反乱(インサージェンシー)
アストリッドは、まるで重力そのものが彼女に味方しているかのように、建物へと足を踏み入れた。
一歩一歩が計算され、動きに無駄はない。歩くたび、彼女の腰のラインは自然と視線を引き寄せた。
受付にいた男たちは、息を呑んだ。
見惚れるべきか、視線を逸らすべきか、その判断すら奪われていた。
アドリアンの執務室へ向かう途中、アストリッドはジャケットのボタンを二つ外した。
不注意ではない。
それは合図であり、警告であり、挑発だった。
廊下の鏡に映る自分を一瞥し、満足そうに微かに口角を上げる。
今の自分なら、どんな管理の壁でも揺るがせる。
扉を開けた瞬間、彼女は冷たい視線を投げかけた。
空気が一気に張り詰め、室温が下がったかのように感じられる。
その視線の強さに、アドリアンは何も言わず、管理チームに退出を命じた。
扉が閉まる。
乾いたクリック音だけが残った。
アストリッドは書類を机に置いた。動きは落ち着き、揺るぎない。
彼女の視線は、アドリアンの反応を逃さず捉えていた。
「挨拶はなし?」
彼が、平静を装って口を開く。
彼女は答えなかった。
ただ、言葉を必要としないほど冷たい眼差しを向ける。
もし視線が人を殺せるなら、
ヴァルモン家は今日、後継者を失っていただろう。
アストリッドは計画を語り始めた。
一言一言が正確で、身振りも緻密。
机に近づき、わずかに身を乗り出す――挑戦と誘惑の境界線を示すように。
そして離れる。入室時と同じ優雅さで。
常に、彼を完全には掌握させない距離を保ちながら。
アドリアンは何度も喉を鳴らした。
彼女の動き一つ一つが、彼の規律と忍耐に対する直接的な挑発であることを理解していたからだ。
「その情熱、婚約者には向けないの?」
冷たく、鋭く、空気を切り裂く声。
会議は緊張した舞踏のように続いた。
挑発、力、支配。
やがて、アドリアンは反応せざるを得なくなる。
その後に起きたことは、見出しにも報告書にも残らなかった。
ただ二人の記憶に、永遠に刻まれる意志の衝突として残った。
数日後。
エーレンフェルト空港は人と光に溢れていた。
アナウンス、エンジン音、白い蒸気を吐くタクシー。
誰も、この場所を貫く力の流れに気づいていない。
キャサリンは到着ロビーで待っていた。
完璧な佇まい。計算された微笑み。
輪郭を際立たせるコート。
静かで、
凛として、
許可も謝罪も必要としない優雅さ。
そこへ――
アドリアン・ヴァルモンが機体から降り立つ。
「エーレンフェルトへようこそ」
彼は軽く頭を下げた。
「出迎えに感謝する」
キスも、
抱擁も、
必要なかった。
車に乗り込むと、彼は街を見ようともしなかった。
建物も、交通も、何一つ評価しない。
彼は街を知りに来たのではない。
エーレンフェルトは、ただの通過点だった。
予定は完璧に組まれている。
ガラス張りの会議室。
財務報告。
投資状況。
子会社の査定。
そして、避けられない社交行事。
すべて想定通り。
退屈なほどに。
夜、小規模なレセプションが開かれた。
派手さはない。
下品さもない。
紹介の場。
地元企業。
旧来のパートナー。
名家の人々。
グラス、
穏やかな音楽、
計算された会話。
アドリアンはキャサリンの隣で、ほとんど話さず、ただ聞いていた。
――そして、必然は起きる。
高価なスーツ。
作られた笑顔。
覚える価値もない姓の若者が、距離を詰めてきた。
「キャサリン」
アドリアンを意図的に無視して。
「相変わらず……美しいね」
彼女は即座に遮るつもりでグラスを持ち直した。
「こちら、アドリアン・ヴァルモン。私の婚約者よ」
青年は初めて彼を見た。
上から下へ。
浅く、軽く。
「ああ」
笑った。
知っていた。
最初から。
キャサリンの全てを。
名前も、過去も、婚約も。
だが、認めなかった。
――結局、何がある?
