見えない決断
アドリアンは、教室の扉の前で数秒だけ足を止めた。
その時、初めてはっきりと理解したことがある。
アストリッドが自分に向けてきた反感の多くは、個人的なものではなかった。
疲労だ。
囁き声。
視線。
何度も何度も繰り返される冗談。
毎日のように話題にされる――
それがどれほど消耗するものか、想像に難くない。
(責める気にはなれないな)
アドリアンは深く息を吸った。
今の彼にとって、優先すべきものは別にある。
不要な衝突を避けること。
波風立てずに生きること。
金はある。
家族も盤石だ。
未来はほぼ保証されている。
そんな自分が、くだらない対立や……
ましてや一人の女性のために、すべてを危険にさらす理由がどこにある?
誰かが彼女を望むなら、譲ればいい。
世界は、一つ失っただけで選択肢を失うほど狭くはない。
かつてのアドリアンなら、
アストリッドのために愚かなことをしただろう。
執着し、押し付け、
プライドと欲望を履き違えていたはずだ。
――だが、そのアドリアンはもういない。
自分が書いてもいない脚本を、
繰り返す必要などない。
レオは隣を歩きながら、黙っていた。
数分前の叱責以来、何が変わったのか理解できずにいる様子だった。
執着深かった“以前のアドリアン”が、
何の前触れもなく消えた。
それが、彼を戸惑わせていた。
二人は教室に入った。
アドリアンは自分の席へ向かい、落ち着いて腰を下ろす。
カバンを置いた瞬間、それを感じた。
――視線。
好奇心ではない。
居心地の悪さでもない。
敵意だ。
顔を上げるのは最低限。
それで十分だった。
教室の後方の列。
一人の少年が、まっすぐこちらを睨んでいた。
細身の体格。
疲労の色は濃いが、整った顔立ち。
制服はきちんとしているが、明らかに使い古されている。
この学院では不釣り合いな存在。
――オリバー。
成績最下位の生徒。
(……何だ、こいつは)
感情は動かなかった。
レオ、マルコ、ブルーノもすぐに気づく。
反射的に動き、オリバーの視線を遮るように立ち位置を変えた。
アドリアンは振り返りもしない。
「必要ない」
低く、静かな声。
三人は一瞬ためらったが、従った。
オリバーは視線を逸らした。
だが、空気の張り詰めは消えない。
今度は、アドリアンが横目で彼を観察する。
整った魅力ではない。
むしろ、放置されたような魅力。
この場所に完全には属していない者。
エリートのための学院において、
彼の存在そのものが、事務的なミスのようにも見えた。
――あるいは、それ以上か。
(面白い)
今は何もするつもりはない。
その必要もない。
もし“英雄”が存在するなら、
その前には必ず障害が立ちはだかる。
そして、その障害が消えれば、
世界はまた別のものを用意する。
アドリアンは、その役を演じる気はなかった。
少なくとも、自ら望んでは。
ノートを開きながら、彼は自分に言い聞かせる。
第二のルール。
干渉しない。
挑発しない。
他人のゲームに乗らない。
――今は、まだ。
始業のベルが鳴る前に、教室の扉が再び開いた。
静かな足音。
規則正しく響く、それだけで存在を主張するようなリズム。
アストリッド・ロッシュが入ってきた。
胸に数冊の本を抱え、落ち着いた足取り。
ざわめきはすぐには消えなかったが、確実に薄れていく。
視線が上がる。
あるいは、上げまいとする。
彼女は慣れていた。
中央の通路を、急がず進む。
表情は平静。
だが、意識は鋭く周囲を捉えている。
見なくても分かっていた。
アドリアンが、どこにいるか。
横目で確認する。
――まだ席にいる。
背筋は伸び、視線は低い。
期待の気配がない。
それが……妙だった。
いつもなら、もう視線を上げている。
あるいは、過剰な無関心を装うか。
最悪の場合、仲間を使って何かを起こす。
だが、何も起きない。
アストリッドは、ごくわずかに眉をひそめ、
自分の席――二列前に腰を下ろした。
教室は少しずつ日常を取り戻す。
紙の音、椅子の軋み、抑えた会話。
その時、一人が立ち上がった。
オリバーだ。
椅子を引く音は控えめだったが、十分だった。
アドリアンは顔を上げずとも察した。
動きの“重さ”で分かる。
オリバーは側面の通路を進む。
最初は不安定な足取り。
だが、教室の中央に近づくにつれ、次第に強くなる。
視線が交わされる。
「正気か……?」
誰かが囁いた。
レオが最初に身構える。
マルコは手を止め、
ブルーノが顔を上げた。
全員が分かっていた。
――ここからだ。
オリバーは、アストリッドの机の横で立ち止まる。
「その……アストリッド」
低い声。自然を装いながら。
「歴史の課題だけど……」
教室が息を止めた。
その瞬間。
アドリアン・ヴァルモンが立ち上がるはずの瞬間。
一言でいい。
皮肉でも、冷たい視線でも。
それだけで、オリバーの立場を思い出させられる。
――だが、何も起きなかった。
アドリアンは動かない。
ノートをめくり続ける。
まるで、その場に何も存在しないかのように。
沈黙が、重くのしかかる。
アストリッドは瞬きをした。
反射的に視線を向けたのは――
オリバーではなく、アドリアン。
……何もない。
視線すら、ない。
それが、彼女を最も戸惑わせた。
「課題は……」
オリバーが言い直す。
「先生が――」
「分かってるわ」
アストリッドが遮った。
いつもより、少しだけ冷たい声。
「放課後に確認する」
オリバーは一瞬ためらう。
抵抗を、嘲笑を、介入を――
待っていた。
だが、何も起きない。
「……あ、うん。ありがとう」
そう言って、彼は席に戻った。
肩の力は、明らかに抜けていない。
ざわめきが戻る。
だが、質が違う。
低く、重い。
レオは信じられないという顔でアドリアンを見る。
「ボス……」
アドリアンは初めて視線を上げ、無表情で見返した。
レオは口を閉ざした。
アストリッドは、オリバーをもう見なかった。
その視線は、何度も、何度も、
アドリアンの席へと戻ってしまう。
理解できなかった。
安堵でもない。
勝利でもない。
――混乱。
その時、教室の扉が再び開いた。
ヒールの音。
自信に満ちたリズム。
教師が入ってくる。
背が高く、洗練された雰囲気。
程よく体の線を強調するスカート。
声を張り上げずとも、静寂を支配する存在感。
そして実際、教室は一瞬で静まり返った。
「おはようございます」
鞄を机に置きながら言う。
「席について。始めます」
アドリアンは、静かにノートを閉じた。
その場面は終わった。
だが、何かが変わった。
アストリッドは気づいていた。
オリバーは感じていた。
教室全体も、理由は分からずとも察していた。
アドリアン・ヴァルモンは、何もしなかった。
――それでも、盤面は揺れた。




