここは、最初なだけです」
彼女は長く彼を見た。
初めて、
商人ではなく――戦略的リスクとして。
「三十五」
「流動翡翠亭所属」
「完全な保護と主要ルートへのアクセス」
アドリアンは一拍置いた。
最後のルール。
――即答しない。
「運営の完全裁量は私に」
「あなた方は結果のみ監査。工程には口出ししない」
沈黙。
やがて、彼女は頷いた。
「……成立です」
手を差し出す。
アドリアンは握った。
強くもなく、弱くもない。
――正確な握手。
「天虚の“本物の商い”へようこそ」
「いいえ」
彼は訂正する。
「天虚が、今ようやく“現代商業”に入っただけです」
遠くで、システムが震えた。
[任務保留]
信仰対象:リン・ユエ
必要行動:軽度の感情的交流
期限:明日
アドリアンはため息をつく。
「……書類仕事は、いつも残る」
天が英雄を書き続ける中――
アドリアンは、
それより遥かに危険なものを手に入れていた。
世界経済への、常設席。
独占は、もはや野望ではない。
――結果だった。