家柄に、少し多い金か?
アドリアンは眉を上げ、面白そうにした。
「ここエーレンフェルトでは、事情が違うんですよ」
青年――アンドリュー・ラスムントは、間を置いて言う。
「金だけでは動かない。人、家、伝統がある」
視線は一瞬、長くキャサリンに留まった。
露骨ではない。
だが、評価だった。
二人とも気づいた。
「なるほど」
アドリアンは微笑む。
「私としたことが。どこでも金が扉を開くと思っていました。
一週間滞在するので……教育してもらえるかもしれませんね」
満足げに頷き、再びキャサリンを見る。
「外部の人間が影響力を持つには……適切な同盟が必要でしょう」
短い沈黙。
アドリアンは視線を逸らさず、グラスを口に運ぶ。
「ご家族は?」
「エネルギー、物流、地方銀行です」
「多角的ですね」
アンドリューは勝利を確信した笑みを浮かべる。
「街を楽しんでください。エーレンフェルトは……厳しいですよ」
アドリアンは笑った。
気まずさはない。
自然で、穏やか。
「ええ、きっと」
青年は満足して去った。
「やる必要なかったわ」
キャサリンが言う。
「分かっている」
アドリアンは側近に小声で命じた。
「調べろ。構造、負債、提携、脆い契約。攻撃は不要。事実だけでいい」
「直ちに」
一拍置いて、続ける。
「関連企業をいくつか買収しろ。
流通している負債も取得だ」
――本当に金が扉を開かないのか、見てみよう。
キャサリンは黙って見ていた。
その家は、終わった。
予期せぬ監査。
不安定な提携。
再交渉される融資。
自分で決められなくなる未来。
アドリアンは再び微笑み、会場を見渡した。
彼にとって、特別なことは何も起きていない。
ただ、
地位と本当の力を混同した愚か者に出会っただけだ。
それは衝突ではない。
――よくある、教育だった。
宴会場は、長いテーブルと燭台、
世代を超えて蓄積された富を映すガラスの迷宮。
セレーネ・ヴィレッリが歩み入る。
まだその世界の住人ではない。
だが、立ち居振る舞いは熟知していた。
抑制された威圧。
計算された距離感。
全てを見逃さない鋭い視線。
誰が頭を下げるべきか。
誰を観察すべきか。
誰が重要なふりをしているだけか。
ヴァルモン家の名は知っている。
評判だけではない。
動き、繋がり、投資の癖。
公に出ない数字と沈黙。
アドリアン・ヴァルモンの一挙手一投足が、
道を開くことも、永遠に閉ざすことも理解していた。
視線が集まる。
賞賛、あるいは過信。
彼女は急がない。
冷たい微笑で距離を示す。
――交渉の場だ。展示ではない。
キャサリンとアドリアンの元へ近づく。
「アドリアン、紹介するわ。セレーネ・ヴィレッリ。
この街で最も有望な投資をいくつか手掛けていて――」
彼は彼女を見た。
だが、期待された見方ではなかった。
ドレスでも顔でもない。
姿勢、癖、話し方。
称賛も挑戦もない、
ただの評価。
セレーネは、その沈黙に違和感を覚えた。
――これは、初めて。
キャサリンを見て理解する。
彼の冷淡さは無関心ではない。
忠誠だ。
彼女は即座に戦略を切り替えた。
正面衝突はしない。
観察し、分析し、
最適な瞬間を待つ。
アドリアンも、静かに計算する。
――無視するには優秀すぎる。
美しく、成功し、成長途上。
主役級の女性。
二人は数秒だけ視線を交わし、逸らした。
今はまだ、
ゲームは始まらない。
だが、
互いに確信していた。
これは――
いずれ交差する運命だと。




